蒼ざめた馬の “一人ブラブラ、儚く、はてしなく”

山とスキー、車と旅、そして一人の生活

あの大災害の日の記憶

2013-07-12 22:21:12 | 神戸布引谷での出来事

46年前の7月9日、朝、まだ布引谷に雨は降っていなかった。

その年、ワタクシは中学3年生。布引谷・市ケ原には他に中3が4人いた。
我が山の家から200m程上流の茶店に女子が1人、更に300m程上流の、大きな茶店がある村の中心地とも言える所に男子が1人。
その中心地から布引谷の支流を200m程遡った所に男子がもう2人。そこには5年程前に出来たゴルフ場の従業員家族が住んでいた。オトナ達はそのエリアを“飯場”と呼んでいた。

当時、市ケ原には昔からの常住が20軒弱、50人以上いたと思う。常時営業の茶店も4軒あった。元町の百貨店の別荘“山の家”もあった。
“別荘扱い”は他にもあったが、どの位の規模だったのかは判らない。また“飯場”には独身者もいたと思うが、細かいコトは昔からの住人も知らなかったと思う。

そして、地蔵盆のお祭もあって、お供えの菓子を貰ったし、歳末の見廻りもあり、ワタクシも星空の下、「火の用ぉ心」と言って練り歩いた。

いずれにせよ、そこそこの集落で、駐在所もちゃんとあった。
ここから熊内の幼稚園へ一緒に通った仲間の一人は、先代駐在サンの息子だった。

その7月9日は日曜日、午後は“ベツベン”へ行く予定だった。
“ベツベン”とは学校とは別の勉強、当時は塾をそう呼んでいた。休みの日も1時間弱歩いてふもとにある塾に行かないといけない。
今思うと、“ベツベン”の効果はあまりなかったと思う。単に親達の雰囲気だったと思う。
ワタクシの成績は年々落ちていて、担当教諭はその都度、「知能指数はエエのになぁ」と首をかしげていた。学校の成績とは、要は集中力とヤル気なのだ。

その日もヤル気など全くなく、朝から自転車で遊んでいた。
その自転車は、前のギャが2枚、後が4枚の8段変速。それで友達とよくあっちこっち走っていた。
行きはふもとまで、通学路:ハイキングコースとは別の車道:舗装路を駆け降り、友達と合流、市街地を登ったり降りたり、旧道の有馬街道を箕谷まで行った事もあった。
そして友達と別れた後、熊内から超激坂を漕いで登る。そうしないと家には帰れない。しかし、中学生は元気だった。

家から町方向へ300m程走ると、長い登りになりゴルフ場入口がある峠まで約1km。その先は超激坂、下ってしまうと戻りが大変。
山方向へは大した登りなく“砂止め”まで約1km。その先は完璧な登山道、自転車では走れない。
よって、フツーにチョコッと走る時は、登りの少ない山方向へ“砂止め”まで行く事にしていた。

梅雨の終わりの曇り空、大きな茶店まで車1台が通れる未舗装路を走る。早朝登山の人がどの程度歩いていたのかは記憶ないが、極フツーの穏やかな日曜の朝だった事は覚えている。

そして今でもハッキリ覚えているのは、駐在所の前で当時の駐在サンが、南東方向にある世継山のテッペンを見上げている姿だった。

世継山はちょっとした独立峰の形状をしていて、その南側の谷から北方向、稲妻坂~天狗道の尾根に繋がる稜線に沿ってゴルフ場は出来ていた。今、神戸布引ハーブ園があるところ全てがゴルフ場だったのだ。
北面の頂上直下にも木々を切り倒し、斜面を削って作ったグリーンがあったらしい。
駐在サンはその方向を見上げていた。

それは、その12時間程後に起きる大惨事を予見する様な姿だった。

駐在サンの前を通り過ぎ、民家の塀を過ぎると大きな茶店がある。

現在、市ケ原の河原のそばにある櫻茶屋は、昔は杉の茶屋と言って、ほとんど閉まっていた。
櫻茶屋とは、この大きな茶店で、そこの主人は村長的存在だった。

櫻茶屋を過ぎると階段になり、そこだけ自転車を担いで、その後は山道だが自転車で走れる。当時、天狗峡の存在を消してしまった大きな堰堤はなく、谷沿いに道があった。
その先、小さな堰堤が続く箇所の階段を越えると“砂止め”に到着する。

今はもう木々に覆われ“砂止め”は消えてしまったが、この頃はそこに市ケ原の河原と同じ位の大きい河原があった。夏休み、そこでトモダチと何日もテントを張って過ごした事がある。
堰堤工事の時に出た土砂をそこへ積みあげ、しかもハイキングルートも変ったので、“砂止め”はキャンプ等で使われなくなり、木々に覆われる様になったのだ、と思う。
あの大きな堰堤は、天狗峡と“砂止め”を消し去ってしまった、と言えるのかもしれない。

“砂止め”をジャブジャブ川の中まで走り回り、家へ戻ると雨が降り出した。

雨は土砂降りになり、安普請のトタン屋根を叩き続けた。

布引谷は森林植物園辺りで複数の谷と合流した後、南へほぼ真っ直ぐに流下していき、市ケ原を過ぎると世継山から延びる尾根に遮られ、大きく西方向へ曲がる。 そしてその尾根を廻り込むような形で貯水池に続いている。
西方向への曲がり角には、谷の延長方向にトンネルが掘ってあって、流れはこのトンネルから布引ダムのオーバーフローに繋がり、貯水池をバイパスしている。
貯水池への取水口はトンネルの100m程手前にあって、その間は巾約10m、深さ約5mの溝状になっている。その溝の上端に沿ってハイキングコース:我々の通学路が通っていた。

土砂降りの勢いは収まらない。10m×5mの溝が濁流で埋まって行く。
そしてトンネルの入口が見えなくなり、溢れた濁流は通学路にまで達した。
もう“ベツベン”へは行ける状態ではなくなった。

午後になって、山が崩れ出した。

布引谷を遮る尾根は、我が山の家の南正面に見えるが、その山腹に刻まれた急峻な谷が轟音と共に崩れていく。土砂、木々に混じって軽四輪車程の岩が空を飛んでいる。
数百mは離れているので、家までは飛んでこないと確信はしていた。しかし凄い光景。

次にその隣の谷が崩れた。
その谷は我が家他数軒の水源となっており、車道との出合はちょっとした広場になっており、オヤジは前夜、通勤に使っていた勤務先の3輪トラックを停めていた。
正面の谷ほど急ではないので、斜面がずり落ちた感じだったと思うが、それでも凄い音だった。
広場は土砂、木々で埋め尽くされオヤジのトラックを道端のコンクリート製柵まで押しだしていた。

轟音に驚いて近所の人が集まって来た。

当時、隣の茶店の先代サンはまだご健在で、おメカケさんを後妻にむかえ、その間に出来た娘、息子と一緒に住んでいた。二人の子供は既に社会人だった。
息子は傘が役に立たないと思ったのか、ズブ濡れの下着姿で出て来た。

南隣りは当時、三ノ宮に店がある床屋さんの別荘。
息子さんが2人いて、弟さんが来た時はよく一緒に遊んでいた。その日はお兄さんが赤ん坊を連れて来ていた。
日曜は商売だったハズ、多分午後には店に戻るつもりだったのだろう。しかし、土砂降りは益々激しく眼の前では山が崩れていく。もう帰れない。逃げ場もない。
赤ん坊をダッコしながら、「こうなったら親子もろともやぁ」と、叫んでいた。

親子もろとも?、ワタクシはそんな気は全くしなかった。
大体あんな両親と“もろとも”にはなりたくない。
お金がないからこんなトコへ家を構え、そこになれると「安気やからエエ」とダラしなく住み続けた夫婦。
その間ひとりムスコのワタクシを、雨の日も、風の日も、嵐の日も、歩いて通学させた夫婦。
そんなンと“もろとも”にはなりたくない。まだカワイイ女性と楽しくデートもしていないのだ。

しかし、そんなことより、ここは絶対安全だ、と言う感覚があった。

この辺りは尾根と言うか、山腹の出っ張った地形にあった。
従って、台風の時は強風をまともに受け、特に姫路辺りを通過する台風は、雨戸から窓まで飛ばして行った。
しかし、流れるモノ、崩れるモノは尾根には来ない。谷に集まるハズだ。土砂崩れは左右の谷側へ崩れていく。
また、布引谷の谷底は家から数10m下にある。浸水の心配もない。
昭和13年の阪神大水害の時もこの辺りに被害はなかった、と隣の先代サンも言っていた。
豪雨によりここで死ぬ事はない。

やがて日が暮れた。雨は相変わらずトタン屋根を激しく叩いている。

家から竹藪を隔てた先には高さ5m程の堰堤があり、その水の落下音が夜の闇の中では雨音に聞こえ、泊りに来た叔父さんなどは夜中に雨が降り出した、と思ったらしい。
しかし、この夜の音はザァ~っと言う雨音ではなく、グォオ~っと言う地響きに近いモノだった。
トタン屋根を叩く雨音と相まって、全体が微妙に揺れていた。

オヤジは多分、日が暮れる前から呑んでいたと思う。
台風なら強風に備えての“男の仕事”は色々あった。しかしこの日は風はない。あるのは上からの強烈な水滴だけ。それに対してする事は何もない。
もし数10mの深さを濁流が埋め、ここまで達したら。上に逃げるしかない。もし崩れるハズのない上の斜面が崩れたら諦めるしかない。
オヤジは呑むしかない。「ここがもしそうなったら、神戸自体がもうオワリやぁ」、と自分に言い聞かせるように言って呑んでいた。

しかしその時、500m程離れた村の中心地では布引谷の支流が暴れ出し、U本サンの家を押し流そうとしたため、男達は土嚢を積んだりと、大変な作業をしていたらしい。
フツーならオヤジも呼び出されていたと思う。しかしこの時点では村の連絡網は分断されていた。

ワタクシはボオ~ッとテレビを見ていた。
四方を山に囲まれている家、テレビの画面はゴーストだらけ。しかし、テレビはテレビ、遊び相手の兄弟はいない、ゴーストをボォ~ッと見ていた。
こんな豪雨の中、オフクロも勉強せよとは言わない。通学路は崩れてムチャクチャなハズだ。明日からしばらくは学校へ行かなくても済むかな、そんなフザケた事を考えながらテレビの前で寝そべっていた。

そして、カミナリが鳴りだした。何回目かの雷鳴の後、テレビが消えた。停電だ。

9時頃だった。電気が消えると何も出来ない。
親子3人は、二階へ上がり、「川」の字になって寝ることにした。

相変わらず、雨は激しくトタン屋根を叩いていた。布引谷はグォオ~っと唸っていた。

そしてあのカミナリが、世継山頂上北側の高圧線鉄塔に落雷し、その衝撃で梅雨の終わりの脆弱になった斜面が崩れ、約150m下の櫻茶屋とそこに避難していた21人の命を奪った事を、翌朝眼が覚めるまでワタクシは知らなかった。

落雷した鉄塔は、樹木を切り倒し斜面を削って造られたグリーンの近くにあった。
朝、駐在サンが見上げていた方向だ。
土砂崩れの元凶が、ゴルフ場開発による自然破壊であった事は言うまでもない。

犠牲者21人の中には5人の小学生と、中学生になって初めての夏休みを迎えるマリちゃんがいた。