おじたん。的ぶろぐ生活。

おじたん。である。語るんである。

小躍りして喜ぶに違いない。

2006-07-01 19:45:41 | 我思う、故に書くなりよ。
橋本元首相が死去、行財政改革など中央省庁再編に道筋 (ロイター) - goo ニュース

得てして、訃報記事なんかには輝かしそうな業績、偉業…ってもんが一緒に載ったりする。この政治家にしてもそうで、そこそこ政治家としての人生ってもんが載っている。

ざっと、それらの記事に目を通したが「バブル崩壊」について書いている記事がほとんど見当たらない。その原因のひとつともなったのが「総量規制」で、この人が蔵相として行ったものだ。

そんなワケだから、バブルの弾けた不動産屋やらデベロッパーらはこの人と日銀総裁を「目の仇」にしていた。現実に、この妙であまりにいきなりな規制が無ければ完成していたビルやマンションや商業施設も多かった。あまりに唐突に、銀行が融資を打ち切る事態になったので、大きなビルは完成する事無く、無残な姿で放置され「バブルの象徴」になってしまったんである。

まぁ、バブルのままで良いかどうか…は別として、取りあえず着工しているなり、契約が進んでいるなりする物件は完成するまでの暫定措置でも設ければ良かったものを、いきなりなワケだからねぇ…。とりあえず完成していれば、売るなり貸すなりもそれなりに可能だったのだが、それすらもままならない状態が場所によっては未だに残っていたりする。

「プラザ合意」あたりから始まった一連の流れってモノを見ていると、もうちっと考えても良さそうなコトだったんだが、一般人の雲の上の人々の考えてるコトだから、どーにかなりそうなもんだけれど、ならなかったんだな、これが。

まぁ、当時はサラリーマンが一生働いても家なんか絶対に買えない…ってこれまた妙な時代でもあったので、それがより一層進んでしまうコトを避ける措置だったとしても、もうちっとマイルドになんとか出来そうなもんだけれど、あんまり深く考えて無かったんだろうな…。

幾度か、実際に間近にお目にかかったコトがある人だったが、政治家と言うのは有権者かそうでないか、自身の利に組みする人であるかそうでないか…で目付きが変わるもんだと、まじまじと判った人だった。まぁ地番の人間でも無ければ、なんでも無いんで、あまり相手にはされないだろうとは思っていたが、あからさまに「見下した目」で人を見るんである。首相とて人間だし、政治家とて人間。そういう人も中にはいるんだろうけれど、同席した事情通に言わせれば…

「あの人はいつもそうだよ。くっついて回る記者なんかボロクソ言われるし、政治家だからなぁ…。選挙区じゃ顔が違うだろうけどな…」

そんな人間を政治家として選ぶ「選挙」ってシステムに嫌気を刺して参加しなくなったもんである。政治家としてである前に、人としてどーなのよ? って。

歯科医師の政治団体からの怪しげな献金が話題になった時には、さもありなん…とは思ったが、ついに責任を追及されるコトも無かったみたいだ。まぁ、自主的に「引退」ってのが決まっていたやにも聞くんで、そんなのもアリなんだ…と。

まぁ、そんなワケだから、元不動産屋のおやじとか元デベロッパー経営者なんかは、ここぞとばかりに「祝杯」でも上げているかも知れない。不謹慎ではあろうかと思うが、何もかも失う羽目になった人達にしてみれば「ざまーみろ…」なんだな。

人として、どーなのよ? って人の方が政治家に向いているワケでもないが、TVで見るのと実際に会うのとじゃエラく違う人が結構多いんで、そうした面も知っておくコトは選挙に参加する一般人としてはオススメである。政治家になった途端に人が変わるなんてヤツもいるんだけど…。

そんなこんなで、一生働いて家が買えるか? と考えたら、なかなかムズカシイみたいだし、世代をまたいで働かないと買えないのが家だったり土地だったりする。世の中そうそううまく行かないんだなぁ…。バブルの崩壊にしても、この人が全て背負い込む理由はどこにも無い。時代の流れ…ってものがあって、たまたまその時に「蔵相」だっただけだと思う。それでもやはり「失策」を選んでしまったには違いないと思う。政治家として、後世に名を残す…ってのもムズカシイんだなぁ…。



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癌と言う病気とどう向かい合う? 番外編3。

2006-07-01 14:09:14 | 我思う、故に書くなりよ。
病に倒れた母が国立病院機構の病院から退院してきた。

まぁ、手術で取ってしまえばそれほど心配するものじゃないので、取った後の回復が一応済んだ…ワケである。従来の術式だと、もう少し入院していなきゃならないのだが、患者の負担が少ない手術のお陰で…ってコトもある。

んー。見た目はかなり具合悪そうに見える。ほおがコケ、いかにも「ゲッソリ…」と言う表現がピッタリだし、そんな容姿の母を見た記憶も無いので、奇異に感じるのだが、癌で胃の3分の1を取ったのだから、まぁ、こーなるんだろう。

てなワケで、めでたしめでたし…と、行きたいトコロだが、食生活が大きく変わって難儀している。無理して過剰な体重に戻す必要も無いのだが、従来の食事が食べられないのだ。まぁ、これはそう言う場所の病気の末だから、致し方ないんだけれど、およそ、あまり「太る」とか「栄養が付く」とは思えない食事がメインになってしまった。それが、ショックらしい。

ショックらしい…とは言え、時間が経てばある程度のモノは普通に食べても問題なくなるので、暫くの「我慢」ってモノなのだけれど、本人には不満の様子。この世の健康になると言われている食材のほとんどを努めて摂取し続けた末の「胃癌」なのだから、そんな様子を見ていても、コメントすら浮かんで来ない。

もう1つ、ショックだったコトがあり、これはその話を聞いて私もショックだった。

退院に当たって、手術がどうとか、病気がどうとか、一切の説明が無いまま退院してきちゃったと言うのだ。術後にあるとされた、本人への「説明」も無いと言う。術前の説明が非常に細やかで、緻密なモノに感じられただけに残念だし、

「そんなんでいいのか?」

と、少々不安になる。まぁ、退院したからといって、縁が切れるワケじゃないので、そうしたスパンから考えると「まだ途中」って意味があって、そうした説明が無いと好意的に解釈したい所だが、現実には「忘れてた…」「面倒臭い…」ってコトも多々ある。患者本人が聞かなかった…尋ねなかった…と言う点もあるんだが、こうした瑕疵を考慮しても全く説明が無いのも変ではある。

ま、恐らくだが、担当医が変わった際の引継ぎが「おざなり…」ってコトじゃなかろうか。書類上の担当医は変わっていないが、実際には執刀までする医師が細かいコトまで担当するワケではなく、その配下にある「下っ端」に任せるんである。任された「下っ端」がどこまで任されたかが問題で、そのまた配下にある「看護士」も何かを任されるんであろうから、その辺の『連携』って部分がグダグダだったってコトじゃないのかな。階層的な序列に起因する諸問題の一端と言う「白い巨塔」的な解釈でよろしいかと。その中で、本来は最上部にいなければならない「患者」が、こうした中では「最下部」にいつも置かれるんである。患者にして見れば、大きな手術の後のケアの部分がしっかりして欲しいトコロではあったのだが、ケアに際して説明不足と言うか、全く無いと言うか…。そりゃ「不安」にもなるわな。

そうした一連の「引継ぎ」の手ぬるさ…ってトコロに『医療過誤』が潜んでいると、常々報道されているにも関わらず…だから、国立病院機構と言ってもまだまだだな。

これで、母の容態が思わしくなかったら速攻で殴り込んでも良さそうなんだが、本人は至極元気なので、そこまでする必要は無いにしても、問い合わせは週明けにでもしておく必要はありそうだ。そうした『クレーム』とも受け取られかねないレスポンスであっても、病院をより良い病院にする為には必要だったりする。そうしたレスポンスの扱いで、病院の評価も変わったりするし、そうした『評価』ってモノが最近の病院じゃひとつの『ステータス』になっていたりする。

幸い、執刀を担当した医師に顔見知りもいるし、病棟での最高責任者でもあるその人は患者からも信頼が厚かったそうなので、多くを心配する必要は無いのだけれど、こうした『グダグダ…』がそのまま残り続け、大きな事故にでも繋がってしまったら、もっとヒドク残念だし、その残念の当事者が母でなかったとしても、予見できた恐れを放置して、招いてしまったとしたら、途方も無く残念なコトになりかねない。

要するに、ワケ判らんくらいの残念が予想されかねない状態じゃなかろーか…ってコトだと思うんだが、それじゃあ困るのだね。患者も医者も病院も。

しかしまぁ、一連の必要な事はチェックしていれば抜かるコトも無さそうなんだけれど、そうしたコトもやってないのかねぇ。ISOとは行かないまでも、そうした基準の確立みたいなコトは国立病院機構ってトコロならやっていそうな気がするんだけれどなぁ…。

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いい学校じゃないか。

2006-07-01 13:01:49 | 我思う、故に書くなりよ。
長男の父親が退学届け、学校側は保留 奈良・放火殺人 (朝日新聞) - goo ニュース

現実的なコトを考えると、このまま「高校生」をやっていられるかどうかは定かじゃないけれど、普通ならね、速攻で「退学処分」だと思うのだ。まぁ、あまり詳しく報じていないので「これからも…」って真意がどうだか判らないが、少なくとも加害者としての「少年」の、そうまでしなければならなかった事情を察しているんじゃないかと。

こう言う事件は「金属バット殺人」の辺りから、加害者だけの問題で無い…と、言われて来た。加害者を含めた「家族」の問題であると言われて20数年経っているのだけれど、「家族」はあの当時のまま、何も変わっていないんだと思う。

家族に追われて、逃げ場を失ってしまった者の末路はどれもこれもが「不幸」だ。ちょっと考えれば、相当な不幸しか待っていないコトも判るんだけれど、そうするコトしか「逃げ場」がどこにも無く、道が開けて来ない。

我が子がそういう状況にあるコトも、そういう状況に追い込んでいるのが自分であるコトも、親は気付かないのである。「教育方針」だとか「育て方」だとか、言い方は言葉として幾らでもキレイなモノはあるのだろうけれど、

「子供を人間として見ていない…」

だけなんだと思う。炎天下の自動車に幼子を置きっぱなしにパチンコに興ずる親や、望みもしないで子供を作り、うるさいとか、邪魔だと言う理由で虐待する親と根本は何ら変わりない。「物」なんだ、人間が。

そうした「家族」「家庭」と言う閉鎖的な環境で行き場を失った子供を救うシステムが日本には無い。どこか他の国にあるのかと聞かれれば、答えを持っていない。無いのかもしれない。せめて、子供が日常の多くを過ごす学校とか、保育園とか、そうした機関が積極的に子供から出ている「サイン」を受け取れる様に努力する行いが始まったばかりだと思う。

秋田の小学生殺人事件でも、未だに真相は不明だが、容疑者の水死した子供は「給食が一番のご馳走…」と周囲に語っていたことが知られている。ネグレクトが少なからずあったコトも知られているが、亡くなった子が心のよりどころとして通った学校から救いを差し伸べた者がいたとは聞こえて来ない。

事後、ではあるが、学校から少なからず「救いの手」がさしのべられた気がするのが今回の記事。ムズカシイとは思うが、進学だけでなく、子供を預かる教育機関として無下にこうした子供との縁を切るのではなく、救って行こうとする姿勢があるのは素晴らしいコトなんじゃないかと思う。ケースバイケースだけれど、「個」としての「人間」を見ているからこそ「保留」と言う選択が出て来るのだろう。まぁ、そういう見方の出来る学校だから、進学にしても高度な教育機関に数多くの卒業生を送れる…って見方も出来る…。

かなり、これまたムズカシイと思うが、事件を起こした少年には「医者」になってもらいたい。人の心の痛みを十二分に知った医者がこの国には必要だと思う。心の痛みを判らないまま医者になれるシステムだから、半ば諦めてはいるが、そうした中、彼なら過去は過去として、誰からも頼られる「医者」になれると思う。

家庭も学校も、心を養う場であるコトが当たり前に「当然」なんだけれど、すっかりどこかに忘れ去られている。「心」を教える学校でも作って、そこを出てから進学なり一般の勉強なり教える学校へ進むシステムでも作らないと、20年前も20年後も変わらないんじゃないだろうか…。

Comments (2)
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