Kimama Cinema

観た映画の気ままな覚え書き

ミケランジェロ・プロジェクト

2015年11月19日 | 2010年代 米

ミケランジェロ・プロジェクト(原題:The Monuments Men)

2014年 アメリカ
監督:ジョージ・クルーニー
製作・脚本:グラント・ヘスロヴ、ジョージ・クルーニー
製作総指揮:バーバラ・A・ホール
出演:ジョージ・クルーニー、マット・デイモン、ケイト・ブランシェット、ビル・マーレイ、ジョン・グッドマン、 ジャン・デュジャルダン、ボブ・バラバン、ヒュー・ボネビル
撮影:フェドン・パパマイケル
編集:スティーブン・ミリオン
音楽:アレクサンドル・デスプラ
美術:ジム・ビゼル
衣装:ルイーズ・フログリー


 ロバート・M・エドゼルの著作『ナチ略奪美術品を救え 特殊部隊「モニュメンツ・メン」の戦争』を基に、第二次世界大戦下でナチス軍に奪われた美術品や文化財の奪還に奔走した男たちの実話を描く。

 7人の美術専門家たちが招集され、基礎訓練後、作戦をたてて2人組ないし単独でヨーロッパ各国に散らばっていくのだけど、大規模な戦闘シーンもないし(他の戦争映画へのオマージュはたっぷり)、個別の作戦となるとどうにもチマチマしてしまって、ヒトラーは緊張感のない後ろ姿しか出てこないし、“ジョン・ウエイン”のシーンは何かナヨナヨしているし(え?他は豪華キャストなのだから、ここで更に大物ゲストあってもよくない?)、前半は特に地味な印象があった。

 このプロジェクトの指揮をとるハーバード大学付属美術館長のフランク(ジョージ・クルーニー)は「本当のことを言おう。成功が期待されているミッションでは無い」と、モニュメンツ・メンらに切り出す。軍幹部は美術品のことなどどうでもいい。戦争で多くの人が死ぬ。しかし、いずれ平和になった世界で人口は増えるが、美術品は決して戻ってこない。歴史は消えてしまう。積み重ねてきた文化が失われてしまう。我々は文化と生き方を守らなくては・・・と。

 学者だ。学者さんの考えだな、と思った。それも正論だとわかるけど、でも・・・どうにもひっかかって、そこに執着して見てしまった。このまま彼らが歴史的文化財を守ったという美談を描いていくのかな、と思いきや、任務中の仲間の死を受けてモニュメンツ・メンはひどくショックを受ける。兵士とは違う。死に慣らされていない者たちの、どうにもやりきれない顔。そう、人の命より美術品の方が重く扱われるなんてことは、よくある事実かもしれないけれど、しかし、人ひとりひとりも歴史であり、文化なのだ。そこを踏まえた上で、それでも自らの命を賭すから、誇りが生まれる。

 それをよくわかっているのは、ナチス略奪品の搬送先と元の持ち主を緻密に記録し続けた学芸員クレール(ケイト・ブランシェット)だと思う。人類共通の財産であると同時に、個人所蔵の美術品はその人の人生の記録であったり、その家が代々伝承してきたものだったりもする。彼女とMET所長グレンジャー(マット・デイモン)のやりとりは小気味よくって、ロマンティックだった。これらエピソードだけにスポットを当てて1本の映画にしちゃっても良かったのでは!と思うけど、他のモニュメンツ・メンらの細かなエピソードを積み重ねることで、美術品に対する多彩な想いが垣間見えた。

ジゴマ

2015年11月14日 | 1910年代 欧州

ジゴマ(原題:Zigomar)

 
『ジゴマ(Zigomar)』1911年 『ジゴマ後編 (Zigomar contre Nick Carter)』1912年、『探偵の勝利 (Zigomar, peau d'anguille)』1913年 フランス
監督・脚色:ヴィクトラン・ジャッセ
出演:アレクサンドル・アルキリエール、アンドレ・リアベル、シャルル・クラウス、ジョゼット・アンドリオ

 名古屋で毎秋催される「やっとかめ文化祭」の企画・まちなか寺子屋【怪盗ジゴマと近代映画史】で、20世紀初期のフランス映画『ジゴマ』を見ることができた。

 解説は中部大学・椙山女学園大学講師の小林貞弘さんと、映画パーソナリティの松岡ひとみさん。明治45年に日本でも上映され、はじめての洋画ヒット作品となるが、強盗・殺人を繰り返す内容から子どもに悪影響があるとされ、上映禁止処分となった幻の映画との事だった。

 映画は、街角から女をさらい、アジトへ連れていっては華やかなパーティを繰り返す怪盗ジゴマたちの様子から始める。ジゴマは探偵ポーリンに追いかけられると素早く警官に変装し、その場を逃げおおせ、更にホームレスへと早変わり。だまされたことに気づいた探偵が必死で詰め寄ろうとするも、ジゴマはさっさと逃げる途中で列車に飛び乗って、そこでも盗みをはたらく。場面は次々と変わり、ホテル強盗に入ったかと思えば、山岳ガイドになりすましリゾートを楽しむ富裕層から金を巻き上げる。怪盗ジゴマと探偵ポーリンとの壮烈な出し抜き合戦が続き、ついにジゴマ団のアジトが爆破されたところで1部終了。

 展開が早い!早い!! ところどころ2倍速3倍速にしていたり、ひっきりなしにシーンの切り替えがあったりして、アニメーションでよくある追いかけっこのよう。

 これが当時の日本は、活動写真弁士が大声でまくしたてるナレーションと生演奏つきで上映されていたのだから、興奮しきりだったろう。一部音源も聴くことができたけれど『ああ活動大活動写真』弁士・山地幸雄さんの語りによると「花のパリかロンドンか、月が鳴いたかホトトギス。今やパリ市民を恐怖のどん底へ追い込む風のごとき怪盗団あり。現場に残るZの一字。Zとはそもそも何者か。」なんて、ブチかましている。立て板に水のごとく、耳あたりの良い言葉をトントントーーンと意味なく容赦なく続けていく。Zは何者か、なんて怪傑ゾロを思い浮かべてしまいそうだけど、ジゴマの方が先。うーん、全然知らなかった。少年時代の江戸川乱歩もジゴマに夢中になり、後の「怪人二十面相シリーズ」に影響を与えたとも言われている。

 さて今回の発掘フィルムでは、1編目修了後に、そこに3編目にあたる『探偵の勝利』の一部分がはさみこまれ、小型飛行機と蒸気船での立ち回りがみられる。

 そして突如2編目にあたる『ジゴマ後編』に切り替わる。1編目で大活躍をみせた探偵ポーリンは、のっけから自宅に爆薬を仕掛けられ、ジゴマに殺されてしまう。後任として名乗りをあげた探偵ニックは、ジゴマの愛人オルガに会い「あなたの本当のお父さんは、ポーリン探偵です」と打ち明ける。オルガは父の仇を討つために、ジゴマを裏切るのであった。

 来たよー衝撃的展開! ここぞとばかりに弁士たちが盛り上げまくっただろう。映像が細切れなのが、本当に残念。タイムマシーンに乗ったら、行きたいところがまた一つできたな、と思う。

 それにしても1911年におフランスで撮影された映画が、同年に日本で上映されるなんて、にわかに信じがたいけれど、ジゴマの原作小説が新聞掲載されたのは1909年、出版が1910年との記録から史実だろう。きっと今よりも面倒くさいことが少なかったのかな。

 で、日本でも封切り直後から劇場に観客が大挙して押し寄せた『ジゴマ』だが、悪人が大活躍するという点で批判も多かったと言う。ジゴマの影響を受けたとされる犯罪報道が多発したり、子どもたちに泥棒をまねる「ジゴマごっこ」が流行したりしたことを受けて、禁止処分を訴える世論が高まり、1912年10月9日に警視庁が上映禁止を発表。

 名古屋の大須にあった「太陽館」では、処分施行日は同月20日だったにもかかわらず、他地域より早く上映を打ち切った。名古屋では特に、思想に関する取り締まりが厳しかったらしい。これは当時の愛知県知事が、警視庁出身の官僚で日本に於ける警察と消防行政の基礎を築いた人物とされる松井茂氏だったことが大きく、氏は名古屋という地域に対し、東と西の文化が入り交じる交差点ではなく「防波堤」となるべきだとの考えがあり、外からの文化を簡単には受け入れない風潮ができあがったのだとか、という解説がおもしろかった。

ミツバチのささやき

2015年11月12日 | 1980年代 欧州

ミツバチのささやき (原題:El espíritu de la colmena )

1985年 スペイン
監督:ビクトル・エリセ
製作:エリアス・ケレヘタ
脚本:ビクトル・エリセ、アンヘル・フェルナンデス・サントス
出演:アナ・トレント、イザベル・テリェリア、フェルナンド・フェルナン・ゴメス、テレサ・ヒンペラ
撮影:ルイス・カドラード
編集:パブロ・ゴンザレス・デル・アモ
音楽:ルイス・デ・パブロ


1940年代のスペイン・カスティーリャ地方。内線後の小さな村での物語。まるで絵画の中の風景や人物がそっと動きだしたような、叙情的で美しい映像が流れる。セリフは多くないけれど、映像だけが静かに、雄弁に家族の姿を語っていく。巣箱の模様なような窓ガラスの家。精霊を探す子ども。絶え間なく羽ばたくミツバチたち。悲しげな表情で手紙を綴る若い母。ミツバチをじっと見つめる年老いた父。

“報われない努力。・・・巣室を離れれば休むことはない。幼虫もまもなく労働に明け暮れる。”なんて独白を、幼な子の寝顔に重ねるなんて、ずいぶん意地悪だと思う。厭世的な雰囲気の漂う両親とはうって変わって、アナとイザベルの小さな姉妹の会話や仕種は、とてもかわいらしい。

トラックで町にやってきた移動映画は『フランケンシュタイン』を上映し、子どもたちは夢中になって見た。夜、ベッドの中でアナは、姉のイザベルに尋ねる。「なぜ怪物は少女を殺したの? なぜ怪物は殺されたの?」 イザベルは、怪物は精霊のようなもので、仮の姿だから、殺されることはない。友達になれば、いつでも呼べば来てくれると、アナに教える。その言葉をアナは深く心に刻む。彼女が執拗に求めているのは、いつでも寄り添ってくれる存在。その幼い心にどれだけの寂しさを抱えているのだろう。

国中が荒れた大きな戦争の後に残った、暗く沈んだ空気。幾多の人たちが負った深い傷痕。大人たちの心に宿る闇は、何も知らない幼い子どもたちをも包み込む。

アナは近所の廃墟に潜んでいた男を、自分が見つけた精霊と考えて、食糧や衣服を差し入れる。男はすぐに追っ手につかまって殺されてしまうのだが、アナはイザベルから聞いた話を思い返して、精霊を呼び出そうとする。

小さな姉妹がささやきあう声は映画のタイトルとぴったりだと思うけれど、静寂を壊すのを恐れるように進んでいく物語だけに突如として響く呼び声には、いつもハッとさせられた。広く高い空に、家族の名前を呼ぶ声が響く。帰宅した夫が留守中の妻の名を呼び、妹は床に突っ伏したままの姉の名を呼び、父が走り去っていく子どもを呼びとめようとする。

草原に吹く風の音に混じって、声だけが耳の奥にずっと残る。ひどく遠くから、自分の名前を呼ばれているような錯覚に陥る。家族たちがそれぞれに抱えている寂しさがそっとよぎっては、風のように混ぜかえされる。