アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

呼吸を用いる冥想法と隙間

2024-07-07 05:43:39 | 覚醒のアーキテクチャー

◎ヴィパッサナーから道元の不思量底とクリシュナムルティの死まで

 

パタンジャリが見たとする隙間理論は、想念と想念の隙間。その隙間の時間的長さがあるとすれば、刹那であり千分の一秒とも称する。これに対して人間の呼吸の数は、一分間に12から20であり、冥想で落ち着いた場合には、さらに少ない。つまり呼吸と呼吸の隙間の長さは、千分の一秒どころでなくもっと長いのだろうと思う。

 

その意味で、呼吸の隙間と想念の隙間をとりあえず同列に扱うことには疑問がある。

だが、異なるものとも思えない。

 

シヴァが、宇宙への帰一の方法を問われた時に語った呼吸テクニックには四つあって、

『-1-

光り輝く者よ、この体験は二つの息の間に起こる。

息が入った後、息が出る直前-そこに賜物がある。』

(内なる宇宙の発見/OSHO/市民出版社から引用)

これは、ヴィパッサナーの隙間を問題にする冥想法。

 

『-2-

息が下降から上昇に転じるとき、

そして再び息が上昇から下降に転じるとき、

この両方の転回を通じ、覚れ。』

(上掲書から引用)

これは、呼気、吸気にそれぞれ転回点があるが、それを覚知するという精妙な感受性が必要となる。

 

『-3-

あるいは、入息と出息が融け合うその瞬間、

そのエネルギーなき中心、

エネルギーに満ちた中心に触れよ。』

(上掲書から引用)

これは、入息と出息を一体のものと見て、入息と出息の融合点を感得せよという方法。

 

『-4-

あるいは、息がすべて出終わり、ひとりでに止まるとき

あるいは、息がすべて入り終わり、止まるとき

そのような全休止において、人の小さな自己は消え去る。

これが難しいのは不純な者のみ。』

(上掲書から引用)

これについてはOSHOバグワンは、禅だと言っている。呼吸停止で身心脱落が起きる。これが道元の言う不思量底であり、『死ぬことは、まったく空っぽな心、毎日の願望や楽しみや苦悩のない心をもつことである。』《クリシュナムーティ/自己変革の方法/P161-162から引用》でもある。

 

要するに呼吸を用いる瞑想法であっても、どれもが隙間を用いるわけではないということ。

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隙間理論とヴィパッサナー-2

2024-07-06 03:37:20 | 覚醒のアーキテクチャー

◎出入りする息だけが世界となる

 

【呼吸のすき間を見守る】の続き。

ここでは、実際のやり方が述べられる。

入ってくる息を鼻孔から先(の肺?)まで、息とともに息と同時に意識が一緒になって、急がず遅れず、息とともに内に入り、息とともに外に出る。

そうすると、出入りする息だけが世界であり、自分の意識の全領域になる。突如として、息をしていないすき間を感じる。

 

ところが、実際は最初は息と意識を同時に進めることはできないので、まずは息の通路を感じるようにする。慣れてきたら息を感じることができる。だがこのヴィパッサナーは、前世でさんざん訓練を積んだ釈迦ですら6年、マハーヴィーラですら12年かかったので、およそ簡単ではない。

ところで、最終的に隙間に至る冥想ならば、隙間の方を強く意識すれば早いのではないかと誰でも思うが、OSHOバグワンは、釈迦はそのやり方では『隙間を意識すること』自体が障害になると知っていたという。隙間に到達しようという願望自体が障害になる由(新瞑想法入門P113-114参照)。また引用文のヴィパッサナーのやり方は、前半だけであり、釈迦は、後半を明かしていないことも承知しておくべきだろう。

 

隙間側の冥想法の代表格は、只管打坐。だがそれは隙間を意識するという方法ではない。ダンテス・ダイジは、ヴィパッサナーを勧めず、只管打坐とクンダリーニ・ヨーガを推した。不眠になるようなこともあり、粗雑なバイブレーションの生活環境に生きる現代人には、ヴィパッサナーは、釈迦の時代よりさらに困難になっているのかもしれない。

 

『試してごらん。そうすれば、あなたはすぐに核心をつかむだろう。そして、体得できる。それは既にそこにある。自分、または自分の基本的な構造に付け足すようなものは何ひとつない。一定の〈気づき〉以外はすべて、既にそこにあるのだ。それではどうすればよいのか。第一に、入ってくる息に気づくことだ。 見守りなさい。なにもかも忘れて、ひたすら入ってくる息―――その通路そのもの―――を見守りなさい。息が鼻孔に触れるとき、その息を鼻孔で感じる。それから、息が入る。充分に意識して息とともに動くのだ。息とともに下へ、下へ、下へと降りてゆく。そのとき、息を見失ってはならない。先へ行き過ぎたり、後に遅れたりしないように。ただ一緒に進むのだ。いいかね。先へ進み過ぎてもいけないし、影のように後についてもいけない。息と同時に進むのだ。

 

息と意識がひとつにならなければならない。息が入れば、自分も入る。そうしてはじめて、二つの息の間にあるポイントがつかめるだろう。それは簡単なことではない。

 

息とともに内に入り、息とともに外に出る。入って、出て、入って、出て・・・・・。仏陀は特にこの瞑想を用いようとしたため、これは仏教の瞑想法となった。仏教用語で、これは安般守意(アナパナサティー―――ヴィパサナの一種)と呼ばれている。仏陀の悟りはこの技法ひとつに基づいていた。

 

呼吸への〈意識〉、呼吸への〈気づき〉を実修していれば、ある日突然、知らないうちにその狭間にやってくる。気づきが鋭く、深く、強烈になるにつれ、あなたの気づきが括弧でくくられるにつれて、全世界がその括弧からはずされてしまう。出入りする息だけが世界であり、自分の意識の全領域だ。突如として、あなたは息をしていないすき間を感じる。

細心の注意を払って息とともに動いていれば、息のないときに気づかぬわけがない。不意に、息がないことに気づく。息の出入りのない瞬間が感じられる。呼吸は完全に停止している。その停止のなかに 「恩恵」がある。』

(新瞑想法入門/OSHO/市民出版社P166-167から引用)

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隙間理論とヴィパッサナー-1

2024-07-05 05:51:46 | 覚醒のアーキテクチャー

◎呼吸のすき間を見守る

 

隙間理論は、ヴィパッサナーとも親縁性がある。

隙間理論とは、時間とは、〈有〉〈有〉〈有〉とのべつ幕無しに進行しているわけでなく〈有〉〈隙間〉〈有〉〈隙間〉〈有〉と進行しているが、       

〈有〉だけが現象であるというもの。

これがヴィパッサナーによると、〈呼気〉〈隙間〉〈吸気〉〈隙間〉〈呼気〉〈隙間〉〈吸気〉〈隙間〉になる。人間は、〈呼気〉で死に、〈吸気〉で再生を繰り返している。ただし、厳密に見ると、これらは、連続しているわけでなく、〈隙間〉で分断している。〈隙間〉には何もない。これぞ色即是空の実態。

 

OSHOバグワンによると、ヴィパッサナーは、もともとはインド発祥だが、東洋全体に広がったテクニックだという。釈迦がこれで菩提樹下で悟ったテクニック。

 

以下の引用文は、『新瞑想法入門』からだが、日本語の字面は違うが、元の英語がほぼ同じであろうという内容の記述が、『内なる宇宙の発見』にもある。OSHOバグワンが詳細を丁寧に語ってくれている部分であって、とてもわかりやすい。

 

『呼吸のすき間を見守る

 

シヴァいわく

「光り輝く者よ、この体験が二つの息のあいだに現れ出さんことを・・・・・。息が入った後(下降)、まさに上へ向かう直前(外側)――― そこに恩恵がある」

 

息が入ってくるとき、よく見なさい。息が上へ向かうまえ、それが外向きに変わるまえ、一瞬、または 一瞬のなかのごくわずかな瞬間では、呼吸がなされていない。息が入り、それから、ある地点にきて呼吸が止まる。それからまた、呼吸が出てゆく。息が出てゆくと、再び、一瞬、または一瞬のなかのどこかで呼吸が止まる。それから、呼吸が入ってくる。息の出入りのまえに、呼吸していない瞬間がある。その瞬間、何かが可能だ。

 

呼吸していないときには世界のなかにいないからだ。いいかね。呼吸をしていなければ死んでいる。あなたは静止しているが、死んでいるのだ。だがその瞬間があまりにも短いため、それに 見入ることはけっしてない。

 

吸う息は再誕生で、吐く息は死だ。外へ出る息は死と同義で、内へ入る息は生と同義だ。人はそれぞれの息で死に、再び生まれる。その二つのすき間(合い間)は非常に短い。だが、熱心な観察と細心の注意力があれば、そのすき間を感じ取れるだろう。そしたら、それ以外には何も必要ではない。あなたは祝福されている。あなたは知っている。それが起こったのだ。

 

呼吸を訓練するのではない。呼吸はありのままでよい。なんという単純な技法だろう。それは実に単純にみえる。真理を知るのにこんな単純な技法でよいのだろうか。真理を知るとは、不生不滅のものを知ることだ。つねに変わらずにある永遠の原理を知ることだ。吐く息や、吸う息なら知ることもできる。が、この二つの息の狭間について、人は何も知らない。』

(新瞑想法入門/OSHO/市民出版社P165-166から引用)

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冥想における意識と無意識-2

2024-07-04 06:13:13 | 覚醒のアーキテクチャー

◎ヴィパッサナー(アナパナサティ・ヨーガ)と不眠

 

冥想とは一般に意識的である訓練であるが、只管打坐も意識的であり、ヴィパッサナー(アナパナサティ・ヨーガ)も出入りの息を見つめ続けるのだから意識的である。

 

ある日、OSHOバグワンのところに三か月眠れない仏教僧がやってきた。彼の手足は震え、絶えず汗をかき、ひどいノイローゼだった。精神安定剤も不眠には効かず、落ち着かないまま横たわるだけだった。

彼が、ヴィパッサナー(アナパナサティ・ヨーガ)をやっていたことを確認すると、OSHOバグワンは、なんと、眠ろうとするのはあきらめなさい、ヴィパッサナーは、眠りを不可能にする修行だから、と宣告した。

OSHOバグワンは、実はヴィパッサナーには、不眠の第一ステップのままでは、狂ったり死んだりすることがあるので、それを避ける第二ステップの冥想法があると言う。

ただし、第二ステップの冥想法はどの本にも載っていない。なぜならヴィパッサナーで不眠になった修行者だけに与えられるべき「鍵」だからであると。

 

OSHOバグワンは、「鍵」は、それを与えられるべき準備ができた修行者だけが受けるべきであり、「鍵」とは、そのような修行者に与えられるべき秘密の隠された巡礼地であるという。

(参照:隠された神秘/和尚/市民出版社p70-72)

 

世には隠されたマントラ、秘境、秘密の冥想法がある。だが、それを大金を出しただけで与えるというようなのは、準備ができているいないにかかわらず与えるということで、それだけでまともではないのはわかるのではないか。

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冥想における意識と無意識-1

2024-07-02 07:16:20 | 覚醒のアーキテクチャー

◎肉体意識から夢を見ないまで

 

古代インドでプラジャーパティが熟眠中でも夢を見ない意識状態を至高のものとして求めて以来、冥想修行者にとって無意識をすべて意識化することが、最終的目標である。アメリカの覚者ケン・ウィルバーですら、熟眠中でも夢を見ない意識状態到達には苦戦した。

 

無意識の意識化について、OSHOバグワンは、一歩踏み込んだことを言っている。薬物のように肉体レベルの化学作用が人を酔ったり無意識にしたりできるということは、一般に薬物の方が人間の意識より強力だということ。ところが、タントラの技法では、人を酔ったり無意識にしたりする薬物を摂取しても人は意識的なままでいることができるとする。

 

このような例としては、ラム・ダスの出会ったニーム・カロリ・ババ(マハラジ)が、普通の人が飲む6倍もの強烈な効き目のLSDを3錠飲ませても平気だった例や階段から落ちて大けがで痛みに苦しむ人が観想法で痛みを感じなくなった例などがある。

 

OSHOバグワンは、薬剤による効果や、怒りや性欲、嫉妬ですら肉体レベルで起こる、無意識が意識を押しのける作用だが、それが起きた時にそれに翻弄されないようにするには冥想すればよいという。こうした肉体レベルの作用が起きた時に、意識的であって観照者でいなさいと、彼は言う。(参照:秘教の心理学/OSHO/めるくまーるP268-270)

 

肉体死のプロセスも容易に無意識になっていくプロセスだが、そこで意識的になれば、神に出会うことができるとチベット死者の書では言っている。

 

ソクラテスは、毒杯を飲みながら自分の肉体が麻痺していく様を自分で実況中継した。

スーフィのホセイン・マンスール・ハッラージは、斬首台の上でしか語れぬ、神との秘密を明かした。

 

こうした例は、肉体意識が意識のすべてではないという側面が強いが、熟眠中でも夢を見ない意識状態とは、肉体意識のことでなく、微細身レベルのことで一歩進んでいる。

 

無意識には生の世界も死の世界もあり、冥想修行とは、無意識を意識化することだと一言で云うのは易いが、底知れぬ深みがある。

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ヴィパッサナーとボクシング

2024-06-23 07:26:27 | 覚醒のアーキテクチャー

◎感情が優勢で思考は効かなくなるブリザードでの冥想

 

現象という動画は、無数の静止画と隙間によってできている。隙間が無(ニルヴァーナ)であって、静止画が有(アートマン)。

よって人間は静止画は認識できていると思い込んでいるから、冥想とは、隙間を認識しようとすること。

 

2千年前は人間の中心は肚だったが、次第に胸に移り、今人間の中心は頭に移った。これを頭人間と云う。

標高8千メートル以上の高山では、感情が優勢となり、思考は効かなくなる。感情とは無意識の側であり、思考とは意識の側。無意識の側にも静止画の側と隙間の側の両方がある。人間は無意識の側が完全に優勢になれば、これを発狂と呼ぶ。

冥想修行とは、無意識を操作することだが、コントロールしづらくなる無意識のブリザードの中で、神仏のサポートを受けつつ、素直で冷静に最終段階まで自分を失わず、持っていくのが、大変なところ。なお最終段階では、自分を棄てて飛び込まないと、先へは行かない。

想念の消し方については、いくつか例を挙げてみた。それ以外にヴィパッサナー(呼吸覚醒:アナパーナサティ)というのもある。

ヴィパッサナーは、釈迦がこれで覚醒したという技法。ヴィパッサナーといっても単発の冥想テクニックではなく、複数技法の複合。アーサナとプラーナヤーマで身体の質を変え、ヴィパッサナーで入息出息を見つめ心の質を変えると、自分が体でも心でもない一つになった瞬間が来る。ここで気づいている自分のない、“気づき”そのものになった時が、爆発、ジャンプアウトのチャンス。

 

なおヴィパッサナーは、発狂しやすいということをダンテス・ダイジはコメントしている。終始入息出息を見つめるという行は頭人間である現代人には難しいのだろうか。

 

ボクシング世界チャンピオン井上尚弥は、人間は3分間集中し続けるのはむずかしいと言っていたわけだが、なんと2024年5月6日のルイス・ネリとのタイトルマッチで生涯初のダウンを喫した。この試合は、井上尚弥の勝利となったが、井上尚弥ですら3分間集中し続けるのは難しいということなのだろう。

その点で、釈迦は集中を継続し得たのだろうからすごい。その状況は、おそらく標高8千メートル級の死の地帯で、感情が優勢となり、思考は効かなくなるブリザード状態でのヴィパッサナー。そこを突破し得た者だけが、窮極ニルヴァーナに至る。だから釈迦は英雄と呼ばれる。

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人類の進化は80億人均等に起きるわけではない

2023-11-12 07:08:42 | 覚醒のアーキテクチャー

◎先進国人と発展途上国人

 

誰にでもわかる人類の進化の徴候とは、現代人は昔に比べれば、悲しいことをより悲しがり、苦しいことをより苦しがり、うれしいことをよりうれしがるようになったということ。これを単に感受性がより敏感になったということで片付けることもできる。だが真相は、ある程度の鈍感さを必要とする人間の物質的営みに堪えることに限界がきて、愛が根底にある感性が強化されてきたということ。平たく言えば、モノと金主体で生きていくことに本能的に感情的に抵抗を示して素直に感情を表出する人が増えてきたということ。

この感情の繊細さは、冥想のニーズへの知的理解と相乗して、時代の終わりにおける冥想流行を支えていく。

 

こうした状況は、私の見るところ先進国人に起こるものであって、中国を含む発展途上国人にはめったに起こらない。発展途上国を生き抜くには、ある意味で非常な鈍感さが必要なものであって、今日(2023年11月12日)現在ガザで白兵戦が行われているが、白兵戦後に正気で帰って来るには、そうした感性の鈍麻が必要なものなのではないかと思う。

感性の鈍麻とは、たとえば漫画家吾妻ひでおが過度の飲酒でアルコール依存症となり、ほとんど人事不省となった時期に家を留守にして、何日か後に帰宅したら、家電家財金目のものをすべて知り合いが奪って行って、自宅には何も残っていなかった由。そういうことができるような人を感性の鈍麻という。

先進国人も発展途上国人も皆スマホを駆使して英語を理解できるが、それはライフスタイルの外形が共通なだけであって、中味はそのように全く異なる。要するにおおまかには先進国人は大悟覚醒の準備が整っているのに対し、発展途上国人はまだの人がほとんど。

日本政府は、難民条約上の「難民」に該当しない紛争避難民を「補完的保護対象者」(準難民)として保護する制度を来月2023年12月1日に施行する。この制度によって、ガザやウクライナや将来の朝鮮戦争や中国内戦時に発生する紛争難民を受け入れる体制が整ったので、日本は世界の紛争難民の受け皿となった。これは現在の欧米が難民・移民受け入れにより治安が大きく悪化した結果を見れば、日本の治安悪化による生活コスト増は良民の懐と心理を圧迫する。これもLGBTQ法制と並んで岸田政権の少子化対策逆行策の一例。

これは既に収入の半分を税金・社会保険料・再生エネルギー賦課金で持っていかれる五公五民の生活がさらに苦しくなるということであって、冥想環境は悪化する。

2023年9/30(土) 17:16のyahooニュース〔民間の平均給与「37万円」の過酷…一方で露わになる「勝ち組公務員」の給与額〕によれば、「民間の平均年間給与は443万円なのに対し、公務員の年収約672万円と1.5倍以上差が開いている。」。それににもかかわらず、最近官民格差是正名目でさらに公務員給与が上がった。財源は税金。退職金・年金を含めるとこの差は更に大きいのではないか。このままの趨勢で行けば公務員年収が民間の倍になる日もあるだろう。昔、ダンテス・ダイジが「日本は給料を半分にするかどうか迫られる時代があって、それは日本の分岐点になる」と言ったが、半分にするのは、公務員年収のことだったかと思い当たる(あるいは預金封鎖&円の大幅切り下げ)。それは、応仁の乱以来の政府の管理統制自体が問われる時であり、その管理統制の外に出る人が相当数出てくる時期なのだろう。

 

閑話休題、人類の進化に向けた進歩とは、文明の進歩に合わせた新たな冥想文明への可能性への歩みということ。

肉体の進化の結果、大脳は悟りに堪えられるようになった。

肉体ではないレベルに対して感受性が開けた人が増えつつある。

そして無から始まり無に終わる輪廻のことをカルパ・劫と呼ぶが、それを実際にビジョンとして見ることは大変だが、それを七つの身体論などで知的に理解することはまだたやすい。

今や人間の精神も肉体も進化し、抑圧なしで神仏を知ることができるところまでやってきた。このタイミングが組織宗教の命脈の終わりなので、釈迦はこれを末法と見て、キリスト教の予言者マラキーは最後のローマ教皇を幻視し、ファティマ第三の秘密ではカトリックの終わりがささやかれ、ダライラマは自分が最後のダライラマだとしている。かくして万人が直接神仏を知る時代となる。

水平の悟りと垂直の悟りとは、それに向けた二本の灯台のようなものだ。

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水が変わったとき

2023-09-11 07:03:25 | 覚醒のアーキテクチャー

◎ちょっと狂っていることが正常とされる現代

 

スーフィの逸話から。

『3-水が変わったとき

 

昔々、モーセの師のハディルが、人間に警告を発した。やがて時がくると、特別に貯蔵された水以外はすべて干上がってしまい、その後は水の性質が変わって、人々を狂わせてしまうであろう、と。

ひとりの男だけがこの警告に耳を傾けた。その男は水を集め、安全な場所に貯蔵し、水の性質が変わる日に備えた。

やがて、ハディルの予言していたその日がやってきた。小川は流れを止め、井戸は干上がり、警告を聞いていた男はその光景を目にすると、隠れ家に行って貯蔵していた水を飲んだ。そして、ふたたび滝が流れはじめたのを見て、男は街に戻っていったのだった。

人々は以前とはまったく違ったやり方で話したり、考えたりしていた。しかも彼らは、ハディルの警告や、水が干上がったことを、まったく覚えていなかったのである。男は人々と話をしているうちに、自分が気違いだと思われているのに気づいた。人々は彼に対して哀れみや敵意しか示さず、その話をまともに聞こうとはしなかった。

男ははじめ、新しい水をまったく飲もうとしなかった。隠れ家に行って、貯蔵していた水を飲んでいたが、しだいにみんなと違ったやり方で暮らしたり、考えたり、行動することに耐えられなくなり、 ついにある日、新しい水を飲む決心をした。そして、新しい水を飲むと、この男もほかの人間と同じになり、自分の蓄えていた特別な水のことをすっかり忘れてしまった。そして仲間たちからは、狂気 から奇跡的に回復した男と呼ばれたのであった。』

(スーフィーの物語 ダルヴィーシュの伝承/イドリース・シャー/平河出版社P24-25から引用)

 

まず、水が変わった後は、男は狂っていると周囲から見られていたこと。これは、現代のように、ちょっと狂っていることが正常とされる現代において、大悟覚醒した人物はかえって周囲から気違いだと思われていることを指す。

悟った人の特徴とは、素直であること、正直であること、情熱的であること、リラックスしていることなどと言われるが、本質的には、善いことばかり行って、悪いことをしない(諸悪莫作、衆善奉行)である。

この功利優先、お金崇拝、スーパーリッチ尊敬の異常な時代において、自分のことをさしおいて、そのような他人の幸福を優先する生き方は、気違いに見えがちなものだ。

そういう善悪の物差しを具体的に説かねばならなかった中国は、道教の善書と言われる善行悪行の基準書が歴史的に存在し続けた。有名なのは功過格。何が善で何が悪か迷うことの多い現代人にとって、功過格を眺めるのは参考になろうし、excelで善行悪行の累計フォーマットを作るのもよい。だが、積善の家に余慶(思わぬ幸福)あり、積不善の家に余殃(わざわい)あり(易経)というが、そのような同一次元上には、永久不壊の真の幸福はない。

 

この逸話の水が変わるとは、次元が変わる世界のことを言っていて、ここでは、どのように徹底的に世界が変わるのかという雰囲気を出すだけに終わっている。

そうしたほのめかしだけで、法や真理、神仏、究極を説かない説話は結構あるものだが、気がつく人は気がつくものだ。金星人とか火星人とか他の惑星の世界のことを言うのも、そのように世界が全く変わってしまうことを強調しているのであって、惑星間旅行の話ではない。

壺中天、シャンバラ、アガルタもその類だが、水が変わるには、いろいろなレベルでの変わり方があるものだ。

 

功過格について(功過格(毎日の行動を善悪に分けて採点する)) 

功過格表-1(善行篇)(功過格の実際のやり方) 

功過格表-2(悪行篇)(功過格表-2(悪行篇) )

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大都会の愚か者

2023-09-10 06:56:40 | 覚醒のアーキテクチャー

◎いったい俺は何者で、どこにいるのだ

 

スーフィの逸話から。

『23-大都会の愚か者

 

人間は眠っている。目覚めなければならない。いろんな目覚め方があるが、正しい方法はひとつだけである。これはその目覚め方が正しくなかった愚か者の話である。

ある愚か者が巨大な街を訪れたとき、通りにあふれる夥しい人々の群れを見て、頭が混乱してしま った。これだけ大勢の人々の中にいると、朝、目を覚ましたとき、自分がどこにいるのか分からなくなってしまうかもしれない。そう考えた愚か者は、夜、宿屋で眠りにつくとき、自分を識別する目印 として、瓢箪を足首に巻きつけた。

それを見ていたいたずら好きの男が、愚か者の足から瓢箪をはずし、自分の足にくくりつけて眠りについた。愚か者は目を覚ましたとき、瓢箪を目にして、そこに寝ているのは自分なのだと思った。しかし次の瞬間、彼は叫びながら、その眠っている男に襲いかかっていった。「おまえが俺なら、いったい俺は何者で、どこにいるのだ!」』

(スーフィーの物語 ダルヴィーシュの伝承/イドリース・シャー/平河出版社P92から引用)

 

大学生の頃、故郷での長い夏休みを終えて上京し、新幹線を降りて電車に乗った瞬間、見知らぬ他の乗客が沢山いるのに驚いて、多数の「見知らぬ人に取り囲まれている」ことの違和感を感じさせられたものだった。

それは、後年さる体験の中で、自分が誰だかわからない、どこにいるのかわからないという認識状態を実感することになり、さらに深みを増した。その状態は、数時間で終わったが、自分は一体何者かという状態は、万人の心理の基層に存在しているものだろうという実感を得た。

あえて七つの身体論で言えば、個ではあって個人ではあるが、社会性がない状態であって、コーザル体というそれ自体がコスモスであるような個の極みというような極まった感のある状態とはとても思えなかった。

 

この『大都会の愚か者』は、自らの足首に瓢箪をつけるが、そのような心理状態に至って、やむなく自分のアイデンティティを自分で確認するためにそうしたのだろう。他人はいるのだろうが、自分が誰だかわからないという厄介な状態である。

いたずら男は、その瓢箪を奪って自分の足につけて、更に愚か者を混乱させる挙に出た。愚か者は、元の俗人の意識に戻るか、その直観から悟りに進むか、混乱に止まり発狂・自殺に行くかと、いくつかの選択肢があるのだろう。

私は、そんな風になった際、ひどく困惑したが、悟りのさの字も思わなかった。今思えば、バーナデット・ロバ-ツという女性の、自分はなくなったものの神も見つからないという状況に近かっただろうか。いや自分はなくなっていないが、神もなく、その時はまだ準備ができていなかったのか。

 

参考:

暗夜から光へ-1(暗夜について)
暗夜から光へ-2(第一夜について)
暗夜から光へ-3(第二夜について)
暗夜から光へ-4(バーナデット・ロバーツの第三夜-1)
暗夜から光へ-5(バーナデット・ロバーツの第三夜-2)
エノクは神に連れ去られた(さてその後は死ぬるばかりよ)
暗夜から光へ-6(バーナデット・ロバーツの第三夜-3)
暗夜から光へ-7(バーナデット・ロバーツの第三夜-4)
暗夜から光へ-8(バーナデット・ロバーツの第三夜-5)
暗夜から光へ-9(バーナデット・ロバーツの第三夜-6)
暗夜から光へ-10(バーナデット・ロバーツの第三夜-7)
暗夜から光へ-11(バーナデット・ロバーツの第三夜-8)
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三身(法身、報身、化身)を七つの身体で説明

2023-08-14 07:13:45 | 覚醒のアーキテクチャー

◎報身はある種のバイブレーションか

 

三身(法身、報身、化身)を七つの身体で説明しているのは、OSHOバグワン。

一般に三身とは、法身(真理そのもの)、報身(人々の救済に現れる仏・菩薩)、化身(応身。歴史上の仏陀など、衆生教化の対象に応じて現れた仏) などと定義される。

 

OSHOバグワンによれば、

化身:

『まず最初に見ることができるのは、化身だ――それは光の薄い層の身体で、肉体より四インチほど大きい。それは肉体のすぐまわりにある四インチ幅の光のオーラ、ごく柔らかな光のオーラだ。 これは「転生の身体」であり、それゆえに、人が死ぬ前―キルリアンが発見したように――人が死ぬ六か月前になると、この身体は消え去ってゆく。それは人の存在の内側に収縮する。それが中心に戻り、大きなオーラがただの光の点になるには六か月を要する。そしてこの小さな光の点は、あなたの身体がまだここにとどまっているあいだに転生する。』

(ボーディダルマ/和尚/めるくまーるP443から引用。)

 

雑誌ムーのファンならキルリアン写真は知っているだろう。この光の層は、誰でも見えるわけではないが、覚者にポジティイブな関心を持つ人(学生)が覚者を見れば見れるという。『人が死ぬ六か月前になると、この身体は消え去ってゆく』とあり、また6か月後の死の時点では点として存在しているからには、肉体の死後数時間で崩壊すると言われるエーテル体のことか。おまけにこれは転生までするというし。

これは霊衣のこととは思えない。

 

報身:

『だが、もうすこし理解の深い人々は、より神秘的な身体、この薄い光の層の背後に隠されている、仏教の教典中では「報身」として知られている、さらに厚い光の層の身体を見ることができる。それは充分に瞑想を続けてきたため、このうえもなく報いを受けている人にのみ生ずるもの だ。そのような人は、この世における最高の宝物、最高の報いである完全な静寂を知るに至っ ている。報身は、静寂の身体だ。だが、それはゴータマ・ブッダに非常に接近した人たちにしか見ることができない。』

(上掲書P444から引用)

 

『報身とは、実際には、〈存在〉が誰かの瞑想、誰かの静寂を認めて、その人の上に花々を振りまいている状態のことだ。誰かが光明を得たとき、〈存在〉はこのうえもなく幸福を感ずる。なぜなら、

〈ひとりの人物の光明〉(エンライトンメント)は結果的に多くの人々の〈光明〉のきっかけになるからだ。それは何世紀にもわたって続いてゆく長い長い連鎖になりうる。たとえば、ゴータマ・ブッダの〈光明〉をきっかけとするなにかが、いまだに人々を〈光明〉へ導く誘因になっている。二五世紀も経過したのに、それはいまだに続いている。それは連鎖反応だ。』

(上掲書P445から引用)

 

覚者と同じ変容を求めている覚者の弟子だけが、覚者の報身を見ることができる。

つまりたゆまぬ冥想により完全な静寂を実現した覚者は、ある種のバイブレーションを発生させるものであり、たとえば “弟子”が釈迦の故地に行けば、そのバイブレーションを死後2千5百年後でも感得できるものだと言っているように思う。誰にでも感じられるものではないだろう。

 

ダンテス・ダイジは、大本教の奥津城でそのバイブレーションを感得したという。

 

報身は、身体という表現だが、七つの身体のように誰にでもあるボディではなく、完全な静寂を実現した者にのみ起こるバイブレーションなのではないか。

 

法身:

師と混じり合い溶け込んだ弟子(帰依者)だけが、師の法身(真理そのもの)を知る。だが達磨は、帰依者は師の法身を自分と別物だと認識しており、まだ「私」が残っている段階と戒める。その先にからりと晴れた虚空、大空(真理)がある。

 

一般に定義される三身とは別のパースペクティブでOSHOバグワンは見ているが、常識的社会人にこれを説明するのは容易ではない。またそもそも霊的な見方でもない。

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正師だけがあなただけに最適の指導ができる

2023-08-05 06:32:48 | 覚醒のアーキテクチャー

◎グル(導師)あらずんば知識あらず

 

『Overview of the meditation 冥想の全体像』のカテゴリーにも書いたが、正師は冥想修行において必要欠くべからざるものである。

 

正師(グル)の必要性について、いくつかの眼目はあるが、これまでほとんど指摘してこなかった視点は、経典・教学・教義は我々自身に最適の方法を与えてくれないが、正師(グル)だけが、その場その時点で最適な冥想の方向性、こつをアドバイスしてくれるものだということ。

つまり、死んだテキストでなく生きている生身の正師(グル)だけが揺れ動く千差万別のわれら個々人の状況を観察、把握して、悟りに向かう的確なアドバイスを与えてくれるものだということ。

 

このことは、実際に正師(グル)に出会ってみれば、問答無用でわかること。

 

またこのことは、冥想修行の二重の不確実性をクリアしていくために必須である。二重の不確実性とは、魂の経験値の問題と冥想手法とその結果がリンクしない問題ということだが、自分を本当にわかってくれる正師(グル)だけが、そこを観察し得て親身に指導してくれる。

 

OSHOバグワンもそのことを指摘している。曰く、指示された冥想手法や知識は、ある弟子個人だけに極秘にプライベートに向けられたものであり、それを知り得た他人がそれを用いるのは有害だったり、危険だったり、致命的だったりするという点。よって師は弟子に口止めをする。

(参照:瞑想―祝祭の芸術/バグワン・シュリ・ラジニーシ/メルクマールP141-142)

 

勿論正師(グル)は、最低でも見神、見仏、見性体験を経ていないと、弟子の現状を見極めるというような芸当はできない。

 

弟子の現状を見極め、これ以上の修行ができない弟子は、魏伯陽の故事のようにそれ以上の修行をやめさせるということまである。

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リッチな父の家を捨てホームレスで流浪する

2023-06-27 06:24:55 | 覚醒のアーキテクチャー

◎捨父逃逝

 

捨父逃逝は、リッチな父の不肖の息子が、若い時分に家出をして、遠国で非正規の職を転々とし、最後はホームレスに落ちぶれ、父の邸宅の前で乞食をやっている。これに気づいた父親が、それとなく自家の簡単な仕事を斡旋してやり、何十年か続けさせたところで実家の家宰に取り立て、親子名乗りもするという物語。

 

これは、父をニルヴァーナに見立てた凡夫が悟りを開く物語。凡夫は、如来知の相続人である。

元々は法華経の信解品にある話であって、白隠禅師坐禅和讃にも、『長者の家の子となりて 貧里に迷うに異ならず』と出てくる。

昔は、これをもともと彼の人生観が転倒していたと批判して、 あえて迷いから悟りへの修行の過程を見せたわかりやすい題材などと評価していた。

今見ると、この話では、親子名乗りをするところが大悟覚醒であるが、実家での日々の努力の果てに順調に涅槃に至るみたいであって、逆転の雰囲気がないところが引っかかる。昔は、こういうような一本調子なものでも役に立ったのだろう。

本来、この親子名乗り直前のシーンでは、息子はそれまで生きて積み上げてきた人間関係、財産、家族、名誉、資格など、自分と自分の生きて来た宇宙全体が一度死ななければならない。それから初めて感動の再生が起こる。それが親子名乗り。

 

これは、大逆転シーンであって、タロット・カードなら吊るされた男。(吊るされた男の【逆位置】というのは何の意味もないと思う。)

組織宗教にあっては、こうした逆転シーンを強調するのは都合が悪かったのかもしれないが、現代の戦争を知らない人々ばかりの時代には、“逆転”を強調するのは、むしろ必須なのではないかと思う。

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組織宗教がすべて過去の記憶となる

2023-06-26 05:51:58 | 覚醒のアーキテクチャー

◎あなたのエゴと隷属をともに焼き尽くす火

 

OSHOバグワンは、アメリカ官憲に拘束されて毒(タリウムか?)を飲まされて、七週間苦しみ、その間7度脈拍が停止したこともあった。七週間後に痛みは引いたが、身体の不調は、亡くなるまでのあと一年ほど続いた。

彼の宗教コミューンを創造しようという運動は、アメリカ官憲からの追い出しによって破綻。当たり前だが、彼の宗教コミューンに参加したからといって、全員が神仏を知るわけではない。

以下の文章は、その頃の講話だが、構想の力点は、既に新宗教コミューン建設ではなく、既成組織宗教の崩壊の運命に移っている。

 

過去何千年の人類の歴史は、既成組織宗教が、抑圧を梃子として自分自身に向き合うことを促すことで、神仏を人間に気づかせるという形で行われてきた。

今や人間の精神も肉体も進化し、抑圧なしで神仏を知ることができるところまでやってきた。これを以て組織宗教の命脈の終わりとし、釈迦はこれを末法と見て、キリスト教の予言者マラキーは最後のローマ教皇を幻視し、ファティマ第三の秘密ではカトリックの終わりがささやかれ、ダライラマは自分が最後のダライラマだとしている。

利己主義と隷属は、抑圧を以て神仏を知るパターンを堅持する組織宗教の定番のやり方。万人が組織宗教を媒介とせず、直接神仏を知る時代となれば、組織宗教はすべて過去の記憶となる。

そうなれば、「拝みたい者には築山でも作って拝ませましょう。」などという軽口まで出てくる。

OSHOバグワンは、一歩進んで、組織宗教こそが、人類に抑圧を強制する構造を温存する古びた組織だから、これを破壊すべきだと踏み込んでいる。だが、組織宗教のステイク・ホルダーは多数いて、それは容易な道程ではない。

 

『私たちはここで新しい宗教を創ろうというわけではない。私たちはあらゆる手をつくして宗教すべてを破壊しようとしている。 諸々の宗教はもう十分、人類に害を及ぼしてきた。このうえ一日でもそれを許しておくことは、慈悲の意味を知る者、自分自身の存在の永遠性を知る者の意に反することだ。こういった組織宗教がすべて過去の記憶とならない限り、人間の生活からは、枷や、鎖や、様々な道徳がなくならない。そういったものは人間の意志に反して押しつけられたものだ。そのせいで人間は独立した一個人として生きることができない―――群衆に合わせて自己を制御しないといけない。それは醜い隷属だ。

何千年もの間、人間は様々な種類の隷属のうちに生きてきた。もう自由の味を忘れて いる。もう応答能力の美を忘れている。自分に翼のあること、大空が自分のものであることを忘れている。人間は動物のように棒につながれている必要はない。超越の鳥なのだから。

私はこれからもずっとみんなの中にどんどん火を起こしていく。その火はあなたのエゴと隷属をともに焼き尽くす。それによってあなたは自由になり、みずからの光となる。あなたの瞳にこそ、世界の希望がある。』

(ノーマインド 永遠の花々 和尚/講和 壮神社P87-88から引用)

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人類絶滅を回避する3つのポイント

2023-06-21 06:41:51 | 覚醒のアーキテクチャー

◎ちょっとの違い

 

1.苦しいこと、困難なことを本当にいやだと思うこと

世の中には、苦しいこと、困難なことを本当にいやだと思う人がいて、一方で苦しみや悩みがまんざらでもないと思う人がいる。

その差はちょっとではなく、天と地の差であり、人類絶滅を防ぐ鍵は意外にもそこである。

そこが冥想しようと思う人と思わない人の差。苦しいこと、困難なことを本当にいやだと思う人は、自分に素直に向かい、神仏に向かい冥想(瞑想)に向かう。また苦しみや悩みがまんざらでもないと思う人は、それをそのままに日々の生活を続けていく。

 

2.無用の用

無用の価値をわかる人は、コストパフォーマンスを無視してかかるからちょっと変わり者と思われるかもしれない。無用の用とは、世間的には役に立たないことに価値を見出すこと。それは実は、物質より精神を優先することであり、自分のことより他人のことを大事に思うということ。あるいは、この功利的な世界観・価値観を棄て、神の御意思を生きること。それは、しばしば価値観が逆転することであって、逆十字や倒立として象徴的に表現される。

 

3.選り好みをしない

選り好みをする人は悟れない。癖が強いとかこだわりがあること、ブランド好きを何かよいことのように見るのもほどほどに。

選り好みをしないのは、自分を極小にしていって、天の意志、神仏の意思つまり天機・天命を生きることだが、それには一度自分が死ぬという意識の極限状態を通過せねばならない。

そこで、選り好みをしないということは最終的には、彼我を越える、男女の別を越える、天国と地獄を越える、生死を越えるということになっていく。

 

人類絶滅を回避する3つのポイントと言えば大上段に振りかぶった物言いだが、そのポイントは、あまりにも身近な日常の行住坐臥にある。

ちゃんとわかった人ほどそれを大声裡に言わないのは、愛のデリカシーの故である。

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自分自身に出会う恐怖とは

2023-04-21 05:52:43 | 覚醒のアーキテクチャー

◎恐怖にかられても思考にしがみつかない

 

毎晩、眠りに落ちる時、エゴという私性はいつしかなくなり、朝起きるとすっきり爽やかになって生気が回復している。

深い眠りでは、自分の名前、肉体の美醜、太っているか痩せているか、自分がどこの誰か、学歴、職歴、貧乏か金持ちか、悪党か善人かもわからなくなる。これは、深い眠りでは無意識のうちに、エゴを忘れ、真理にタッチしているから、エネルギーが回復するメカニズムである。

 

ところが、夢を見る場合エゴが残っている。夢を見ている限り、真理にはタッチできない。だから一晩中夢を見ているような場合は、疲れ果てリフレッシュしない。

 

そこでこの現象を見て取ったウパニシャッドの哲人などが、熟眠中の夢を見ない状態を重視する。エゴがないからである。

 

冥想修行では、自分自身に直面せよ、本来の自己に直面せよなどという場合がある。エゴすなわち自分自身の不在が悟りにつながるメカニズムがあるが、そう一筋縄にはいかない。

 

以下引用文では、OSHOバグワンが、エゴに出会う恐怖から悟りへのプロセスについてさらりと説明している。

 

『ブッダが「私」と言うとき、それはけっして「私」を意味しているのではない、なぜなら、そこには誰もいないからだ。

 

この私性は、直面することによって消え失せる。その瞬間、恐怖に捉われるかもしれない。怖気づくかもしれない。こういう技法を深く実践する人の中には、恐怖にかられてこの技法から逃げだす人もたくさんいる。そもそも、自分の私性を感じ、それに直面するという状況、それは自分の死を迎えるのと同じだ。

 

つまり、「私」が消え去っていく、そして自分に死が起こりつつあるように感じる。 何か沈んでいくような感覚がある―――自分が下へ下へと沈んでいくような・・・・・・。それで、恐ろしくなり、そこから逃げ出し、思考にしがみついてしまう。思考は助けになる。思考の雲はそこにあり、それにしがみつけば恐怖は消え去る。

 

しかし、この恐怖はたいへん良いものだ。たいへん良い兆候だ。それはあなたが深くまで進んでいるということだ。そしてもっとも深い地点は、死だ。もし死の中に入ることができたら、あなたは不死となる。死の中に入った人間は、死ぬことがない。そのときには、死もまた周辺的なものとなる。中心ではなく、表層上の存在となる。私性が消え去ると、あなたは死と等しくなる。 古いものはもはやなく、新しいものが現れる。』

(ヴィギャンバイラブタントラ(7光と闇の瞑想)OSHO P272-273から引用)

ここでいう死は、肉体の死のことではなく、エゴの死のこと。

 

深い眠りに入る際に、その切り替わりを意識できれば、それはそのまま悟りだが、そう簡単なことではない。ケン・ウィルバーも何年もかかった。

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