「ウキヨの バカが おきてはたらく かァ ああァ」、そう言い放って部長はフトンに潜った。
確か春の初めの頃、夕方、伊豆半島南端の温泉地の旅館で部長と合流、翌日はその温泉地にある小さな造船所へ行く予定だった。
当時、造船業は既に斜陽産業、ワタクシが勤める舶用艤装品メーカーも傾きかけていて、先輩営業マンの多くはクビになったり、ヤメていったりで、ワタクシが大阪から清水までをフォローしていた。しかし小さな造船所ばかり。
津には大きな造船所があったが、そこは首都にある本社から発注の為、東京支社の担当だった。
そして、この伊豆半島南端の造船所は、東京支社からは忘れられていた。
「東京から行けへんのなら、ボク、清水まで行ったついでに寄って来ますワ」、そう部長に言ったら、「それやったらワシも行くわ、一度表敬訪問せんとな」と言う事で、同行する事になった。
傾きかけていたそのメーカーには、既に別の資本が入っていた。
長年、やりたい放題の創業者に仕えたあげく、新しく入って来た経営陣からは、業績悪化の責任を問われ、部長にとってはシンドい日々が続いていたのだろう。「ねるほど ラクは なかりけり、もう眼ェ覚めんでもエエわァ」
その後、部長は取締役になってしばらくしてクビになり、ワタクシもその舶用艤装品メーカーを辞めた。
そして特殊機械メーカーに再就職して数年後、その部長が亡くなったウワサを聞いた。まだ60歳そこそこだったと思う。
「もう眼ェ覚めんでもエエわァ」、ワタクシもそう呟いた事が、何度かあった。ワンルームマンションで一人、広島で単身赴任していた頃。特殊機械メーカーに転職して10年程経って、ワタクシは広島の営業所長だった。
広島には、その以前にも営業所があったらしいが、それは自宅を兼ねたモノ、1年程で閉鎖された歴史があった。
広島にはいつかキチンとした営業所を、と言う意向は経営TOPにもあったようだが、絶対に、と言う程の強いモノではなかった。
確かに神戸から通っても営業活動に不利、不自由、不都合はなかった。ワタクシも当時の中四国地担当者もそう思っていた。
しかし、営業のTOPは、異状と思えるほど広島営業所に拘泥していた。それはその男の、一時の熱病、ワガママ、気まぐれだったと思う。そう言う計画を強引にでも進めることにより、自己の存在意義を示したかったのだろう。
しかし、広島営業所メンバーとなる予定の、その中四国地区担当者は、社内不倫の挙句、会社をヤメる、と言い出した。
ワタクシ一人が単身赴任して営業所を出しても、それはキチンとした営業所にはならない。キチンとした営業所にはリーダーとメンバーが必要だ。
そう言うワケがあってかあらずか、ナントその営業のTOPは、離婚調停がスムーズに進まない中四国地区担当者に、「離婚を成立させるには、まず別居の事実が必要や、とにかく彼女と広島へ引っ越せ、広島での家賃とかは会社でメンドー見たる」、と言い出した。
これにはオドロいた。ワタクシのみならず、不倫事件を起こしてクビになっても仕方ない、と思っていた当事者もオドロいた。
これは、この中四国地区担当者の離婚を会社があと押しし、広島営業所出店に利用したとも捉えられる。
ある夜、この営業のTOPと総務のTOP、3人で呑んでいて、ワタクシがそう指摘したら、総務のTOPもそれを気にしていたと応え、営業TOPは少しうろたえた。そして、何やら言い訳めいたコトを言ったが、何を言ったかはよく覚えていない。
その後予定通り広島営業所とワタクシの単身赴任はスタートしたが、こんな社内不倫の離婚騒動を利用してまで設立した営業所など、上手くいくハズない。
いや営業所そのものは、地元採用の女性アシスタントも懸命に支えてくれ、面白い価値ある仕事も多く、それなりに上手くなり立っていた、と思う。
しかし、社内不倫の離婚騒動を営業のTOPに利用された本人は、いつも不満気で、不安げで、次々と問題を起こしていた。
そんなニンゲンだから不倫離婚騒動をおこすのか、不倫離婚騒動が彼をそんなニンゲンにさせたのか。
いずれにせよ、一緒にいるのが面白くない。女性アシスタントもよくグチをこぼしていた。
明らかに、営業所にとって不快、不要な人物だった。しかし、ワタクシには彼をクビにする権限はない。
そして面白くない単身赴任生活は続いていた。
四国で一泊二日の出張からウィークリーマンションへ戻って来た夜、「もう眼ェ覚めんでもエエわァ」、ワタクシはそう呟き、これはヒョットしたら緩慢な自殺願望なのかも知れない、と思った。
昨年は自殺者が3万人以下になったそうだが、それでも3万人近い人は亡くなっていて、未遂者はその10倍程だそうだが、こう言う緩慢な自殺願望者はどれ位いるンだろう。100倍?1000倍?
思えば、我が山の家のある布引谷は自殺名所と呼ばれていた。
一緒に幼稚園へ通ったタケモト君のオヤジは夜中歩いて帰っていた時、コツンと頭にあたるモノがあって、懐中電灯で上を照らすと死体がぶら下がっていた、らしい。
夏休みの暑い午後、天狗峡の滝ツボへ飛び込んだ同級生は、底に沈んでいた入水心中のアベックを見付けた、らしい。女性の長い髪が水の流れに不気味に漂っていたとか。
先々週の日曜日、12月になって繁っていた葉っぱは散り落ち、昔の通学路、ハイキングコースの周りが見えるようになった。
山の家から数100m下った所、毎日この辺りを通る度にヘンな匂いがしていて、貯水池の管理事務所の職員が見に行くと、服毒自殺の腐乱死体があったそうだ。あの黒い木の根元辺りだったハズだ。
貯水池ダム横の、通称“七曲がり”を下って少し行った対岸の繁みには、オーバーコート姿の男がぶら下がっていた。
大きな木から延びた枝にぶら下がっていて、管理事務所の職員、数名が近付いて行くのを眺めながら、我々小中学生は学校へ急いだ。
冬の夕暮れ、街が赤く染まった展望台からの眺め。ワタクシが通っていた頃には、当然湾岸の人工島などなかった。
展望台の下を廻り込んで、お寺の裏を熊内へ抜ける道で、中2の時、死体を見付けた。ワタクシ一人で登校中だった。
当時はまだ木々が鬱蒼と繁っていなくて、この斜面は雑草が生い茂っていた。キレイに積みあげられた石垣もなく、展望台から投げ捨てられたゴミが雑草に混じっていた。
その中に靴底が見えた。最初ワタクシは、誰かがクツを捨てたのか、と思った。しかし近寄ってよく見ると、クツは靴下に履かれており、その上にズボンが繋がっていた。オッサンが倒れている、と言うより、死んでいると直感した。
早くオトナに知らせないと、そう思って少し戻ると、布引側から母娘(オバアサンとオバサン)が登って来た。その人達に死体があることを伝えて、ワタクシは学校へ急いだ。
フツーに授業を受けていたが、何時限目かに校長室へ呼ばれた。刑事が2人いた。発見した時のコトを教えてくれ、誰かほかに見掛けなかったか、と言われたが、あの母娘としか遭わなかった、と応えた。
タダの転落者かと思っていたが、クビにヒモが巻きついていたので、殺人として捜査していたらしい。
死んだオッサンは保険の外交員だったそうで、空のカバンも雄滝の滝ツボ辺りで見つかった。
しかし、ヒモの結び目にはそのオッサンの指紋しか残っておらず、結局、お金、使い込んで夜、展望台で死のうとクビにヒモ巻きつけて、苦しんでいる内に落ちた、と言うストーリーで決着した、と記憶している。
世継山のテッペン付近にゴルフ場が出来、その従業員が布引谷・市ケ原に住み始め、小学校5年の時に一緒に通学する仲間が増えた。
そして、中学校3年の時に、そのゴルフ場開発で脆弱になった山の斜面が、梅雨末期の集中豪雨で崩れ、21名が亡くなり、ゴルフ場もなくなり、一緒に通学する仲間もいなくなった。
その後、自殺騒ぎも聞かなくなった。
ワタクシはその後も布引谷から通い続け、30歳前に街で所帯を持つようになった。
数年前、オフクロが亡くなった後、また布引谷で生活すべく準備をしていた頃、久しぶりに自殺騒ぎがあった。家から数100m下った所、服毒自殺の腐乱死体があった場所の近くで首を吊っていたそうだ。
秋の終わりの頃の日曜日、ニホンジンのハイカーはそれに気がつかず、背の高い外人がフツーにハイキングコースを歩いていて見つけたとか。
しかしその後は、相変わらず自殺騒ぎは聞かない。
ワタクシが自殺者の側を歩いて通学していた頃は、まだ高度成長期が続いていた。最近の自殺者数はその頃の1.5倍以上だそうだ。
そして死ぬのは布引谷の山中ではなく、マンションから飛び降りたり、電車に飛び込んだりしている。
しかもオッサンではなく、暴行されたり、ゆすられたり、たかられたりした子供達も。
10日程前の新聞で、踏切で電車に飛び込んだ母娘と見られる女性二人の身元が、事故後10日経っても判らない、という記事を読んだ。70代と40代とみられる2人の唯一の所持品は、2体のクマのぬいぐるみだったそうだ。
ところでワタクシ、経済のコトは詳しく存じませんが、通貨危機の後、IMFの管理下になって、非常にエグい競争社会になった隣国では、ニホンより多くの自殺者を生み出しているらしい。