世界一健康長寿のニライの風来坊

豊饒を齎す理想郷は海の彼方の蓬莱島!ニライの島夢郷!!その桃源郷を求めて南の風来坊は今日も迷走する。

神道・その混交における 死生観 概観!(終章)

2007年08月17日 | Weblog

◎死んだらどうなるのか?死んだらどうなるのか、あるいは死

んだら何処にいくのか、という疑問は実に素朴な疑問として、常に

我々の関心のあるところです。ところが、残念なことに、我々には

「自分自身の死」を経験することができません。生きている時点で

想像している「自分自身の死」は、想像している自分自身からの視

点である以上、どんなに考えても表現できることではありません。

あるいは、自分自身の死後においても、肝心の経験するはずの自

分がどうなっているのか、想像の範囲を越えることができません。

結局、人間にとって、認識の限界を超えていることであり、認識でき

ないものは、存在していないのと同じことであるようにも思えてきま

す。「死後のことは経験を超えているから、それがあるともないとも

断定できかねる。芋虫は、さなぎとして死を迎える時、自分がその

後、美しい蝶となって空を舞うようになるとは夢にも思っていない。

われわれも、その芋虫のようなものかもしれない」芋虫が本当にさ

なぎの時、蝶になることを夢にも思っていないかどうかは定かでは

ないのですが、たとえ話としてはなるほどと思わせるものはありま

す。そして、確かにこの世を生きる我々は芋虫のようである、と思え

なくはないのですが、だからと言って、死後に美しい蝶となれる夢

ばかりを信じる気にもなれません。しかも、その美しい蝶ですら、死

を免れる存在ではないはずです。死を考えることに意味がある。死

んだらどうなるのかを考えることと、自分の死を主観的に知ることと

を混同してしまえば、結局、自分の死を主観的に知ることはできな

いから、死んだらどうなるのかという問題自体ナンセンスに思えてし

まいます。ところが、死を考えることは、生を考えることと同じくら

い、意味を持つはずです。我々は、あるものごとを見て何かを考え

るとすると、その対象に対して、まず心の中に勝手な想像を膨らま

せます。例えば、死に関しても、一言で言うならば、「全てを失って

しまう出来事である」というようにです。つまり、たいていの場合、自

分の死を考えることとは、自分だけが消えてしまった世界のことを

考えることです。これは、過去に自分以外の人々の死を経験し、そ

の際に何事も変わらずに存在し続ける世界を見てきているために

他ならないからです。しかし、自分の死を考えることとは、自分だけ

が消えてしまった世界のことを考えることなのか、もう一度考えてみ

て下さい。それは、むしろ遺された家族の視点に近いものがありま

す。おそらく、自分自身の死を、無意識に愛する家族に成り代わっ

て想像しているのかも知れません。死を「全てを失ってしまう出来

事」であると想像してしまうのは、死後にも自分自身を認識している

何者かを存続させたいという欲望が作り出している思い込みでは

ないか、そのように考えることがあります。つまり、死後にも存続す

るもの(霊魂)があると信じる人にとっては、「死とは、全てを失って

しまう出来事である」と言えるのかもしれないのですが、死後には

存続するもの(霊魂)はないと信じる人にとっては、「死とは、決して

自分だけが消えてしまった世界のことではなくなる」のではないでし

ょうか。

■{参考資料:ネット・その他の文献から}

●http://d.hatena.ne.jp/naha36/

●http://plaza.rakuten.co.jp/okinawanaha67/

●http://plaza.rakuten.co.jp/okinawanaha/


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