Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

母子殺害死刑判決 厳罰化の流れが強まるが… (加筆版)

2008年04月23日 | 一般
 山口県光市で99年に起きた母子殺害事件の差し戻し控訴審で、広島高裁は当時少年の被告に求刑通り死刑を言い渡した。最高裁が「量刑は不当で、著しく正義に反する」と、無期懲役の原判決を破棄して審理のやり直しを命じていた。

 1、2審判決は、被告の年齢が18歳30日で、母子殺害の計画性はなく、不遇な家庭環境や反省の情の芽生えなど同情すべき事情を認めた。その上で、更生の可能性を指摘して死刑を回避した。

 差し戻し裁判で被告は事実関係自体を争ったが、高裁は「罪に向き合うことなく、死刑を免れようと懸命なだけ」と退けた。

 死刑を選択すべきかどうかの指標は、4人を射殺した永山則夫元死刑囚(犯行当時19歳)に対する83年の最高裁判決が用いられてきた。犯行の罪質、殺害手段の残虐性、被害者の数、被告の年齢など9項目を挙げ、総合的に考慮しても、やむをえない場合に死刑の選択が許されるとした。

 今回の事件で最高裁はこの基準を引用しながら「被告の責任は誠に重大で、特に酌むべき事情がない限り死刑を選択するほかない」と判断し、凶悪であれば、成人と同様に原則として死刑適用の姿勢を示した。事実上、永山判決のものさしを変えたといえる。凶悪事件が相次ぐ中、量刑が社会の変化に左右される側面は否めず、厳罰化の傾向を反映したとみていい。

 しかし、少年法は18歳未満の犯罪に死刑を科さないと規定している。永山判決以降、少年事件で死刑判決が確定したのは殺害人数が4人の場合だ。

 死刑は究極の刑罰で、執行されれば取り返しがつかない。「その適用は慎重に行われなければならない」という永山判決の指摘は重い。しかし、死刑判決は増えているのが実情だ。

 遺族は法廷の内外で、事件への憤り、無念さ、被害者・遺族の思いが直接、伝わらない理不尽さを訴えてきた。被害感情を和らげるためにも、国が総合的な視点に立った被害者対策を進めるのは当然だ。

 差し戻し裁判を扱ったテレビ番組について、NHKと民放で作る放送倫理・番組向上機構の放送倫理検証委員会が「一方的で、感情的に制作された。公平性、正確性を欠く」とする意見書を出した。真実を発見する法廷が報復の場になってはならない。バランスのとれた冷静な報道こそが国民の利益につながる。メディアは自戒が求められている。

 来年5月に裁判員制度が始まる。市民が感情に流されない環境作りが急務だ。死刑か無期かの判断を迫られる以上、市民は裁判員になったつもりで今回の事件を考えてみる必要があるのではないか。

 被告は上告した。最高裁には裁判員制度を控えて、国民が納得できる丁寧な審理を求めたい。




毎日新聞 2008年4月23日 0時36分

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わたしは、現行の死刑制度は廃止した方がいいと思うのですが、それはやはり冤罪を生む構造が日本の場合特に大きいということと、いまや国民に最も嫌われることばとなった「人権」を尊重したい立場だからです。

かといって、ほとんどカルト化したような、一部の死刑廃止運動にものめりこめないものがあります。たとえば一部のイデオロギストとしかいえない弁護士のような人々、極左ネット論客のような人々には。つまりなにがなんでも「この死刑はやめさせてやる」というような反捕鯨テロのようなことには共感できないのです。というのはやはり、殺害者は殺された方々の人権を踏みにじり、生きる権利を奪ったのですから。その点から目を逸らしては決していけないと思うのです。しかも、日本では今のところ、死刑は合憲とみなされているのです。こういう国であえて人さまを死なせた以上、死刑を求刑される可能性を逃れることはできないのです。

ただし、わたしは今流の死刑存続の意見の気に入らない点は、それが報復を正当化していると思うからです。

日本では現行新憲法の下で、死刑の合憲性が公布後早くも翌年の1948年に裁定されました。その根拠は
①死刑には犯罪予防効果が期待されるということと、
②凶悪犯罪者を社会から排除して市民の生活の安全を守る、というものでした。

もうひとつ、死刑の意義として残されていた、
③「被害者によるあだ討ちを国家が肩代わりする」という理由は除外された上での、死刑合憲判決だったのです。

ところが、上記引用記事を見てもわかるように、近ごろでは週刊誌やTV番組によって感情を煽られ、不安を植え付けられた大衆が報復感情の発露として死刑を求める傾向がはっきり見受けられるのです。ネットのほうではどうかと思い、あちこちブログを当たってみましたが、死刑に賛成する人たちの意見の根底にあるのは、殺したのだから苦しめられた挙げ句に殺されるのはあたりまえ、という考え方があると見受けられました。こういうのはどうでしょう。やはり日本古来からの儒教的な思想を反映していると思うのは飛躍でしょうか、つまり宗教の影響を受けた考え方だと思うのは…。



本来、家族を失った感情というのは被害者たちが持つもので、野次馬が横からあれこれ口を出すことではないはずです。被害者感情として、報復としての死刑を望むという主張は被害者自らが、被害者個人のきもちとして訴えるものであって、マスコミが被害者感情を「その他おおぜい」の大衆にまでばらまいて、巻き込むものではないと思うのです。これは今や一種のゲームにまでなっているように思います。そう、大衆のなかの各個人の閉塞感を爆発させる機会としての死刑執行要求。公然たるうっ憤晴らし。こういうのに対して、わたしは吐き気がするほど嫌悪を覚えます。なぜならそれはまず第一に、自分たちの責任を逃れようとする態度だからです。殺人者を生み出すのは殺人者自身だけではないからです。

人間はみな犯罪者として生まれてくるのではない、ということ。殺害者を殺人者に仕立て上げたのは個人の性格とか素質ではありません。暴力をコミュニケーションの手段として使う人は必ず暴力を受けてきている。しつけと称して、暴力を受けてきている。身体的な打撃から、ことばや接し方による心理的な暴力にいたるまで、暴力は体験によって学習され、習得されるものなのです。つまり暴力に走るよう無意識に、あるいは誤まった育て方によって、反社会的な生き方に追いやり、暴力をつかって人々をコントロールすることを教え込んだ人間がいる、ということが言いたいわけです、わたしは。そしてそこから目を逸らして、堕落してしまった人間だけをさらし者にするな、とわたしは糾弾したいのです。

殺害者を首尾よく死刑に処すことができても、人をして殺人者にまで仕立て上げてしまう影響力を残したままにしているなら、社会はまた別の殺人者を迎えることになるでしょう。「人をして殺人者にまで仕立て上げる影響力」とは、たとえば体罰を許容する、許容するどころか賞賛さえする「文化」、男尊女卑、家父長制という「文化」、そのほか「伝統」や「習慣」という名目で温存される影響力。それらは「日本人らしさ」という地域・国民のアイデンティティに拘わることだからというような理由で放置されているのです。また家族のコミュニケーションの低下、幼いころから激烈な競争にさらされる制度、努力が決して報われない不平等な制度…。

こうした、社会に潜む原因というものを放置しているなら、-「放置する」ということは、換言すれば、社会はある人々からは希望も生きることへの積極的な意欲も奪い去っている、ということなのです-根っこが生きている雑草のように次から次へと生え出てくるのです。

不運な人々、不遇な人々、不遇に対処する自信さえ育ませてもらえなかった子どもたち、そういった追いつめられ、放り出され、廃棄された人間たちが怒りを鬱屈させて、その鬱屈した怒りの感情が不健全に醸成されてゆき、やがて反社会的な行動に走らせる。いくら捕まえることのできた殺人者を次々に処刑していっても、社会は決して殺人者による生活への脅威を減らすことはできないのです。

もちろん、育ちが不遇だからといってすべての人が殺人者になるわけではありませんが、また逆にすべての人が首尾よく不遇な体験を克服できるわけでもないのです。

わたしはこのたびの裁判においては、被害者にも感情移入はできますが、加害者である少年の気持ちにも痛いほど感情移入できるのです。わたしもエホバの証人の親によって、またエホバの証人という宗教組織そのものによっても、精神的な虐待をずっと受け続けてきた人間だからです。彼の挑発的で、すねた言動はわたしも高校生時代は行っていたからです。

親に愛されず、周囲に自分を認めてもらえず、拒絶と侮辱とを継続的に与えられてきた人間には深い怒りがある。もっとも愛を求めたい親に本当の姿の自分を受けいれてもらえないことへの怒りは、積もり積もってあるとき、限界に達する。きのうまでおとなしくて良い子だった子どもが、あるとき突然キレる。でもそんな子どもに理解を示す社会人はいない。みな、親に逆らう「反道徳的な」子どもに異常があるとしかみない。

そして「あの子が異常だからこんな事件を犯したのだ、だからうちの子がそんなことをすることはない」と解釈して安心を得る。しかし、気づいていない、わかっていない。このたび被告席にいた、元少年はどこにでもいるふつうの子なのです。異常なのは子どもじゃない。あなたたちが「常識」とか「世間さま」とか呼んで、奉っているものにこそ内在しているのです。



この裁判にもどりますが、この事件で感情の問題としては加害者と被害者の二者間の問題であって、第三者が外からあれこれアドバイスしたり煽ったりすることではないと、わたしは考えています。しかし、マスコミの被害者への異常な肩入れと煽情にははっきり抗議をしたいですし、そういう煽情に乗って死刑執行を要求する人たちへは侮蔑と嫌悪の感情しか感じません。とくにマスコミとオヤジ系週刊誌は。
コメント (11)
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