◎道教の大立者張道陵の軌跡
『張道陵
張道陵、字を輔漢といい、張子房八世の孫である。身長九尺二寸、眉濃く広 く、頭頂は赤く、瞳の色は緑である。鼻は高く秀でていて、顔は角張り、左右 に長く伸びて、手を垂らせば膝の下まで届き、伏犀額の上に起伏して深く頭頂の上 まで切り込み、眼光鋭くして見る時人を射る 。
彼は後漢の光武帝の建武十年、天目山において生まれたのであるが、初め彼の母がある 夜夢に北斗星から身長一丈余、身に錦箔した衣を着た一人の偉人が降りて 来て、自分に薔薇香を授けると見て目が覚めた。その時着ていた衣服も居間も異 様の香気が満ちていて、一か月ばかりも散らなかった。さてその月から彼の 母は身ごもったのであるが、いよいよ彼を生むという時になると、瑞雲が室を立ち込め て瑞気が庭に満ち、室の中には一種の光明満ちて夜も昼のように明るく、また 以前のような異様の香気がして一日散ら なかったそうである 。
道陵生まれて七歳の 時道徳経を始めとし、 天文地理、河図、洛書、 緯の諸書を読んで皆 その蘊奥を極めてあっ たが、その後官に召し上げら れて役についた 。
しかし彼は元来仙術を究めるの志が深かったので、間もなく官を辞して北邙山に隠 れて居た 。その時一頭の白虎がいて、口に符文を含み、それを彼の傍に置いて何処へか立ち去ったと伝えられて居る 。
時の天子和帝が太傅の官に任じ侯に封ずるからと言って、三度ばかり詔を下して彼を徴されたけれど彼はついに応じな かった 。その後彼は蜀の地に行ったが、美国の深徹という山が深秀の趣に富んで居るのを見て大いに喜び、ついに鶴鳴山の奥に地を卜してここに隠れて居た 。この山に昔から一個の石鶴が在って、道を得た人がこの山に上る毎に必ず鳴くと伝えられて居たが、 彼がこの山に入った時、やはりこの石鶴が高く鳴っていたという 。
彼の弟子に深く天文の学を究め、黄老の道に通じた王長という者がいて、師の道陵と一緒に龍虎の二丹を練っていたが、 一年経つと、紅の光があって室に満ち、二年経つと青龍と白虎とが現れて交わる丹を練る鼎を守護し、 三年になった時に仙丹がようやく出来上がった 。その時道陵は年六十歳であったが、その丹を服して俄かに若返り、あたかも三十ほどの人のようになり、そして気力も往昔に増して、走 っている馬に追いつくことが出来た 。
その後彼は弟子の王長と共に北嵩山に上った時、一人の繍衣を着た天帝の使者 に会いこの山の中峰にある石室の中に三皇の内文と黄帝の九鼎と、外に太清丹経 とが収められて居る 。もしこれらを得て修業するならば昇天することが出来るであろうと告げられ、七日ばかり、斎戒沐浴した後、静かに件の石室の中へ入って見る と、今踏んだ地の下でコトコトと怪しい響がするので、そこを掘ってみると、それは 果たして使者が告げた丹経であった 。そこで件の丹経を反復繰り返して読み、ついに仙術の妙味を悟ることを得、また空中を自在に飛行し、あるいは種々の物に身を変化する の術を得た 。
その後彼は専ら山川の間に放浪吟歩して精神を養い、あるいは仙客に応接して長閑 に日を送って居たが、その時たまたま西城房陵の間に一個の白虎神がいて平生人の血を 吸うことを好み、毎年その郷人が人を殺して祭壇に供えなければ田畑を荒らして 無辜の人民に害を与えるということを聞いたので、早速その神を呼び寄せ、厳しくその心得違いを戒めて 永く人民の害を除いた 。
また梓州に一頭の大蛇がいて身を動かす毎に山岳振動し、そしてその吐くところの毒霧にあたって日に倒れるもの幾百ということを 知らぬと聞き、早速そこへ赴いて符を以て件の大蛇を禁縛し、二度と人民に 害をなさせぬようにした 。
時はあたかも順帝の壬午の歳正月十五日の夜である 。道陵独り鶴鳴山の頂に立って居ると何処ともなく鳴鶴の音がして、洋々たる天楽の響き聞こえ、香花地に布き 紫雲空に満ちる 。怪しんで東の空を眺めると雲の中に五頭の白龍に素車を見せて数千の天兵が車の前後左右を取り囲み、旌旗風に乱れて、月に輝く佩剣の光は秋の 夜の霜のようである 。熟々見れば件の車中に一人の神人が座して居る 。身の丈け一丈余、手に五明の扇を執り、頂に八景の円光があって、容貌玉の如く、神光 人を照らして正しく観ることが出来なかった 。その時一人の従者恭しく車の前に進み
出て、道陵に向かって、ここに在します君こそ即ち太上老君であると告げたので、道陵 も大いに驚き敬虔な威儀を正して礼拝すると、老君は道陵に向かって、近頃聞けば蜀の国 の青城山に八大魔王がいて人民を苦しめるそうであるが、これを退治せんものは 今の世に汝を置いて他に適当な者が居ない 。よって大儀であろうが、この大任を汝に命ずるほどに、随分身を粉にして彼ら魔神を征服してくれ、よろしく頼むぞと仰 せられて、正一盟威秘籙三清泉経九百三十巻、符籙、丹竈の秘訣七十二巻、外に雌雄 の剣二振、都功の印一個、衣冠、朱履等各一対を賜り、かつ言葉を継いで、もし件の魔 神を退治するにおいては、それは全く汝一人の大功であって、汝が名は長く丹台に 記録されて、未来永劫までも輝くことであろう、必ず身を軽くして過つような ことないように気を付けよ、今日から千日を期して、再び相見て汝に対面する であろうと言って、再び天上に昇られてしまった 。
そこで道陵はそれから毎日彼の秘文を玩味して、冥想、仙術を練り、邪神を降伏するの法を修めてその奥妙に達した ので、彼ら六大魔神征服のために青城山へ向かうこととなった 。
ここに八大魔王というは、青城山を根城として各数万の鬼兵を領し、広く人 間界に横行して天下の善民を悩まして居たが、この八大魔王というのは、第一は劉 元達といいて諸の疾病を掌り、第二は張元伯といいて瘟病を掌り、第三は趙公明 といいて下痢の病を掌り、第四は鐘子季といいて瘧を掌り、第五は史文業とい いて寒疫を掌り、第六は花巨卿といいて酸瘠を掌り第七は姚公伯といいて五毒(石肝、丹砂、雄黄、礬石、磁石)を掌り、第八は李公仲といいて人心を魅惑することを掌って居る 。』
張道陵は、天帝の使者から三皇の内文と黄帝の九鼎と、外に太清丹経を得るまでは、大悟覚醒の手がかりがなかった。
それ以外の事績は。、現世利益と奇跡譚ばかりで、見るべきものはないが、青城山を開いた部分は評価すべきだろう。
特に中国では、修行場を荒らされるのを恐れてか、修行場は秘密にしておくのかもしれない。