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アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

OSHOバグワンのクンダリーニの基礎-3

2025-02-21 03:06:20 | 覚醒のアーキテクチャー

◎クンダリーニは、死よりも深く、誕生よりも深い

 

OSHOバグワンのMeditation: The Art of Ecstasy

から第六章クンダリーニ-生命の目覚めの仮訳の続き。

 

ポイントは以下。

1.チャクラの数は無数にある。

2.クンダリーニは、死よりも深く、誕生よりも深く、血よりも深い。なぜなら、クンダリーニはあなたの第二の体の循環だから。血は生理的な体の循環であり、クンダリーニはエーテル体の循環。それは完全に非自発的であり、ハタヨーギでさえ、それを自発的にどうすることもできない。

3.よって、まずクンダリーニを動かそうとか、チャクラを刺激しようと考えず、まず瞑想すること。

4.深く瞑想に入れば、内なるエネルギーが上方に動き始める。生物学的には、頭よりも足が暖かい方が良いが、霊的には、足が冷たい方がエネルギーが上向きに流れている兆候なので、霊的にはよい。(内なるエネルギーは、悟りに向かっては上方に動き、肉体の健康に向かっては下方に動く。)

5.だから悟りに向かって、エネルギーが上向きに流れ始めると、多くの病気が起こり始めるかもしれない。

6.仏陀は病気で亡くなり、マハーヴィーラは病気で亡くなり、ラマナ・マハルシは癌で亡くなり、ラーマクリシュナは癌で亡くなったが、大悟覚醒によりカルマがクリアになるということは、覚者の肉体が永劫不滅になって死なないということではない。

 

『(仮訳)

もしクンダリーニが動き、ブロックがなければ、あなたは決してチャクラを感じることはないでしょう。だからこそ、ある人は9つのチャクラを感じ、別の人は10個のチャクラを感じ、また別の人は3つか4つ、あるいは1つ、または全く感じないかもしれません。それは場合によります。実際には、無限のチャクラがあり、クンダリーニのすべての動き、すべてのステップのそばに、チャクラが助けるためにいます。もし助けが必要なら、それは与えられることができます。

 

だからこそ私は、理論的な知識は役に立たないと主張するのです。そして、瞑想そのものは、実際にはクンダリーニとは全く関係がありません。もしクンダリーニが現れたら、それは別のことですが、瞑想はそれとは何の関係もありません。瞑想はクンダリーニに言及しなくても説明できます。必要ありません。そして、クンダリーニに言及することで、物事を説明する際にさらに多くの矛盾が生じます。瞑想は直接的に説明できます。あなたはチャクラについて悩む必要はなく、瞑想から始めればよいのです。もし通路が塞がれていれば、あなたはクンダリーニを感じるようになるかもしれませんし、チャクラもそこにあるでしょうが、それは完全に非自発的なことです。それが非自発的であることを覚えておかなければなりません。あなたの意志は全く必要ありません。

 

道が深ければ深いほど、非自発的になります。私は手を動かすことができます。これは自発的な道ですが、血を動かすことはできません。試みることはできます。長年の訓練によって、人は血行を自発的にコントロールできるようになるかもしれません。ハタ・ヨーガはそれをすることができます。それは行われてきました。不可能ではありませんが、無駄です。血の動きをコントロールするためだけに30年間の訓練をするのは、無意味で愚かなことです。なぜなら、そのコントロールによって何も得られないからです。血行は非自発的であり、あなたの意志は必要ありません。あなたは食べ物を摂り、それが体内に入った瞬間から、あなたの意志は必要ありません。身体の機械装置、身体のメカニズムが引き継ぎ、必要なことは何でも行い続けます。あなたの睡眠は自発的ではありません。あなたの誕生は自発的ではありません。あなたの死は自発的ではありません。これらは非自発的なメカニズムなのです。

 

クンダリーニはさらに深く、あなたの死よりも深く、あなたの誕生よりも深く、あなたの血よりも深いです。なぜなら、クンダリーニはあなたの第二の体の循環だからです。血はあなたの生理的な体の循環であり、クンダリーニはあなたのエーテル体の循環です。それは完全に非自発的であり、ハタヨギでさえ、それを自発的にどうすることもできません。

 

人は瞑想に入らなければならず、そうするとエネルギーが動き始めます。あなたがすべきことは瞑想です。あなたが深く瞑想に入ると、内なるエネルギーが上向きに動き始め、あなたは流れの変化を感じるでしょう。それは非常に多くの方法で感じられます。生理学的にさえ、その変化を知ることができます。

 

例えば、通常、生物学的には、足が暖かく、頭が冷たいことが健康の兆候です。生物学的には、それは健康な兆候です。逆のことが起こると、つまり足が冷たくなり、頭が暖かくなると、その人は病気になります。しかし、クンダリーニが上向きに流れるとき、同じことが起こります。足が冷たくなるのです。

 

実際には、足の暖かさは、性エネルギーが下向きに流れているに過ぎません。生命エネルギー、つまりクンダリーニが上向きに流れ始めると、性エネルギーもそれに続きます。それは上向きに流れ始めます。足は冷たくなり、頭は暖かくなります。生物学的には、頭よりも足が暖かい方が良いのですが、霊的には、エネルギーが上向きに流れている兆候なので、足が冷たい方が健康なのです。

 

エネルギーが上向きに流れ始めると、多くの病気が起こり始めるかもしれません。なぜなら、生物学的に、あなたは全有機体を乱してしまったからです。仏陀は非常に病気で亡くなり、マハーヴィーラは非常に病気で亡くなり、ラマナ・マハルシは癌で亡くなり、ラーマクリシュナは癌で亡くなりました。その理由は、生物学的システム全体が乱されたからです。他の多くの理由が挙げられていますが、それらはナンセンスです。

(P49)

 

ジャイナ教徒は多くの物語を作り上げてきました。なぜなら、彼らはマハーヴィーラが病気であったとは考えられなかったからです。私にとって、逆が真実です。彼が完全に健康であったとは、どう考えても想像できません。彼はそうではありえませんでした。なぜなら、これが彼の最後の生となるはずであり、生物学的システム全体が崩壊しなければならなかったからです。何千年にもわたって続いてきたシステムが崩壊しなければならなかったのです。彼は健康ではありえませんでした。最終的には、彼は非常に病気でなければなりませんでした。

そして、彼は実際にそうでした!』

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OSHOバグワンのクンダリーニの基礎-2

2025-02-20 03:58:06 | 覚醒のアーキテクチャー

◎クンダリーニは、通路がクリアでない場合に感じられる

 

OSHOバグワンのMeditation: The Art of Ecstasyから第六章クンダリーニ-生命の目覚めを仮訳の続き。

 

ポイントは以下。

1.先入観なくクンダリーニやチャクラを感じるのが第一歩。

2.クンダリーニとチャクラは肉体に属するものではないが、肉体上に対応する場所がある。

3.チャクラを通過する必要はなく、人はそれらをバイパスすることができる。また、悟りを得る前にクンダリーニを感じる必要もない。

4.クンダリーニは、上昇しているから感じるのではない。クンダリーニは、通路がクリアでなく、抵抗やブロックがある場合にのみ感じられる。もし通路が完全にクリアであれば、エネルギーはすんなり流れるので、それを感じることができない。

5.クンダリーニを感じないなら、あなたはチャクラをバイパスするだろう。なぜなら、チャクラの働きは通路の抵抗やブロックを壊すためにのみ必要だから。

 

『(仮訳)

(P46)

内にあるものがすべて現実や真実であるとは限りません。なぜなら、想像力も内にあるし、夢も内にあるからです。心には能力、非常に強力な能力があり、夢を見たり、錯覚を作り出したり、投影したりすることができます。だからこそ、クンダリーニやチャクラについて全く知らずに瞑想を進めるのが良いのです。もしそれらに偶然出会ったら、それは良いことです。何かを感じ始めるかもしれません。その時初めて、尋ねてください。チャクラが働いているのを感じ始めるかもしれませんが、まずその感覚が来るようにしてください。エネルギーが上昇しているのを感じるかもしれませんが、まずその感覚が来るようにしてください。想像しないでください、それについて考えないでください、事前に理解しようとする知的努力をしないでください。先入観は必要ありません。必要でないだけでなく、積極的に有害です。

 

そしてもう一つ、クンダリーニとチャクラはあなたの解剖学、生理学に属するものではありません。チャクラとクンダリーニはあなたの微細体、あなたのスークシュマ・シャリーラに属するものであり、この肉体、粗大な肉体に属するものではありません。もちろん、対応する場所はあります。チャクラはあなたの微細身(スークシュマ・シャリーラ)ですが、あなたの生理学と解剖学にはそれに対応する場所があります。もしあなたが内なるチャクラを感じたときにのみ、対応する場所を感じることができます。そうでなければ、全身を解剖しても、チャクラのようなものは何も見つかりません。

 

クンダリーニやチャクラのようなものがあなたの粗大な肉体にあるというすべての話、すべてのいわゆる証拠、そしてすべての科学的主張はナンセンス、まったくのナンセンスです。対応する場所はありますが、それらの場所は、あなたが本当のチャクラを感じたときにのみ感じることができます。あなたの粗大な肉体を解剖しても、何も見つかりません。何もないのです。だから、問題は解剖学の問題ではないのです。

 

もう一つ付け加えます。チャクラを通過する必要はありません。それは必要ではありません。人はそれらをバイパスすることができます。また、悟りを得る前にクンダリーニを感じる必要もありません。この現象は、あなたが考えているよりもはるかに異なります。クンダリーニは、上昇しているから感じるのではありません。クンダリーニは、非常に明確な通路を持っていない場合にのみ感じられます。もし通路が完全に明確であれば、エネルギーは流れますが、あなたはそれを感じることができません。

エネルギーが流れ、通路に何か抵抗するものがある場合にのみ、あなたはそれを感じます。もしエネルギーが上向きに流れ、あなたの通路にブロックがあるなら、その時初めてあなたはそれを感じます。したがって、より多くのクンダリーニを感じる人は、実際にはブロックされているのです。通路には多くのブロックがあるため、クンダリーニが流れることができません。

 

抵抗があるとき、クンダリーニは感じられます。抵抗がない限り、エネルギーを直接感じることはできません。もし私が手を動かし、抵抗がなければ、その動きは感じられません。空気抵抗があるため、動きは感じられますが、石が抵抗するときほどには感じられません。その時、私は動きをより強く感じるでしょう。そして、真空の中では、私は動きを全く感じません。つまり、それは相対的なのです。

 

仏陀はクンダリーニについて決して語りませんでした。彼の体にクンダリーニがなかったということではありませんが、通路が非常に明確であったため、抵抗がなかったのです。したがって、彼はそれを決して感じませんでした。

 

マハーヴィーラはクンダリーニについて決して語りませんでした。このため、非常に誤った概念が生まれ、マハーヴィーラの後継者であるジャイナ教徒は、クンダリーニはすべてナンセンスであり、そのようなものはないと考えました。このように、マハーヴィーラ自身がクンダリーニを感じなかったため、25世紀にわたるジャイナ教の伝統は、クンダリーニの存在を否定し続けています。

(P47)

マハーヴィーラがそれについて語らなかった理由は、非常に異なっていました。彼の体にはブロックがなかったため、彼はそれを決して感じなかったのです。

ですから、あなたがクンダリーニを感じる必要はありません。あなたはそれを全く感じないかもしれません。そして、もしあなたがクンダリーニを感じないなら、あなたはチャクラをバイパスするでしょう。なぜなら、チャクラの働きはブロックを壊すためにのみ必要だからです。そうでなければ、それらは必要ありません。

ブロックがあり、クンダリーニがブロックされると、ブロックされたクンダリーニのために、近くのチャクラが動き始めます。それはダイナミックになります。チャクラはブロックされたクンダリーニのために動き始め、非常に速く動くので、その動きのために、ブロックを壊す特定のエネルギーが生まれます。

もし通路がクリアなら、チャクラは必要なく、あなたは何も感じないでしょう。実際には、チャクラの存在はあなたを助けるためだけにあるのです。もしクンダリーニがブロックされたら、助けはすぐそばにあります。いくつかのチャクラは、ブロックされているエネルギーを吸収するでしょう。

もしエネルギーがそれ以上動けないなら、それは戻ってきます。それが戻ってくる前に、チャクラはエネルギーを完全に吸収し、クンダリーニはチャクラの中を移動します。動きを通して、エネルギーはより活発になり、より生き生きとなり、再びブロックに来たとき、それを壊すことができます。つまり、それは単なる配置、助けなのです。』

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クンダリーニの基礎-1

2025-02-19 03:48:23 | 覚醒のアーキテクチャー

◎チャクラ、クンダリーニを感じなければ始まらない

 

OSHOバグワンのMeditation: The Art of Ecstasy から第六章クンダリーニ-生命の目覚めを仮訳してみる。

OSHOバグワンのこの見方は、ダンテス・ダイジも肯っていたもの。

 

ポイントは、以下。

  1. クンダリーニは存在し、チャクラも存在するが、いかなる知識も何の役にも立たず、妨げになる可能性が高い。
  2. 生命力の内なる道についての知識は一般論であり、個々人の内なる道は人によって異なり、まず自分にはあてはまらない。クンダリーニの根、クンダリーニが通過する道も、個人によって異なる。
  3. チャクラは存在するが、その数は個人によって異なる。
  4. 誰かがニルヴァーナを達成したとき、目は、外部の者がその人が本当にそれを達成したかどうかを知ることができる唯一の扉。
  5. チャクラ、クンダリーニとその通り道をあなたが感じたときにのみそれは役立つが、感じなければ役には立たない。
  6. チャクラ、クンダリーニの知識を得れば得るほど、真実の、本物のものを感じる可能性は少なくなる。

 

『(仮訳)

いかなる理論的な知識も決して役には立たず、クンダリーニの解剖学的視覚化も、瞑想にとって本当に意味のあるものではありません。私がこう言うとき、クンダリーニやチャクラのようなものがないと言っているわけではありません。クンダリーニは存在し、チャクラも存在しますが、いかなる知識も何の役にも立ちません。むしろ、それは妨げになる可能性があります。多くの理由で障壁となる可能性があるのです。

 

その理由の一つは、クンダリーニや生物エネルギーの秘教的な道、つまり生命力の内なる道についてのいかなる知識も、一般化されたものであるということです。それは個人によって異なり、根は同じではありません。A の場合は異なり、B の場合は異なり、C の場合は異なります。あなたの内なる生命には個性があるので、理論的な知識を通して何かを身につけても、それは役には立たず、むしろ妨げになるかもしれません。なぜなら、それはあなた自身についてではないからです。あなた自身についてであるはずがないのです。あなたが内側に入ったときに初めて、あなたは自分自身について知るでしょう。

 

チャクラは存在しますが、その数は個人によって異なります。ある人は7つ、ある人は9つ、ある人はもっと多く、ある人はもっと少なく持っているかもしれません。それが、非常に多くの異なる伝統が発展してきた理由です。仏教徒は9つのチャクラについて語り、ヒンドゥー教徒は7つについて語り、チベット人は4つについて語ります。そして、彼らはすべて正しいのです!

(P45)

クンダリーニの根、クンダリーニが通過する道も、個人によって異なります。深く入れば入るほど、あなたはより個人的になります。例えば、あなたの体では顔が最も個性的な部分であり、顔の中でも目はさらに個性的です。顔は体のどの部分よりも生き生きとしています。だからこそ、個性を帯びるのです。あなたは気づいていないかもしれませんが、特定の年齢、特に性的成熟期になると、あなたの顔は、その後ほぼ一生続く形を帯び始めます。性的成熟期の前は顔が大きく変化しますが、性的成熟期を迎えると、あなたの個性が固定され、パターンが与えられ、顔は多かれ少なかれ同じになります。

目は顔よりもさらに生き生きとしており、非常に個性的であるため、常に変化しています。人が悟りを開かない限り、目は決して固定されません。悟りはもう一つの成熟です。

性的成熟期を迎えると顔は固定されますが、もう一つの成熟があり、そこで目が固定されます。あなたは仏陀の目に変化を見ることができません。彼の体は老い、死ぬでしょうが、彼の目は同じであり続けるでしょう。それが一つの兆候でした。

誰かがニルヴァーナを達成したとき、目は、外部の者がその人が本当にそれを達成したかどうかを知ることができる唯一の扉です。今、目は決して変わることがありません。すべてが変わりますが、目は同じままです。目は内なる世界を表現しています。

しかし、クンダリーニはさらに深いのです。

(P46)

 

いかなる理論的知識も役に立ちません。理論的知識を少しでも持つと、それを自分に押し付け始めます。教えられたとおりに物事を視覚化し始めますが、それはあなたの個々の状況に対応していない可能性があります。すると、多くの混乱が生じます。

チャクラについて知るのではなく、感じなければなりません。感じなければなりません。内側に触覚を送らなければなりません。チャクラ、クンダリーニ、そしてその通り道をあなたが感じたときにのみ、それは役立ちます。そうでなければ、役には立ちません。実際、知識は内なる世界に関しては非常に破壊的でした。知識を得れば得るほど、真実の、本物のものを感じる可能性は少なくなります。

あなたは自分の知っていることを自分に押し付け始めます。もし誰かが「ここにチャクラがある、ここに中心がある」と言ったなら、あなたは自分のチャクラをその場所に視覚化し始めます。そして、それはそこには全くないかもしれません。すると、あなたは想像上のチャクラを作り出すことになります。あなたは作り出すことができます。心にはその能力があるのです。あなたは想像上のチャクラを作り出すことができ、そして、あなたの想像力のために、クンダリーニではない、単なる想像力、つまり完全に幻想的で夢のような現象である流れが始まります。

いったん中心を視覚化し、想像上のクンダリーニを作り出すことができるようになると、あなたはすべてを作り出すことができます。すると、想像上の経験が続き、あなたは内側に非常に偽りの世界を作り出すでしょう。外側の世界は幻想的ですが、あなたが内側に作り出すことができる世界ほど幻想的ではありません。』

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呼吸、セックス、飢えで修行

2025-02-07 06:08:26 | 覚醒のアーキテクチャー

◎心の大半を占める無意識をすべて意識にする

 

OSHOバグワンは、人間が無限光明を得る(究極)ための冥想方法として、呼吸、セックス、飢えの三方法を上げる。いずれも狙いは、心の大半を占める無意識をすべて意識にしてしまおうということだが、事はそれほど簡単ではない。

呼吸(ヴィパッサナー)は、釈迦が用いて覚醒したが、眠れなくなるので発狂しやすいという点がある。飢えは、マハーヴィーラが用いて覚醒したが、断食の加減によっては死の危険がある。飢えが進むほど意識は冴えるという。

セックス(性愛冥想、タントラ)は、誰もがやりたがるかもしれないが、無意識でないとセックスできないという土俵で、意識を拡張しようとするのだから、初手から困難だ。釈迦はその困難さからこの修行法は回避したという。

 

以下The Ultimate Alchemy, Vol 2 Chapter3 P41から仮訳。

『それで私は3つのこと、呼吸、セックス、そして飢えについて議論しました。非常に基本的で、基礎的なことです。どれでも意識的になりなさい。呼吸が最も簡単です。タントラの方法を使うのは難しいでしょう。心はそれを使いたがるでしょうが、難しいでしょう。飢えの方法を使うのは難しいでしょう。心はそれを好まないでしょう。この二つは非常に難しいです。あなたがそれらを好きであろうとなかろうと、それらは難しいのです。呼吸のプロセスだけが簡単です。そして、来るべき時代には、仏陀の方法が非常に役立つだろうと思います。それは穏やかで、簡単で、非常に危険ではありません。

だからこそ、仏陀は常に中道、マッジヒマニカヤ、黄金の中庸の創始者として知られているのです。セックスと食物はこの二つの間にあります。呼吸は黄金の中庸、まさに真ん中なのです。

 

そして、他にも多くの方法があります。どんな方法でも、あなたは内なる光の中に確立されることができます。そして、いったん確立されると、あなたの光は体の細胞へと流れ始めます。その時、あなたの全機構はリフレッシュされ、あなたは仏陀の体、つまり悟りを開いた者の体を持つことになるのです。』

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太乙金華宗旨の光について-5

2025-02-06 03:43:40 | 覚醒のアーキテクチャー

いっさいの思考が消えることを思考の集中という

 

このあたりから光の話が出て来る。

 

ポイントは、以下。

  1. 中心に向かって動いてゆけば、思考は消えはじめ、その中核においては、いっさいの思考が消え、ただ覚醒のみがある。これを思考の集中という。
  2. 生命と空虚さは内なる神が持つ二つの顔だ。それをただ見守りつづけていたら、人は、完全無欠な顔と無の顔を持つ神になる。

 

開眼は光の外向、閉眼は光の内向とあるが、ここでは、閉眼を勧めている。だが、半眼の冥想もある(ヴィギャンバイラブタントラとは別のことを言っている)。

※『光があなた自身の実存に降り注ぐ』とは、中心太陽への突入だろうか。

※一寸四方:人間一人が周天すれば、天地万物すべてのものが、自分一人とともに周天する。そしてこれは、一寸四方のところで生起する。

(一寸四方に入る大きさの身体は、コーザル体だけである。コーザル体は、小さな種なしぶどうの大きさと言われ、生きている時は、心臓内部の位置にある(魂の科学/スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ))

さらに、太乙金華宗旨の第二章では、人が胎内に入る時、目と目の間の方寸に元神があり、下方の心臓?に識神があるとする。

目と目の間の方寸(一寸四方)は、経穴マップや人相学では印堂と呼ばれ最重要とされる。

眉間(印堂)と心臓は区別され、ここではまず印堂の話しか出ていない。

チベットでは、器具で眉間の奥に穴を開ける話がある。でも天光は、肉体レベルの話ではない。

また一寸四方のことは、神秘生理学の記述に時々出て来るが、ダンテス・ダイジは言及なく、謎である。

 

『そして光を巡らせる瞑想は、ひとえに逆流の動きにかかっている。それにより思考の集中が起こる。天上のこころは太陽と月のあいだに位置している。

 

人間は中心であると同時に周辺でもある。周辺に向かって動いてゆくと、たくさんの思考が湧き起こってくる。周辺は”多"から成っている。中心はひとつだ。中心に向かって動いてゆけば、思考は消えはじめる。まさにその中核においては、いっさいの思考が消え、ただ覚醒のみがある。この秘法の書が 述べているのはそのことだ――それにより思考の集中が起こる。

 

光は内側に向かって動いてゆかなければならない。

樹を見ているとき、あなたの目は、その光を樹に向かって放出している――光は外に向かって動いている。目を閉じると、光は内側に向きを変えはじめる――メタノイア、悔い改め、回帰が起こる。そして光があなた自身の実存に降り注ぐとき、自己認識、自己知が生まれる。その自己知はあなたに自由をもたらす――いっさいのしがらみからの自由、いっさいの執着からの自由、死からの自由、肉体からの自由を。それはあなたの内部に魂をつくりだす。

 

グルジェフがよく弟子たちに言っていたのはそのことだ。あなたがたは魂をもって生まれてきたのではない、あなたは"メタノイア"によってそれをつくりださねばならない、と。

 

 

「黄庭経』にはこう記されている。「一尺四方の家の一寸四方の場所で、生命を統制することができる」

 

あなたの肉体のこの小さな寺院のなかで、生命を統制することができる。

 

一寸四方の只なかには、光輝く者が住んでいる。碧玉の都の紫の広間には、最も空虚で生命力のある神が住んでいる。

 

いかにも矛盾した言明だ――空虚さと生命。生命は男性的であり、空虚さは女性的だ。

生命と空虚さ――両者は内なる神がもつ二つの顔だ。そのどちらかを選り好みしなければ、まったく選ぶことをせず、ただ見守りつづけていたら、人は一方には死の顔を、もう一方には生の顔をもつ神に――一方には完全無欠な顔を、もう一方には無の顔をもつ神になる。

 

ゆえに、光が巡ると、全身の気が玉座の前に現れる。

 

そして光が内側に向かって動き、あなたの実存のなかを巡るとき・・・・・・というのも、出口が残されていないからだ。瞑想とはまさにそれだ。仏陀が菩提樹のもとでやっていたのはまさにそれだ。

あなたは静かに坐り、すべての扉を閉める。すると光が内側で巡る。そのときあなたは肉体と肉体のなかにあるすべてのものに、そのすべての神秘にはじめて気づくようになる。この小さな肉体のなかに宇宙のいっさいの神秘が含まれている。肉体は小宇宙だ。

 

ゆえに、光が巡ると、全身の気が玉座の前に現れる。それはあたかも聖王が都を建設し、支配の基本原則を定めると、すべての国が貢物を携えて来るようなものである。あるいは主人が寡黙で穏やかであれば、男女の召使が進んで主人の命令に従い、各自の仕事につくようなものである。

 

 

そしてこの光がそこにあり、あなたの内側を巡っているとき、肉体は召使になる。五感は従順な召使になる。それらをコントロールしようとする必要はない――それらはひとりでにあなたに従う。

 

これがタオの美しさだ。けっして何も強要することがなく、品性を磨きたいという欲求もない。タオは言う。ただ光に満ちあふれればいい、そうすれば他のことはすべてついてくる、と。』

(黄金の華の秘密/OSHO/メルクマールP35-38から引用)

 

この後、本文は、『ゆえに、汝の為すべきことは光を巡らせることのみ』と続く。

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太乙金華宗旨の光について-4

2025-02-05 03:00:34 | 覚醒のアーキテクチャー

◎西洋は太陽重視で、男性偏重で、活動的すぎる

 

光とは何か。OSHOバグワンの説明。

太乙金華宗旨の冒頭。

 

ポイントは、以下。

  1. 天上のこころ(天心)は太陽と月の中間にある。それは、男性的でもなければ、女性的でもない。
  2. 西洋は太陽重視で、男性偏重で、活動的すぎる。
  3. 東洋は月重視で、女性偏重で、受動的すぎる。
  4. 外側では太陽を重視し、内側では月を重視せよ。太陽と月をあなたの内側で出会わせ、あなたはちょうどその真ん中にいれば天上の心がある。

 

そして光を巡らせる瞑想は、ひとえに逆流の動きにかかっている。それにより思考の集中が起こる。天上のこころは太陽と月のあいだに位置している。

 

いいかね、もう一度くり返そう。太陽は男性エネルギーの象徴であり、月は女性エネルギーの象徴だ。

ハートは男性的でもなければ、女性的でもない。それがハートの美しさだ。すなわち、ハートは神聖なものであり、男性的でもなければ、女性的でもない。それは まさにその両者の中間にある。

 

男性エネルギーに傾き過ぎている場合には、人は過度に活動的になっていて、どうやって受動的になればいいのかわからなくなっている。西洋で起こっていることはそれだ。西洋は太陽指向であり、あまりにも活動的だ。人々は狂ったようにみずからを活動に駆り立てている。

 

(中略)

 

西洋は太陽を重視している。東洋は月を重視している。

東洋はあまりにも受動的で、宿命論に傾き過ぎるようになった。「何もする必要はない。ただ待てばいい。神がやってくださるだろう」と。これはまた別の種類の愚劣さ、愚昧さだ。東洋は貧しくて、怠惰で、不潔だ。が、人々は何ひとつ気にかけていない。どこを向いても惨めさが――貧困、乞食、病気が目に飛び込んでくる。が、誰も気にかけていない。すべては受け容れられている。「しかたがないでしょう?これは神の御意志なのです。私たちは甘受しなければなりません。待てばいいのです。いよいよの時になったら、神がおいでになります。他にどうしようもないじゃないですか」これは女性的な精神だ。

 

『黄金の華の秘密」は言う。人は男性的であってもいけないし女性的であってもいけない、どちらの極にも傾かず、ちょうど真ん中にいなければならない、と。そうなったらバランスが生まれる。そうなったら活動的でありながら、しかも内側深くではくつろいだままでいることができる。そうなったらくつろいでいながら、しかも外側では活動をつづけることができる。

 

外側では太陽を重視し、内側では月を重視するがいい。太陽と月をあなたの内側で出会わせ、あなたはちょうどその真ん中にいればよい。そして真ん中にいることに超越がある。』

(黄金の華の秘密/OSHO/メルクマールP33-35から引用)

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太乙金華宗旨の光について-3

2025-02-04 03:36:33 | 覚醒のアーキテクチャー

◎無為を達成するために有為を用いる

 

光とは何か。OSHOバグワンの説明。

太乙金華宗旨の冒頭。

 

ポイントは、以下。

1.人は太乙という神になる。

2.両目をひとつにする秘法は、無為を達成するために有為を用いること。

3.黄金の華とは光だ。両目がひとつになれば、黄金の光の華があなたのなかで咲いたかのようになる。

4.今は闇だが、黄金の華は光源のない光。ひとたび黄金の光を知れば、あなたは不死なる者になる。

5.タオと同様に光はつねに存在している。

 

果たして光はクンダリーニなのだろうか。

 

太乙(大いなる一者)とは、それにまさるものがない者の呼び名である。

 

その一者になることが「太乙」になるということだ。このようにして道家の人々は、「神」という言葉を使わずに神についての何かを述べている。ひとつになれば、あなたは神になっている。

 

生命の丹術の秘法は、無為を達成するために有為を用いることにある。

 

この言葉には大きな力が秘められている。この両目をひとつにする秘法とは何か?内なる男と女を合一させるにはどうすればいいのだろう?もはやあなたが二つに割れることなく、内輪もめをする家ではなくなり、どんな葛藤も緊張も生じない、まったくひとつの存在になるよう、あなたの男性性と女性性を互いに溶け合わせるにはどうすればいいのだろう?その合一のなかには至福がある。なぜなら、すべての緊張が消え、すべての葛藤が消え、すべての不安が消えるからだ。その一者になるにはどうすればいいのだろう?

 

(中略)

 

黄金の華とは光だ。人は黄金の華を象徴として用いる。「水の領域の鉛にはひとつの味しかない」という詩句はそれを指す。

 

黄金の華は象徴だ、あなたのエネルギーがもはや二元的ではなくなり、ひとつになったときの象徴だ。すさまじい光が放出される。そしてその光は金色だ。まるで黄金の光の華があなたのなかで咲いたかのようだ。しかし、それはたんなる象徴にとどまらない――象徴ではあるが、文字通り真実だと言ってもいい。それはまさにそのように起こる。

 

たった今、あなたは闇として、暗い夜として存在している。それが起こるとき、あなたは日の出の姿をとって現れてくる。どこにも太陽を見ることはできないが、光はそこにある。その光には光源がない--それは光源のない光だ。だが、ひとたびその内にある黄金の光を知れば、あなたは不死なる者になる。そうなったら死は存在しない。光はけっして死ぬことがないからだ。

 

生命のすべて、森羅万象のすべては、ただ光のみで成り立っている。すべては光の顕れにすぎない。現代の物理学者に尋ねてもいい。現代の物理学者たちの見解は、「すべては光だ。形は変化しつづけるが、光はつづいてゆく。光は永遠だ」という点で、タオと完全に一致している。

 

世にある聖典の多くは、「光」という言葉ではじまる。「太初に・・・神は『光あれ』と言われた」それが始まりだ。もしも始まりがあったとすれば、他の始まり方はありえなかっただろう、きっと光とともにはじまったはずだ。だが、始まりなどというものはけっしてなかった。これはたんなる寓話にすぎない。光はつねに存在している。

 

『コーラン』は「神は光だ」と言う。スーフィたちが神に与えた名前のひとつはヌルだ。ヌルとは光のことだ。』

(黄金の華の秘密/OSHO/メルクマールP30-32から引用)

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太乙金華宗旨の光について-2

2025-02-03 03:45:31 | 覚醒のアーキテクチャー

◎水は下降で、外へ向かう流れ。火は上昇で、“内向”する

 

光とは何か。OSHOバグワンの説明。

太乙金華宗旨の冒頭。

 

ポイントは、以下。

  1. 両目がひとつになったとき、天上の光が見える。その時、光の爆発が起こる。
  2. 洗礼者ヨハネの火の洗礼は、その爆発のこと。
  3. 〝外向〟と〝下降"は同じ意味であり、〝上昇〟と〝内向"は同じ意味だ。下降するものはすべて外にも向かい、上昇するものはすべて内にも向かう。そしてその逆も言える。
  4. 水は下降で、外へ向かう流れ、水の旅は外界の旅。火は上昇で、上に向かって進み“内向”する。
  5. 両目とは、外向の目を内向の目に転じて両目がそろうことで、これが水の洗礼と火の洗礼。

 

(ゴシック体は、経典本文)

天上の光は見ることができない。それは両目のあいだに含まれている。

 

だが、両目がひとつにならないかぎり、あなたはそれに気づかない。それは両目のあいだに含まれている。だが、それを見ることができるのは、両目がひとつになったときだけだ。ひとつになれば、それは解き放たれる。そうなったらすさまじい光の爆発が起こる。ツァラツストラはそれを「火の爆発」と呼ぶ。老子はそれを「光の爆発」と呼ぶ。それは同じものだ。

 

あなたがたは洗礼者ヨハネの言明を耳にしたことがあるにちがいない。彼は弟子たちに言っていた。「私はあなたがたに水の洗礼をほどこす。私の後に、あなたがたに火の洗礼をほどこす人がやって来る」彼が「私の後に、あなたがたに火の洗礼をほどこす人がやって来る」という言葉で言おうとしているのは、その爆発のことだ。

水の洗礼は外なる世界の洗礼だ。洗礼者ヨハネにとって、水とは外へ向かう流れの象徴だ。このことを覚えておきなさい。外向〟と〝下降"は同じ意味であり、〝上昇〟と〝内向"は同じ意味だ。下降するものはすべて外にも向かい、上昇するものはすべて内にも向かう。そしてその逆も言える。水はつねに下に向かって進む。それゆえに水は外へ向かう流れを象徴する。水は水そのものから離れてゆく。水の旅は外界の旅だ。火は上昇し、つねに上に向かって進む。そして〝上昇”と“内向”は同じ意味だ。火の旅はつねに内界へと向かう。

洗礼者ヨハネはこう言っている私はあなたがたに水で洗礼をほどこしている。私はあなたがたに宗教の輪郭を与えている。私の後に、内なる洗礼、火の洗礼をほどこすキリストがやって来る。

 

イエス自身、「悔い改めなさい、悔い改めなさい」と何度もくり返し言っている。だがこの言葉はキリスト教徒たちの手によって、誤った解釈をされてしまった。彼らはそれを「あやまちを悔い改める」と解釈した。それはあやまちとは何の関係もない。「悔い改める」という言葉は、実際には引き返すこと、内へ向かうこと、もどることを意味する。つまりそれは帰ること・・・・自分の本来の姿を取りもどすということだ。「悔い改める」という言葉はメタノイア―回帰すること、一八〇度の転回を意味する。外へ向かって流れつづけたら、あなたは水のままだ。内側に方向を変えれば、あなたは火になる。

そしてこの両目、この二つの炎、あなたの意識のこの両半球がひとつになって、完全に橋がかかり、あなたがひとつの炎になるとき、その炎こそプロティノスが「一者から一者への飛翔」と呼ぶものだ。』

(黄金の華の秘密/OSHO/メルクマールP29-30から引用)

 

火は上昇であり、クンダリーニ・ヨーガ。水は下降であり、只管打坐。洗礼のヨハネは日々の外的生活での善いことをして悪いことをしないことを水と言っている。

 

老子の光の爆発については、老子 第42 道生一に陰陽二気合体して万物生ずとある部分かと思う。
『有無一如の玄なる道は、先ず有なる一としてあらわれる。その有は陰陽の二気に分かれ、更にこの二気は冲気(陰陽二気を中和交流させる気)によって相和し、そこに万物が生じる。』

 

また、OSHOは、この爆発については、内破(implosion、爆縮)としている説明が以下にある。

【131_Tao_The_Three_Treasures_Vol1

p87

(仮訳)

 

内側へ動くとき、あなたは現在の永遠の中へと動きます。外側へ動くとき、あなたは過去へ、あるいは未来へと動きます。

そして、それは空間についても同じことが言えます。空間には、左か右しかありません。もしあなたが左に傾けばそれは外側であり、右に傾いてもまた外側です。しかし、もしあなたがその二つのバランスを取ることができれば、突然あなたは内側にいます。

 

中点はあなたの中にあり、外側の空間の一部ではありません。実際、現在と中点は一緒です。あなたが現在の中にいるときはいつでも、あなたは中点にいます。あなたが中点にいるときはいつでも、あなたは現在の中にいます。中点はあなたの外側の位置ではありません。それは現在のような内的な現象なのです。

 

ですから、私が言うとき、あるいは老子が言うとき、「バランスを取りなさい」と、私たちはあなたの人生においてバランスを静的な現象にしようと言っているのではないのです。それは静的ではありえません。あなたは左へ、右へと動きながら、それを継続的に維持しなければならないでしょう。

 

その動きの中で、あなたは時々、あなたの存在の最も内側の点を通過し、突然あなたは中点にいるでしょう。そして突然、あなたは爆発ではなく、内破を見つけるでしょう。内破。何か内側で内破します。突然、あなたはもはや同じではありません。あなたが内側の中点の位置を通過するときはいつでも、あなたはもはや同じではありません。あなたは強烈に生き生きとし、強烈に無邪気になり、強烈に純粋で神聖になります。その瞬間、あなたにとって暗闇も罪も罪悪感も存在しません。

 

あなたがそのバランスを見つけることができるときはいつでも、あなたは神聖であり、あなたは神です。しかし、あなたはそれを一度だけ見つけることができるのではありません。いいえ。人生は常に絶え間ないバランス、継続性、連続体なのです。あなたはそれを一度購入すれば、常に家にある商品のようにすることはできません。いいえ。もしあなたが気づいていなければ、あなたはそれを何度も何度も見逃してしまうでしょう。】

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太乙金華宗旨の光について-1

2025-02-02 06:42:31 | 覚醒のアーキテクチャー

◎天上の光は、両目のあいだに含まれている

 

道教では光を回して、金華を得る。そこで光とは何か。OSHOバグワンの説明。

 

太乙金華宗旨の冒頭。

※性を精髄と訳。

※命を生命と訳。

※天光を天上の光と訳。

(ゴシック体は、経典本文)

 

ポイントは以下。

  1. 精髄と生命は、天上の光のなかに含まれている。天上の光は見ることができない。
  2. 天上の光は、両目のあいだに含まれている。
  3. 精髄も生命も、直に感じ取らねばならない。
  4. 両目はあなたの内側にある男性性と女性性を表している。
  5. この男性と女性があなたの内側での出会いが「天上」での内なる交合。
  6. イエスも「二つの目がひとつになると、光が現れる」と言う。

 

タオには名前もなければ形もない。それは一つの精髄、原初の精神である。

(中略)

 

精髄と生命は見ることができない。この二つは天上の光のなかに含まれている。天上の光は見ることができない。それは両目のあいだに含まれている。

 

形は見ることができるし、肉体は見ることができる――肉体は形であり、精髄を包み込んでいる物質だ。だが、精髄を見ることはできない。精髄は目では見ることができず、五感ではとらえることができない。それは何も介さず、直に感じ取らねばならない。

 

あなたは私の肉体を見ている。私はあなたの肉体を見ている――そこには器官が介在している。私の目が、あなたがここにいると告げている。あなたの目が、私がここにいると告げている。だが、本当にそうだろうか。私たちは目にだまされているのかもしれない――目には時々だまされることがある。夜、暗闇のなかで一本の縄が蛇のように見える。蛇だと思い込めば、それは蛇と同じように作用する。あなたは怖くなって走りだす。あるいは、砂漠のなかで、ありもしないオアシスを見ることもある。それはたんなる投影による現象だ。喉があまりに渇くので、あそこにオアシスがあればという願望が起こり、その願望がオアシスをそこにつくりだすからだ。目はよく人をだます。だから当てにはならない。

 

あいだにものを介在させて知られる真理は、つねに怪しく、疑わしいままだ。それは確実なものとはなりえない――絶対に確かだとは言えない。が、絶対的な確証のない真理などまったく真理ではない。真理というものは絶対に確かなものでなければならない。ほぼ確かでは通用しない。となると道はただひとつ――真理はあいだにものを介在させずに知られねばならない。人はそれを直接、端的に知らなければならない。人はそれをいかなる器官も介さずに知らねばならない。真理はまさにそのようにして知られる。

 

生命を見ることはできないが、それを感じ取ることはできる。それは主観的な体験であって、客観的な対象ではない。

 

精髄と生命は見ることができない。この二つは天上の光のなかに含まれている。天上の光は見ることができない。それは両目のあいだに含まれている。

 

人間には二つの目がある。道家の人々にとって、この二つの目にはとても重要な意味がある。現代の科学はようやくその真実を見ることができるようになった。この二つの目はたんにものを見るためにだけあるのではない。この両目はあなたの内側にある男性性と女性性を表している。

 

今や現代の科学は言う。人間の脳は二つの半球に分割することができる――そして片方の半球は男性的で、もう片方の半球は女性的だ、と。あなたの頭脳の右側は女性的であり、左側は男性的だ。だから片方の目はあなたの内なる男性を表し、もう片方の目はあなたの内なる女性を表している。そしてこの男性と女性があなたの内側で出会うときの、その出会いこそが「天上」と呼ばれているものだ――それはあなたの男性性と女性性の出会い、内なる交合だ。

 

イエスは言う。「二つの目がひとつになると、光が現れる」彼は道教の煉丹術師のように語っている。あなたの両目がひとつになると、光が現れる。あなたの両目がひとつになると――あなたの男性性と女性性が互いのなかに消えてゆくと、究極のオルガズム的な体験が起こる。女性や男性と愛を交わすときにあなたが感じるものは、その一瞥、つかの間の一瞥にすぎない。それはほんの一瞬のものなので、あなたが気づくころにはすでに過ぎ去っている。あなたは後になってようやくそれに気づく。それはあっという間に行ってしまう。だが、それは一瞥であり、男性性と女性性の出会いの一瞥だ。

 

これは外側の世界における出会いだ。たとえ一瞬といえどもそれが起こるのは奇蹟だ。が、そこには深遠な可能性が秘められている。タントラ、タオ、ヨーガをはじめとする、世界のあらゆる秘密の教えが行なってきたのはそれだ・・・・内なる男性と女性――タントラ行者が「シヴァ」と「シャクティ」、道家が「陰」と「陽」と呼んできたものにあなたが気づくのを助けること。その二つの極、あなたのなかの〈陰〉と〈陽〉、あなたのなかの昼と夜――その二つが出会わなければならない。』

(黄金の華の秘密/OSHO/メルクマールP26-29から引用)

 

「イエスの二つの目が一つになると光が現れる」という言葉は、次の新約聖書のマタイ伝6章22節と23節に由来するが、覚者が後で示唆しなければわからない。

 

『22

あなたのからだのあかりは、目である。もしあなたの目が健全であれば、あなたの全身は明るいであろう。

23

もしあなたの目が悪ければ、あなたの全身は暗いであろう。もしあなたのうちにある光が暗ければ、その暗さはどんなに大きいことか。』

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周天とクンダリーニ・ヨーガの違い-2

2025-02-01 03:13:13 | 覚醒のアーキテクチャー

黄金の華は、賢者の石

 

黄金の華は、賢者の石であり、アムリタ(甘露)である。

 

古代インドで、インドラ神は、クリシュナの要請に応じて、アムリタを多量の尿として、ウッタンカ仙人に与えようとした。ところがこの尿を、ウッタンカ仙人は、怒って飲まなかった。ウッタンカ仙人は、まだ準備ができていなかったのだ。

黄金の華を得るためには、最高度の知性と明晰さ、そして完全な受容性と静謐さが必要となる。

 

黄金の華の秘密の続き。

(ゴシック体は、経典本文)

『タオは女性指向ではない。タオはその両方――それらの統合だ。巡らせるのは男性的なエネルギーであり、一点にとどめておくのは女性的なエネルギーだ。行為を通して無為に到り、受動性にたどり着く。努力を通して無努力を達成する。

 

この根本原理を実践する際には、他の技法を探し求める必要はない。ただ汝の思考をそれに集中させればよいだけだ。思考を集束させることによって、人は飛翔することができ、天上に生まれる。黄金の華とは生命の仙薬のことだ。

 

これがあらゆる不死なるものの奥義だ。西洋の錬金術師たちが「賢者の石」と呼んでいたものはこれだ。これはインドでは「アムリタ」―霊薬、甘露-と呼ばれている。『黄金の華の秘密」は錬金術の論書であり、体内化学を錬金術に変容させ、卑金属を黄金に変容させる秘法をあなたに授ける。今現在のあなたは卑金属にすぎない。が、あなたはその秘法を内に秘めている。もしその秘法が成し遂げられたら、あなたは黄金に変容する。黄金は不滅だ。

 

黄金の華とは生命の仙薬のことだ。効き目は実に確かだが、ひじょうにとらえがたいので、最高度の知性と明晰さ、そして完全な受容性と静謐さが必要とされる。この最高度の知性と理解力をもたない者は、道を見いだすことがない。この受容性と静謐さをもたない者は、それをしっかり保つことができない。

 

二つのことが求められている。

第一に、人は知性と明晰さを必要とする。これらのことは気にかけなくてもいい。自分に知性がなかったらどうしようなどと考えはじめたりしないこと。人はみな知性をそなえて生まれてくる。知性とは内在する資質だ―誰もが息をしながら生まれてくるように、人はみな知性をそなえて生まれてくる。

聡明な人もいれば聡明でない人もいるという考えは完全に間違っている。

(中略)

 

いいかね、人はみな知性をそなえて生まれてくるのであって、ただひとりの例外もない。あなたは自分自身の知性を――それがどこにあるかを見つけ出すだけでいい。ひとたび自分自身の知性を見いだしたら、あなたは明晰になる。

 

人々は明晰さを欠いたままで生きている。それは彼らが間違った自己観念を抱いて生きているからだ。誰かが先生が、校長が、大学教授が「おまえは知性的ではない」とあなたに言った。だが、彼らの基準はあくまで択一的なものであり、その基準をすべての人に当てはめることはできない。大学はまだ普遍的なものにはなっていない。あらゆる種類の知性を許容しているわけではない。知性があらゆる形で顕現するのを認めているわけではない。

ひとたび自分自身の知性を受け容れて、その知性に敬意を表しはじめたら、あなたは明晰になり、問題は何もなくなる。

 

(中略)

 

みずからの知性を受け容れたら、自分自身を受け容れたら、あなたは明晰に、このうえもなく明晰になる。雲はすべて晴れる。

 

そして第二に、あなたには受容性と静謐さが必要だということ。知性と明晰さは男性的な精神の一部だ。受容性と静謐さは女性的な精神の一部だ。吸収することができるのは女性だけであり、だからこそ女性は妊娠する――子宮をもっている。

 

これら二つのことが同時に必要とされている。知性が欠けていたら、あなたは何を言われているのか理解することができない、師が何を分かち与えてくれているのか理解することができない。そして女性的でなかったら、あなたはそれを吸収することができない、それを子宮に宿すことができない。その両方が必要とされている。要点を見抜くために、あなたは知性的でなければならない、このうえもなく知性的でなければならない。そしてそれを内側で保つために、あなたはこのうえもなく受容的でなければいけない。そうすれば、それはあなたの一部になることができる。

 

これはたんなる下地だ。徐々に徐々に、私たちは光を巡らせる具体的な手法へと入ってゆく。注意深く聴きなさい、知性を働かせながら聴きなさい。それを吸収するがいい。それはあなたの生涯における最大の体験のひとつにもなりうるだろう。』

(黄金の華の秘密/OSHO/メルクマールP40-43から引用)

 

なぜこのようなことが重要とされるかがわからないかもしれないが、後にわかることだろう。

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周天とクンダリーニ・ヨーガの違い-1

2025-01-31 07:02:15 | 覚醒のアーキテクチャー

◎太乙金華宗旨

 

クンダリーニ・ヨーガでは、クンダリーニのエネルギーコードを上昇させ、周天では身体の前後に気を周回させる。ほとんどの人は、クンダリーニのエネルギーコードと気は別物と考えているのだろうと思うが、OSHOバグワンは、気とクンダリーニのエネルギーコードは、同一と見ている。

クンダリーニのエネルギーコードは、玉の緒と呼ばれるように第二身体エーテル体から第七身体エーテル体まで、各身体を通貫して存在している。これを基本認識とせねば、気とクンダリーニのエネルギーコードは、同一と見れないように思う。というのは、気は、エーテル体が基地であるが、呂洞賓の太乙金華宗旨(黄金の華の秘密)では、気あるいは回光も同一物が次元を越えて運動、作用しているように見えるからである。

そういう見方が可能なのは、OSHOバグワンが正師につかず、試行錯誤と知性と好奇心で大変な苦労でクンダリーニ・ヨーガで究極に至った稀有な人だからだと思う。

 

以下は、OSHOバグワンの太乙金華宗旨の冒頭部分。太字は経文。

ゆえに、汝の為すべきことは光を巡らせることのみ、これが最も深遠で霊妙な秘法だ。光は動きやすいが、一点に定めがたい。だが久しく巡らせば、光はおのずと結晶する。「汝は黙して朝に飛翔す」と記された境地はそれだ。

 

ひじょうに重要なことがこの経文のなかで語られている。光は動きやすく、固定させるのがむずかしい。だから光を一点にとどめておこうとしないこと。ここでヨーガは容易にはできないことをやろうとする。ヨーガがむずかしく、骨が折れるのはそのためだ。

 

ヨーガは光を一点にとどめておこうとする。ヨーガはまた両目のあいだ眉間のちょうど真ん中、第三の目のセンターに光をとどめておこうとする。ヨーガは光を一点に固定させようとする。タオとヨーガの違いはそこにある。ヨーガは光をとどまらせようとする。「第三の目に意識を集中させなさい」―要約するなら、ヨーガの哲学はそれにつきる。「すべての意識を第三の目に集中させることができたら、人は変容する。両目はひとつになり、人は光で満たされる」

 

そして第三の目を超えると――第三の目はヨーガの意識の地図では第六のセンターだ――六番目を超えると七番目のセンターがある。第七のセンターは「一千枚の花弁をもつ蓮華」と呼ばれている。光を第三の目に集中させると、容量の限界に達した光は、第七のセンターを押し開こうとする。それは貯水池の水のように上昇しはじめる。第七のセンターに圧力が加えられることで、何世紀にもわたり、何百万もの生にわたって閉じたままだったつぼみが開く。

 

タオは別の観点から働きかける。タオは言う――光を一点にとどめておくことはひじょうにむずかしい。光をとどめておくことに気を取られてはいけない。光を巡らせるやり方が簡単だ。心にとっては巡らせることがいつもやさしい。動くことが心の本性だ。心にとって集中することはつねにむずかしい。そうだとしたら、なぜ心の潜在能力を使わないのか?なぜそれを活用しないのか?

 

タオは自然であることを大切にする科学だ。手を加えないこと。無理強いしないこと。自分で不必要なもめごとをつくりださないこと。心にそなわる自然な能力―動くという能力、動くことを好むという能力、さまようという能力を活かしなさい。それを使うのだ。光を巡らせなさい――光を巡らせる方法については後で語り合うことになるだろう――経路を見いだして、光を巡らせなさい。

 

光を巡らせることで、道家の人々は七〇〇の鍼の経穴を発見した。光を全身に巡らせることによって、彼らは光が強烈に輝くポイントが七〇〇あることに気づいた。彼らはそれらを正確に数えあげた。今や科学がそれを立証している。正確に七〇〇の経穴がある。今や人体の七〇〇の経穴を画像でとらえ、どの経穴で光が失われているか、どの経絡に気が流れていないかを示す機械さえもが発明されている。道家の人々はどのようにしてそれを知ったのだろう?彼らには機械も科学技術もなかった。彼らの唯一の技法は、内側に入って光を巡らせることだった。

 

どのようにして光を巡らせるか、その具体的な技法についてはあとで触れる。今は道家の人々の方法がどういうものかを正確に理解する下地をつくっているだけだ。

彼らは言う――光を巡らせ、さらにそれをまわしつづけてゆくと、ある地点で光はおのずと結晶化する、と。

 

光を一点にとどめておくことは心配しなくてもいい。それをぐるぐるぐるぐるまわしてゆくと、ある瞬間、すべてのものが止まっているのに気づく。ヨーガが懸命に起こそうとしていることが起こっている。タオにおいては、それは自然に起こることだ。ヨーガにおいては、それは長く険しい努力の旅になる。ヨーガは男性指向だ。』

(黄金の華の秘密/OSHO/メルクマールP38-39から引用)

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OSHOバグワンのヨーガ・スートラ解説4-34(最終節)

2025-01-26 03:24:15 | 覚醒のアーキテクチャー

◎カイヴァリヤ:何かを言う可能性はここで終わる。これを超えるのは経験だけ

 

ヨーガ・スートラ4-34の本文(ゴシック体)とOSHOバグワンの解説。

(OSHOバグワンのYoga: The Alpha and the Omega, Vol 10 P143-)

 

ポイントは、以下。

1.カイヴァリヤは、三つのグナが再出現した後に続く悟りの状態。世界が止まり、刹那と刹那の間を見る。

※三つのグナの再出現とは、第六身体アートマンか。

2.幻想的な世界が夢のように消える時、それがカイヴァリヤ。その時、人は身元も名前も形もない純粋な意識となる。これは、独存であって、基本的で、最も本質的で、最も存在的で、純粋で、孤独。

※これは、有の側の現象が終わって、無に入ったことをカイヴァリヤと言うのだと思う。

3.人はカイヴァリヤになることができるが、カイヴァリヤを言うことはできない。経験することはできるが、言葉で説明できない。パタンジャリのカイヴァリヤとは、老子の道(タオ)であり、マハーヴィーラのモクシャであり、ブッダのニルヴァーナであり、今ここであり、体験とは言えない体験である。

4.苦しみはあなたの敵ではなく、単なる症状。すべてを正し、自己を正し、調和を取り戻し、自己を調整して、すべての苦しみが消えるとき、人は自分の性質と調和している。

 

※ヨーガ・スートラでは、カイヴァリヤから人間として再生しない。これは禅、水平の道、生の側から極める道とは異なる。インドでは、窮極の悟りをしたらそれで転生は終わり。

 

『(仮訳)

カイヴァリヤとは、グナがプルシャの対象(プルシャが認識するもの)を失うことによって再出現することに続く悟りの状態です。この状態では、プルシャは純粋な意識という本来の性質に確立されます。】終わり。

 

カイヴァリヤは、三つのグナが再出現した後に続く悟りの状態です...世界が止まり、プロセス、世界のクラマハが止まり、二つの時間の瞬間と二つの物質の原子の間を見ることができるようになり、空間に移動できるようになり、すべてが空間から生じ、再び空間に戻っていくのを見ることができるようになったとき、突然幻想的な世界が夢のように消えるとき、それがカイヴァリヤです。そのとき、あなたは純粋な意識として残ります - 身元も名前も形もありません。そのとき、あなたは最も純粋な存在となります。そのとき、あなたは最も基本的で、最も本質的で、最も存在的であり、この純粋さ、孤独に確立されます。

 

パタンジャリは言います、「カイヴァリヤは、グナがプルシャの対象を失うことによって再出現することに続く悟りの状態です。この状態では、プルシャは本来の性質に確立されます。」あなたは家に帰ってきました。旅は長く、苦しく、困難でしたが、あなたは家に帰ってきました。魚が純粋な意識という海に飛び込んだのです。パタンジャリはそれ以上何も言いません。なぜなら、それ以上言うことはできないからです。

そしてパタンジャリが「終わり」と言うとき、彼は単にヨーガ・スートラがここで終わると言っているのではありません。彼は「表現の可能性はここで終わる。究極の現実について何かを言う可能性はここで終わる。これを超えるのは経験だけです。表現はここで終わる」と言っています。そして誰もそれを超えることはできませんでした - 誰も。人類の意識の歴史全体において、例外は一つも存在しません。人々は試みました。非常に少数の人々がパタンジャリが到達した場所に到達しましたが、誰もパタンジャリを超えることはできませんでした。

 

だから私は彼がアルファでありオメガであると言います。彼は非常に初めから始めます。誰も彼より良い始まりを見つけることができませんでした。彼はごく初めから始め、ごく終わりに到達しています。彼が「終わり」と言うとき、彼は単に表現が終わった、定義が終わった、説明が終わったと言っています。もしあなたが本当に彼と一緒にここまで来たなら、これを超えるのは経験だけです。

 

今、存在的なものが始まります。人はそれになることができますが、それを言うことはできません。人はそれの中で生きることができますが、それを定義することはできません。言葉は役に立ちません。この点を超えるとすべての言語は無力です。単にこれだけを言います:人は自分の本当の性質を達成する - パタンジャリは止まります。それが目標です:自分の性質を知り、それの中で生きること - なぜなら、私たちが自分の性質に到達しない限り、私たちは苦しみの中にいるからです。

 

すべての苦しみは、私たちが何らかの形で不自然に生きていることを示しています。すべての苦しみは、何らかの形で私たちの性質が満たされていないことを示しています。何らかの形で私たちが現実と調和していないことを示しています。苦しみはあなたの敵ではありません。それは単なる症状です。それは示しています。それは温度計のようなものです。それは単にあなたがどこかで間違っていることを示しています。

すべてを正し、自己を正し、調和を取り戻し、戻り、自己を調整します。すべての苦しみが消えるとき、人は自分の性質と調和しています。その性質を老子は道と呼び、パタンジャリはカイヴァリヤと呼び、マハヴィラはモクシャと呼び、ブッダはニルヴァーナと呼びます。しかし、何と呼びたいかに関わらず - それには名前も形もありません - それはあなたの中にあり、今この瞬間に存在しています。

 

あなたは自分自身から出てきたために海を失いました。あなたは外の世界にあまりにも多く移動しました。内向きに移動します。今、これをあなたの巡礼にしましょう:内向きに移動します。

 

あるスーフィーの神秘家、バヤジッドがメッカへの巡礼に行く途中で起こったことです。それは困難でした。彼は貧しく、何年も物乞いをして旅費をなんとか工面しました。今、彼は非常に幸せでした。彼はほぼ必要な金額を持ってメッカに行き、そして彼は旅をしました。彼がメッカの近くに到達したとき、町の外で彼はファキール、彼の師に会いました。彼は木の下に座っていて、「おお、愚か者よ、どこへ行くのか?」と言いました。

バヤジッドは彼を見ました。彼はこんなに輝かしい存在を見たことがありませんでした。彼は彼に近づき、その男は「持っているものをすべて私にくれ!どこへ行くのか?」と言いました。彼は「私は巡礼のためにメッカに行く」と言いました。彼は「終わりだ。もう必要ない。私を崇拝しなさい。好きなだけ私の周りを回ることができる。あなたのパリクラマ、あなたの周回を私の周りで行うことができる。私はメッカだ」と言いました。そしてバヤジッドはこの人の磁力に満たされ、彼はすべてのお金を渡し、崇拝しました。そして老人は「今、家に帰りなさい」と言い、彼は家に帰りました。

 

彼が町に戻ったとき、人々は集まり、「何かがあなたに起こったようだ。メッカに行くことは本当に効果があるのか?あなたは輝いて見える、光に満ちている」と言いました。彼は「このナンセンスをやめなさい!一人の老人が私に会い - 彼は私の巡礼全体を変えました。彼は『家に帰れ』と言い、それ以来、私は家に帰り続けています、内向きに。私は到着しました。私は到着しました。私は私のメッカに到達しました」と言いました。

 

外のメッカは本当のメッカではありません。本当のメッカはあなたの内側にあります。あなたは神の神殿です。あなたは究極の住処です。だから、真実を見つける場所の問題ではなく、あなたがそれを失った方法の問題です。どこへ行くかの問題ではありません。あなたはすでにそこにいます - 行くのをやめなさい。

 

すべての道を捨てなさい。すべての道は欲望の道であり、欲望の延長であり、欲望の投影です:どこかへ行く、どこかへ行く、常に他の場所へ、ここではない。

 

求道者よ、すべての道を捨てなさい。なぜなら、すべての道はそこに通じており、彼はここにいるからです。

 

プルシャールタ(目的)がないグナ(性質)の逆行は、カイヴァリヤ(解脱)であり、それはチティ・シャクティ(意識の力)の本質において確立される。】」

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OSHOバグワンのヨーガ・スートラ解説4-33

2025-01-25 03:05:12 | 覚醒のアーキテクチャー

◎すべては無から出てきて、遊び回り、再び無に消える

 

ヨーガ・スートラ4-33の本文(ゴシック体)とOSHOバグワンの解説。

(OSHOバグワンのYoga: The Alpha and the Omega, Vol 10 P141-)

 

ポイントは、以下。

1.すべては無から出てきて、遊び回り、再び無に消える。

2.ヨーギは、冥想修行の最終段階で、すべてのグナがブラックホールに消え、無に消えていくのを目にする。だからヨーギたちは世界をマーヤ、魔法のショーと呼ぶ。世界全体が夢を見ており、世界全体が映像を投影している。

3.原子・物質は実体でなく、何もない空間が神である。

4.多数の静止画像が早く動くと、ものが動いているかのように思えるが、個々の静止画像と静止画像の間には空白がある。その空白の方が真理であり、神である。

5.すべてのグナが止まり、何も動いていないのを見たとき、突然、全体の物語が幻想的な動き、速い動きによって作り出されたことに気づく。

 

隙間理論について

以下の物理学での説明は、第一身体の肉体・物質レベルの例話に過ぎず、世界全体の現象を語るには、それに加え、第二身体エーテル体から第六身体アートマンまで全層において、個々の静止画像と静止画像の間には空白があると見なければならないと思う。それにより現象は、瞬間と瞬間の間に『隙間』『現象』『隙間』『現象』『隙間』『現象』と流れていると見る。

人間は、どういう状態になれば、それを目撃できるかと言えば、「三種のグナの変容の最終的な終わり」つまり今ここにいる場合であると思う。

「三種のグナの変容の最終的な終わり」とは、グナが無に消滅していく時であって、それは第七身体ニルヴァーナ(カイヴァリヤ)に到達した時。つまり、最終解脱しなければ、現象は、瞬間と瞬間の間に『隙間』『現象』『隙間』『現象』『隙間』『現象』と流れていることを確認できないのである。

 

『(仮訳)

【(サンスクリット語の)クラマハ、すなわちプロセスとは、瞬間から瞬間へと起こる変化の連続であり、それは三つのグナの変容の最終的な終わりにおいて理解可能となるものです。

 

この小さなスートラの中で、パタンジャリは現代物理学が発見したすべてのことを述べています。ほんの30年か40年前には、このスートラを理解することは不可能だったでしょう。なぜなら、この小さなスートラの中に量子物理学全体が種の形で存在しているからです。そしてこれは良いことです。なぜなら、これは最後から2番目のスートラだからです。したがって、パタンジャリはこの最後から2番目のスートラで物理学の全世界を要約しています。その後、形而上学が続きます。これが本質的な物理学です。この世紀に物理学に訪れた最大の洞察は量子論です。

 

マックス・プランクは非常に信じがたいことを発見しました。彼は、生命は連続性ではないことを発見しました。すべては不連続です。ある瞬間の時間は別の瞬間の時間とは別であり、その二つの瞬間の間には空間があります。それらはつながっていません。別々です。ある原子は別の原子とは別であり、その二つの原子の間には大きな空間があります。それらはつながっていません。これが彼が「量子」と呼ぶものです:互いに橋渡しされていない、無限の空間に浮かぶ、別々の、独立した原子です。ちょうど一つのカートンから別のカートンにエンドウ豆を注ぐと、エンドウ豆がすべて別々に、独立して落ちるように、または一つの容器から別の容器に油を注ぐと、油が連続して落ちるように。

 

存在はエンドウ豆のように別々です。なぜパタンジャリはこれを言及するのでしょうか?それは彼が「一つの原子、もう一つの原子:これらは世界を構成する二つのものです。その二つの間には空間があります。それが全体を構成するもの、神です。空間と呼ぶか、ブラフマンと呼ぶか、プルシャと呼ぶか、何とでも呼んでください。世界は独立した原子で構成されており、全体はその二つの間の無限の空間で構成されています」と言っているからです。

 

今、物理学者たちは、もし私たちが全世界を押しつぶして空間を取り除けば、すべての星とすべての太陽はただ小さな球に押し込められると言います。それだけの物質が存在します。それは本当に空間です。物質は非常にまれで、ここやそこにあります。もし私たちが地球を非常に強く押しつぶせば、それをマッチ箱に入れることができます。すべての空間を取り除けば、信じられないことです!そしてさらに、もし私たちがそれをさらに押しつぶし続ければ、パタンジャリは「その少量さえも消えるでしょう」と言います。今、物理学者たちは、物質が消えるとブラックホールを残すと言います。

 

すべては無から出てきて、遊び回り、再び無に消えます。物質的な体があるように:地球、太陽、星々、それらに似た空洞、ブラックホールがあります。これらのブラックホールは凝縮された無です。それは単なる無ではありません。それは非常に動的です。無の渦です。もし星がブラックホールの近くに来ると、ブラックホールはそれを吸い込みます。したがって、それは非常に動的ですが、それは無です。物質はありません。単なる空間ですが、非常に強力です。どんな星でも吸い込むことができ、星は無に消えます。それは無に還元されます。したがって、最終的に、もし私たちが試みれば、すべての物質は消えます。それは巨大な無から出てきて、再び巨大な無に落ちます:無から出て、無に戻ります。

 

ヨギは最終段階でこれを目にします。すべてのグナがブラックホールに消え、無に消えていくときです。だからヨギたちは世界をマーヤ、魔法のショーと呼びました。マジシャンが数秒でマンゴーの木を作り出し、それが成長し続けるのを見たことがありますか?そして数秒でマンゴーが現れるのです...無からです。それはただの幻想です。彼は幻想を作り出します。おそらく彼はあなたの無意識に深いメッセージを送ります。それは深い催眠のようなものです。彼はアイデアを作り出しますが、そのアイデアを非常に深く視覚化し、それをあなたの無意識に非常に深く印象づけるので、あなたも彼が見せたいようにそれを見始めます。何も起こっていません。木はそこにありません、マンゴーもありません。そして、ただの大きな想像力からマンゴーの木を作り出し、マンゴーが現れることが可能です。それだけでなく、彼は一つのマンゴーを摘んであなたに渡すことができ、あなたは「とても甘い」と言うでしょう。

 

ヒンドゥー教徒は世界をマーヤ、魔法のショーと呼びます。それは神の想像です。全体が夢を見ており、全体が投影しています。

 

映画を見に行くと、大きなスクリーンで素晴らしい物語が演じられているのを見ます。そしてすべてが連続しているように見えますが、そうではありません。フィルムが少し遅く動くと、すべてが不連続であることがわかります - 量子です。一つの画像が消え、別の画像が現れ、また別の画像が消え、また別の画像が現れますが、二つの画像の間にはギャップがあります。そのギャップで本当のスクリーンを見ることができます。画像が非常に速く動くと、動きの幻想を作り出します。もちろん、映画フィルムは動いているフィルムではありません。それは他のどの静止写真と同じように静的な写真です。動きは幻想です。これらの静的な写真が非常に速く連続して動いているため、その間のギャップが非常に小さく、ギャップを見ることができません。だからすべてが連続しているように見えます。

 

私が手を動かすとき:この手が映画で動いているのを見せるためには、各静止状態の何千もの写真が必要です - この点からこの点まで、この点からこの点まで、この点からこの点まで。手の一つの単純な動きは、何千もの小さな静止動きに分割されます。そしてすべての写真が速く動くと、手が動いているように見えます。それは幻想です。深く見ると、二つの写真の間には白いスクリーンがあり、空です。

 

パタンジャリは「世界はシネマトグラフ、投影に過ぎない」と言います。しかし、この理解は、理解の最後のポイントに達したときにのみ生じます。すべてのグナが止まり、何も動いていないのを見たとき、突然、全体の物語が幻想的な動き、速い動きによって作り出されたことに気づきます。これが現代物理学で起こっていることです。

 

最初に彼らが原子に到達したとき、「これが究極だ。これ以上分割できない」と言いました。しかし、彼らは原子も分割しました。次に電子に到達しました。「これ以上分割できない」と言いました。今、彼らはそれも分割しました。今、彼らは無に到達しました。今、彼らは何が来たのかわかりません。分割、分割、分割、そして現代物理学では物質が完全に消えた点に到達しました。現代物理学は物質を通じて到達しましたが、パタンジャリとヨギたちは意識を通じて同じ点に到達しました。この最後から2番目のスートラまで、物理学は到達しました。この最後から2番目のスートラまで、科学者たちはアプローチ、理解、浸透を持つことができます。最後のスートラは科学者には不可能です。なぜなら、その最後のスートラは物質を通じてではなく、意識を通じてのみ達成できるからです。物体を通じてではなく、直接主観性を通じてです。』

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OSHOバグワンのヨーガ・スートラ解説4-32-2

2025-01-24 03:30:46 | 覚醒のアーキテクチャー

◎ヨーガは、私たちが切り離されてしまった無限の生命に到達するための努力である

 

ヨーガ・スートラ4-32の本文(ゴシック体)とOSHOバグワンの解説。

(OSHOバグワンのYoga: The Alpha and the Omega, Vol 10 P140-)

 

ポイントは、以下。

1.誰かが悟りを開くと、その人にとって世界は終わりとなる。他の人にとっては世界は続く。

2.ヨーガは、私たちが切り離されてしまった現実(無限の生命)に到達するための努力である。

 

『(仮訳)

目的を果たした後、三つのグナの変化のプロセスは終わりを迎えます。

 

三つのグナ、サットヴァ、ラジャス、タマスの世界は終わりを迎えます。誰かが悟りを開くと、その人にとって世界は終わりを迎えます。もちろん、他の人々は夢を見続けます。もし、熱い砂の上で、焼ける太陽の下で苦しんでいる魚がたくさんいて、一匹の魚が何度も何度も試みて海に飛び込み、再び家に帰ると、その魚にとっては、焼ける太陽と熱い砂とすべての苦しみが消え去ります。それはすでに過去の悪夢です。しかし、他の人々にとっては、それは存在します。

 

ブッダやパタンジャリのような魚が海に飛び込むと、彼らにとって世界は消え去ります。彼らは再び海の冷たい子宮に戻ります。彼らは再び無限の生命に結びつき、つながります。彼らはもはや切り離されていません。彼らはもはや疎外されていません。彼らは気づきを得ました。彼らは新しい理解を持って帰ってきました:警戒し、悟りを開いた - しかし、他の人々にとっては世界は続きます。

 

パタンジャリのこれらのスートラは、家に帰った魚が、まだ岸で苦しんでいる人々に何かを伝えようとしているメッセージに過ぎません。彼らは海のすぐ近く、境界線上にいるかもしれませんが、どうやってそれに入るかを知りません。彼らは十分な努力をしていないか、間違った方向に努力しているか、単に苦しみに迷い込み、それが人生だと受け入れているか、非常に挫折し、落胆しているため、何の努力もしていないかのいずれかです。ヨガは、私たちが切り離されてしまった現実に到達するための努力です。再びつながることがヨギであることです。ヨガとは、再接続、再結合、再融合を意味します。』

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OSHOバグワンのヨーガ・スートラ解説4-32-1

2025-01-23 03:17:31 | 覚醒のアーキテクチャー

◎私たちは神を知るため、神の海から投げ出される必要があった

 

ヨーガ・スートラ4-32の本文(ゴシック体)とOSHOバグワンの解説。

(OSHOバグワンのYoga: The Alpha and the Omega, Vol 10 P139-)

 

ポイントは、以下。

1.悟りを開いた人にとっては、世界全体が止まり、世界は状況として存在する。それは神を忘れ、再び思い出すための状況。なぜそうなるかといえば、私たちは神を知るためには、神の海から投げ出される必要があったから。

2.悟りを開いたとき、彼は世界から卒業した。

3.人は苦しみを通して神を知るが、神を知った後の世界は以前とは違っている。もうすでに世界は何であるかを知っているから。

 

『(仮訳)

目的を果たした後、三つのグナの変化のプロセスは終わりを迎えます。

 

悟りを開いた人にとって、世界全体が止まります。なぜなら、もはや世界が続く必要がないからです。究極が達成されたのです。世界は状況として存在します。世界はあなたの成長のために存在します。学校は学ぶために存在します。あなたがその教訓を学んだとき、学校はもはやあなたのためのものではありません。あなたは卒業しました。

 

誰かが悟りを開いたとき、彼は世界から卒業しました。今、学校は彼にとってもはや何の役割も果たしません。今、彼は学校を忘れることができ、学校も彼を忘れることができます。彼は超越し、成長しました。その状況はもはや必要ありません。

 

世界は状況です:それはあなたが迷い、家に帰るための状況です。それは迷子になり、そして戻るための状況です。それは神を忘れ、再び思い出すための状況です。 しかし、なぜこの状況があるのでしょうか?

 

- それは微妙な法則があるからです:もしあなたが神を忘れることができなければ、神を思い出すことはできません。彼を忘れる可能性がなければ、どうやって思い出すのでしょうか、なぜ思い出すのでしょうか?常に利用可能なものは簡単に忘れられます。海の中の魚は海を知りません。彼はそれに住み、それに生まれ、それに死にますが、海を知ることはありません。魚が海を知る唯一の状況は、海から取り出されたときです。そのとき突然、これが海であり、彼の命であったことに気づきます。魚が岸に投げ出され、砂の上に投げ出されたとき、彼女は海が何であるかを知ります。

 

私たちは神の海から投げ出される必要がありました。彼を知る他の方法はありませんでした。世界は気づきを得るための素晴らしい状況です。苦しみがありますが、それはすべて意味があります。世界には無意味なものはありません。苦しみには意味があります。苦しみは、岸で砂の上で苦しんでいる魚のようなものであり、海に戻るためにあらゆる努力をしています。今、もし魚が海に戻れば、彼女は知るでしょう。何も変わっていません - 海は同じであり、魚も同じです - しかし、彼らの関係は非常に変わりました。

 

今、彼女は「これが海だ」と知るでしょう。今、彼女は海にどれだけ感謝しているかを知るでしょう。苦しみは新しい理解を生み出しました。以前も彼女は同じ海にいましたが、今や同じ海はもはや同じではありません。新しい理解、新しい気づき、新しい認識が存在するからです。

 

人間は神から投げ出される必要があります。世界に投げ出されることは、神から投げ出されることに他なりません。そして、それは全体の慈悲から、あなたが投げ出されるのです。そうすることで、あなたは戻る道を見つけようとします。努力によって、困難な努力によって、あなたは到達することができ、そして理解するでしょう。あなたは努力によってそれを支払わなければなりません。さもなければ、神はあまりにも安価になってしまいます。

 

そして、物があまりにも安価であるとき、それを楽しむことはできません。さもなければ、神はあまりにも明白になってしまいます。物があまりにも明白であるとき、あなたはそれを忘れがちです。さもなければ、神はあなたにあまりにも近くなり、彼を知るための空間がなくなります。それが本当の苦しみです。彼を知らないことです。

 

世界の苦しみは苦しみではありません。それは変装した祝福です。なぜなら、この苦しみを通してのみ、あなたは認識の素晴らしい喜び、顔を合わせて見ることの素晴らしい喜び...神聖な真実を知ることができるからです。』

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