Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

人間の「品質低下」

2007年05月04日 | 一般
「幻がなければ民は堕落する」。

聖書の箴言の書29章18節の言葉です。古代イスラエルは祭司が預言的な指導を与えていたのでした。適切な教育や指導がなされないと、人間は放逸に振る舞うようになる、と現代人に無理に当てはめると、こういうような言い方になるでしょうか。今回はわたしたち国民がなぜ、自分の首をしめるような政党に票を投じるようになるのかを考えるのに、ヒントを提供してくれる最新刊をご紹介します。

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「生き方論」などで定評のある雑誌から、現行の依頼があった。「ストレス解消の秘訣」といったテーマで1200字という短い分量だったので引き受けることにし、締切日に原稿をメールした。

構成は、「ストレスとは何か」という定義に続けて、
     「ストレスが生まれる理由」を簡単に説明し、
     それに続けて「解消のために気をつけること」を3点ほど書く、
というごく常識的な内容の記事のつもりだった。

ところが、すぐに編集者から「書き直し」を依頼する返信が来た。
「いただいた原稿に問題がある、というわけではありませんが、こういった構成だと全体を最初から順に読まなければならず、途中で読者が飽きてしまう可能性があります。前半の定義や解説はすべて省き、「解消法」の部分だけを箇条書きにして、ちょっとした説明とともに書いてください。なお、解消法は3つだけではなくて、6つくらいお願いします」。

私は、自分が原稿の分量を間違ったのではないかとあわてて依頼書を見直した。「解消法を6つと解説」ということは、1200字ではなくてその10倍だったのではないかと思ったのだ。ところが依頼書には、明らかに1200字と書かれている。ということは、一つの項目の解説は200字程度。200字といえば、当然のことだが400字詰めの原稿用紙の半分であり、短い文章を二つか三つ、書いただけで終わってしまう。

「それでいいのだろうか」と思いながら、もう雑誌の発売日も近づいていたので、私は言われるがままに、その原稿を「さあ、ストレスを解消する6つの方法について、教えましょう。まずその一…」と、説明はほとんどなしに具体的な解消法から書き始めた。しかも、「その一、すんだことはクヨクヨ考えない」という項目だけでも一行消費されてしまうので、説明部分には、「クヨクヨ考え込むのは、実は人間にとっての最大のストレスです。イヤなことがあっても、温かいお風呂に入って布団にもぐりこみ、楽しかった思い出などを振り返って眠るようにしましょう」程度のことしかかけない。なぜクヨクヨ考えるのがストレスになるのか、なぜお風呂に入るのがその解消に役立つのか、については、いっさい触れられていない。

「これでいいのだろうか。これじゃ原稿というよりは標語みたいではないか。さすがに読者は “こんなの信用できない” と思うのではないか」と思いながら、書き直した原稿をメール送信した。すると、今度は編集者からすぐに「こちらの意図を汲み取り、この特集にぴったりの原稿を書いていただき、ありがとうございました」というメールが送られてきたのだ。「一項目200字でほんとうにいいのだろうか」と思いながらも、編集者が言った「それ以上長い、起承転結があるような原稿は読者に読まれない」という言葉が気になった。

そのあと、女性雑誌の編集に長くかかわっている知人にこの話をしたら、「そんなの、あたりまえじゃないの」と一笑に付された。 

「私も15年間、この仕事をしているけれど、昔はライターさんに一つのテーマについてだいたい800字を目安に原稿を依頼していたんだけどね。その頃は、人がひと息に読めるのは800字と言われていたから。それが今は “ひと息は200字” が常識になってるの。それ以上長くなると、読者から『読みにくい』、『何を言ってるのかわからない』とクレームが来てたいへん。 でもたしかに200字だとほとんど何も書けないから、『この春はベージュのリップグロスが大ブレイク! ハリウッドのセレブの誰々もヨーロッパの王族の誰々も、みんなこの色に夢中!』みたいに情報を並べるだけでおしまいになっちゃう」。

私は、さらに笑われるのを覚悟で聞いてみた。 「でも、そもそもなぜベージュが流行るのか、みたいな説明もしないで、ただ “ベージュが人気” と書くだけじゃ、かえって信用してもらえないんじゃないの?」。 

するとその知人は言い切った。 「そんな背景とか理由なんて、どうでもいいの。もし書いたとしても、誰も理解しようとしないし。むずかしいことなんて、誰も考えたくないし、興味もないの。問題なのは、この春に何色の口紅を買えばいいのか、ただそのことだけなのよ」。


(「なぜ日本人は劣化したか」/ 香山リカ・著)

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わたしは数年前に、男女のことでおおきな挫折を経験し、それがきっかけであるエホバの証人批判系の掲示板への書き込みに明け暮れていたことがあったんです。でもね、その掲示板でいろいろ思うことなんかを、自分に言い聞かせるようしてつらつら書き綴っていたとき、その掲示板の隠れ常連さんらしき人からね、「なに、これ。長すぎてよくわかんないよ」という突き放すような感想をもらったことがあったんです。そのときは、わたしはその人の感じ方にふりまわされてしまってね、ながいこと、自分は文章を短くコンパクトにまとめる力が弱いんだなあと、ますます自分に自信を失ってしまっていたことがありました。

でもね、よくよく考えてみると、一つの考えを言葉のない亡羊としたイメージから、はっきりした言葉に表現しようとしたら、やっぱりあれこれ文章を書き出していかなければならないわけなんですよ。それにひとつのことで自分なりの結論を導き出そうと思ったらね、やっぱりそう言うだけの根拠と、その根拠にもとづいた論証が必要ですよね。で、そういうことを書いていたら、やっぱりそれなりの長さになってしまいます。

だから、書き込みで「長さ」を劣等感に思うことはないんじゃないだろうか、今はそう考えています。むしろ論証もせずに、「こういうことがあるから、この結論なんだ」と数行の文章で書いてしまって、それでよしとするほうが、ちょっと変ですよね。でも、香山さんのご指摘によると、今、日本人は読解力、想像力、公共力、辛抱力、配慮力、謙虚力、寛容力、ゲーム力、アニメ力、フェミニズム力、リベラル力、モラル力、身体力、生命力etc...、人間性のあらゆる方面の思考と感性と体力に「劣化」が深刻にひろがっているというのです…。劣化というのはつまり「品質低下」ということです。

香山リカさんは、わたしと同じ1960年生の精神科医です。この人はよくTVのワイドショー的なニュース番組に出演しておられますよね。だから知名度は高いと思います。わたしは、ワイドショー的なニュース番組というのに嫌悪を感じるので、そういうような番組に「コメンテイター」出演をよくする香山さんをなんとなく尊敬できないと思っていたのですが、香山さんが2006年に書かれた「テレビの罠」を読んで、「あ、けっこう鋭い」と思いました。引用文が多くて、いろんな参考文献にたどりつけるのがイイ。それ以来、香山さんの著作はどれも読むようにしています。たしかに「コメンテイター」としてお呼びがかかるのもうなずけると素直に思えました。わかりやすく話してくれますから。(「仕事の間だけうつになる人たち」はちょっと失望したけど…。)もっともTV局はまず彼女の知的な美貌に着目したんでしょうけれどもね。それでも、人目のつくところで発言できる機会を得やすいんだから、もっと香山さんご自身の思索とご意見をどんどん発言して言ってほしいな、と今では思いますけれどもね。

上記引用文の文脈では、新聞の活字が大きくなったのは、読みやすさへの配慮というのは表面的な言い分に過ぎず、活字が大きくなったのにページ数が増えていないということからして、新聞は情報量が減っているはずだ、それにもかかわらず現代人は、情報を得るのに新聞よりもネットを多く活用しているという統計調査より、活字離れが進んでいるのだ、と指摘されています。ほかに「あらすじで読む○○」といった本がよく売れること、音楽でも「さわりで聴くクラシック」、「サビで聴くモーツァルト」といったシリーズがよく売れることなどの例をあげて、「簡略化」が進んでいると喝破されています。

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答えを先に言えば、これは「長い本、字が小さい本、ちょっとむずかしい本は読めない、理解できない」という人が増えた、ということの結果なのだと言わざるをえない。日本語を読んだり、書いたりする力が、著しく低下しているのだ。

(上掲書)

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この記述のあとに、こんな例があげられています。

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日本語が満足にできない、というのは一般の若者に限ったことではない。医師向けの情報誌『週刊医学界新聞』で、ある総合病院の臨床教育部部長が、臨床研修の場で起きている恐るべき “学力低下” を報告している。

「日本語の文献を読んでも理解していない。自分で問診した患者さんの病歴をカルテに日本語で文章で記載できない。漢字も書けない。日本語もまともにできないのだから、もちろん英語の論文など読めるはずがない。…(中略)… 患者さんを診察するうえで絶対に知っていなければならない解剖・生理・薬理などの知識も当然のごとく知らない」(田中和豊「臨床医学航海術」、『週刊医学界新聞』2006年10月9日号)。

日本人に、何か重要な変化が起きているのではないだろうか。では、何が起きているのか。私は、年齢に関係なく、いま私たち日本人に起きていること、それをひとまず「劣化」と呼んでおこう。

(上掲書より)

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この本で、わたしがとくに注目した「劣化」現象は、「リベラリズムの劣化」です。香山さんはこのように指摘されています。

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しかし、さらに大きな規模で起きている劣化がある。それはひとことで言えば、「社会の劣化」である。

政治学者の姜尚中氏が、2006年に行われたある講演会のなかで、最近の政治、社会状況を指して「信じられないことばかりが起きている」と繰り返し語った。たとえば、10年前には「際物(キワモノ)」と見なされたような人物が、政治の中心に躍り出ている。声高に憲法改正が語られ、護憲派は “少数者” として白い目で見られる。講演会が行われたのは安倍晋三政権発足直後であったが、姜氏から見れば “無邪気で危険な政治家” と言える首相が、「人柄がよさそう」といった理由で当時は高い支持率を得ていた。それらは、ほんの10年前にはとても考えられなかったようなことばかり、と姜尚中氏は嘆息した。

安倍政権の支持率はその後、閣僚の相次ぐ不祥事や失言、造反議員の復党問題などで低下することになるが、それにもかかわらず、教育基本法の改正や防衛庁から防衛省への “昇格” といった大きな体制の変化が坦々と進行している。首相は国民投票法の早期成立、任期中の憲法改正にも意欲的だが、そのことは支持率にほとんど影響を及ぼしていないようだ。

ところが、そういった動きに抵抗を示すはずのリベラル派、左派と呼ばれる人たちの元気もない、と言われる。…(中略)…そのなかでもとくに目立つのが、護憲勢力の急速な失速であろう。2005年、自民党が新憲法の第一次素案を発表、これに対して「戦力の不保持」を規定している9条を守ろうとしている護憲派は反発、全国各地で「9条の会」などが結成され、その数は数千にも上るという報道もある。

しかし一方、新聞社などの世論調査では改憲賛成派が増え続け、いまやどの調査でも6割から7割が「改正は必要」「改正することがあってよい」と回答している。9条に関してはいまだに改正に対して慎重を期する声も大きいとも言われているが、そんななか、私自身も発起人のひとりとして名前を連ねているウェブサイト「マガジン9条」で、ちょっとした “事件” が起きた。06年1月に実施したアンケートで、「9条を変える」が82パーセント、「9条を変えない」が18パーセントという結果が出たのだ。

もちろんこれはウェブ上でのアンケートであり、「マガジン9条」に日ごろから批判的な若者たちが集団で「変える」に投票したことも考えられるのだが、もしそうだとしても、護憲派がネットを利用する若者たちにこれほど嫌悪されている、というのはそれはそれで重要な問題であろう。若者たちのリベラル離れについては、「ネット右翼」と称される激しい排外主義の人たちも含めてさまざまな分析が行われている。彼らの多くは、従来の保守主義者の多くがそうであったように、決していまの社会から恩恵をこうむったり、優遇されたりしているわけではない。なかにはフリーター、ニート、ワーキングプア、さらには「負け組み予備軍」などと称される、収入も地位も不安定な者までが含まれている、と考えられる。

政治学者の山口二郎氏は、2005年9月11日の自民党圧勝は、こうした「負け組み予備軍」層が小泉支持にまわったからだと説明している。それによると、「住宅面での衒示的消費(げんじてきしょうひ:衒示的とは、みせびらかせる、の意。人に見せびらかせる目的で買う、という意)の象徴である六本木ヒルズを見てもうらやましいとは感じないが、近所の公務員宿舎には腹が立つ」といったような「ゆがんだ平等主義」や「いびつな正義感」が日本に横溢しているため、負け組み予備軍ともいうべき都市の中間層やそれより待遇の悪い状態に甘んじている層が、熱狂的に小泉氏を支持した(「世界」/ 2005年12月号/ 「民主党はいま、何をなすべきか」)、という。

もちろん、「ゆがんだ平等主義」や「いびつな正義感」にもとづいて自民党に投票したからとかいっても、実際には自分が望むような「平等主義」や「正義」が実現するわけではない。それどころか小泉時代に格差がさらに拡大したことを考えると、彼らはいわば自分で自分の首を絞めたような格好になったわけだ。

しかし、いくら識者たちが「小泉や安倍の自民党は富裕者層のヒイキ的味方であって、生活も逼迫しがちなあなたを救ってくはくれない」と説明しても、彼ら「負け組み予備軍」の保守化は止まりそうもない。彼らは「自分は守られないだろう」と薄々わかっていてもあえて「リベラルよりはまし」と思って保守を支持しているのか、それともほんとうに「安倍政権が自分のようなワーキングプアの問題を解決してくれるに違いない」と思い込んでいるのか、そのあたりの見極めはむずかしい。


(上掲書より)

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わたしは、「自分は守られないだろう」とはうすうす、それこそ亡羊とした感覚として感じているが、それでもリベラルよりはまし、という考えがあるんだと思います。彼らはリベラルの人がいう意見に対し、おおかたこのように反応します。

「平和、平等などときれいごとを言うな。
この厳しい世界の現実が目に入らないのか。
自虐的なことを言って国を売るのがそんなに楽しいのか。
日本人を侮辱するつもりなら、さっさとこの国を出てゆけ」
(「いまどきの『常識』」/香山リカ・著)。

香山さんは勤めておられる大学のメールボックスに、このような手紙が投げ込まれるそうなのです。それは香山さんが新聞や雑誌に投稿した原稿を読んだ人が、抗議や批判のつもりで書くのだそうです。香山さんは一時ひどく傷つきますが、やがてこのように考え、気持ちを立て直します。

「待てよ、私は、この人たちにこれほど罵られなければならないようなことを言っただろうか。私は確かに「平和は何よりも大切だ」、「病んでいる人、弱い立場に置かれてしまった人、失敗してしまった人の身になって考えよう」、「他人を非難する前にまず自分の胸にきいてみよう」といったことは発言したが、日本や日本の国民を侮辱しよう、笑いものにしようなどと言っているわけではない。他人への配慮が欠けている人、理屈や分析よりも感情が優先されているように見える人に対して批判的なコメントをすることもあるが、それがなぜ「自虐的」「国を売ること」になるのだろうか…」。

彼らが支持する人たちを批判することは、彼らにとっては「日本という国を侮辱することであり、それはそのまま自分自身への侮辱であるので、たいへんに傷つく」ことなのです。




エホバの証人時代のことなのですが、「巡回監督」という地位の高い権力者(*)が、私のいた会衆で、ひどく身びいきで不公正な人事を行いました。有能でこちらの気持ちになって接してくれ、知識も豊かで、講演や講話も深みがあって、名演説者の評判をとる兄弟が言いがかり的な罪を着せられて、降格されました。それどころか、半年は集会の前に代表して祈ることや、ものみの塔研究で、手を上げて答えることが許されないという、ほとんど排斥者に対するのと同様の屈辱的な処分を受けました。これは実際には、彼の才能と人気を妬んだ会衆の主宰監督と、自意識の過剰な巡回監督のこれまた妬みが共同して成し遂げられた文字通りの「陰謀」でした。彼らにとって指導部の人より目立つ人物が許せないのです。

 (*)共産党で言えば「細胞」に当たる、地元のエホバの証人の単位である「会衆」を巡礼して回る監督。旅行する監督とも言われる。「巡回訪問」は中央の指示を徹底させるために取り決められた。君が代が生徒、教師の両方に指三本分入るくらい口を開けてしっかり歌っているかどうかを見届けるため、東京都の学校の卒業式に派遣される都教育委員会の人間と同じ役割をする。

会衆の姉妹たちも、さすがにこれには怒りを覚えたので、最初は降格された兄弟に同情的でした。しかし、会衆の若い人たちが動揺し始め、集会に来なくなったり、義務づけられている布教活動にも参加しないようになると、ちょっと様子が変わってきました。姉妹たちもベテランの兄弟たちも、次第にその兄弟に冷淡になっていったのです。それどころか、結局その兄弟が悪かったのだと陰で言うようになりました。やがてまったく無視、という仕打ちや、一応レクレーションに呼んでおいて、でもその兄弟が来るとあからさまにイヤ~な顔をしたりと、いわゆる「モラル・ハラスメント」を加えるようになったのです。やがてその兄弟は体調を崩し、不活発になりました。

このような状況になってしまったのは、会衆の士気に深刻なダメージを受けたとき、同時にそれは、自分たちが以前からうすうす気づいていたことがはっきり自分の脳裡に現れるようになったからです。つまり、エホバの証人の組織は決して「神の霊感」に導かれたものではなく、ただ単に権力の座にいたがる一部の人間に支配された、支配-被支配機構でしかないということを認めなければならない事態になったのです。しかしそれを認めると、エホバの証人の組織に認められるために、友人関係も、親戚関係も、人によっては家庭も犠牲にしてきた数十年の自分の人生も否定しなければならなくなるのです。

「それはできない。いまさら、エホバの証人の人生から引き返すことはできない。それが困難なほど自分はエホバの証人という宗教に入り込んでいる。もう外の世界には自分の居場所はないのだ。エホバの証人にとどまっていれば、そこそこの地位があるし、偉そうにしていられる…。いまから一から出直すとすれば、また丁稚から出直しだ、この年になって丁稚なんて…。イヤだ、自分にはできない…」。

心の中でだいたいこのような考えが走り、自分を否定してまでエホバの証人の真実の姿を認めるよりは、エホバの証人のほうが正しくて、あの兄弟が間違っているんだということにすれば、自分は守ることができる…、とこういう計算の下に、罪もないけれど権力に翻弄された兄弟のほうを憎むようになるのです。人は自分の嘘を正当化するために、他人に責任を転嫁する場合があります。「カインは自分の兄弟を打ち殺しました。何のためですか。自分の業が邪悪で、彼の兄弟の業が義にかなっていたからです(ヨハネ第一3:12)」。



香山さんに脅迫的な手紙を書く人たちも、自分の将来を不幸にする自民党に、「リベラルよりはまし」として票を投じる「負け組み予備軍」の人たちも似たようなものです。わたしは何となくですが感じているんですが、彼らは劣等感が強いのです。そしてリベラルな論客たちは理性的で、よく勉強しているので知識もそれなりに豊富です。それに対して理論を持って議論していくことができないのです。つまりより劣等感を感じさせられるのです。心理学者のテッサーは自己評価維持モデルという理論を立てました。人は自尊心を維持するために、自分より努力した人を遠ざけたり、排除しようとするのです。

また、劣等感の強い人たちは、神とか国家とかいう「強大」な存在に自分を同一化して、本来脆弱だったアイデンティティを安定させようとします。つまり、幼児にとっての母親のような存在なのです、彼らにとって国家、神は。幼い子どもは自分のお母さんの悪口を言われるとひどく怒ります。いまや国家は、日の丸は彼らのアイデンティティにとって欠くことのできない基礎=母親なのです。その「母親」が中国や北朝鮮に評価されないのが悔しい、とでも言うのでしょうか…。また自分自身を含む国民を切り捨てて、一部の人間にだけ儲けさせようとする政策を推し進めようとするのを批判することが、彼らにとっては「売国」になるのでしょうか。「お母さん」はどんなことをしようと、どんなに独善的であろうと守らなければならないもの、と彼らは解釈するのです。

だからこそいま、将来自分の生活、自分の生存を脅かすことになるであろう自民党と経団連に支持を与えるのです。ここで、将来の大きな悲劇は理屈としては理解できても、感情的に、感情的に実感できていないのです。これは人間の自然な傾向かもしれません。目先のメンツの維持のために、目先のラクのために、将来の大きな悲劇を招くかもしれない選択を、人間は極限状況ではとってしまうことがあります。それが「冤罪」を受け入れる被疑者の心理です。被疑者はなぜ、やってもいない罪を自白するのか。それは今現在の心理的極限状況から逃れることで精いっぱいで、将来の死刑という悲劇を実感し切れないことにあるのです。このことについては、「冤罪…」の「後編」で書きます。

香山さんの指摘されるわたしたち国民の「劣化」、これが現在の日本を反動的方向へ導いている原動力なのです。昨日付け(2007年5月3日)毎日新聞の全国世論調査の結果は、改憲賛成が51%にのぼったと伝えています。理由は、60年たって時代に合っていない、一度も改正されていないから、というものです。安倍さんたちが言うように、米国の押し付けだからという、もう古い理由をあげる人は少数派のようです。安倍さんの意識とは少しズレはあるものの、憲法を変えたいとは考えているというのが世論なんだそうです。

メンタルな視点をエッセイ風に語る香山流。時間に余裕のある方は、香山さんの力作「テレビの罠」とあわせて、「なぜ日本人は劣化したか」、お読みになるのはいかがでしょう? 



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2 コメント

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あんたもあほや (Unknown)
2007-05-04 18:16:16
>漢字も書けない

あんたもかなり誤字が多いよ。
自分の劣化の程度も心配した方がいいよ。
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ほっといて! (ルナ)
2007-05-04 22:05:22
誤字はアップして間もなく、見つけただけ直しました。でもご指摘はありがとうございます。
返信する

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