まだ12月というのに、早くも、庭先に木瓜の花が咲き出した。ふっくら。うっすらのピンク色をしている。たくさんじゃない。先駆けの数輪だけ。
立ち止まる。しばし見ている。「ああ、キレイだ」の声かけをする。これで繋がった気持ちになる。花が余計ふっくらになる。植物と人間でも、コミニュケイションは成立するような気がする。
まだ12月というのに、早くも、庭先に木瓜の花が咲き出した。ふっくら。うっすらのピンク色をしている。たくさんじゃない。先駆けの数輪だけ。
立ち止まる。しばし見ている。「ああ、キレイだ」の声かけをする。これで繋がった気持ちになる。花が余計ふっくらになる。植物と人間でも、コミニュケイションは成立するような気がする。
日が暮れました。山の端がうっすら赤い。もう庭で遊んでいた目白さんも雀さんも、ねぐらに戻って行った。静かだ。
ああ、その山の端もとうとう見えなくなってしまった。
午前中、我が村の幼稚園の園児さんたちが、我が家の傍を通りかかった。先生が6人。可愛い園児さんたちがぞろぞろ。みなさん手を振って、おはようございますの挨拶してくれた。お爺さんも何度も何度もおはようございますの返事を返した。通り過ぎて行った。見えなくなるまで見送った。清々しい気持ちになれた。園児さんありがとう。
われらが集落の公民館広場が遠足の目的地らしい。
1ケースで買ってきたパンジーを植え付けました。色とりどりの。合計28株。道路沿いに置いている細長のプランターに。小さな丸椅子に座って、休み休みしながら、植え終わりました。
楽しかった。こんなことが、お爺さんを楽しませてくれる。
道行く人が花を見てなごんでくれるだろう。といっても、パンジーは小さな花。華やかではないから、見過ごしていってしまわれるかも。それはそれでいい。
1億年生きた後、僕はどんな姿をしているのだろう?
で、どんな思いを抱いているのだろう?
1億年は合計だけど。
死んで生まれ生まれて死んで、次々に僕は新しい工夫をし、計画をし、新しい進化を遂げているから、光る度合いを上げて耀いて輝いているから、僕が僕だと見分けがつかないかもしれない。
大丈夫。自力でここまで来られたのではない。大きな大きな歯車のその一つの歯車として回っていただけなんだから。
僕はいのちの全体宇宙を構成していただけなんだから。
今朝の味噌汁。白菜と白葱の味噌汁。これがおいしかった。
おいしいおいしいを言いながら食べ終わった。
白菜も白葱も我が家の畑で収穫したもの。だから余計に。
身びいきしているのが、おかしかった。くくくくと笑った。
カタチがAになり、Bになり、Cになる。Dになり、Eになり、Fになる。巡り廻って行く。次へ次へ新しくなる。無際限だ。
新しい感動をよろこんで行く。次から次へと動いて行く。動いて行くたびに、新しい感動を感動して行く。無際限だ。
Aだったときのよろこびの声、Bだったときのよろこびの声、Cだったときのよろこびの声、Dだったときのよろこびの声、Eだったときのよろこびの声、Fだったときのよろこびの声。声が時間の宇宙で無数にこだましている。
それを聞かせてあげようか。
どれもどれも、どの段階でもどの段階でも、われわれのいのちの旅は、確実に進歩を遂げているから、どの声も声がうわずって聞こえて来る。
なぜ死ぬのか。僕の推論。
1,しようと計画していたことが成し遂げられたからである。死は完成である。
(小さな完成だが、一つの段階の完成をよろこんでいいのだ)
2、もう一度新しくなるためである。
3,新しく生まれて新しい歩みを歩むためである。
4,進化を遂げて行くためである。
5,永遠の宇宙の、いのちの子分のいのちは、永遠の進化を遂げて行くから、死なない。
6,仏陀釈尊と同じように、まったく同じように、死は方便である。転回である。
7,いのちは個体ではなく、やがて全体になる。総合意識になる。
8,生まれて死んで、死んで生まれるたびごとに、いのちは赫いて輝いて耀いて行く。
9,100年単位ではない。1000年単位でもない。10000年単位でもない。いのちの時間の単位はもっと巨大である。
10,心配はいらない。正しい方向に導かれている。守られている。大きく大きな歯車がゆっくり回っている。
涙目になる。
その人のことを思い浮かべていたら、いつのまにか涙目になっていた。
わたしのことを、その人は、思っていて下さっていた。それが分かっていた。なんとなく分かっていた。
わたしはその人を尊敬していた。師として慕っていた。
思われているというだけで、五臓六腑があたたかくなった。
今はその人はいない。お顔が浮かんで、声が聞こえて来る。
褒めてくれる人がいない。誰一人居ない。よかったね、おめでとうの声を掛けてもらえない。昨日、新聞読者文芸、詩部門年間大賞2席がもらえたが、小石はどんな波をも立てなかった。
小学校の4年の時に担任をしていただいたM先生は、こんなときにすぐに、わたしの名を「さん」付けで呼んで、「おめでとう、新聞見たわ。嬉しいわ。活躍してるわね」の電話を下さった。でもいまはこの世にいらっしゃらない。
いつまでも優しい担任の先生をして下さった。ふっと先生の顔が浮かんで来る。おなつかしい。