Kimama Cinema

観た映画の気ままな覚え書き

ニノチカ

2016年07月28日 | 1930年代 米

ニノチカ(原題:Ninotchka)


1939年 アメリカ
監督・製作:エルンスト・ルビッチ
脚本:チャールズ・ブラケット、ビリー・ワイルダー、ワルター・ライシュ
出演:グレタ・ガルボ、メルヴィン・ダグラス、アイナ・クレア、ベラ・ルゴシ、シグ・ルーマン、フェリックス・ブレサート、アレクサンダー・グラナッハ
撮影:ウィリアム・H・ダニエルズ
音楽:ウェルナー・R・ハイマン

 これぞラブコメ!といった楽しさに満ちていて、古さを感じさせないというよりは、時代を感じさせるのが、また一興だった。風刺がピリピリきいているのが良い。
 
舞台は花の都パリ。貴族から没収した貴金属を売却するために、革命後のソビエト連邦から3人の役人がやってきた。フランスに亡命していた伯爵夫人が宝石を取りもどそうと愛人のレオンに依頼し、レオンはなんなく役人らを丸め込む。というか、この役人たちがどんだへっぽこトリオで、高級ホテルで贅沢三昧にうつつをぬかす。この状況を打開すべく、ソ連本国は特別全権使節ニノチカを送り込んだ。彼女こそ共産主義の申し子、口をついて出る言葉は祖国のため、人民のため、という模倣党員だった。

が、パリの媚薬とロマンスには誰もあらがえない。女たらしのレオンのがんばりもあって、はじめて資本主義を知ったときめきに恋の気配を感じさせるニノチカの変わりようには、参ってしまう。ニノチカ、ニノチカ・・・と連呼したくなる。中年にさしかかったグレタ・ガルボがとてつもなくキュートだった。

帰ってきたヒトラー

2016年07月16日 | 2010年代 欧州
帰ってきたヒトラー(原題:Er ist wieder da)

2015年 ドイツ
監督:デビッド・ベンド
製作:クリストフ・ムーラー、ラース・ディートリヒ
製作総指揮:オリバー・ベルビン、マーティン・モスコウィック
出演:オリバー・マスッチ、ファビアン・ブッシュ、クリストフ・マリア・ヘルプスト、カーチャ・リーマン、フランツィシカ・ウルフ、ラルス・ルドルフ、トマス・ティーマ
撮影:ハンノ・レンツ
編集:アンドレアス・ボドラシュケ
音楽:エニス・ロトホフ
美術:ジェニー・ルースラー
衣装:エルケ・フォン・ジバース


土曜日の昼間の回を狙って上映15分前に伏見ミリオン座へ着いたら、すでに満席売り切れだった。翌週、再チャレンジのために早めに行ってチケットを買うことができた。ヒトラーはやっぱり人気あるなあと感心しつつ、見終わって納得だった。

ティムール・ベルメシュのベストセラー本を原作とする秀逸な風刺劇。単なるキワモノタイムスリップではなく、現代ドイツに暮らす人々の声を採り入れる半ドキュメンタリー形式が新鮮かつ辛辣。おもしろくて、頭の中がムズムズした~。2014年地点のドイツが舞台だけど、刻々と社会情勢は変化しているし2016年Ver.だったら、とか想像しても楽しいな。



物語は、突如として現代に目覚めた独裁者ヒトラーが、物まね芸人と勘違いされてテレビやYouTubeで人気を博していく姿を描く。はじめは敵国の策略かと疑うヒトラーだが、すぐさま状況を理解し、情報を収集させ、現代ドイツを理解しようとする。リストラされたテレビマンとともにドイツ国内をまわって番組づくりをする中で、一般の人々から国への不満を尋ねてまわり、自身の支持者を増やしていく。

そのやり方がもう・・・。町を歩く一人一人に声をかけ、あなたの不満は何? そう、強いリーダーが必要だ、僕が何とかしよう、と励ます好漢ぶり。実際にカメラを向けられている人々は映画の撮影だと認識しているこその笑顔と発言だろうし、十分に選定されていると思うけど、洗脳されるよね、これは。

「ヒトラー」の格好を市民に批判されても、今度は失敗しないよ、と既に過去の過ちをすんなり受け入れている新ヒトラー像が実に爽やかに映る。そして同時に軽々と手玉にとられてしまう恐ろしさも感じた。民意など、いくらでも作られる。番組づくりに関わるテレビマンたちがヒトラーに翻弄されまくる右往左往ぶりも合わせて見事だと思った。

都会のアリス

2016年07月10日 | 1970年代 欧州
都会のアリス(原題:Alice in den Städten)

1973年 西ドイツ
監督:ヴィム・ヴェンダース
製作:ヨアヒム・フォン・メンゲルスハオゼン
脚本:ヴィム・ヴェンダース、ファイト・フォン・フェルステンベルク
出演:リュディガー・フォーグラー、イェラ・ロットレンダー、リザ・クロイツァー
撮影:ロビー・ミューラー
編集:ペーター・プルツィゴッダ、バルバラ・フォン・ヴァイタースハウゼン
音楽:CAN


 ドイツ人作家のフィリップはアメリカの印象を書くため、渡米して各地を放浪してまわったが、ポラロイドカメラで写真を撮ってブラブラするだけで終わった。「ニューヨーク以外はどこも同じ」「自分を見失う旅だった」とぼやく。

 ドイツの出版社からは文章の催促がきているが、まだほとんど書けていない。母国で執筆を完成させようと空港へ行くが、ドイツ行きは全便欠航。偶然居合わせた英語の不如意な母リザと9歳の娘アリスに通訳してやると、母はフィリップの英語力を頼りだした。航空券に宿の手配、レストランでの注文・・・そして翌日「アムステルダムまで娘を連れてきて」と書き置きを残して消えてしまった。

 大事件のはずなのに「こうなることはわかっていたのよ」と冷めたようなそぶりのアリス。しかしアムステルダムの空港にも母が現れないとわかったときにはトイレで泣きだしてしまったり、大人っぽさと子どもっぽさを行き来する9歳の少女。緊張の糸をギチギチに張り詰めたり、スッカリ忘れたかのように緩めたり、といじらしい。

 アリスの曖昧な記憶を頼りに、祖母の家があるという街ブッパタールへ向かう二人。フィリップはアムステルダムから陸路でドイツに入ってからは、やみくもに撮っていたポラロイドのシャッターを切りあぐね、代わりにノートに文字を書き連ねていく。記録から創作へと彼の中で旅が変化していったように感じる。アリスを媒体として。

 だが金も万策もつき、ブッパタールではなかったかもしれないというアリスを、警察に預けることにしたフィリップ。1人になったフィリップは、たまたま開催されていたチャック・ベリーの野外コンサートで「メンフィス・テネシー」(離れた娘への愛情をつづった歌で、監督が本作のストーリーの元にしたという)を聴く!!!

 丁寧に淡々と、二人の旅路を撮っていたはずなのに、ここにきて唐突な印象が否めない・・・チャック・ベリーが西ドイツのさほど大きくもない工業都市に来るかな・・・? まあエルヴィス・プレスリー(同曲をカバーしてヒットさせた)が出てくる違和感に比べたらいいけれど。

 この疑問はアリスと再会したときに、帳消しになる。警察から抜け出してきたアリスを見て、ほっとしたフィリップの表情が画面を溶かすようだった。おそらくは「メンフィス・テネシー」の曲中、彼のこころによぎったであろうアメリカの(彼にとっては)空っぽな田舎風景と自分を頼る小さな少女。

 一時的な保護者以上の愛情が見え始める。「親子にはみえない」と言われた彼らだけど、ラストには気の合った親子のようだった。フィリップとアリスの凸凹さが徐々に消えていくのが微笑ましかった。