夕方6時。外は、まだうっすら明るい。
さっき、多分この日最後になるだろうが、雀たちが庭の餌場に、次々と下りて来て、餌を啄んで行った。
その直前に、玄米を追加して来たからだ。
老爺は今日も、庭に下りてくる雀たちを、部屋の中から楽しく観察させて貰った。楽しんだ。
飽かない。見飽きることがない。
すぐ近くのドンダに樫の木が茂っている。大きな古い樫の木だ。そこの茂みが彼らの塒(ねぐら)だ。
夕方6時。外は、まだうっすら明るい。
さっき、多分この日最後になるだろうが、雀たちが庭の餌場に、次々と下りて来て、餌を啄んで行った。
その直前に、玄米を追加して来たからだ。
老爺は今日も、庭に下りてくる雀たちを、部屋の中から楽しく観察させて貰った。楽しんだ。
飽かない。見飽きることがない。
すぐ近くのドンダに樫の木が茂っている。大きな古い樫の木だ。そこの茂みが彼らの塒(ねぐら)だ。
5
しかし、わたしの眼は煩悩の眼である。煩悩の眼には仏は見えない。仏の大悲は見えて来ない。見えて来ないけれども儼然としてわたしにまで届いて来ているのである。
見えていないという自覚。仏の救済の手がこの目には見えていないが、しかし、投げ出されることなく確かに届いて来ているという事実確認。
その事実確認を通過した暁には、落涙になるだろう。急転直下して、懺悔の涙が堰き上げてくるだろう。
4
大悲とは、生きとし生きる衆生の救済の、願いと実行のことである。極重悪人のわたしを助ける、という意思である。
大悲の光が、四六時中絶えずに、わたしを照らしている、というのである。わたしは投げ出されてはいなかったのである。
3
(ここまで書いて来て、途切れてしまった。しばらく、ぽああああんとしていた。さて、また書き継ごう)
(仏の)大悲(の慈光)は、倦むことなく常に我を照らしたまふ。
「無倦(むけん)」とは、「倦怠せずに」「投げ出さずに」「見捨てることなく」だろうか。
1
煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我
親鸞聖人の「正信偈」より
ぼんのうしょうげん すいふけん
だいひむけん じょうしょうが
2
煩悩、(我が)眼を障(さ)えるゆえに、(仏の大悲が)見えないということがあるといえども、(仏の)大悲は、倦むことなく、(極重悪人の)我を照らしたまへり。
10
仏に敵対していたこんなわたしが仏のお慈悲の中心にいた、という驚き。逆転劇に驚かされてしまうのだ。
極重悪人のわたしが、仏の救済の真っ只中にいるという発見だ。これはどうしたことか、という驚嘆だ。
11
水に溺れている人から救い上げるのがお慈悲である。仏の救済の順序である。順序の真っ先にわたしがいたのだ。
8
我亦在彼摂取中。我も亦、彼の仏の摂取の中に在りき。
ここから、逆転が起こる。
仏は逆転させるのだ。
逆転を目の当たりに見せてくれるのだ。
9
極重悪人のわたしが仏の救いに摂取されていたのだ。息をしているのだ。目を見開いているのだ。青空を見ているのだ。小鳥の声を聞いているのだ。小鳥の声を聞いて楽しんでいるのだ。
次々に逆転劇が起こっていくのだ。
そしてとうとう摂取の中にいたことを認めざるを得なくなるのだ。摂取の中で生かされていたことを認めざるを得なくなってしまうのだ。
7
摂取されていなければ、唯称仏はできない。
仏の大きな力の中、大悲の中に強引に組み込まれていなければ、そういうことはできない。念仏は出来ない。
念仏が口を突いて出てくるわけがない。
6
「唯称仏(ゆいしょうぶつ)」は、「唯に仏を称う」と読んでみた。仏を称讃して念仏をしている姿だ。極重悪人がそうするだろうか。しないと思う。
しないならどうするか。
仏はどうするか。
一番救わなければならない人を救うのが仏でなければならない。
4
「唯称仏(ゆいしょうぶつ)す」
「唯」は、「ただ」。「ひたすらに」「一心に」か。「理屈なしに」「無条件で」なのか。「いつのまにか」ひとりでに」なのか。「あり得ないことなのに」か。
5
唯称仏ができるはずがない。極重悪人が仏を称讃するはずがないではないか。
だから此処は「唯称仏」するところに無理矢理に引きずり出されているのだ。そして唯称仏させられているのだ。
受動態なのだ。せしめられているのだ。仏の力でそうさせられているのだ。