<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

接続すればそこに繋がるかもしれない。

2022年12月22日 17時12分32秒 | Weblog

わたしのだ、と思っていたのに、そうではなかった、ということがあるのかもしれない。

わたしの所有する才能だ、としていた才能も、じつはそうではなくて、万民共有財産才能だったりしているのかもしれない。

接続すればそこに繋がるのかもしれない。神さまの豊かな才能本部に。そうするとどれだけでもそれがこちらに流入して来るのかもしれない。

それは才能だけに限ったことではないのかもしれない。ほとんどすべてが共有共通共同なのかもしれない。

使っている文字も文章も音声も、わたしのものではないのかもしれない。

それは人類の大いなる全体遺産なのかもしれない。

マザーコンピューターに接続ができているかどうか、たったそれだけなのかもしれない。

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いい詩が書けない。書きたいのに書けない。

2022年12月22日 16時56分17秒 | Weblog

いい詩が書けない。書きたいのに書けない。

どうして書けないんだろう?

貧才だからだろうか? その理由だったら、頷ける。

己の力量で詩を書くとすると、では、いつまでたっても書けないということになる。

そういうことになってしまう。

それではイヤだ。

いい詩を書きたい。

納得できる詩を書きたい。

優秀な才能を持つ者の才能を、天空に登って行って、お願いをして、しばらく借りて来るというわけにはいかないだろうか?

* 

そうできるとしたらどうだろう? 

わたしが書いたことになるだろうか?

誇りが失われないだろうか?

誇りが失われても、それでもいい。

いい詩が書きたい。

眺めて、唱えて、繰り返し復唱して、そのたびに惚れ惚れするようないい詩を書きたい。

願望はいつか実現するだろうか。

生きているうちに実現するだろうか。

そのときはいつ訪れて来るのだろうか。

 

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いつまでも見ていたくなるような目に、出遭った。

2022年12月22日 16時50分30秒 | Weblog

今日はクリニックに行った。そうしたら、美しいご婦人に会った。目が美しかった。いつまでも見ていたくなるような目だった。でも、すぐに視線を外した。失礼になってはいけないと思って。

人間の目は美しい目である。美しい目をして生きている人間がこの世にいるということ、眼前にいるということ、それをよろこんだ。

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終われば始まる。これは凄いことだなあ。

2022年12月22日 16時37分29秒 | Weblog

早い。もうすぐ年末歳末である。

年が暮れると次の日は年明けとなる。新しいスタートに立つ。

長い長い12ヶ月を生きて来たことになる。

今日まで含めて正月元旦まで残り10日となった。355日をすでに生きたことになる。

これだけの長丁場をよく生きて来られたなあ。と、我がことながら感心してしまう。

まもなく終わる。終われば始まる。これは凄いことだなあ。いのちが終われば新しい時間のいのちが始まる。

終わってもストップしない。また始まる。時間のいのちがそうだから、わたしもまた終わったと見せてまた始まって行くに違いない。

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悪人こそは浄土の正客。

2022年12月22日 16時18分44秒 | Weblog

僕の法名は決まっている。本願寺さんからいただいている。

僕の法名は「釈応帰」。葬儀の用意は出来ている。

「釈」は、恐れ多くもお釈迦さまの「釈」である。お釈迦様の弟子となったから。仏道を歩む者だから。

「応帰」は、「いま応(まさ)に帰らんとする者」という意味合い。帰るところがある。帰るところは、いのちの根元の、阿弥陀仏のお浄土だ。此処が無量光明土だ。

其処は極楽浄土。極楽浄土がこのお爺さんにふさわしいかどうか。胸に手を当ててみると、ふさわしいとは言えそうにない。悪いことばかりをして生きて来たんだから。

それでも、迎え取ってくださるという。しかも、いの一番に。悪人こそは浄土の正客である、と。正客だから威張っていていいのだ。此処で仏さまの教えを聞いて実践して、修行のやり直しだ。

修行がすむとわたしは仏陀になる。これが約束されている。「わたしを仏にする」と仏が約束をしてくれているから、間違いはない。

釈応帰。お釈迦様の仏道の、阿弥陀如来のもとに、いままさに帰って行こうとしている男、それが釈応帰、このお爺さんである。大きな顔をしていようか、小さな顔になっていようか。

 

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冬至の日のご婦人は張り切っている。

2022年12月22日 16時05分54秒 | Weblog

16時10分。もうほんの少し暗くなって来た。木枯らし冬の風は、しばし、止んでいるようだ。

 

今日は冬至。早くも奥さんが台所に籠もって南瓜料理を始めた。とろりとろりのパンプキンスープを作るところ、らしい。掻き混ぜる道具を出して来た。

 

にんじん、ぎんなん、れんこん、なんきん(=なんきんかぼちゃ)はみな「ん」の音が重なっている。「ん」は幸運に通じるらしい。その料理も作る、らしい。台所は湯気が立っててぽかぽか。

 

冬至のご婦人は張り切っている。張り切ることがあって、楽しそうにしている。畑から戻ってきたお爺さんは、すばやく炬燵の中に潜り込んだ。張り切ることがない。

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餓鬼症状、口内が爛れて痛い。

2022年12月22日 16時02分36秒 | Weblog

口の中がそでている。歯茎がただれている。堤防決壊状態になっている。痛い。ものを噛むとよけい痛い。

食事が、それで、思い通りに行かない。時間がやたらにかかる。食べようとして食べられない。こういうの、餓鬼症状っていうんだろうね。

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じゃね、今日はありがとう。

2022年12月22日 15時49分59秒 | Weblog

ジョウビタキさんはなれなれしい。行くところ行くところについて回る。2m位離れたところまで近付いて来る。此処よ、此処よ,此処にいるわよ、という具合に鳴く。小さな声で鳴く。

 

で、お爺さんもお付き合いをする。声を掛ける。「やあ」「こんにちは」「また会えたね」「今日は寒いよ」「きみも寒いだろう」「明日は雪になるかもしれないよ」

 

「今日はどんなご用?」「ご用はないの、ふううん」「ただお爺さんに会いに来てくれたんだね」「ありがとう」「嬉しいよ」「きみは何が欲しい?」「欲しいものなんてない、そうなの、ふううん」

「お爺さんはこれから花苗の植え付けをするところだよ」「見ているだけではつまらないんじゃないか?」「お爺さんのポケットに入って来る? 此処はあたたかいよ」

・・・・「じゃね」「今日はありがとう」「気をつけてお帰りよ」などとなどと。

ジョウビタキさんは可愛い目をしている。話しかけている間はずっとこっちを見ている。タタタタタタクタと声を立てて聴いている。逃げない。可愛い。

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小鳥さんは小食。すこぶる小食。

2022年12月22日 15時44分01秒 | Weblog

目白さんが庭先の餌場に来ている。仲良くつがいで。二つに切って竹のとんがりに刺している蜜柑の蜜を吸っている。

小鳥さんは小食。小食で済んでいる。この寒いのに、蜜柑の蜜を吸うくらいであたたまれるのか。山まで帰って行けるのか。心配になる。

小鳥さんは小食。お爺さんの食べる一日の食料の10000分の1位で済んでいる。お爺さんの方が食べ過ぎなのかもしれないなあ。

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寒い寒いと悲鳴をあげながら。

2022年12月22日 15時36分57秒 | Weblog

花壇に出て仕事。耕して土作りをした。小雨に濡れながら。そこに、春に咲く花の苗の数種類を買って来て、植え付けた。

冷える。4℃。木枯らしもぴゅう。でも、楽しい。土遊びは楽しい。で、寒い寒いと悲鳴を上げながら、作業を楽しんだ。

これから先の3ヶ月間を待つと、我が家にも春の花が咲き出して来る。待つ。首をすくめて。待つのが、これがまた楽しいのだ。

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