明治神宮

2010年10月21日 | 健康・病気
今日は、地下鉄千代田線乃木坂駅の近くにある
国立新美術館で開催されているゴッホ展に行くために家を出た。
早く出ればいいものを、いつものように、家を出たのは11時過ぎでした。
反省。
早いうちに家を出てれば、余裕を持って行動できるんですが、
それが出来なかった。

家でネットで調べると、国立新美術館は地下鉄千代田線乃木坂駅の続きだった。
清瀬の女房の家からでは、池袋に出て、山手線で原宿駅まで行き乗り換えて、
地下鉄の明治神宮前駅から2つ目の駅だった。

池袋から原宿まで行くことにした。
原宿駅は、21歳のときデザイン学校に通っていたとき毎日使っていた。
懐かしさで涙が出そうです。
外に出て、そこに行ってみようかなと思ったが、
明治神宮の杜を見て、行きたくなった。

明治神宮を歩いていくと、大きな緑の木が私を包む。
作られた緑ですが、素敵です。
この前に来たのはいつだったのかと思い返してみた。
独身の時に何度か来ていたが、いろいろ思い出して分かった。
息子たちの七五三に来ていた。
そのとき埼玉の富士見市というところに住んでいた。
息子たちが5歳のときに、来たんです。
息子たちは“当然”普段着です。
あの頃、金がなかった(今もですが)。
でも、なんか七五三に“箔(はく)”をつけたくて、
明治神宮に行きました。
レストランで食事もしなかった。
貧しい私たちは、鶴瀬(富士見市)の公団住宅の家を出て、
明治神宮に詣でて、どこにもよらずに家に帰った。それだけです。
それでも息子たちの七五三のお祝いをして私と女房は幸せでした。
あんな可愛い双子の息子たちの笑顔を見ていられる私たちは幸せだった。

「鎮座90年」なんですね。
奉納されたワインと日本酒が沢山ありました。

もう眠いです。
ゴッホ展のことは明日書きます。









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シントコ

2010年10月20日 | 健康・病気
12時半、女房の家に着きました。
ニセビールを飲み、買ってきた弁当を食べた。
それから眠たくてどうしょうもなかった。
疲れていたんだな、と思った。
寒かったけど、毛布など出す気力もなく寝ていた。
夕方5時過ぎに目が覚めました。

それから新所沢に行った。
駅前にマンションが建つようだ。
これができるとかなり景色が変わると思う。
私のシントコのイメージがちがってしまう。
ラオックスのあとにできたパチンコ屋でも、
ずいぶん雰囲気が変わってしまった。
街は生きているのだからそれはしかたのないことだろう。

肴やには、7時前に着いた。
肥さんがいてくれました。
お酒を飲み、楽しい話をした。
肥さんが8時過ぎに帰り、
私は、9時半頃肴やをでました。
それから久しぶりにラーメンを食べに山茂登(やまもと)に行った。
軽井沢に住んでからは行っていなかった。
味噌ラーメンをたのんだ。
うまかった、が900円は高い。
シントコに住んでいたときはよくここでラーメンを食べた。
一時期は、どこかで酒を飲んでくると必ず山茂登でラーメンを食べた。
でも、あと200円安くてもいいのではないのだろうか。

明日は、六本木のゴッホ展にでも行ってこよう。
そのあとギターを探しに行こう。

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明日東京へ行きます

2010年10月19日 | 健康・病気
さすがに10月になってからの仕事で精神的にも肉体的にも疲れました。
どうしても季候のいい10月になって、私の勤める施設では、
大きなイベントが続いています。

ホントは、明日女房が軽井沢に来る予定でした。
ところが彼女の働くグループの都合で、
どうしても休めなくなったと先週連絡があった。
それじゃ、ということで私が東京に行くことにした。

明日、東京の女房の家に行き、夜は新所沢の肴やに行く。
それだけで私の心はかなり解放される。
なんでだろう?
新所沢の駅を降りて、駅前を歩いているだけで楽しい。
パルコに入る。いろんな感情が蘇ってくる。
映画館には何度も行ったし、本屋で過ごす時間も好きだった。
地下のスーパーマーケットでは、よく買い物をした。
団地の中に足を踏み入れるとシントコでの歴史が3Dで飛び込んでくる。
なんといっても新所沢の団地は私の“ふるさと”です。
茨城の実家でも、20代の頃住んでいた東京の駒込でも、
息子たちの生まれた高島平でもない。
当然、今住んでいる軽井沢の周辺でもない。
所沢には24・5年暮らした。
私の人生で一番長い時間生活した街です。
できれば新所沢にずーっと住んでいたいのですが、それが出来ない。
哀しいです。

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肺がんと戦う魂の医師

2010年10月18日 | 健康・病気
「プロフェッショナル・仕事の流儀」(NHK総合 22:00 ~ 22:50)
「肺がんと戦う魂の医師▽進行がん・超絶の手術▽難病の少女に誓いの肺移植・命の物語」
というテレビ番組を観た。

私なんかの、日々の暮らしを反省しました。
この医師は、常に決断に迫られ、その決断が間違ったら1人の人間の命が消える。
でも明るいんだよな。
なんなんですかね。
私が、この仕事をしたら3日も続けられないと思う。

それにしても人間の顔というものは素晴らしい。
この医師も自分に嘘をつかずに、めいっぱい生きているからいい顔をしていた。
世の中そうなんだけど、ずるい顔が沢山いる。
あの人たちは、自分に嘘をつき、ごまかして生きているからみにくい顔になっている。。
私は、少なくとも自分には嘘をつかずに生きていこう。

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なんだか知らないが

2010年10月18日 | 健康・病気
阪神は、クライマックスシリーズに敗退したようですね。
私は、このところ仕事が夜遅くまでありスポーツニュースも観ていない。
何がなんだか分からないうちに、今年の私の“プロ野球”は終わったんですね。

ここ何年か野球の試合というものを観ていない。
BSは観られないし、巨人戦も地上波でやらないので、テレビ観戦が不可能になった。
寂しいですね。
来年の7月になったら、私はテレビも観られない。
(今のところ地デジのテレビを買う気がない)
野球の阪神戦を観たいなァ~

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演劇祭

2010年10月17日 | 健康・病気
昨日今日と私の施設で演劇祭をやりました。
昨日が2劇団、今日も2劇団が上演した。
今日の最後は、さいたま市で活動している演劇集団水無月という劇団です。
30年以上活動している劇団です。(九想話に何度も書いてます)
この劇団の前身のときに私は劇団員として芝居に出ていた。
今から34・5年前のことです。

本日、水無月が上演した芝居は、別役実作「眠っちゃいけない子守歌」でした。
素晴らしかった。いい芝居に出来上がっていた。
最後に、男1が雪に埋もれるシーンでは胸が熱くなってしまった。
水無月のこの芝居を私は以前観ている。
男1を演じているのはWさんです。
Wさんとは私が22歳のとき、東大生協駒場店に移籍になって知り合った。
それまで私は日本女子大生協にいた。
Wさんは映画が好きで、仕事中でも仕事が終わっても映画の話をしていた。
仕事が終わってから2人でよく映画を観に行った。
主に、渋谷・新宿・池袋、それに有楽町と銀座でした。
京橋フィルムセンターにも何度も行った。
演劇もよく観に行きました。

私が水無月の前身の劇団にいたときWさんはよく観に来てくれていた。
私が結婚した頃仕事も忙しくなり、住んでいるところも遠くなったので
その劇団をやめた。
それまで女房も劇団に入っていて一緒に稽古をしていました。

そのうちWさんが、水無月に入った。
それまで東京の三軒茶屋のアパートにいたのに大宮に引っ越していた。
私は驚きました。
それからWさんは水無月を支える人になっていきました。
ずーっと裏方をやっていたのに、なぜか4・5年前から役者もやるようになった。
最初に役者をやったときは、正直、ちゃんと観ていられなかった。
それが、今日はちがった。
いい演技していた。
ちょっと異常な男1をきっちり演じていた。
一皮むけた演技でした。
私は嬉しかった。
東大駒場で私と出会わなかったら、Wさんは芝居をやらなかったかも知れない。
それが、なんの運命か長野に来て演劇をやっている。
人間の人生なんて分からないもんですね。

東大生協駒場店にいたとき、野田秀樹の劇団、夢の遊眠社の芝居を観た。
まだ、夢の遊眠社が学生(アマチュア)のときです。
あのとき、野田秀樹はすごいと思った。
Wさんは、映画のシナリオを書いていた。
私は小説です。
一度だけ、もう1人小説を書くバイトのTくんと3人で同人誌を作ったことがありました。
わら半紙にガリ版刷りの同人誌です。
あの頃、私も小説を書くことに燃えていた。

次は、Wさんのちがう芝居を観てみたいです。
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ハナミズキ

2010年10月16日 | 健康・病気
10月なのにすみません。
5月生まれの私としては、ハナミズキが大好きです。
2年前までいた所沢の小手指にはハナミズキ並木がありました。
5月の連休の頃、たしか「ハナミズキ祭り」があった。
あの淡いピンク色がいい。
白いハナミズキもあります。
昔勤めていた東大駒場には白い大きなハナミズキがありました。
この頃は、小椋佳の「くぐりぬけた花水木」がすきだった。

11月のパンカーラでの「フォークソング祭り」で、
歌いたい曲をいろいろ考えています。
一青窈の「ハナミズキ」を歌いたいと思ってる。
おれの場合は、徳永英明バージョンで歌いたいと思う。
昔(40歳の頃)から徳永英明が好きだった。
「レイニーブルー」が大好きです。
しかし、声の高さが違う。
歌のうまさもすごい差がある。
でも、「ハナミズキ」を歌いたいと思っている。

9月に東京に行ったとき、映画の「ハナミズキ」を観た。
観たのは昔よく観ていた新所沢のパルコですが…。
なかなかいいストーリーでした。
ちょっと臭さもありましたが、よかったです。
そのシナリオライターは、あの富良野塾で倉本聰の教えを受けた人だった。
現在の暮らしの中で男女の恋を描くのは難しいと思う。
でも、“今”の恋がよく書かれていたと思う。
おれもがんばらねば…。


徳永英明 -ハナミズキ-




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神様は不公平

2010年10月15日 | 健康・病気

今朝の「森本毅郎スタンバイ」(TBSラジオ 6:30~8:30)の
8時20分頃のトークパレット金曜日「今週の編集手帳」は、
10月13日付の読売新聞の編集手帳に書いてある池辺良のことだった。
> ◆たぐいまれなる美貌(びぼう)の人に長寿を恵み、
> 文学賞を手にする文才までお与えになる。
> 神様とは、そう公平なお方でもないらしい。

おれも、つくづく神様は公平じゃないと思う。
でも、そんな神様の下で人間は生きていくんです。
日々、もうちょっとおれにもいいことありますようとお願いしている。
でも、あまりないんだよな。
ま、健康だったらいいか、と諦めています。
健康だったら、最高です。
 
それにしても、「今週の編集手帳」に沢山のメールやFAXが来ている。
みんな、日々、神様の不公平を感じているんですね。



 

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ギターが欲しい

2010年10月14日 | 健康・病気
アコースティックギターが欲しいです。
こんど11月27日に、パンカーラで「第2回フォークソング祭り」がある。
前回のときは、19歳のときに買ったガットギターを弾いた。
でもやっぱりフォークソングは、フォークギターを弾きたい。
昔はフォークギターと呼んでいたけど、今はアコースティックギターなんですね。

今持っているガットギターは、39年前に4万円で買った手工品です。
私は、高校を卒業して東京にある手工品のギター工房に就職した。
そこでマンドリンとギターの制作をちょこっと経験した。
そして、3ヶ月で挫折して田舎に帰った。
このことは何度か九想話に書いている。
出来たら自分のギターぐらい作って辞めればよかったのですが、若かったんですね。
5月のある朝、親方に辞めたいことを話して、その日のうちにそこを飛び出た。
兄弟子と布団をリヤカーに積んで、西武池袋線の石神井公園駅まで歩いていった。
そのギター工房に入ったその日、近くの銭湯に弟子3人で行ったとき、
その兄弟子がいった。「おれは、もうすぐここを辞める」と。
そのギター工房は、4階建てのビルで4階が弟子の寮だった。
その27歳の兄弟子は、フラメンコギターがうまかった。
21歳の兄弟子も辞めるといった。この人はポピュラーな曲が上手だった。
そんなお先真っ暗な状態で私の弟子暮らしは始まった。
兄弟子たちは、ことあるごとに「辞める。辞める」といっていた。
18歳の私は、そんなところがイヤになって、私が一番最初に辞めてしまった。
そこにいたせいで、ギターを買うとき手工品を買いたかった。
田舎の金物屋で働いて、お金をためてお茶の水の楽器屋まで行って買った。
このギター、今でも良い音がします。
でも、アコースティックギターが欲しい。
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GONTITI in 軽井沢 

2010年10月13日 | 健康・病気
今夜は、ゴンチチのライブを軽井沢大賀ホールに観に行きました。
「まちフェスタ軽井沢 キックオフ イベント」というのがあった。
第5次軽井沢町長期振興計画の説明というのが、今日のメインのようだった。
軽井沢町長の挨拶なんて聴いてしまった。
初めて町長を見ました。
そのイベントの最後にゴンチチのコンサートがあったのです。

私は家を午後4時15分頃に出た。駐車場が心配だった。
しなの鉄道で行こうかなとも考えたが、やはり面倒なので車にした。
停めようと考えていた駐車場には道を間違えて停められなかった。
大賀ホールの前に駐車場があったのでそこに入れた。
駐車場は工事をしていて停められないとパンフレットに書いてあった。
そこに停めていいかどうか分からなかったが、ええいままよ、と停めてしまった。
まわりが工事用のフェンスに囲まれていて、砂利の地べただった。
時計を見ると4時半でした。
開場は5時半、それまで池のほとりの石のベンチに坐って本を読んでいた。
なんと今「カラマーゾフの兄弟2」を読んでいるのです。
「カラマーゾフの兄弟1」を読み終えて1年以上たっている。
「1Q84」を読んでしまったからなんだよな。
スーツを着た男の人が通りかかった。
「まちフェスタ軽井沢に来たんですか?」
「はい」
「ちょっと早いのですが、雨が降りそうなので開場しました」という。
私は、急いで大賀ホールの入り口に行った。

入場整理券と引き替えに座席指定券をもらった。
入場整理券は1週間ほど前に町の広報に載っていたので、
すぐメール出したら2日で郵送されてきた。
ホールに入り自分の席を探すと、一番前の席だった。
こんな前でギター演奏が観られるとはラッキーだと思った。

6時から女性の司会者が話し始めた。
プロの人だろうな、まさか町の職員ではないだろう。
しなやかな声の素敵な女の子だった。
町長の挨拶があり、「貴重映像で振り返る軽井沢」というビデオを観せられた。
明治時代から軽井沢がどのように保健保養所として発展してきたか、
というようなことを説明するビデオだった。
まあ、“自画自賛”の記録映画ですね。
こんなイベントは意味があるのか?
今日集まった町民はたかだか300人ぐらいだろうか?
大賀ホールの1階席が660です。観客は半分も入っていなかった。
でも意味があるんでしょうね、軽井沢町としては…。
どれぐらいの予算を使っているのだろう。

6時半に休憩、舞台転換のため15分だった。
トイレから戻ると、男性がギターのチューニングをしたり、
マイクの位置を確認していた。
赤い2台のギターが印象的だった。
その人がゴンチチのひとりかと思ったが、いやスタッフの人だと思い直した。
司会者のゴンチチのプロフィール紹介があり、2人が登場した。
ダークグレーのスーツを着た中高年だ。
ネットで調べたら、ゴンザレス三上1953年、チチ松村1954年生まれで、
1952年生まれの私と同年代なんですね。

いいギターの音だった。
高いんだろうな。
楽しかった。
いいライブだった。
(おれ、もっとギター練習しよう)と思った。
YouTubeを探したらありました。
この曲は、今夜の最後の曲だった。
当然、そのあとにアンコールはありましたが…。
ゴンチチの演奏はこれまでラジオなどで聴いていた。
それほど本気には聴いていなかった。
これから本気で聴いてみようと思う。


My Favorite Things GONTITI 


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