蒼ざめた馬の “一人ブラブラ、儚く、はてしなく”

山とスキー、車と旅、そして一人の生活

ユメもチボーもなく、願いは叶う

2012-06-25 11:55:13 | 朽ちゆく草の想い

小学校高学年の頃、新幹線が出来て、それまで6時間かかった東京へは3時間で行けるようになって、秋には東京でオリンピック。

「夢のパラダイスよォ、花のトォオオオキョウ~」、これは戦前の歌だそうで、当時の東京は帝都。そこは空襲で見事に焼けたが、戦後見事に復興、オリンピックも見事に復活。
学校でそんなコトを習ったかも知れないが、小学生のワタクシには興味なく、どうでもエエことだった。

その当時流行っていたコメディアン「東京ボン太」、唐草模様の上着を着て、頻繁にテレビに出て来ては、「ユメもチボーもないね」、と言っていた。
世相を色々と語り、最後に「ユメもチボーもないね」と言って終わり。

小学生には、当時の世相と「夢と希望」との関係を、シニカルに表現するギャグの真意は判らなかったが、何か面白く、「ユメもチボーもないね」と真似たりして、その都度、オフクロやセンセに「小学生がそんなコト、言わんとき、言うたらアカン!」、と叱られていた。

世の中は年々、便利、快適、豊かになり、戦争でヒドイ目にあったオフクロやセンセ達の世代が、「夢と希望」に溢れていても不思議ではない。
しかし、戦争を知らない子供たちは、当然、戦争の悲惨さとか、平和と繁栄のありがたさなど判らなくて、ただ、「ユメもチボーもないね」とふざけていた。大体、その頃はまだゼロ戦とか戦艦大和とか武器が好きで、反戦意識が芽生えるのは5年ほど後になる。

東京へ日帰り出張が出来るビジネス特急「こだま」が、東海道本線を忠実に神戸駅から走り出したのが幼稚園の時だった。
オヤジに連れられてそれに乗った日を憶えている。
朝まだ暗い時間に、布引谷・山の家を出て、神戸市街を見下ろせる展望台まで来ると、高架を神戸駅に向かう長い列車の明かりが見えた。「あれが今から乗る奴チャ」と、オヤジは言った。

それから6年程経って、新大阪から東京へは3時間で行ける様になり、更に8年後、新神戸駅が出来て、神戸からも新幹線に乗れるようになった。

早い列車が出来て、それに乗れて短時間で東京へ行ける、それは高度経済成長。

しかし、小学生は東京へ出張する訳ないし、布引谷・市ケ原に住む大人たちも、東京への出張が必要な仕事はしていなかった。山の住民には関係はなかった。

そもそも高度成長とは工業化が邁進することであり、農業や漁業をやりたい人、それしか出来ない人達には関係ない。
しかし、工業化、高度経済成長は国策。

その頃、地元の化学工場に就職できない熊本・水俣の漁民たちは、水銀汚染の魚を獲って生活するしかなく、かたやチッソは、僅かな解決金の支払いと水銀排出には何の効果もない処理装置を設置して、水俣病はもうオシマイと誤魔化し、地元・熊大水俣病の研究者まで誤解させて、その後も患者が次々と出ているのに、水銀を排出し続けていた。
戦前は肥料、戦中は軍需品となる酢酸、戦後は高度成長を支える有機合成品を作っていたチッソは、つまり国策企業。
そこが起こした公害、というか大災害など、当時、国は問題化しなかった。
当然、その頃の小学生はそんな九州の大事件など知らないし、大人たちが話題にしているのを聞いた事もなかった。

国策とは、国の支配層が豊かになるための政策、運のイイ一部の国民はそのオコボレを頂いたかもしれないが、熊本・水俣の漁民たちはその犠牲になった、ホントにヒドイ話。

数十年後、高度成長が自然を破壊し、環境を破壊し、地域のニンゲンのお付き合いを破壊し、良心を破壊し、善意を破壊し、精神や情緒まで破壊し、と皆さんボロカスに言うようになる。
しかし、当時から国策の高度成長の被害、弊害を受けていた人は相当数いた、と言うコトだ。

いや、そもそも高度成長など、大半の人は関係なかったと言うか、大した恩恵は受けていなかったのではないか。そんな気がする。

国はドイツを抜いて第2の経済大国になって、オヤジの収入も多少は増えたハズだ。
だからと言って、増えた収入で市街地の土地を得ようとしても、それなりに地価も上がっている訳で、結局いつまで経っても、布引谷・市ケ原から降りることはできない。
経済成長しても、国の中では格差は埋まらなかった。他人の倍、3倍働けば可能かも知れないが、そんなシンドイことをするより、「町のセセコマしいトコに比べると、ここは自然に囲まれて、安気でイイ」と諦めた方がラク。

高度経済成長の中、相変わらず、ワタクシは布引谷から学校へ通っていた。

教室では、将来の夢、とかやりたい仕事を話しあう授業が時々あって、「将来何になりたいか、1人ずつ言って下さい」と、センセに言われて、何と答えたか、全く覚えがない。
お医者サン?ガッコのセンセ?電車の運転手?お菓子屋さん?
なりたいと思っていたモノは思い浮かばなかった。
「夢」、それは今なら大リーガー、Jリーガーとか、えー・けい・びー?
しかし、当時の布引谷には、野球やサッカーが出来る環境はなく、役者、歌手はゴーストだらけのテレビで見るだけのモノ。タレント、アイドルとかはまだ登場していなかったと思う。

中学生になっても高校生になっても、なかった。
放課後、校庭や繁華街で遊ぶ同級生を横目に、ワタクシの前には標高差約200m、1時間弱のの帰宅路が立ちはだかっていただけ。「アァ~ア、ユメもチボーもないね」

就職を決めないといけない時期になっても、何をしたいかは、なかった。
政治家や会社経営などには全く興味なく、作りたいモノ、開発したいモノ、開拓したいモノはなかった。活躍したい場もなかった。
野心とかお金、財産などはココロの卑しいゴンタクレが持つモノ。

ワタクシは、目立ちたくない、競いたくない、群れたくない、蓄えたくない。
誰の影響か判らないが、それが今も続いているワタクシの信条。

理学部の大学生の頃は、まだ高度成長期のハズだったが、ナゼか卒業の年は理科系の就職難だった。前年までなら、どこかのメーカーの技術部か製造部にスッと雇われたハズが、求人で目に付く職種の多くは営業だった。
とにかくどこでもいいから就職しないといけない。

何とか喰えて、テキトーに呑めて、テキトーに山やスキーに行ければいいだけのワタクシ。
で、なんとかもぐり込めたのは造船関連メーカーの経理だった。物理学科卒でも、経理で出来る仕事はあった。

しかし数年後、営業へ移れと言われた。(別に経理で不正を働いたワケではない、念のため)
企業とは他社と競い争う利益追求集団、営業はその先端に立たなければならない。
目立ちたくない、競い争いたくないワタクシ、営業などやりたくなかったし、客と交渉し注文を取る、一見勇ましそうな仕事がカッコイイとも思わなかった。
しかし、その時には扶養義務が発生していて、なんとかもぐり込めた会社を辞める訳にはいかない。

造船業界で営業をやるなら、ゴルフ、麻雀、釣り、競馬、囲碁、将棋が出来なければダメ、まぁボチボチ覚えたらイイ、当時の営業部長からそう言われた。これは営業の武芸十八般(?)、6つしかないけど。
残念ながら、ワタクシが出来るモノは一つもない。覚える気もない。
ただ、客先へは足繁く通った。

やらざるを得ないモノが目の前にぶら下がっていると、とにかく早く、完璧に片付けないと気が済まない性格のワタクシ、それが災いしたのか、幸いしたのか、 仕事はいくらでもあった。
その代わり、定時は午後9時とか10時だった。
気が付けば、いつの間にか、目立ち、競い、群れて蓄える、モーレツな売り子になっていた。
「いつまでもキリないし、もうヤメや」、同僚や先輩が帰った後も一人残って、昼間得た成果を、見積や手配として処理していた。周りから「毎日ようやるなぁ、シンドないかぁ、体力あるねンなぁ」とよく言われた。

何故、毎日ハードに働けたのか、それは多分、あの標高差約200mをほぼ毎日、幼稚園から小中高大と通学し、その後更に4年程、通勤したからだと思う。「アァ~ア、ユメもチボーもないね」と、フザケながら。
しかし、いつまでハードに働かないといけないのか。それを続けることによって獲得する「夢と希望」などないのに。あぁ、ツマラナイ。
目立ちたくない、競いたくない、群れたくない、蓄えたくない、そんな日々に戻りたい。

ホンマにもうエエワ、ホンマにもう働くンイヤヤ。そんな思いがMaxになった5年前、グッドタイミングで扶養義務が無くなり、ハードに働くどころか、フツーに働くのもヤメた。

暦が一巡した今も、ユメやチボーはない。
しかし、目立たず、競わず、群れず、蓄えずで何とか生きている。

若者よ、夢や希望など抱くな、それがなくても願いは叶う。


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