またぞろ我がルーツ探訪を再開した。これまで市役所で戸籍・除籍謄本を取寄せたり、法務局での旧土地台帳の閲覧、倉庫に残る祖母の書類を繰ってみるも、殆ど進展はみられず頓挫している。
養子であった曽祖父石五郎の出所までははっきりしているが、残念ながらこの代まで。もう一代遡る高祖母千余が同じ町内から嫁いでおりながら、その父の名はomotann長之介(千余は二女)であることしか分らず、さてその番地が判明せず、お寺の過去帳からも分らない。170年~200年前のこと故、戸数は数えるくらい(70年ほど前で44戸)だと思われるのだが、その末裔の中に、それと思しき家は見当たらない。
江戸時代後期の我が祖先の住まいは「字天神」で、そこから300㍍ほど南に位置する現在の地番に転居したのは、曽祖母が24歳(明治25年)の時であることが明らかになっている。
前住人が岡山市北区奉還町(現在のK佛光堂がある場所)に転居する際に、我が家へ譲られたと聞かされている。そしてこれまでの各種情報から、その前住人こそが高祖母千余の里ではないかと推測される。つまり現在の我が家は、嫁いできた高祖母の実家ではないのか。
ただ、これは多分に憶測の域を出ないので、確証を得るべく思い切って先日くだんのK佛光堂を訪ねた。
ところが創業明治20年(126周年)という伝統を誇るK佛光堂だが、話を伺う内に当地は先の戦争で岡山空襲に遭い焼け野が原となり、戦前の資料は残っていないとのことで、この線から辿る道も途絶えた。
いま手元にある上道郡誌(大正11年3月3日発行)を改めて紐解いている。同誌には唯一高祖母千余の足跡を伺わせる記述が載っているので、いま行き詰ったルーツ探訪の前に立ちはだかる壁突破の糸口になればと、一縷の望みを託している。
養子であった曽祖父石五郎の出所までははっきりしているが、残念ながらこの代まで。もう一代遡る高祖母千余が同じ町内から嫁いでおりながら、その父の名はomotann長之介(千余は二女)であることしか分らず、さてその番地が判明せず、お寺の過去帳からも分らない。170年~200年前のこと故、戸数は数えるくらい(70年ほど前で44戸)だと思われるのだが、その末裔の中に、それと思しき家は見当たらない。
江戸時代後期の我が祖先の住まいは「字天神」で、そこから300㍍ほど南に位置する現在の地番に転居したのは、曽祖母が24歳(明治25年)の時であることが明らかになっている。
前住人が岡山市北区奉還町(現在のK佛光堂がある場所)に転居する際に、我が家へ譲られたと聞かされている。そしてこれまでの各種情報から、その前住人こそが高祖母千余の里ではないかと推測される。つまり現在の我が家は、嫁いできた高祖母の実家ではないのか。
ただ、これは多分に憶測の域を出ないので、確証を得るべく思い切って先日くだんのK佛光堂を訪ねた。
ところが創業明治20年(126周年)という伝統を誇るK佛光堂だが、話を伺う内に当地は先の戦争で岡山空襲に遭い焼け野が原となり、戦前の資料は残っていないとのことで、この線から辿る道も途絶えた。
いま手元にある上道郡誌(大正11年3月3日発行)を改めて紐解いている。同誌には唯一高祖母千余の足跡を伺わせる記述が載っているので、いま行き詰ったルーツ探訪の前に立ちはだかる壁突破の糸口になればと、一縷の望みを託している。