久留米高良大社の、10月桜が、美しい満開だった。
うまく、木全体を写せなかった。
寒い12月に咲く桜は珍しかった。
久留米高良大社の、10月桜が、美しい満開だった。
うまく、木全体を写せなかった。
寒い12月に咲く桜は珍しかった。
9時半になったら、霜が解けた。お日様のパワーは偉大だなあ。
寒さが幾分やわらいだ感じがする。
霜が降りるのもパワフルだけど、その霜を解かすお日様の熱もパワフル。
この世はパワーに満ちている。
そのこの世の強力な偉大なパワーをあれこれ使いこなして生きているオレ様も、やはりパワフルだなあ。
一つのパワーが次のパワーを引き出している。そうやって億兆x億兆x億兆のパワーが渾然と混じり合ってこの世を形成している。
そこにわたしが生まれて来て、生きて、そして死ぬことができる仕組みになっている。この仕組みもまたパワフルだなあ。
何をしていても一日。何かをしなくても、それでも一日は暮れる。
でも、何かをしている。取るに足らないことをしている。時間潰しのように。
(時間潰しって、時間様に失礼だよね。大切な大切な,取り返しの利かない時間なのにね)
何かをしなくちゃ一日が暮れない、というのなら、何かをしなくちゃいけないが、何にもしないでいても暮れて行く、そこがいい。感謝をしなくちゃと思う。
ナデシコの花の苗を4株、買って来ている。
やや大きく育っている。1株100円だった。赤い花が咲く種類を。
まだ植え付けていない。
庭のどこに植え付けようか迷っている。
*
花は春に咲く。それまでは咲かない。
咲くまでを待つ。楽しみにして待つ。
寒い月の12月、1月2月3月をひたすら待つ。
待つのが楽しいからだ。
こころおだやかに平和に暮らしていけるのが一番いいんですよね。争わずにいていいんですよね。
あの人よりも、この人よりもなんて比べて争っていなくていいんですよね。
大袈裟なことをせずとも、華やかでなくとも、「今日もいい一日だった」で締め括っていればいいんですよね。
やわらかい搗き立ての丸餅小餅を買って来た。今朝、それを白菜お味噌汁の中にいれて食べた。パン焼き器で焼いた後に。おいしかった。
このお爺さんは餅が好きである。料理法は問わない。
お正月用の餅搗きはきまって12月30日。早朝に餅搗き器で搗く。それが待てないで,餅を買ってきてしまった。
Aちゃん、これが我が家の猫の名前。家の中には入れない。毛が散らかるのが嫌いだ。
で、この寒い夜も、外で暮らしている。寒さにどうやって耐えているのか。可哀想にも思う。
猫の住む段ボール箱には毛布が敷かれている。といっても毛布にくるまって寝ているわけではない。
いま、わたしの部屋の前の、濡れ縁に来て、日を浴びている。長い尻尾をお腹に巻いている。日向ぼっこをしながら、体中を嘗め回している。
ご近所の方が杖の散歩の途中で立ち寄られた。わたしは畑に居る。イッポンフトネギに井戸水のホースで水遣りをしていた。わたしよりもややお若いが老人である。彼の畑を車の上から見て通ると、実に見事に野菜類が育っている。区画区画に一種類の野菜が育っている。彼の心の中のように整然としている。それに比べたら、わたしの畑は雑だ。雑然としているのを、彼に見られる。なんだかわたしを見ておられるような錯覚が起こる。彼は話し好き。しばらくあれやこれやの話を、にこにこにこやかにされて、去って行かれた。
夕方、5時を過ぎて、満月を見た。東の空に明るく大きく上がった月を見た。裏の畑で、草取りを終了して、そこで見上げた月だった。美しい月だった。
この老爺に、こんなにも美しい月を見せようというのは粋な計らいだ。とびっきり粋な計らいだ。それを嬉しく思った。嬉しく思わないでは罰(ばち)が当たりそうだった。
この世は粋な計らいごとで満ちている。
わたしが計らう必要がないほどに、オハカライ(お計らい)で満ちている。わたしはそれを見て感じて、称賛をするだけで済んでいる。