1
死ぬ時が来れば死ぬことになる。だが今が生きるときであれば、生きることになる。
2
憂いていても憂いていなくとも、そうなる。早々と悩んで苦しんでいても、そうしていなくても、終わりが来る。
3
1000の1000乗回憂いを抱いても抱かなくても、事態は次へ回って行く。回るべき時が来たら回って行く。
4
次へ。またその次へ。転回をして行く。だからいつも今は過渡期。変化の時。
5
憂いのモーターが憂いによって回転しているかのごとき印象を持つのだが、しかし、憂いは派生しただけのものであって、動力源にはなっていない。回しているのは別の大きな力だ。天のエネルギーだ。
6
憂いた方がいいのか。憂わないでもいいのか。憂いてもいいが、憂わないでもいい。憂いたくてしょうがないので、しきりに憂いているが、結果論から言えば、足しにはなっていない。
7
時が来たら時が動かして行く。転回させて行く。次の場面へ移行している。
8
快楽安穏(けらくあんのん)でいいのである。仏陀の快楽を我が快楽とし、仏陀の安穏を我が安穏としていても、それでもいいのである。
9
牡丹の花の微笑を我が微笑としていてもいいのである。微笑をしてはいけないということはないのである。
10
そよそよと吹き渡る春風の上機嫌を、天衣にして着込んで、上機嫌にしていてもいいのである。
11
また我が不快を、天に覆い尽くして、天の不快としていなくてもいいのである。覆い尽くしたと思っていても、覆い尽くしてはいないのだから。
12
この老人もずいぶんと老いた。日々が老いの日々だ。老いの先には病があり、病の先には死があるであろう。これは免れることは出来ない。
13
それまでをどうするか。どうしておくか。感情や感覚は付着物である。付着させているに過ぎない。それが本体ではない。
14
仏陀の快楽を我が快楽としていてもいいのなら、そうしていたい。仏陀の安穏を我が安穏にしていてもいいのなら、そうしていたい。そうしているだけの覚悟がついているのなら、だが。
15
今日はここまでとしよう。春のひと日。さぶろう翁にも、あれこれ考えることがある。考えどううするものでもない。憂いに包まれて暗鬱に暮らしているのが嫌になった。暗鬱にしていてもしていなくても、死ぬ時が来れば死んで行けるのである。しばらく憂いを手放そう。