~Agiato で Agitato に~

再開後約20年になるピアノを通して、地域やほかの世代とつながっていきたいと考えています。

すべての道は・・

2008年03月28日 02時06分51秒 | 雑感
知人のブログや、ブログへのコメントなどをみてちょっと思ったこと。


なにごともその道でお仕事をしていこうと思ったならば、まんべんなくいろいろできる器用さも必要かもしれないけれど、ある分野に特定した専門性というか個性がやはり欠かせないでのはないかということ。
そういうことは私がいうまでもなく、社会でお仕事をされている方々は痛感されていることなのだろうとは思うのですが・・・。


たとえば、私の古い友人で学校の勉強も英語もあまり好きではないのだけれど、なぜかドイツ語だけが好きで、日常会話にはほぼ問題がない者がおりました。
ドイツ系の会社の秘書も勤めていたし、私からみれば「すっごーい!」という感じだったのですが、彼女にはいわゆる「専門分野」がなく、通訳にしても翻訳にしてもキャリアを重ねようとするとちょっと苦しいものがあり、結局はいろいろな条件が重なってドイツ語を生かしたお仕事はやめてしまいました。
・・・また、これはかつての話なんで聞き流していただきたいのですが・・・
私、10年くらい前までの数年間、だらだらと翻訳の勉強をしておりまして(今ではすっかり忘れきってしまい、中学生以下のレベルと思います・・汗)、できたらジャンルをしぼって仕事につなげられたらいいなあ・・と漠然と思っておりましたが、だらだらやっているうちに気付いたのは、「自分は英語が好きなのではなく、英語を通して日本語の表現を探ることそのもの好きなのだ」ということ。
好きなジャンルも文学系の英日翻訳に限られていて、これではお仕事としてはまずムリ・・・・・ということで未練なくやめてしまい、今では英語そのものを読むこともまずありません。
いや、語学でなくとも、忘れ去っているのは日本の古典文学でも同じことで、文法なんかはもう全然わかりません。主人にもあきれられるくらい・・(汗)。単語も忘れましたねえ。ただ、単語も文法もあやしいのに、読むのは別に苦痛ではないです。


英語などは、これからは読み書きは当たり前の時代でしょう(というよりすでにそういう時代なのだと思いますが)。
凡人には「読み書き」まででも、相当な大変さなのですが(国によってもかなり違いがありますし)、でもそれは英語圏の方にとっては当たり前のことなんですよね。
日本人であっても読みにくい古典文学にしても、これはもう読めてなんぼで、読めないことには研究もなにも始まらない。


それをいうなら、楽器だってある一定のレベルまでは弾けないことには始まらない。どういう楽曲も可もなく不可もなくのところまでは弾けて、聴いているほうも「ああ、こういう曲ね」とまずはすっと分かることが大事。
そこから先がえらく長く厳しい道のりになるわけで、ここからの極め方、あるいは生来備わっているものによって、たとえば「モーツァルトなら誰それの演奏」「このピアニストの音が好きでたまらない」などという分化が生じてくる。


今日たまたま読んだ冊子の中に次のようなくだりがありました。

故河合隼雄氏が、ある指揮者に「深い音とはなにか?」とたずねたところ、
その指揮者(日本人ではないです)はしばらく考えたのち、
「音にその人のトータルパーソナリティが全部掛かっていて、聴く方もトータルパーソナリティが反応する時、深いというのだと思う。それはいつもいつもできることではないが、それができる時がある」と答えられたそう。


まずは、形が整うくらいの技術を身につけ(もちろん技術だけが一人歩きしてもいけないでしょうけど)
次に、「この人はこれだ!(このジャンルだ)」と言われるくらいにあるものを掘り下げ、
最終的には、送り手と受け手が深い部分で反応できるような機会が持てれば理想的
・・・ということでしょうか?


どんな道も大変なものですね。
ただどの道も結局は同じところに通じている、ということでもあるような気がします。




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