蒼ざめた馬の “一人ブラブラ、儚く、はてしなく”

山とスキー、車と旅、そして一人の生活

安曇野へ来て、仏を拝む習慣が始まった

2019-09-27 16:17:02 | 朽ちゆく草の想い

一昨年の9月、叔母が亡くなった。安曇野への完全引っ越しが終わり、約4ヶ月経っていた。

神戸で棚に入っていたモノは棚に納め、床に積んでいたモノは、新たに作った棚に納め、荷物はほぼ片付いて、晴れた日は、この地に生えていて、小屋を建てる為に伐採された切株を、セッセと片付けていた。

叔母は生涯未婚で、妹はワタクシが生まれる2年前、亡くなっていて、姉には息子が一人、つまり叔母の葬式をして、後を祀るのは姉の息子のワタクシ。

母の実家は浄土真宗、ウチは浄土宗。しかしウチのお寺のセンセは、オヤジの法事などで叔母とは顔見知り、なので葬式からそのセンセにお願いした。親鸞サンは法然サンの弟子だし、同じナムアミダブツだし、まぁエエやろ、と勝手な判断。

納骨が終わり、翌日お寺へお布施を持って行って、「信州に戻ったら、叔母と一緒に、祖母ともう一人の叔母も祀らなあきませんネン」、と二人の戒名を書いた紙を見せると、センセの奥さんは、「そやったら、ウチでも過去帳に控えときますワ」と言われ、それをコピィして下さった。
この二人が亡くなってから50年以上は経っていたので、叔母とオフクロはいずれかの時点で、永代供養とやらを済ましていたと思うが、まぁこのお寺で拝んでもらっても、誰も怒らんやろ、と思った。どうせワタクシが生きている、後20年程のハナシだし。

安曇野に帰ってからは、毎朝、仏壇のホコリを拭い、茶器の水を入れ替え、ローソクと線香に火を点け、念仏十念。

しかし自分が祀る、とエラそうに言ったものの、水とローソクと線香だけでは見ずぼらしい、味気ない。取り合えず花とお供えをレギュラーに加えた。

ただスーパーで売っている花がデカイ。確か神戸のスーパーには仏壇用(?)の花が売っていた。仏壇とセットの花瓶に丁度イイ大きさだった。それがこっちにはない。
そもそもこっちのスーパーでは全てが大家族用(?)、神戸にあった様な少量パックとかいうのがない。
仕方なく、一番小さいのを買って、毎回、茎の部分をカットした。

近くに“イオンのディスカウントスーパー”とか言う、大きいスーパーがある。
しかし、ワタクシの購入量はお独りサマ様分、ごく少量なので、どれだけのディスカウントになるのか、よく判らないが、こっちの人は皆サン、ドカッと買って、段ボールに詰めて、軽四に積んで帰って行く。
売り場では、モノが段ボールに入ったままで並べられている。その反面、時々品切れがあって、前週まであったモノが、ゴソッとなくなっていることもある。
要は大量仕入れで、仕入れがない時はない。ディスカウントスーパーと言うのはそういうモノなのか。
そもそも市場がないのだから、ディスカウントスーパーが出来て、品種が少なくても、モノが手に入れば、それでイイという訳か。

ただ工場で大量生産されるモノ、と言うか大量生産しかできないモノはそれでイイと思うが、ヤサイ類はチョット違うのではないか、と思う。信州のタンボ、畑に囲まれたスーパーに、大量仕入れの県外(時々国外)
のヤサイが並べられている。これはナンカ気持ちが悪い。

という事で、ヤサイ類の調達は道の駅、JAの直売所へ行くことにした。
そこには野菜以外に、周辺にある和菓子屋、洋菓子屋のモノもあった。いずれも
信州の素朴な作品と言った感じがイイ。
直売所には当然花もあって、要は仏壇を飾るモノも直売所で調達できる。ただ花がスーパーよりデカイ。茎の部分をかなりカットしないといけない。

叔母の3回忌、お供えは小谷村産のチーズケーキと松川村産の巨峰。乳製品をホトケサンに備えていいのかどうかまでは、気にしなかった。

そして花も松川村産。この花が特にデカかった、まさに花束。

「あのォ、スイマセンがこの花、仏壇に供える位の大きさノん、ありません?」と、カウンターのオバサン(と言うかオバアサン)に訊いた。二人のオバサン(と言うかオバアサン)は、あれこれ相談しながら、花束を半分の大きさにカット、二つに分けてくれた。