世界一健康長寿のニライの風来坊

豊饒を齎す理想郷は海の彼方の蓬莱島!ニライの島夢郷!!その桃源郷を求めて南の風来坊は今日も迷走する。

同質同類の事件過多の中の16歳少年は何故?

2006年06月26日 | Weblog
再び問う?・・・おしなべて識者の分析は専門家&普通の人の最もらしい回答を引き出している。その様な気がする。・・・でも、どこか腑に落ちない。常識の範疇で名?回答・解答をされる。個々の専門家らしい鋭い分析をするのは分るが、そこで一段落すれば、それなりに完了する。類似の事例が過去に数多あったからだ。事件事故をワイドショウ的に扱ってきたからでもある。が、どうしても納得がいかない。どこか、おかしい。何十年も繰り返されてきた事件・事故である。ただ、言える事は当時と現今では社会的背景が違うし時代思潮も異なる。科学が長足の進歩を遂げ、より便利な利便性の高い世の中になった。それと呼応するかの様に価値観も変化してきた。・・・『親が子を殺す。子が親を殺す。兄弟姉妹が同様な事をしでかす。・・・』。ある意味で慣れっこになっている。社会風潮が変わってきたせいかも知れない。事件事故を起こした当人は過去から踏襲してきたかの様に同じ文言の「反省の弁」を繰り返す。・・・『大変な事をしてしまった。反省している。すまない。云々・・・の類語。・・・』・・・何故、事件を起こす前に、そういう事に"思いが至らなかったのか?" 。世の識者は ”"心の闇!"とか "父母のステイタスの問題"とか "社会的地位とか権力欲の犠牲" とか "少年の生い立ちや生育暦" とか "孤独、一人きりの寂しさ"”等々と、その拠って立つ根拠の洗う出しに精力を注ぐ。そういうスタンスも必要不可欠だとは思うのだが・・・でも根本的な解決には至らない。人間の本性・本質的な属性・側面に沿った「人間としての根源的なこと」に思いを致す事である。そこには「人間不変の原理」があるはずだ。「生きとし生けるもの―衆生―、その中の人間の存在と尊厳!」、"唯、居る、存在する"、それ自体に価値がある。そう思い思慮する時、人間の人間たる存在の由縁が、おぼろげながら理解出来るはずだ。「神の摂理によって生かされている万物、その中の一個の人間」が科学や論理を超え超越した非合理の世界に存在する側面を持つ存在である事にも"思いが届くとき"に人間存在の理由も理解できる。――もっと根源的な人間存在の、人間そのものの、価値に眼を転じて語り合う時期(とき)や場を設定し人生の先達として我が子を、師弟を、家庭で、学校で、社会で、地域で、諭す、又は語り合う努力、を意図的計画的にやるべきではなかろうか。――有り体に言えば「家庭教育、学校教育、社会教育、地域・公民館教育等々で時間的に比重を掛けて地道に実施する事である。遠回りの様だけど拙速を避けて行うべきである。頻発、続発、発覚する度に対症療法的な手当てで、その場を繕い問題提起しても話題性の提供になるだけである。根本的な解決にはならない。もう、そろそろ、そういう、青少年問題を真摯に論じ合い、考えるべき時期にきているのではなかろうか。・・・


最新の画像もっと見る

コメントを投稿