・・・日本の古代の墓"古墳"の初期から中期にかけて葬られている人は状況から見て、どうも゛まつりごとをつかさどる人"と"政治、軍事をつかさどる人"の二人を一緒に同じ墓に葬っている場合がかなりあるらしい。
・・・上の古墳は欽明天皇の母親である手白香皇女の墓と云うことで宮内庁が管理していますが、一説では『邪馬台国の女王の壱与』の墓とも言われています。
理由は上の古墳の平面図で判るように後円部の中央と前方部の中央に20メータ四方の棺を埋めた痕跡があり「軍人と巫女」が各々に葬られたらしい。
魏志倭人伝には同じ邪馬台国の女王の卑弥呼には政治を司る男王がいたことが書かれている。
壱与にも同じ統治形態が取られたことが想像できる。
・・・古代では国を治めるために、軍事・政治だけではだめで神様に仕える巫女が必要であったのです。
一人の男王が治めた場合も司祭の機能が必要だったことが歴史から判っています。
・・・現代の世の中では、国の重大事を決める時は少なくとも「神頼み」はなくなりましたが「一般国民の声を聞くこと」がそれに代わっているので、国の首長は政治・軍事と国民の声を聞くという両方の機能が必要なのでしょう。
・・・今の日本の政府は政治・軍事だけで国を治められなかって、卑弥呼にとってかわられた司祭機能が弱かった男王のような人が多いので、国が収まらないのではないでしょうか。
「古代史」の本に「国を治める人にとって、天変地異が多い時代の政治はまつりごとであった」、と書いてありますが、現代もまつりが国民の声を聞くに変わっただけで、人心をつかむことでは変わらないのだと思います。