Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

エホバの証人問題のひと区切り

2008年04月08日 | エホバの証人のこと、宗教の話

 

 

 

 

 

エホバの証人問題の最終回として、最後にこの記事をご紹介します。

 

 


--------------------

 


「時間は何も解決してくれない」-悲嘆する人に寄り添う:「安易な励まし」自問

 誰しも必ずいつかは死ぬ。多くは大切な人を亡くす経験もするだろう。しかし、その悲しみは一様ではなく、深い悲嘆からすぐに立ち直れる場合もあれば、時間がたっても日常生活さえ困難なほどに苦しむ人もいる。そのような人に対して、どう接したらいいのか、どんな言葉をかけたらいいのか。「悲嘆」に向き合うことが宿命づけられた記者の一人として、ある講座の扉をたたいた。

 JR福知山線脱線事故の現場に近い聖トマス大(兵庫県尼崎市)で昨年10月から公開講座「『悲嘆』について学ぶ~愛する人をなくすということ」(3期1年半)が開かれている。JR西日本が費用を賄う寄付講座で、講師は末期がん患者や震災被災者の心のケアに当たる精神科医、宗教者、死別体験者らが務める。

 受講者約300人の中には同脱線事故の被害者の遺族が数十人いる一方、個人資格で登録したJR西日本の幹部らも交じる。「生と死を考える会全国協議会」会長で、この講座のコーディネーターを務める高木慶子・同大客員教授から「記事で死を扱う新聞記者にこそ学んでほしい」と勧められた。私はこの半年、取材時間を融通しながら第1期15回のうち9回を受講した(第2期は既に締め切り)。

 「とりあえず初回ぐらいは」のつもりだった私が途中で投げ出さなかったのは、講師の柏木哲夫・金城学院大学長が使った「安易な励まし」という言葉に引っかかったからだ。

 若い時、死を間際にした患者に「弱音をはきたかった時、先生に『もっと頑張りましょう』と言われ、二の句が継げず、やるせなくなった」と告げられた経験談に出てきた。遺言と受け止め、後にホスピス医として2500人をみとった柏木学長はこう語る。「弱音をはきたい時には、はき切ってもらう。死の恐怖におびえている時には、取り去ろうとするのでなく、恐れる気持ちに耳を傾けることが大切。励ましは時に心を傷付ける」

 柏木学長は悲嘆から立ち直るまでの12段階のプロセスも紹介した。身近な人の死後、最初に現れるのはショックによる現実感覚のまひ。続いて「何かの間違いだ」という否認。パニック、敵意、自責の念などと続き、抑うつ状態や無感動状態の末に死を受け入れ、立ち直る、というものだ。

 受講した脱線事故の遺族には、こうしたプロセスを経験した人も多く、大学には「自分の精神状態が理解できず戸惑っていたが、立ち直りへの道筋なのだと分かり、安心した」との声が寄せられているという。



  ×  ×  ×

 癒えない死別の悲しみを語る有名人も私の心をとらえた。昨年1月17日に交通事故で長女えみるちゃん(当時10歳)を亡くしたタレントの風見しんごさん(45)だ。風見さんは一周忌に合わせて、家族の思い出や事故の記憶をまとめた「えみるの赤いランドセル」(青志社)を出版した。交通安全を訴える講演活動も行う。

 「娘を奪われた悲しみは、この立場に立たされた者にしか分からない。それを広く伝えるのが芸能人である私の天命」と、取材の申し出に快く応じてくれた。

 えみるちゃんは学校へと家を出た直後、青信号で渡っていた近くの横断歩道でトラックにひかれた。風見さんが駆けつけた時もまだトラックの下だった。普通では考えられない向きにへしゃげた両足。内出血で腫れ上がった顔。瞳の中まで血で真っ赤になった目。「地獄とはあのことです」。風見さんは今も日に一、二度、その時の記憶が突然よみがえるフラッシュバックに襲われるが、「悲惨な現実を知ってもらうため」と、講演などでは忌まわしい記憶を包み隠さずに語る。

 「3カ月たてば、この程度は立ち直っているはず」「1年たてば、もう忘れられるだろう」。他人の勝手な想像を感じることもあるが、間違いだ。事故後しばらくは現実を受け止め切れず、「奇跡が起きて、ある日ひょっこり帰ってくるかも」と本気で考えていた。しかし、時間の経過とともに現実を受け入れざるを得なくなる。ただ、それは立ち直りを意味するものではない。「えみるは本当にもういないんだ」。その思いが逆に悲しみを倍加させる。「時間は何も解決してくれない。それが実感です」--。

 現在の風見さんは「寝ている時も芝居をしている時も24時間えみる用のアンテナを頭に立てて、天国からの声に耳を澄ませている」。彼女の人生が残したメッセージを理解することが、いつか天国で再会するための絶対条件と信じて。



  ×  ×  ×

 私は新聞記者としてこれまで取材や記事を通じて「安易な励まし」をしていなかったかと自問しながら受講を続けた。

 第1期を終え、たどり着いたのは「寄り添うこと」の大切さだった。柏木学長は「同じ体験がなければ『あなたの気持ちがよく分かる』とは言えないが、『つらいでしょうね』とは言える。それが癒やしにつながる」と話した。

 作家の柳田邦男さんは「二・五人称の視点」という言葉を使った。「他人の死」である三人称の視点は平等・冷静を保つために大事だが、身近な人を亡くす「二人称の死」の苦しみを理解する努力も重要ではないかと。

 第2期の講座開始を前に高木客員教授から私は「限りなく二人称に近づこうと寄り添わなければ二・五人称の視点は持てない。そうでない記事は言葉が上滑りして、すぐに分かる」とくぎを刺された。




毎日新聞 2008年4月2日 大阪朝刊


--------------------

 

わたしは多くの元エホバの証人が言うほどJWICの管理人さんに親しみを感じません。むさぼって読んでいたころもそうだし、今もそうです。それは何となく言葉の端々に私たちへのさげすみと、アメリカ社会流の学歴偏重の価値観を感じ取ったからです。「しょせんあの人は外部の人だ。それもアメリカの富裕層流の考え方に近い人だ」ということをひしひしと感じたのです。

元エホバの証人系のHPに付属していた掲示板でも、苦しみを吐き出す人へのさげすみと攻撃的傾向に嫌悪を覚えたことも多いです。とくに元2世となると、アダチル度が高いので、いい子でいたがったり、感情の濃密な吐露に過敏に反応したりする人、場をコントロールしようとする人、道徳や常識でかためた正論で乱暴な書き込みをする人を即攻撃したりする人が多いのもしょうがないといえばしょうがないのですが…。

ただそういう人たちが、自分はすでに達観しているようにふるまっていることには今でも我慢なりません。はっきりいえばこういう人たちこそウツ思考なのであり、鬱的であるというのはつまり思考が硬直しており、スキーマに完全に捉われているからです。でもそのころのわたしには反論する術を持たなかったため、いわれっぱなしでスゴスゴ「正論」のまえに敗退した書き込みした人と同じ立場にいました。

その後、精神医学や心理学のちょっと本格っぽい本を読み続けてゆくに連れ、反論する手がかりも少しずつふやすことができました。今なら、JWICの管理人さんにだってさえ正面から抗議する勇気もあります。もちろん掲示板の「偽教師」、「偽達観者」たちならどこまでもしつこく食い下がってやれます。でも時代は変わり、掲示板よりももっと個人的なブログの時代になりました。

ブログでは自分の独裁が利いて、自分にとって都合の悪い意見や反論を強制的に削除できます。でもそうすることがすでにその人の未熟さ、病的ナルシズムを雄弁に物語っているのです。少なくともわたしのブログではそんなことはしません。わいせつ系のコメントでも、それはその人なりの自己表現の仕方だろうと思うので、連続しない限りそのままにしています。

目を日本の社会に向けると、やはり弱った立場に落ち込んだ人へはバッシングこそすれ、励ましたり寄り添うことはめったになされないのです。多くの精神科医は、日本人には国民的性質としてうつ思考性が観察される、という文章を書かれたり、またそのような談話をされます。が、多くの人は注目しません。

まるで日本は危急の事態に追われており、人間を道具のように使い捨ててでも、何かにキャッチアップしなければならないかのように、デッドレースをしているようです。それは戦時下の様相をさえ示しているのです。個々人の都合や事情などにかまけていられないのだ、というような雰囲気…。こういう面にわたしはエホバの証人社会に似たものを見いだします。

つまづいてゆく人々は、その人たち自身が欠陥者であり、つまづいた人の自己責任だと言わんばかりの、弱者バッシングと暴力(心理的な暴力と体罰)礼賛、勝利至上主義。手段はどうあれ勝ち残った者勝ちだという投げやりな思考。元2世の多くの人はこういう思考にどっぷり漬かっているように感じることがあります。日本の社会はエホバの証人社会と酷似しています。それは個々人の事情にきめ細かく対応してゆこうという民主主義的な思考を面倒がり、もっと短絡に、自我を延長する対象としての「国家」や「民族精神」、「宗教組織」への帰依を重視する態度であり、それはようするに他者の威光によって自分を大きく見せようとする、動物の防衛本能にも似た精神態度が共通しているように思える、という意味です。精神科医に言わせると、そういう態度は、自分というアイデンティティが未成熟なため=自分に自信が持てず、他の人々を信頼できず、自分のほんとうの願望も感情も分からない人の思考様式なのだそうですが。



もう自分のブログでエホバの証人のことに重点を置くことは少なくなると思いますので、いままで掲示板かどこかで、弱っている人(=わざと乱暴な言葉を書きなぐったり、猥褻なことを書きなぐる人など)を正論でバッシングし、死をさえ本気で見つめているような人を軽蔑をもって迎える人を返り討ちにしてやる機会もないでしょう。

ただ、最後に「強くて成功した」元エホバの証人2世たちに言いたいことは、「資格のあるカウンセラーでもなければ、医師でもないあなたたちはどれほど偉いの?」「それほど偉くないのなら、なぜ言葉じりや表面上の汚さを問題にして、『なぜあえてこんな書き込みをするのだろう』と掘り下げて考えようとしない自分たちの弱さ、卑怯さを問題にしないの?」「それは自分が逃げている自分自身の問題から目をそらすためでしょう?」etc...ということです。

弱っているときに弱音を吐いて何が悪いの? 弱音を吐いたり批判的になるなと言ったのは、あなたたちの親でしょう? エホバの証人の親でしょう? あなたたちは単にエホバの証人の親の教えを自動的に内面化しているだけでしょう? 内心ではそれを知っているのに、それから目をそらしたいだけなのでしょう? ただ単に親への感情を冷静になって断ち切れない自分の弱さを正当化したいだけでしょう?
 親があなたたちを自分自身の延長とみなしたように、あなたたちもいまだに親を自分の延長として密着しているだけなのです。 

あるいは単に、ネット上で自分の理想的な姿を “アバター” として描き出したいだけなのでしょう? 心理学や哲学の知識をかじった自分をひけらかしたいだけなのでしょう? それはだれかを低めることで自分を高めて、そうやって自分の価値を見いだそうとする行為です。エホバの証人のベテル出身者がよく取る行動です。あるいは、ネット上のそういう人たちに対して間接的に反抗するために、アダルトチルドレンをバッシングして見せたりするだけなのでしょう? 本人に直接言えないもんだから…。アダルトチルドレンであるわたしたちはほんとうに自分自身の未熟さに苦しんでいるのに、あなたたちの競争心のために利用されるのです、わたしたちは…。

そんなあなたたちに、わたしはこの記事を紹介したいのです。人を励ますということはどういうことか、人はほんとうに常識どおりに癒されてゆくものなのか。そもそも、人ひとりひとりの心のありようは、千差万別であり、何事も一般理論どおりに運ぶものではないのです。そういうあやふやさ、あいまいさ、グレーゾ-ンの存在に脅威を覚えるのです、あなたたちは。

ひとつひとつ個別に対応できないのです。自分に理解できない世界、自分とは異なる人の思考にあなたたちは脅威を覚えるのです。つまり、知力が弱いのです。どんな有名な大学を出ていてもね。東大出身者だって、まともな歴史評価ができない人がいるのです。それは自己評価の低さのためです。大日本という強固な偶像に頼らなければ自分を信じられないのです。そういう人たちは、ものごとはきれいに区別されていなければならない、善悪ははっきり見えていなければならないのです。中間の曖昧な部分というものの存在に脅威を覚えるのです。こういう人間心理の綾を、わたしはこのブログで暴いていって見せましょう。あなたたちがどんなに激しく反論しようと、どんなに正論を大上段から打ってみても、わたしはこう感じます。

「限りなく二人称に近づこうと寄り添わなければ二・五人称の視点は持てない。そうでない記事は言葉が上滑りして、すぐに分かる」(高木慶子・聖トマス大学客員教授)

 

 

 

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする