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アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

隙間と悟り-1

2025-03-02 06:54:02 | 覚醒のアーキテクチャー

◎心のおしゃべりが終わるのが悟り

 

意識の隙間、想念の隙間はニルヴァーナ、究極であって、それに気づくことは悟りである。

 

只管打坐では、雑念が浮かんでも相手にしないということをずっと行っていき、最後は雑念がなくなる。やがて身心脱落となる。

雑念が、意識であり想念であり、それがなくなれば、大悟覚醒。

 

意識には、同時に二つのことを感得できない、あるいは同時に矛盾するものを知ることができないという性質があり、そのことを指摘したのが、葉隠の山本常朝の『浮き世から何里あらうか山桜』。

あなたは、いつもいつもダマされている。

 

以下のOSHOバグワンの“Ancient Music in the Pines”は、禅の講話だが、意識の隙間、想念の隙間がニルヴァーナであることを心理の性質から丁寧に説明してくれている。

そのP81以降から仮訳。

 

『(仮訳)

この美しい禅の物語に入る前に、心についていくつか理解しておく必要があります。なぜなら、心のメカニズムを理解すればするほど、あなたが干渉しない可能性が高まるからです。心がどのように機能するかを理解すればするほど、座禅を組むことができる可能性が高まります。ただ座り、座り、何もしないことができるようになる可能性が高まります。瞑想が起こるのを許すことができるようになる可能性が高まります。それは出来事なのです。

 

しかし、心の理解は役立つでしょう。そうでなければ、あなたは心を機能させ続ける何かをやり続け、心に協力し続けることになるかもしれません。

 

心についての最初のことは、それが絶え間ないおしゃべりであるということです。あなたが話しているかどうかにかかわらず、それは何か内なる会話を続けています。あなたが起きているか眠っているかにかかわらず、内なる会話は底流として続きます。あなたが何か仕事をしているかもしれませんが、内なる会話は続きます。あなたが運転しているか、庭に穴を掘っているかもしれませんが、内なる会話は続きます。

 

心は絶えず話しています。もし内なる会話がほんの一瞬でも止まることができれば、あなたは無心の状態を垣間見ることができるでしょう。それが瞑想のすべてです。無心の状態が正しい状態です。それはあなたの状態です。

 

しかし、どうすれば心が内なるおしゃべりを止める間隔(gap)に到達できるのでしょうか?あなたが試みると、再び失敗するでしょう。しかし、試みる必要はありません。実際、間隔は絶えず起こっています。ほんの少しの注意が必要なだけです。二つの思考の間には間隔があります。二つの言葉の間でさえ、隙間があります。そうでなければ、言葉は互いに流れ込んでしまうでしょう。そうでなければ、思考は互いに重なり合ってしまうでしょう。それらは重なり合いません。

 

あなたが何を言おうと... あなたは「バラはバラであり、バラである」と言う。(「a」と「rose」の)二つの言葉の間には隙間があります。「a」と「rose」の間には、どんなに小さく、どんなに目に見えず、どんなに知覚できなくても、隙間があります。しかし、隙間は確かに存在します。そうでなければ、「a」は「rose」に流れ込んでしまうでしょう。ほんの少しの注意、ほんの少しの用心深さで、その隙間を見ることができます。a-バラ-は-バラ-は-バラ(原文you can see the gap: a-rose-is-a-rose-is-a-rose.)。隙間は絶えず発生しており、各単語の後に隙間が繰り返されます。

 

ゲシュタルトを変える必要があります。普通、あなたは言葉を見ますが、隙間は見ません。「a」を見て、「バラ」を見ますが、二つの間の隙間は見ません。注意を変えてください。子供向けの本を見たことがありますか?二通りの見方ができる絵がたくさんあります。ある見方をすると老婆がいますが、見続けていると、突然絵が変わり、若い美しい女性が見えることがあります。同じ線が、老婆と若い女性の両方の顔を作っています。若い顔を見続けていると、また変化します。心はどんなものにも一定にとどまることができないからです。それは流動的なものです。そして、再び老婆の顔を見続けると、若い顔に戻ります。

 

気づくことが一つあります。老婆の顔が見えているとき、若い顔は見えません。どこかに隠されていると知っていてもです。あなたはそれを知っていて、見たことがあるのですから。そして若い顔が見えているとき、老婆の顔は見えません。そこにあると知っていても消えてしまうのです。

 

両方を同時に見ることはできません。それらは矛盾しているからです。一緒に見ることはできません。図形を見ているとき、背景は消えます。背景を見ているとき、図形は消えます。心には知るための限られた能力しかありません。矛盾するものを知ることができないのです。だから神を知ることができないのです。神は矛盾しているからです。だからあなたの存在の最も内側の核心を知ることができないのです。それは矛盾しているからです。それはすべての矛盾を理解し、逆説的です。

 

心は一度に一つのことしか見ることができません。そして同時にその反対を見ることは不可能です。反対を見ているとき、最初のものは消えます。心は言葉を見続け、各単語の後に来る沈黙を見ることができません。焦点を変えてください。ただ静かに座り、隙間を見始めるのです。努力する必要はありません、無理する必要はありません。リラックスして、ただ楽に、遊び心を持って、ただ楽しむように。それについて宗教的になる必要はありません。さもなければあなたは真剣になり、一度真剣になると、言葉から無言へと移行するのは非常に困難です。あなたが緩く、流れやすく、真剣でなく、遊び心があれば、まるでそれがただの楽しみであるかのように、とても簡単です。

 

何百万人もの人々が瞑想を見逃しているのは、瞑想が間違った意味合いを帯びてしまったからです。瞑想は非常に深刻に見え、陰鬱に見え、教会のようなものを感じさせ、まるで死んだ人、あるいは死にかけている人、陰鬱で深刻で、顔が長く、お祝いや楽しみ、遊び心、祝祭を失った人だけのためのものであるかのように見えます。しかし、これらは瞑想の質ではありません。真に瞑想的な人は遊び心に満ちています。彼にとって人生は楽しく、人生はリーラ、つまり遊びです。彼はそれを非常に楽しんでいます。彼は深刻ではありません。彼はリラックスしています。

 

静かに座り、リラックスして、ゆったりと、ただあなたの注意が隙間に向かって流れるのを許してください。言葉の端から間隔へと滑り込んでください。間隔がより顕著になるようにし、言葉が薄れていくのを許してください。それはまるであなたが黒板を見ていて、私がそこに小さな白い点を置いたかのようです。あなたは点を見ることも、黒板を見ることもできます。点を見れば黒板が遠くへ行き、黒板を見れば点が二次的なもの、影のような現象になります。あなたは図と背景の間で注意を切り替えることができます。

 

言葉は図であり、沈黙は背景です。言葉は来ては去り、沈黙は残ります。あなたが生まれたとき、あなたは沈黙として生まれました。ただ間隔と間隔、隙間と隙間だけでした。あなたは無限の空虚とともにやって来て、人生に無限の空虚を持ってきました。その後、あなたは言葉を集め始めたのです。』

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OSHOバグワンのクンダリーニの基礎について

2025-03-01 03:24:48 | 覚醒のアーキテクチャー

◎クンダリーニ・ヨーガはやりたいと思った人すべてができるものではない

 

『OSHOバグワンのクンダリーニの基礎』は、結構な分量で、人はとかく自分の読みたいように信じ込みたいように読むものだが、OSHOバグワンは、万人にクンダリーニ・ヨーガを勧めてはいないくせに、悟りを得た人の90%はクンダリーニを通っているなどと言っている。

また、クンダリーニ・ヨーガはやりたいと思った人すべてができるものではない。

そもそもいきなり肉体上でクンダリーニが上昇してはチャクラが開くというような巷説は誤りだとしている。

またクンダリーニは、エーテル体にあるといいつつ、『クンダリーニは、死よりも深く、誕生よりも深く、血よりも深い』と言っている主旨は、最終的に中心太陽に突入することを知っているからなのだろう。OSHOバグワンもクンダリーニについては、ほとんど語ることを許されていないのだろう。

 

ただ、グル(正師)の存在が必須なことと、一つの冥想道に専一に修行すべきところは、非常に強調されている。

 

以下、ポイントを抜粋してみた。

  1. クンダリーニは存在し、チャクラも存在するが、いかなる知識も何の役にも立たず、妨げになる可能性が高い。
  2. クンダリーニについての知識は一般論であり、個々人の内なる道は人によって異なり(ユニーク)、まず自分にはあてはまらない。クンダリーニの根、クンダリーニが通過する道も、個人によって異なる。
  3. チャクラは存在するが、その数は個人によって異なる。
  4. クンダリーニは、死よりも深く、誕生よりも深く、血よりも深い。なぜなら、クンダリーニはあなたの第二の体の循環だから。血は生理的な体の循環であり、クンダリーニはエーテル体の循環。それは完全に非自発的であり、ハタヨーギでさえ、それを自発的にどうすることもできない。
  5. よって、まずクンダリーニを動かそうとか、チャクラを刺激しようと考えず、まず瞑想すること。
  6. 深く瞑想に入れば、内なるエネルギーが上方に動き始める。生物学的には、頭よりも足が暖かい方が良いが、霊的には、足が冷たい方がエネルギーが上向きに流れている兆候なので、霊的にはよい。(内なるエネルギーは、悟りに向かっては上方に動き、肉体の健康に向かっては下方に動く。)
  7. だから悟りに向かって、エネルギーが上向きに流れ始めると、多くの病気が起こり始めるかもしれない。
  8. 心の緊急事態を作り出すために断食やスーフィの踊りなどの瞑想があるが、クンダリーニではなく、瞑想に関心を向ける方がジャンプ(悟り)には近い。
  1. 気づいているとき、完全に未知のエネルギーがあなたの中で流れ始める。その時、本や経典の知識は役に立たず、生きたグル(正師)だけが役に立つ。グルなしに真の知識なし。
  2. グルとは、自分の個性を失った人のこと。自分の個性を失って初めて、グルはあなたの個性を深く見つめることができる。だからグルだけが、常に秘密裏に、個人的に、その弟子にぴったり適合する情報を、伝授できる。
  3. 弟子は、自分自身の個性が失われる地点に達する(大悟覚醒)まで、それを他の誰にも与えてはならない。
  4. ブラフマランドラ(サハスラーラ)の開花は、生命力がクンダリーニを通る場合にのみ、可能性、潜在性として存在する。悟りを得た人の90%はクンダリーニを通っている。
  5. クンダリーニは、七つのチャクラをつなぐ全体の通路。
  6. 人は冥想修行で、一つの道、一つの方法専一で行くべきだ。二つの道、二つの方法に関わるべきではない。

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OSHOバグワンのクンダリーニの基礎-9(完)

2025-02-27 03:36:03 | 覚醒のアーキテクチャー

◎七つの体すべてが第七チャクラとつながっている

OSHOバグワンのMeditation: The Art of Ecstasy
から第六章クンダリーニ-生命の目覚めの仮訳の続き。

ポイントは以下。
1. 肉体の感覚を通して取り入れられた呼吸等すべてのものは、生命の形に変換され、エーテル体の食物となる。そしてエーテル体はこれをさらに微妙な形に変換し、これがアストラル体の食物となる。
2. 肉体はエーテル体のために働き、エーテル体はアストラル体のために働き、アストラル体はメンタル体のために働く。
3. 七つの体すべてが第七チャクラとつながっているので、どこからでも第七チャクラに到達することができる。
4. 人は冥想修行で、一つの道、一つの方法専一で行くべきだ。二つの道、二つの方法に関わるべきではない。

『(仮訳)
私の動的瞑想の方法は、クンダリーニに関わっています。たとえあなたがただ呼吸を見つめているだけでも、それはクンダリーニにとって有益でしょう。なぜなら、呼吸はプラーナ(生命エネルギー)を伴い、エーテル体、つまり第二の体に関わっているからです。それもまた、あなたの肉体に関わっていません。それはあなたの肉体から取られており、あなたの肉体から引き出されていますが、あなたの肉体は単なる扉に過ぎないのです。

プラーナはエーテル体に関わっています。肺は呼吸をしていますが、それはエーテル体のために行っています。あなたの肉体、第一の体は、エーテル体、第二の体のために働いています。同じように、エーテル体はアストラル体、第三の体のために働き、アストラル体はメンタル体、第四の体のために働きます。
あなたの肉体は、第二の体への扉です。第二の体は非常に繊細なので、物質世界に直接関わることができません。そのため、まずあなたの肉体がすべての物質を生命の形に変換し、これらが第二の体の食物となることができます。
感覚を通して取り入れられたすべてのものは、生命の形に変換されます。これが第二の体の食物となります。そして第二の体はこれをさらに微妙な形に変換し、これが第三の体の食物となります。
これは次のようなものです。あなたは泥を食べることができませんが、野菜の中では泥の要素が変換されています。それで、それを食べることができます。植物界は泥を生きた微妙な形に変換します。これであなたはそれを取り入れることができます。あなたは草を食べることができません。牛があなたのためにそれを行います。それは牛の中に入り、牛はそれを牛乳に変えます。それであなたはそれを取り入れることができます、あなたは牛乳を飲むことができます。

ちょうどこのように、あなたの第一の体は物質を取り入れ、それを生命の形に変換します。そして第二の体がそれを受け取ります。呼吸はあなたの肺によって行われています。肺は機械であり、第二の体のために働いています。

(P54)
もし第二の体が死ぬと、肺は正常なままであっても、呼吸は止まります。息はなくなってしまうのです。第二の体は第一の体の主人であり、第三の体は第二の体の主人です。下位の体はすべて上位の体の僕(しもべ)です。
ですから、呼吸への気づきはクンダリーニの実践において有益です。それはエネルギーを生み出し、エネルギーを節約し、生命力が上昇するのを助けます。

私の方法全体はクンダリーニに関わっています。一度方法を理解すれば、すべてをそれによって行うことができます。もう何も必要ありません。
最後のチャクラであるサハスラーラは、どんな方法でも到達することができます。サハスラーラとブラフマランダラは、クンダリーニヨーガで第七チャクラに与えられた名前です。もしあなたがクンダリーニに取り組まず、第三の体に取り組むなら、あなたもこの点に到達するでしょうが、それはブラフマランダラとは呼ばれず、最初の六つのチャクラは存在しないでしょう。あなたは別の道をたどってきたので、道しるべは異なるものになりますが、終わりは同じです。七つの体すべてが第七チャクラとつながっているので、どこからでも到達することができます。

人は二つの道、二つの方法に関わるべきではありません。さもなければ、混乱が生じ、内なるエネルギーが二つの経路に diversion(分岐) されます。どんな方法であれ、すべてのエネルギーを一つの次元に向ける必要があります。私の動的瞑想の方法はまさにそれを行っており、だからこそ、それは10分間の深く速い呼吸から始まるのです。

(P55)
(以下の質問は略)』

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OSHOバグワンのクンダリーニの基礎-8

2025-02-26 03:42:09 | 覚醒のアーキテクチャー

◎七つの体すべてが、それ自身の通路を持っている

 

OSHOバグワンのMeditation: The Art of Ecstasy

から第六章クンダリーニ-生命の目覚めの仮訳の続き。

 

ポイントは以下。

  1. キリスト教的、仏教的、禅的、道教的な各方法は、クンダリーニの覚醒には関心がなく、その通路は使われない。彼らは他の通路、エーテル体にさえ属さない通路を使います。
  2. 七つの体すべてが、それ自身の通路を持っている。
  3. クンダリーニとは何の関係もない多くのヨーガがある。ハタ・ヨーガだけがクンダリーニを通路として使う。
  4. 時には、別の方法に取り組んでいるときでも、クンダリーニが現れることがある。なぜなら、七つの体は互いに浸透し合っており、連結しているから。
  5. エネルギーは低い領域に流れる。たとえば、あなたの二番目の体は三番目よりも低いので、三番目で生成されたエネルギーが時々二番目の体に流れることがある。

 

『(仮訳)

キリスト教的な方法、仏教的な方法、禅的な方法、道教的な方法があります。それらはクンダリーニの覚醒には関心がなく、その通路は使われません。彼らは他の通路、エーテル体にさえ属さない通路を使います。アストラル体にある通路を使うことができます。アストラル体、第三の体は、それ自身の通路を持っています。メンタル体、第四の体は、それ自身の通路を持っています。七つの体すべてが、それ自身の通路を持っています。

 

クンダリーニとは何の関係もない多くのヨーガがあります。ハタヨーガだけがクンダリーニを通路として使います。しかし、それは最も科学的で、最も困難が少ないものです。それは、他のヨーガよりも漸進的な覚醒のための、より簡単な段階的な方法です。

 

たとえクンダリーニの通路が使われなくても、クンダリーニの突然の覚醒が起こることがあります。時には、あなたの能力を超えることが起こり、時には、あなたが想像もできないことが起こります。そのとき、あなたは完全に打ち砕かれます。他の通路には、それ自身の準備があります。タントラ的または神秘的な方法は、クンダリーニヨーガではありません。クンダリーニヨーガは、非常に多くの方法の一つにすぎませんが、たった一つのことに集中する方が良いでしょう。

私が使っている動的瞑想の方法は、クンダリーニに関係しています。クンダリーニを使う方が簡単です。なぜなら、それはあなたが関わっている第二の体だからです。あなたが第三の体や第四の体と深く関わるほど、それはますます難しくなります。第二の体はあなたの肉体に最も近いものであり、あなたの肉体には対応する点があるので、より簡単なのです。

 

もしあなたが三番目の体に取り組むなら、対応する点は二番目の体にあります。もしあなたが四番目の体に取り組むなら、対応する点は三番目の体にあります。そうなると、あなたの肉体は関係なくなり、あなたは肉体の中で何も感じることができません。しかし、クンダリーニでは、あなたは各段階を正確に感じることができ、自分がどこにいるのかを知ることができます。そうすると、あなたはより自信を持つことができます。他の方法では、二番目の体や三番目の体にある対応する点を感じるのに役立つテクニックを学ばなければならず、それにはそれなりの時間がかかります。

 

他の方法ではクンダリーニを否定しますが、彼らの否定は正しくありません。彼らはそれに関心がないため、それを否定するのです。クンダリーニには独自の方法論があります。もしあなたが禅の方法に取り組んでいるなら、クンダリーニに関心を持つべきではありません。

 

しかし、時には、別の方法に取り組んでいるときでも、クンダリーニが現れることがあります。なぜなら、七つの体は互いに浸透し合っており、連結しているからです。ですから、もしあなたがアストラル体、つまり三番目の体に取り組んでいるなら、二番目の体が働き始めるかもしれません。それは三番目から火花を散らすことがあるのです。

逆は不可能です。もしあなたが二番目の体に取り組んでいるなら、三番目の体が点火することはありません。なぜなら、二番目は三番目よりも低いからです。しかし、もしあなたが三番目の体に取り組んでいるなら、あなたは二番目の体に何の努力もなしに来ることができるエネルギーを生み出しているのです。エネルギーは低い領域に流れます。あなたの二番目の体は三番目よりも低いので、三番目で生成されたエネルギーが時々二番目の体に流れることがあるのです。

 

(P54)

クンダリーニは他の方法でも感じられるかもしれませんが、クンダリーニに関わらない方法を教える人たちは、あなたがそれに注意を払うことを許しません。もしあなたがそれに注意を払うと、ますます多くのエネルギーがやってきて、クンダリーニに関わっていなかった方法全体が打ち砕かれてしまいます。彼らはクンダリーニについて何も知らないので、それを扱う方法を知らないのです。

他の方法の教師たちは、クンダリーニを完全に否定するでしょう。彼らはそれをナンセンスだと言うでしょう。彼らはそれを想像力だと言うでしょう。彼らはあなたがただ投影しているのだと言うでしょう。「それに関わらないで、注意を払わないで」と。そして、もしあなたがそれに注意を払わずに、第三の体に取り組んでいくと、やがてクンダリーニは止まってしまいます。エネルギーはもはや第二の体に来なくなるでしょう。そうなると、むしろ良いのです。

 

ですから、もしあなたが何らかの方法に関わっているなら、完全にそれに関わってください。他のどんな方法にも関わらないでください。他の方法について考えることさえしないでください。なぜなら、そうすると混乱してしまうからです。そして、クンダリーニの通り道は非常に微妙で未知のものであるため、混乱は有害です。』

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OSHOバグワンのクンダリーニの基礎-7

2025-02-25 03:09:18 | 覚醒のアーキテクチャー

◎クンダリーニは、七つのチャクラをつなぐ全体の通路

 

OSHOバグワンのMeditation: The Art of Ecstasy

から第六章クンダリーニ-生命の目覚めの仮訳の続き。

 

ポイントは以下。

  1. クンダリーニとチャクラは、肉体の中に位置しておらず、エーテル体(霊体)に属しているが、肉体内に対応する点を持っている。
  2. クンダリーニはエーテル体の一部なので、クンダリーニの道で進歩として達成したことは、エーテル体に蓄積される。

※死後のエーテル体の存続時間は短い。

  1. クンダリーニは、七つのチャクラをつなぐ全体の通路。
  2. 生命力がクンダリーニを通過するとき、チャクラは振動し、花開き始める。
  3. ムーラダーラには二つの開口部があり、一つは下向き、もう一つは上向き。

 

『(仮訳)

クンダリーニとチャクラは、肉体の中に位置しているわけではありません。それらはエーテル体(霊体)に属していますが、肉体内に対応する点を持っています。それは、あなたが愛を感じて心臓に手を当てるようなものです。「愛」のようなものはそこには何もないのですが、あなたの心臓、あなたの肉体的な心臓は対応する点なのです。あなたが心臓に手を当てるとき、あなたはエーテル体に属するチャクラに手を当てているのであり、この点はあなたの肉体的な心臓とほぼ並行しています。

 

(P52)

 

クンダリーニはエーテル体の一部なので、クンダリーニの道で進歩として達成したことは、肉体とともに死ぬことはありません。それはあなたと一緒に行きます。達成したことは何であれ、あなたと共に残ります。なぜなら、それはあなたの肉体の一部ではないからです。もしそれがあなたの肉体の一部であったなら、死ぬたびに失われ、あなたは最初からやり直さなければならないでしょう。しかし、もし誰かが第三チャクラに到達したなら、この進歩は彼の次の人生でも彼と共に残ります。それは彼と一緒に行きます。それはエーテル体に蓄えられているのです。

 

私が、生命エネルギーがクンダリーニを通って流れると言うとき、私はクンダリーニを通路――七つのチャクラをつなぐ全体の通路――として意味しています。これらのチャクラは肉体にはありません。ですから、クンダリーニについて言えることはすべて、エーテル体について言われていることなのです。生命力がクンダリーニを通過するとき、チャクラは振動し、花開き始めます。エネルギーがそれらに到達した瞬間、それらは生き生きとします。それはちょうど、水力発電が起こるときと同じです。水の力と圧力でダイナモが回転します。もし圧力も水もなければ、ダイナモは止まり、動かないでしょう。ダイナモは圧力によって回転するのです。同じように、チャクラはそこにありますが、生命力がそれらに浸透する瞬間まで死んでいます。その時初めて、それらは回転し始めるのです。

 

だからこそ、それらはチャクラと呼ばれるのです。「チャクラ」は、正確には「中心」という言葉では翻訳できません。なぜなら、中心は静的なものを意味し、チャクラは動的なものを意味するからです。ですから、正しい翻訳は「車輪」でしょう。あるいは、「動的な中心」、「回転する中心」、「動く中心」です。

 

チャクラは、生命力がそれらに到達するまでは中心です。生命力がそれらに到達した瞬間、それらはチャクラになり始めます。今や、それらは中心ではなく、回転する車輪です。そして、それぞれの車輪は、回転することによって、新しい種類のエネルギーを生み出します。このエネルギーは再び、さらにチャクラを回転させるために使われます。ですから、生命力が各チャクラを通過するにつれて、それはより活力を帯び、より生き生きとしたものになります。

 

クンダリーニは、生命力が移動する通路です。生命力は性センター、ムーラダーラに位置し、そこに蓄えられています。それは性エネルギーとして使われることができ、そのとき、それは特定の生命、生物学的生命を生み出します。その時もまた、それは動きを生み出し、その時もまた、それはより多くのエネルギーを生み出します。しかし、これは生物学的なものです。もしこの同じエネルギーが上向きに移動するなら、クンダリーニの通路が開かれます。

 

性センター、ムーラダーラは最初に開かれる場所です。それは生物学的生成に向かって開かれることも、精神的生成に向かって開かれることもあります。ムーラダーラには二つの開口部があり、一つは下向き、もう一つは上向きです。クンダリーニの通路において、最も高い中心はサハスラーラであり、その中点はブラフマランドラです。ブラフマランドラの開口は、自己実現への一つの道です。

他の道も可能であり、そこではクンダリーニの通路は使われませんが、それらはより困難です。これらの他の方法では、クンダリーニの問題はなく、この通路を通る動きもありません。ヒンドゥー教の方法があります。ラジャヨガ、マントラヨガ、そしてタントラの多くのテクニックすべてです。』

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OSHOバグワンのクンダリーニの基礎-6

2025-02-24 03:44:59 | 覚醒のアーキテクチャー

◎本や経典の知識は役に立たず、生きたグル(正師)だけが役に立つ

 

OSHOバグワンのMeditation: The Art of Ecstasy

から第六章クンダリーニ-生命の目覚めの仮訳の続き。

 

ポイントは以下。

  1. 気づいているとき、完全に未知のエネルギーがあなたの中で流れ始める。
  2. その時、本や経典の知識は役に立たず、生きたグル(正師)だけが役に立つ。グルなしに知識なし。
  3. グルとは、自分の個性を失った人のこと。自分の個性を失って初めて、グルはあなたの個性を深く見つめることができる。だからグルだけが、常に秘密裏に、個人的に、その弟子にぴったり適合する情報を、伝授できる。
  4. 弟子は、自分自身の個性が失われる地点に達するまで、それを他の誰にも与えてはならない。なんとなれば、真実は、誰にとっても致命的とで、危険なものとなり得るから。それは特定の弟子個人だけに与えられたものであり、他の誰のためでもない。
  5. ブラフマランドラ(サハスラーラ)の開花は、生命力がクンダリーニを通る場合にのみ、可能性、潜在性として存在する。悟りを得た人の90%はクンダリーニを通っている。

 

『(仮訳)

そして、あなたが気づいているとき、物事があなたの中で起こり始めるでしょう。初めて、あなたは宇宙よりも大きく、広大で、広範な内なる世界に気づくでしょう。未知のエネルギー、完全に未知のエネルギーがあなたの中で流れ始めるでしょう。聞いたことも、想像したことも、夢見たこともない現象が起こり始めるでしょう。しかし、それらは人によって異なるので、それらについて話さない方が良いでしょう。

 

それらは異なります。だからこそ、グル(導師)に重点を置く古い伝統があるのです。経典では不十分です。グルだけが役立ちます。そして、経典はグルについて語り、グルを称賛していますが、グルたちは常に経典に反対してきました。グルの概念そのものが経典と対立しているのです。有名な諺「グル ビン ギャーナ ナヒー(Guru bin gnana nahee)」――グルなしに知識はなし――は、本当にグルなしに知識がないという意味ではありません。それは、経典だけでは知識がないという意味です。

 

生きたグルが必要なのです。死んだ本ではありません。本は、あなたがどんなタイプの人間かを知ることができません。本は常に一般化されており、特定のものであることはできません。それは不可能です。その可能性すらありません。生きた人間だけが、あなたのニーズや、あなたにこれから起こるであろうことを認識できるのです。

 

これは本当に逆説的です。経典はグルについて語っています――グル ビン ギャーナ ナヒー、グルなしに知識はなし――しかし、グルたちは象徴的に経典に反対しています。グルがあなたに知識を与えるという概念そのものは、彼が知識を提供するという意味ではありません。

 

(P51)

 

むしろ、それは生きた人間だけが何らかの助けになり得るという意味です。なぜでしょうか?なぜなら、彼は個人を知ることができるからです。

どんな本も個人を知ることはできません。本は特定のだれかのためではなく、すべての人のために書かれています。そして、方法が与えられるとき、あなたの個性が非常に、非常に正確に、科学的に考慮されなければなりません。グルが伝えなければならないこの知識は、常に秘密裏に、個人的に、グルから弟子へと伝えられてきました。

 

なぜ秘密なのでしょうか?秘密は知識伝達の唯一の手段です。弟子はそれについて誰にも話さないように命じられます。心は話したがります。何かを知っていると、それを秘密にしておくことは非常に難しいものです。これは最も難しいことの一つですが、常にグルたちのやり方、教師たちのやり方でした。彼らは、それについて話してはならないという条件付きで、あなたに何かを与えるでしょう。なぜ――なぜこの秘密なのでしょうか?

多くの人々は、真実は秘密を必要としない、プライバシーを必要としないと言います。これはナンセンスです。真実は、非真実よりも多くのプライバシーを必要とします。なぜなら、それは誰にとっても致命的となり得るからです。それは危険なものとなり得ます。それは特定の個人に与えられたものであり、彼だけのものであり、他の誰のためでもありません。彼は、自分自身の個性が失われる地点に達するまで、それを他の誰にも与えてはなりません。これを理解する必要があります。

グルとは、自分の個性を失った人のことです。そのとき初めて、彼はあなたの個性を深く見つめることができるのです。もし彼自身が一個の個人であれば、彼はあなたを解釈することができますが、決してあなたを知ることはできないでしょう。

 

例えば、私がここにいて、あなたについて何かを言ったとします。それはあなたについて話している私なのです。それはあなたについてではなく、むしろ私についてです。私はあなたを助けることができません。なぜなら、私は本当にあなたをまったく知ることができないからです。私があなたを知るときはいつでも、回りくどい方法で、自分自身を知ることによって知るのです。

 

私の存在がここにあるというこの点が消えなければなりません。私はただの不在でなければなりません。そのとき初めて、私は何の解釈もなしにあなたの内側深くに入っていくことができます。そのとき初めて、私はあなたを、私に従ってではなく、ありのままのあなたとして知ることができます。そして、そのとき初めて、私は助けることができるのです。それゆえ、秘密が必要なのです。

 

だから、クンダリーニやチャクラについて話さない方が良いのです。瞑想だけが教えられ、聞かれ、理解されるべきです。そうすれば、他のすべては自然とついてくるでしょう。

 

クンダリーニはそれ自体が生命力ではありません。むしろ、それは生命力の特定の通路、一つの道です。しかし、生命力は他の道も通ることができるので、クンダリーニを通る必要はありません。クンダリーニを通らずに悟りに到達することも可能です――しかし、クンダリーニは最も簡単な通路、最短の道です。

 

もし生命力がクンダリーニを通るなら、ブラフマランドラが終点となるでしょう。しかし、もし生命力が別のルートを通るなら――そして無限のルートが可能です――ブラフマランドラは終点とはならないでしょう。したがって、ブラフマランドラの開花は、生命力がクンダリーニを通る場合にのみ、可能性、潜在性として存在するのです。

クンダリーニについて言及すらしないヨーガもあります。その場合、ブラフマランドラのようなものはありません。しかし、これは最も簡単なルートなので、通常、悟りを得た人の90%はクンダリーニを通ります。』

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OSHOバグワンのクンダリーニの基礎-5

2025-02-23 03:05:05 | 覚醒のアーキテクチャー

◎ジャンプは気づきを通して起きる

 

OSHOバグワンのMeditation: The Art of Ecstasy

から第六章クンダリーニ-生命の目覚めの仮訳の続き。

 

ポイントは以下。

  1. 断食と踊りなど、瞑想のすべての技法は、あなたがジャンプできる瀬戸際まであなたを押し出すためのもの。
  2. ジャンプ自体は、非常にシンプルで、非常に非方法的な方法(気づき)を通してのみ行うことができる。
  3. 断食などがあなたを死の淵へと導いたまさにその瞬間に、気づいていることができれば、死はない。気づきが方法である。
  4. 気づきが方法であるがゆえに、禅の人々は方法はないと言う。
  5. 気づきは方法ではないからこそ、クリシュナムルティは方法はないと言う。
  6. 一般に人は、突然の緊急時にしか気づいていられないので、気づきには練習が必要。
  7. 心の緊急事態を作り出すために瞑想があるが、クンダリーニではなく、瞑想に関心を向ける方がジャンプには近い。

 

『(仮訳)

では、瞑想に飛び込むための技法とは何でしょうか?私は二つ、断食と踊りについて話しました。瞑想のすべての技法は、あなたが飛び越えることができる瀬戸際まであなたを押し出すためのものです。しかし、ジャンプ自体は、非常にシンプルで、非常に非方法的な方法を通してのみ行うことができます。

 

もしあなたが、断食があなたを死の淵へと導いたまさにその瞬間に、もしあなたが死が始まろうとしている瞬間に、気づいていることができれば、死はありません。そして、今回死がないだけでなく、永遠に死はありません。

 

あなたは飛び越えたのです!ある瞬間が非常に強烈で、あなたは一瞬のうちにそれが自分の手に負えなくなることを知った時、一秒でも失えば二度と戻って来られないと知った時、気づいていなさい――そして飛び越えなさい。気づきが方法なのです。そして、気づきが方法であるがゆえに、禅の人々は方法はないと言います。気づきはまったく方法ではありません。だからこそ、クリシュナムルティは方法はないと言い続けるのです。もちろん、気づきは実際にはまったく方法ではありません。しかし、私はそれでもそれを方法と呼びます。なぜなら、もしあなたが気づいていられなければ、ジャンプが可能なまさにその瞬間に、あなたは道に迷ってしまうからです。

 

だから、もし誰かが「気づきだけがすべてだ」と言ったとしても、それは一万人に一人には真実かもしれません。しかし、その一人は、狂気か死かのどちらかが起こりうる地点まで来た人でしょう。彼はどうにせよ、その地点まで来たのです。

 

そして、他の人々、大多数の人々にとっては、ただ気づきについて話すだけでは不十分です。まず、彼らは訓練されなければなりません。普通の状況で気づいているだけでは不十分です。そして、あなたは普通の状況では気づいていられないでしょう。心の愚かさには非常に長い歴史があります――その無気力さ、怠惰さ、無意識さは、あまりにも長く続いているので、クリシュナムルティや私や他の誰かの話を聞いただけで、あなたが気づくことを期待することは決してできません。そして、あなたがこれまで何度も無意識のうちに行ってきた同じことに気づくことは難しいでしょう。

 

(P50)

 

あなたは、自分が動いていることにまったく気づかずにオフィスに着いたことがあります。あなたは向きを変え、歩き、ドアを開けました。あなたはそれを一生の間ずっとやってきました。今ではそれは不随意的なメカニズムとなり、あなたの意識から完全に切り離されています。

そこでクリシュナムルティは、「歩いているときに気づきなさい」と言います。しかし、あなたはこれまで一度も気づかずに歩いてきたのです。その習慣はあまりにも深く身についてしまい、骨や血の一部となっています。今ではそれは非常に難しいことです。

 

あなたは緊急時、突然の緊急時にしか気づいていられません。誰かがあなたの胸に銃を突きつけたとき、あなたは気づくことができます。なぜなら、それはあなたがこれまで練習したことのない状況だからです。しかし、もしあなたがその状況に慣れていれば、まったく気づくことはないでしょう。

断食は、これまであなたが経験したことのないような緊急事態を作り出すためのものです。ですから、断食を実践してきた人は、それによって助けられないかもしれません。彼はより長い期間の断食が必要でしょう。あるいは、あなたが一度も踊ったことがなければ、踊りを通して簡単に助けられるでしょう。しかし、もしあなたが熟練したダンサーなら、スーフィーの旋回舞踊は役に立ちません。それはまったく役に立ちません。なぜなら、あなたはとても完璧で、とても効率的だからです。そして、効率的であるということは、そのことが今、心の不随意的な部分によって行われていることを意味します。効率性とは常にそういう意味なのです。

 

だからこそ、112もの瞑想法が開発されてきたのです。ある方法はあなたには合わないかもしれません。別の方法なら合うかもしれません。そして、最も役立つのは、あなたにとってまったく未知の方法です。もしあなたが特定のメソッドをまったく訓練したことがなければ、緊急事態はすぐに生まれます。そして、その緊急事態の中で、気づいていなさい!

 

だから、クンダリーニではなく瞑想に関心を向けなさい。』

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OSHOバグワンのクンダリーニの基礎-4

2025-02-22 03:49:16 | 覚醒のアーキテクチャー

◎肉体から微細体へジャンプをするためには、肉体の助けが必要

 

OSHOバグワンのMeditation: The Art of Ecstasy

から第六章クンダリーニ-生命の目覚めの仮訳の続き。

 

ポイントは以下。

  1. 生物学的で自然な流れは下向きであり、精神的な流れは上向き。そして、生物は下向きの流れのために作られている。
  2. 肉体から微細体へジャンプをするためには、肉体の助けが必要。
  3. 断食で肉体が完全に疲弊した瞬間、死か瞑想からのジャンプかの選択肢が起こる。
  4. スーフィの不随意のダルヴィッシュダンスでも、狂気か、瞑想からのジャンプかの選択肢が起こる。

 

『(仮訳)

しかし、彼の信者たちがマハーヴィーラが病気であったと考えることは非常に困難でした。当時、病気には一つの説明しかありませんでした。もしあなたが特定の病気に苦しんでいるなら、それはあなたのカルマ、つまり過去の行いが悪かったことを意味していました。もしマハーヴィーラが病気に苦しんでいるなら、それは彼がまだカルマの影響下にあることを意味していたでしょう。そんなはずはありませんでした。そこで、巧妙な物語が作られました。マハーヴィーラの競争相手であるゴーシャラクが悪の力を使って彼を攻撃しているというものでした。しかし、これは全く事実ではありませんでした。

生物学的で自然な流れは下向きであり、精神的な流れは上向きです。そして、全有機体は下向きの流れのために作られています。

あなたは体の中に多くの変化を感じ始めるかもしれませんが、最初の変化は微細体の中で起こります。瞑想は、粗大な体から微細体への橋を架けるための単なる手段です。私が「瞑想」と言うとき、私はただそれだけを意味します。もしあなたが粗大な体から飛び出すことができるなら、それが瞑想の意味です。しかし、このジャンプをするためには、粗大な体の助けが必要でしょう。あなたはそれを足がかりとして使わなければなりません。

 

どんな極端な点からも、あなたはジャンプすることができます。断食は、人を極端な状態に導くために利用されてきました。長く、継続的な断食を行うと、あなたは瀬戸際に達します。人間の体は通常、90日間の断食に耐えることができますが、その後、体が完全に疲弊した瞬間、つまり緊急時のために蓄えられてきた蓄えが枯渇した瞬間に、二つのうちどちらかのことが起こりえます。もしあなたが何もしなければ、死が起こるかもしれませんが、もしあなたがこの瞬間を瞑想に使うなら、ジャンプが起こるかもしれません。

もしあなたが何もしなければ、ただ断食を続けるなら、死が起こるかもしれません。それは自殺になるでしょう。人類の進化の歴史の中で、誰よりも深く断食を実験したマハーヴィーラは、彼の信者に霊的な自殺を許した唯一の人物です。彼はそれをサンタラと呼びました。つまり、両方のことが可能な瀬戸際の点です。一瞬にして、あなたは死ぬか、ジャンプすることができます。もしあなたが何らかのテクニックを使えば、ジャンプすることができます。その時、マハーヴィーラは言います、それは自殺ではなく、非常に大きな霊的爆発であると。

マハーヴィーラは唯一の人物、たった一人の人物であり、もしあなたに勇気があるなら、自殺でさえあなたの霊的進歩のために使うことができると言いました。

 

どんな瀬戸際の点からも、ジャンプは可能です。スーフィーたちは踊りを利用してきました。踊りの中で、あなたが非日常的なものを感じ始めるときが来ます。真のスーフィーダンサーがいれば、観客さえも非日常的なものを感じ始めます。体の動き、リズミカルな動きを通して、ダンサーはすぐに自分が体とは異なり、体から分離していると感じ始めます。人は動き始めなければなりませんが、すぐに体の非自発的なメカニズムが引き継ぎます。

 

あなたは始めますが、もし終わりもあなたのものなら、その踊りはただの普通の踊りでした。しかし、もしあなたが始め、終わりまでに、踊りの途中でどこかで非自発的なメカニズムが引き継いだように感じるなら、それはダルヴィッシュダンスになったのです。あなたは非常に速く動くので、体は震え、非自発的になります。

 

そこが、狂気に陥るか、飛び越えるかの分かれ目です。あなたは狂ってしまうかもしれません。なぜなら、不随意的なメカニズムがあなたの体の動きを乗っ取ってしまうからです。それはあなたのコントロールを超えています。あなたには何もできません。あなたはただ狂ってしまい、この不随意運動から二度と戻って来られなくなるかもしれません。そこが、狂気か、あるいは、もし飛び越えるための技法を知っていれば、瞑想かのどちらかになる場所なのです。

 

だからこそ、スーフィーたちは常に狂人として知られてきたのです。彼らは狂人として知られていました!普通の人々にとっては、彼らは狂っているのです。ベンガルにも、スーフィーによく似た宗派があります。バウル・ファキールです。彼らは村から村へと移動し、踊り、歌っています。バウルという言葉自体が、バウラ、つまり狂人を意味します。彼らは狂った人々です。

 

狂気は何度も起こりますが、もしあなたがその技法を知っていれば、瞑想が起こりえます。それは常に瀬戸際で起こります。だからこそ、神秘家たちは常に「剣の刃」という言葉を使ってきたのです。狂気が起こるか、瞑想が起こるか、どちらかが起こりえます。そして、すべての方法があなたの体を剣の刃として利用し、そこからどちらかが可能になるのです。』

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OSHOバグワンのクンダリーニの基礎-3

2025-02-21 03:06:20 | 覚醒のアーキテクチャー

◎クンダリーニは、死よりも深く、誕生よりも深い

 

OSHOバグワンのMeditation: The Art of Ecstasy

から第六章クンダリーニ-生命の目覚めの仮訳の続き。

 

ポイントは以下。

1.チャクラの数は無数にある。

2.クンダリーニは、死よりも深く、誕生よりも深く、血よりも深い。なぜなら、クンダリーニはあなたの第二の体の循環だから。血は生理的な体の循環であり、クンダリーニはエーテル体の循環。それは完全に非自発的であり、ハタヨーギでさえ、それを自発的にどうすることもできない。

3.よって、まずクンダリーニを動かそうとか、チャクラを刺激しようと考えず、まず瞑想すること。

4.深く瞑想に入れば、内なるエネルギーが上方に動き始める。生物学的には、頭よりも足が暖かい方が良いが、霊的には、足が冷たい方がエネルギーが上向きに流れている兆候なので、霊的にはよい。(内なるエネルギーは、悟りに向かっては上方に動き、肉体の健康に向かっては下方に動く。)

5.だから悟りに向かって、エネルギーが上向きに流れ始めると、多くの病気が起こり始めるかもしれない。

6.仏陀は病気で亡くなり、マハーヴィーラは病気で亡くなり、ラマナ・マハルシは癌で亡くなり、ラーマクリシュナは癌で亡くなったが、大悟覚醒によりカルマがクリアになるということは、覚者の肉体が永劫不滅になって死なないということではない。

 

『(仮訳)

もしクンダリーニが動き、ブロックがなければ、あなたは決してチャクラを感じることはないでしょう。だからこそ、ある人は9つのチャクラを感じ、別の人は10個のチャクラを感じ、また別の人は3つか4つ、あるいは1つ、または全く感じないかもしれません。それは場合によります。実際には、無限のチャクラがあり、クンダリーニのすべての動き、すべてのステップのそばに、チャクラが助けるためにいます。もし助けが必要なら、それは与えられることができます。

 

だからこそ私は、理論的な知識は役に立たないと主張するのです。そして、瞑想そのものは、実際にはクンダリーニとは全く関係がありません。もしクンダリーニが現れたら、それは別のことですが、瞑想はそれとは何の関係もありません。瞑想はクンダリーニに言及しなくても説明できます。必要ありません。そして、クンダリーニに言及することで、物事を説明する際にさらに多くの矛盾が生じます。瞑想は直接的に説明できます。あなたはチャクラについて悩む必要はなく、瞑想から始めればよいのです。もし通路が塞がれていれば、あなたはクンダリーニを感じるようになるかもしれませんし、チャクラもそこにあるでしょうが、それは完全に非自発的なことです。それが非自発的であることを覚えておかなければなりません。あなたの意志は全く必要ありません。

 

道が深ければ深いほど、非自発的になります。私は手を動かすことができます。これは自発的な道ですが、血を動かすことはできません。試みることはできます。長年の訓練によって、人は血行を自発的にコントロールできるようになるかもしれません。ハタ・ヨーガはそれをすることができます。それは行われてきました。不可能ではありませんが、無駄です。血の動きをコントロールするためだけに30年間の訓練をするのは、無意味で愚かなことです。なぜなら、そのコントロールによって何も得られないからです。血行は非自発的であり、あなたの意志は必要ありません。あなたは食べ物を摂り、それが体内に入った瞬間から、あなたの意志は必要ありません。身体の機械装置、身体のメカニズムが引き継ぎ、必要なことは何でも行い続けます。あなたの睡眠は自発的ではありません。あなたの誕生は自発的ではありません。あなたの死は自発的ではありません。これらは非自発的なメカニズムなのです。

 

クンダリーニはさらに深く、あなたの死よりも深く、あなたの誕生よりも深く、あなたの血よりも深いです。なぜなら、クンダリーニはあなたの第二の体の循環だからです。血はあなたの生理的な体の循環であり、クンダリーニはあなたのエーテル体の循環です。それは完全に非自発的であり、ハタヨギでさえ、それを自発的にどうすることもできません。

 

人は瞑想に入らなければならず、そうするとエネルギーが動き始めます。あなたがすべきことは瞑想です。あなたが深く瞑想に入ると、内なるエネルギーが上向きに動き始め、あなたは流れの変化を感じるでしょう。それは非常に多くの方法で感じられます。生理学的にさえ、その変化を知ることができます。

 

例えば、通常、生物学的には、足が暖かく、頭が冷たいことが健康の兆候です。生物学的には、それは健康な兆候です。逆のことが起こると、つまり足が冷たくなり、頭が暖かくなると、その人は病気になります。しかし、クンダリーニが上向きに流れるとき、同じことが起こります。足が冷たくなるのです。

 

実際には、足の暖かさは、性エネルギーが下向きに流れているに過ぎません。生命エネルギー、つまりクンダリーニが上向きに流れ始めると、性エネルギーもそれに続きます。それは上向きに流れ始めます。足は冷たくなり、頭は暖かくなります。生物学的には、頭よりも足が暖かい方が良いのですが、霊的には、エネルギーが上向きに流れている兆候なので、足が冷たい方が健康なのです。

 

エネルギーが上向きに流れ始めると、多くの病気が起こり始めるかもしれません。なぜなら、生物学的に、あなたは全有機体を乱してしまったからです。仏陀は非常に病気で亡くなり、マハーヴィーラは非常に病気で亡くなり、ラマナ・マハルシは癌で亡くなり、ラーマクリシュナは癌で亡くなりました。その理由は、生物学的システム全体が乱されたからです。他の多くの理由が挙げられていますが、それらはナンセンスです。

(P49)

 

ジャイナ教徒は多くの物語を作り上げてきました。なぜなら、彼らはマハーヴィーラが病気であったとは考えられなかったからです。私にとって、逆が真実です。彼が完全に健康であったとは、どう考えても想像できません。彼はそうではありえませんでした。なぜなら、これが彼の最後の生となるはずであり、生物学的システム全体が崩壊しなければならなかったからです。何千年にもわたって続いてきたシステムが崩壊しなければならなかったのです。彼は健康ではありえませんでした。最終的には、彼は非常に病気でなければなりませんでした。

そして、彼は実際にそうでした!』

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OSHOバグワンのクンダリーニの基礎-2

2025-02-20 03:58:06 | 覚醒のアーキテクチャー

◎クンダリーニは、通路がクリアでない場合に感じられる

 

OSHOバグワンのMeditation: The Art of Ecstasyから第六章クンダリーニ-生命の目覚めを仮訳の続き。

 

ポイントは以下。

1.先入観なくクンダリーニやチャクラを感じるのが第一歩。

2.クンダリーニとチャクラは肉体に属するものではないが、肉体上に対応する場所がある。

3.チャクラを通過する必要はなく、人はそれらをバイパスすることができる。また、悟りを得る前にクンダリーニを感じる必要もない。

4.クンダリーニは、上昇しているから感じるのではない。クンダリーニは、通路がクリアでなく、抵抗やブロックがある場合にのみ感じられる。もし通路が完全にクリアであれば、エネルギーはすんなり流れるので、それを感じることができない。

5.クンダリーニを感じないなら、あなたはチャクラをバイパスするだろう。なぜなら、チャクラの働きは通路の抵抗やブロックを壊すためにのみ必要だから。

 

『(仮訳)

(P46)

内にあるものがすべて現実や真実であるとは限りません。なぜなら、想像力も内にあるし、夢も内にあるからです。心には能力、非常に強力な能力があり、夢を見たり、錯覚を作り出したり、投影したりすることができます。だからこそ、クンダリーニやチャクラについて全く知らずに瞑想を進めるのが良いのです。もしそれらに偶然出会ったら、それは良いことです。何かを感じ始めるかもしれません。その時初めて、尋ねてください。チャクラが働いているのを感じ始めるかもしれませんが、まずその感覚が来るようにしてください。エネルギーが上昇しているのを感じるかもしれませんが、まずその感覚が来るようにしてください。想像しないでください、それについて考えないでください、事前に理解しようとする知的努力をしないでください。先入観は必要ありません。必要でないだけでなく、積極的に有害です。

 

そしてもう一つ、クンダリーニとチャクラはあなたの解剖学、生理学に属するものではありません。チャクラとクンダリーニはあなたの微細体、あなたのスークシュマ・シャリーラに属するものであり、この肉体、粗大な肉体に属するものではありません。もちろん、対応する場所はあります。チャクラはあなたの微細身(スークシュマ・シャリーラ)ですが、あなたの生理学と解剖学にはそれに対応する場所があります。もしあなたが内なるチャクラを感じたときにのみ、対応する場所を感じることができます。そうでなければ、全身を解剖しても、チャクラのようなものは何も見つかりません。

 

クンダリーニやチャクラのようなものがあなたの粗大な肉体にあるというすべての話、すべてのいわゆる証拠、そしてすべての科学的主張はナンセンス、まったくのナンセンスです。対応する場所はありますが、それらの場所は、あなたが本当のチャクラを感じたときにのみ感じることができます。あなたの粗大な肉体を解剖しても、何も見つかりません。何もないのです。だから、問題は解剖学の問題ではないのです。

 

もう一つ付け加えます。チャクラを通過する必要はありません。それは必要ではありません。人はそれらをバイパスすることができます。また、悟りを得る前にクンダリーニを感じる必要もありません。この現象は、あなたが考えているよりもはるかに異なります。クンダリーニは、上昇しているから感じるのではありません。クンダリーニは、非常に明確な通路を持っていない場合にのみ感じられます。もし通路が完全に明確であれば、エネルギーは流れますが、あなたはそれを感じることができません。

エネルギーが流れ、通路に何か抵抗するものがある場合にのみ、あなたはそれを感じます。もしエネルギーが上向きに流れ、あなたの通路にブロックがあるなら、その時初めてあなたはそれを感じます。したがって、より多くのクンダリーニを感じる人は、実際にはブロックされているのです。通路には多くのブロックがあるため、クンダリーニが流れることができません。

 

抵抗があるとき、クンダリーニは感じられます。抵抗がない限り、エネルギーを直接感じることはできません。もし私が手を動かし、抵抗がなければ、その動きは感じられません。空気抵抗があるため、動きは感じられますが、石が抵抗するときほどには感じられません。その時、私は動きをより強く感じるでしょう。そして、真空の中では、私は動きを全く感じません。つまり、それは相対的なのです。

 

仏陀はクンダリーニについて決して語りませんでした。彼の体にクンダリーニがなかったということではありませんが、通路が非常に明確であったため、抵抗がなかったのです。したがって、彼はそれを決して感じませんでした。

 

マハーヴィーラはクンダリーニについて決して語りませんでした。このため、非常に誤った概念が生まれ、マハーヴィーラの後継者であるジャイナ教徒は、クンダリーニはすべてナンセンスであり、そのようなものはないと考えました。このように、マハーヴィーラ自身がクンダリーニを感じなかったため、25世紀にわたるジャイナ教の伝統は、クンダリーニの存在を否定し続けています。

(P47)

マハーヴィーラがそれについて語らなかった理由は、非常に異なっていました。彼の体にはブロックがなかったため、彼はそれを決して感じなかったのです。

ですから、あなたがクンダリーニを感じる必要はありません。あなたはそれを全く感じないかもしれません。そして、もしあなたがクンダリーニを感じないなら、あなたはチャクラをバイパスするでしょう。なぜなら、チャクラの働きはブロックを壊すためにのみ必要だからです。そうでなければ、それらは必要ありません。

ブロックがあり、クンダリーニがブロックされると、ブロックされたクンダリーニのために、近くのチャクラが動き始めます。それはダイナミックになります。チャクラはブロックされたクンダリーニのために動き始め、非常に速く動くので、その動きのために、ブロックを壊す特定のエネルギーが生まれます。

もし通路がクリアなら、チャクラは必要なく、あなたは何も感じないでしょう。実際には、チャクラの存在はあなたを助けるためだけにあるのです。もしクンダリーニがブロックされたら、助けはすぐそばにあります。いくつかのチャクラは、ブロックされているエネルギーを吸収するでしょう。

もしエネルギーがそれ以上動けないなら、それは戻ってきます。それが戻ってくる前に、チャクラはエネルギーを完全に吸収し、クンダリーニはチャクラの中を移動します。動きを通して、エネルギーはより活発になり、より生き生きとなり、再びブロックに来たとき、それを壊すことができます。つまり、それは単なる配置、助けなのです。』

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クンダリーニの基礎-1

2025-02-19 03:48:23 | 覚醒のアーキテクチャー

◎チャクラ、クンダリーニを感じなければ始まらない

 

OSHOバグワンのMeditation: The Art of Ecstasy から第六章クンダリーニ-生命の目覚めを仮訳してみる。

OSHOバグワンのこの見方は、ダンテス・ダイジも肯っていたもの。

 

ポイントは、以下。

  1. クンダリーニは存在し、チャクラも存在するが、いかなる知識も何の役にも立たず、妨げになる可能性が高い。
  2. 生命力の内なる道についての知識は一般論であり、個々人の内なる道は人によって異なり、まず自分にはあてはまらない。クンダリーニの根、クンダリーニが通過する道も、個人によって異なる。
  3. チャクラは存在するが、その数は個人によって異なる。
  4. 誰かがニルヴァーナを達成したとき、目は、外部の者がその人が本当にそれを達成したかどうかを知ることができる唯一の扉。
  5. チャクラ、クンダリーニとその通り道をあなたが感じたときにのみそれは役立つが、感じなければ役には立たない。
  6. チャクラ、クンダリーニの知識を得れば得るほど、真実の、本物のものを感じる可能性は少なくなる。

 

『(仮訳)

いかなる理論的な知識も決して役には立たず、クンダリーニの解剖学的視覚化も、瞑想にとって本当に意味のあるものではありません。私がこう言うとき、クンダリーニやチャクラのようなものがないと言っているわけではありません。クンダリーニは存在し、チャクラも存在しますが、いかなる知識も何の役にも立ちません。むしろ、それは妨げになる可能性があります。多くの理由で障壁となる可能性があるのです。

 

その理由の一つは、クンダリーニや生物エネルギーの秘教的な道、つまり生命力の内なる道についてのいかなる知識も、一般化されたものであるということです。それは個人によって異なり、根は同じではありません。A の場合は異なり、B の場合は異なり、C の場合は異なります。あなたの内なる生命には個性があるので、理論的な知識を通して何かを身につけても、それは役には立たず、むしろ妨げになるかもしれません。なぜなら、それはあなた自身についてではないからです。あなた自身についてであるはずがないのです。あなたが内側に入ったときに初めて、あなたは自分自身について知るでしょう。

 

チャクラは存在しますが、その数は個人によって異なります。ある人は7つ、ある人は9つ、ある人はもっと多く、ある人はもっと少なく持っているかもしれません。それが、非常に多くの異なる伝統が発展してきた理由です。仏教徒は9つのチャクラについて語り、ヒンドゥー教徒は7つについて語り、チベット人は4つについて語ります。そして、彼らはすべて正しいのです!

(P45)

クンダリーニの根、クンダリーニが通過する道も、個人によって異なります。深く入れば入るほど、あなたはより個人的になります。例えば、あなたの体では顔が最も個性的な部分であり、顔の中でも目はさらに個性的です。顔は体のどの部分よりも生き生きとしています。だからこそ、個性を帯びるのです。あなたは気づいていないかもしれませんが、特定の年齢、特に性的成熟期になると、あなたの顔は、その後ほぼ一生続く形を帯び始めます。性的成熟期の前は顔が大きく変化しますが、性的成熟期を迎えると、あなたの個性が固定され、パターンが与えられ、顔は多かれ少なかれ同じになります。

目は顔よりもさらに生き生きとしており、非常に個性的であるため、常に変化しています。人が悟りを開かない限り、目は決して固定されません。悟りはもう一つの成熟です。

性的成熟期を迎えると顔は固定されますが、もう一つの成熟があり、そこで目が固定されます。あなたは仏陀の目に変化を見ることができません。彼の体は老い、死ぬでしょうが、彼の目は同じであり続けるでしょう。それが一つの兆候でした。

誰かがニルヴァーナを達成したとき、目は、外部の者がその人が本当にそれを達成したかどうかを知ることができる唯一の扉です。今、目は決して変わることがありません。すべてが変わりますが、目は同じままです。目は内なる世界を表現しています。

しかし、クンダリーニはさらに深いのです。

(P46)

 

いかなる理論的知識も役に立ちません。理論的知識を少しでも持つと、それを自分に押し付け始めます。教えられたとおりに物事を視覚化し始めますが、それはあなたの個々の状況に対応していない可能性があります。すると、多くの混乱が生じます。

チャクラについて知るのではなく、感じなければなりません。感じなければなりません。内側に触覚を送らなければなりません。チャクラ、クンダリーニ、そしてその通り道をあなたが感じたときにのみ、それは役立ちます。そうでなければ、役には立ちません。実際、知識は内なる世界に関しては非常に破壊的でした。知識を得れば得るほど、真実の、本物のものを感じる可能性は少なくなります。

あなたは自分の知っていることを自分に押し付け始めます。もし誰かが「ここにチャクラがある、ここに中心がある」と言ったなら、あなたは自分のチャクラをその場所に視覚化し始めます。そして、それはそこには全くないかもしれません。すると、あなたは想像上のチャクラを作り出すことになります。あなたは作り出すことができます。心にはその能力があるのです。あなたは想像上のチャクラを作り出すことができ、そして、あなたの想像力のために、クンダリーニではない、単なる想像力、つまり完全に幻想的で夢のような現象である流れが始まります。

いったん中心を視覚化し、想像上のクンダリーニを作り出すことができるようになると、あなたはすべてを作り出すことができます。すると、想像上の経験が続き、あなたは内側に非常に偽りの世界を作り出すでしょう。外側の世界は幻想的ですが、あなたが内側に作り出すことができる世界ほど幻想的ではありません。』

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呼吸、セックス、飢えで修行

2025-02-07 06:08:26 | 覚醒のアーキテクチャー

◎心の大半を占める無意識をすべて意識にする

 

OSHOバグワンは、人間が無限光明を得る(究極)ための冥想方法として、呼吸、セックス、飢えの三方法を上げる。いずれも狙いは、心の大半を占める無意識をすべて意識にしてしまおうということだが、事はそれほど簡単ではない。

呼吸(ヴィパッサナー)は、釈迦が用いて覚醒したが、眠れなくなるので発狂しやすいという点がある。飢えは、マハーヴィーラが用いて覚醒したが、断食の加減によっては死の危険がある。飢えが進むほど意識は冴えるという。

セックス(性愛冥想、タントラ)は、誰もがやりたがるかもしれないが、無意識でないとセックスできないという土俵で、意識を拡張しようとするのだから、初手から困難だ。釈迦はその困難さからこの修行法は回避したという。

 

以下The Ultimate Alchemy, Vol 2 Chapter3 P41から仮訳。

『それで私は3つのこと、呼吸、セックス、そして飢えについて議論しました。非常に基本的で、基礎的なことです。どれでも意識的になりなさい。呼吸が最も簡単です。タントラの方法を使うのは難しいでしょう。心はそれを使いたがるでしょうが、難しいでしょう。飢えの方法を使うのは難しいでしょう。心はそれを好まないでしょう。この二つは非常に難しいです。あなたがそれらを好きであろうとなかろうと、それらは難しいのです。呼吸のプロセスだけが簡単です。そして、来るべき時代には、仏陀の方法が非常に役立つだろうと思います。それは穏やかで、簡単で、非常に危険ではありません。

だからこそ、仏陀は常に中道、マッジヒマニカヤ、黄金の中庸の創始者として知られているのです。セックスと食物はこの二つの間にあります。呼吸は黄金の中庸、まさに真ん中なのです。

 

そして、他にも多くの方法があります。どんな方法でも、あなたは内なる光の中に確立されることができます。そして、いったん確立されると、あなたの光は体の細胞へと流れ始めます。その時、あなたの全機構はリフレッシュされ、あなたは仏陀の体、つまり悟りを開いた者の体を持つことになるのです。』

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太乙金華宗旨の光について-5

2025-02-06 03:43:40 | 覚醒のアーキテクチャー

いっさいの思考が消えることを思考の集中という

 

このあたりから光の話が出て来る。

 

ポイントは、以下。

  1. 中心に向かって動いてゆけば、思考は消えはじめ、その中核においては、いっさいの思考が消え、ただ覚醒のみがある。これを思考の集中という。
  2. 生命と空虚さは内なる神が持つ二つの顔だ。それをただ見守りつづけていたら、人は、完全無欠な顔と無の顔を持つ神になる。

 

開眼は光の外向、閉眼は光の内向とあるが、ここでは、閉眼を勧めている。だが、半眼の冥想もある(ヴィギャンバイラブタントラとは別のことを言っている)。

※『光があなた自身の実存に降り注ぐ』とは、中心太陽への突入だろうか。

※一寸四方:人間一人が周天すれば、天地万物すべてのものが、自分一人とともに周天する。そしてこれは、一寸四方のところで生起する。

(一寸四方に入る大きさの身体は、コーザル体だけである。コーザル体は、小さな種なしぶどうの大きさと言われ、生きている時は、心臓内部の位置にある(魂の科学/スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ))

さらに、太乙金華宗旨の第二章では、人が胎内に入る時、目と目の間の方寸に元神があり、下方の心臓?に識神があるとする。

目と目の間の方寸(一寸四方)は、経穴マップや人相学では印堂と呼ばれ最重要とされる。

眉間(印堂)と心臓は区別され、ここではまず印堂の話しか出ていない。

チベットでは、器具で眉間の奥に穴を開ける話がある。でも天光は、肉体レベルの話ではない。

また一寸四方のことは、神秘生理学の記述に時々出て来るが、ダンテス・ダイジは言及なく、謎である。

 

『そして光を巡らせる瞑想は、ひとえに逆流の動きにかかっている。それにより思考の集中が起こる。天上のこころは太陽と月のあいだに位置している。

 

人間は中心であると同時に周辺でもある。周辺に向かって動いてゆくと、たくさんの思考が湧き起こってくる。周辺は”多"から成っている。中心はひとつだ。中心に向かって動いてゆけば、思考は消えはじめる。まさにその中核においては、いっさいの思考が消え、ただ覚醒のみがある。この秘法の書が 述べているのはそのことだ――それにより思考の集中が起こる。

 

光は内側に向かって動いてゆかなければならない。

樹を見ているとき、あなたの目は、その光を樹に向かって放出している――光は外に向かって動いている。目を閉じると、光は内側に向きを変えはじめる――メタノイア、悔い改め、回帰が起こる。そして光があなた自身の実存に降り注ぐとき、自己認識、自己知が生まれる。その自己知はあなたに自由をもたらす――いっさいのしがらみからの自由、いっさいの執着からの自由、死からの自由、肉体からの自由を。それはあなたの内部に魂をつくりだす。

 

グルジェフがよく弟子たちに言っていたのはそのことだ。あなたがたは魂をもって生まれてきたのではない、あなたは"メタノイア"によってそれをつくりださねばならない、と。

 

 

「黄庭経』にはこう記されている。「一尺四方の家の一寸四方の場所で、生命を統制することができる」

 

あなたの肉体のこの小さな寺院のなかで、生命を統制することができる。

 

一寸四方の只なかには、光輝く者が住んでいる。碧玉の都の紫の広間には、最も空虚で生命力のある神が住んでいる。

 

いかにも矛盾した言明だ――空虚さと生命。生命は男性的であり、空虚さは女性的だ。

生命と空虚さ――両者は内なる神がもつ二つの顔だ。そのどちらかを選り好みしなければ、まったく選ぶことをせず、ただ見守りつづけていたら、人は一方には死の顔を、もう一方には生の顔をもつ神に――一方には完全無欠な顔を、もう一方には無の顔をもつ神になる。

 

ゆえに、光が巡ると、全身の気が玉座の前に現れる。

 

そして光が内側に向かって動き、あなたの実存のなかを巡るとき・・・・・・というのも、出口が残されていないからだ。瞑想とはまさにそれだ。仏陀が菩提樹のもとでやっていたのはまさにそれだ。

あなたは静かに坐り、すべての扉を閉める。すると光が内側で巡る。そのときあなたは肉体と肉体のなかにあるすべてのものに、そのすべての神秘にはじめて気づくようになる。この小さな肉体のなかに宇宙のいっさいの神秘が含まれている。肉体は小宇宙だ。

 

ゆえに、光が巡ると、全身の気が玉座の前に現れる。それはあたかも聖王が都を建設し、支配の基本原則を定めると、すべての国が貢物を携えて来るようなものである。あるいは主人が寡黙で穏やかであれば、男女の召使が進んで主人の命令に従い、各自の仕事につくようなものである。

 

 

そしてこの光がそこにあり、あなたの内側を巡っているとき、肉体は召使になる。五感は従順な召使になる。それらをコントロールしようとする必要はない――それらはひとりでにあなたに従う。

 

これがタオの美しさだ。けっして何も強要することがなく、品性を磨きたいという欲求もない。タオは言う。ただ光に満ちあふれればいい、そうすれば他のことはすべてついてくる、と。』

(黄金の華の秘密/OSHO/メルクマールP35-38から引用)

 

この後、本文は、『ゆえに、汝の為すべきことは光を巡らせることのみ』と続く。

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太乙金華宗旨の光について-4

2025-02-05 03:00:34 | 覚醒のアーキテクチャー

◎西洋は太陽重視で、男性偏重で、活動的すぎる

 

光とは何か。OSHOバグワンの説明。

太乙金華宗旨の冒頭。

 

ポイントは、以下。

  1. 天上のこころ(天心)は太陽と月の中間にある。それは、男性的でもなければ、女性的でもない。
  2. 西洋は太陽重視で、男性偏重で、活動的すぎる。
  3. 東洋は月重視で、女性偏重で、受動的すぎる。
  4. 外側では太陽を重視し、内側では月を重視せよ。太陽と月をあなたの内側で出会わせ、あなたはちょうどその真ん中にいれば天上の心がある。

 

そして光を巡らせる瞑想は、ひとえに逆流の動きにかかっている。それにより思考の集中が起こる。天上のこころは太陽と月のあいだに位置している。

 

いいかね、もう一度くり返そう。太陽は男性エネルギーの象徴であり、月は女性エネルギーの象徴だ。

ハートは男性的でもなければ、女性的でもない。それがハートの美しさだ。すなわち、ハートは神聖なものであり、男性的でもなければ、女性的でもない。それは まさにその両者の中間にある。

 

男性エネルギーに傾き過ぎている場合には、人は過度に活動的になっていて、どうやって受動的になればいいのかわからなくなっている。西洋で起こっていることはそれだ。西洋は太陽指向であり、あまりにも活動的だ。人々は狂ったようにみずからを活動に駆り立てている。

 

(中略)

 

西洋は太陽を重視している。東洋は月を重視している。

東洋はあまりにも受動的で、宿命論に傾き過ぎるようになった。「何もする必要はない。ただ待てばいい。神がやってくださるだろう」と。これはまた別の種類の愚劣さ、愚昧さだ。東洋は貧しくて、怠惰で、不潔だ。が、人々は何ひとつ気にかけていない。どこを向いても惨めさが――貧困、乞食、病気が目に飛び込んでくる。が、誰も気にかけていない。すべては受け容れられている。「しかたがないでしょう?これは神の御意志なのです。私たちは甘受しなければなりません。待てばいいのです。いよいよの時になったら、神がおいでになります。他にどうしようもないじゃないですか」これは女性的な精神だ。

 

『黄金の華の秘密」は言う。人は男性的であってもいけないし女性的であってもいけない、どちらの極にも傾かず、ちょうど真ん中にいなければならない、と。そうなったらバランスが生まれる。そうなったら活動的でありながら、しかも内側深くではくつろいだままでいることができる。そうなったらくつろいでいながら、しかも外側では活動をつづけることができる。

 

外側では太陽を重視し、内側では月を重視するがいい。太陽と月をあなたの内側で出会わせ、あなたはちょうどその真ん中にいればよい。そして真ん中にいることに超越がある。』

(黄金の華の秘密/OSHO/メルクマールP33-35から引用)

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太乙金華宗旨の光について-3

2025-02-04 03:36:33 | 覚醒のアーキテクチャー

◎無為を達成するために有為を用いる

 

光とは何か。OSHOバグワンの説明。

太乙金華宗旨の冒頭。

 

ポイントは、以下。

1.人は太乙という神になる。

2.両目をひとつにする秘法は、無為を達成するために有為を用いること。

3.黄金の華とは光だ。両目がひとつになれば、黄金の光の華があなたのなかで咲いたかのようになる。

4.今は闇だが、黄金の華は光源のない光。ひとたび黄金の光を知れば、あなたは不死なる者になる。

5.タオと同様に光はつねに存在している。

 

果たして光はクンダリーニなのだろうか。

 

太乙(大いなる一者)とは、それにまさるものがない者の呼び名である。

 

その一者になることが「太乙」になるということだ。このようにして道家の人々は、「神」という言葉を使わずに神についての何かを述べている。ひとつになれば、あなたは神になっている。

 

生命の丹術の秘法は、無為を達成するために有為を用いることにある。

 

この言葉には大きな力が秘められている。この両目をひとつにする秘法とは何か?内なる男と女を合一させるにはどうすればいいのだろう?もはやあなたが二つに割れることなく、内輪もめをする家ではなくなり、どんな葛藤も緊張も生じない、まったくひとつの存在になるよう、あなたの男性性と女性性を互いに溶け合わせるにはどうすればいいのだろう?その合一のなかには至福がある。なぜなら、すべての緊張が消え、すべての葛藤が消え、すべての不安が消えるからだ。その一者になるにはどうすればいいのだろう?

 

(中略)

 

黄金の華とは光だ。人は黄金の華を象徴として用いる。「水の領域の鉛にはひとつの味しかない」という詩句はそれを指す。

 

黄金の華は象徴だ、あなたのエネルギーがもはや二元的ではなくなり、ひとつになったときの象徴だ。すさまじい光が放出される。そしてその光は金色だ。まるで黄金の光の華があなたのなかで咲いたかのようだ。しかし、それはたんなる象徴にとどまらない――象徴ではあるが、文字通り真実だと言ってもいい。それはまさにそのように起こる。

 

たった今、あなたは闇として、暗い夜として存在している。それが起こるとき、あなたは日の出の姿をとって現れてくる。どこにも太陽を見ることはできないが、光はそこにある。その光には光源がない--それは光源のない光だ。だが、ひとたびその内にある黄金の光を知れば、あなたは不死なる者になる。そうなったら死は存在しない。光はけっして死ぬことがないからだ。

 

生命のすべて、森羅万象のすべては、ただ光のみで成り立っている。すべては光の顕れにすぎない。現代の物理学者に尋ねてもいい。現代の物理学者たちの見解は、「すべては光だ。形は変化しつづけるが、光はつづいてゆく。光は永遠だ」という点で、タオと完全に一致している。

 

世にある聖典の多くは、「光」という言葉ではじまる。「太初に・・・神は『光あれ』と言われた」それが始まりだ。もしも始まりがあったとすれば、他の始まり方はありえなかっただろう、きっと光とともにはじまったはずだ。だが、始まりなどというものはけっしてなかった。これはたんなる寓話にすぎない。光はつねに存在している。

 

『コーラン』は「神は光だ」と言う。スーフィたちが神に与えた名前のひとつはヌルだ。ヌルとは光のことだ。』

(黄金の華の秘密/OSHO/メルクマールP30-32から引用)

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