1
沈黙する者は非難され、多くを語る者も非難され、少しく語る者も非難される。世に非難されない人はいない。
2
釈尊は、アツラという人に向かって、こう言われたことがあった。またこうも説かれた。
3
ただ誹謗されるのみの人、人から非難されるのみの人は過去にもいなかったし、未来にもないであろう、そして現在もいない。
4
またほめられるのみの人も、同じように過去にもいなかったし、未来にもないであろう、そして現在にもいない。
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今日は仏典の此処を読んだ。そして考えることがあった。色々考えては見たが、結論には到達しなかった。
1
みな道の途中を行く人であるから、現在でもって完璧な人はいない。完全な人もいない。不完全である。だから、非難を受ける。非難を受けることは辛いこと悲しいこと苦しいことなのだが、それで成長を促されることにもなる。それを聞いて、我が身を是正をしながら道を進んでいくことも出来る。
2
非難されることもあるが、ほめられることもある。誹謗されるばかりでもない。誹謗そのものも不完全だから、その不完全性を露呈することがある。誹謗する快楽に酔っていただけというのもあるから、酔いが醒めたら、そこで制止することになる。
3
誹謗されている人であっても、誹謗の矢を送り返さずに、相手をほめることはできる。相手を褒めることで、誹謗される苦しみから逃れることも出来る。ほめられることも楽しいことだが、ほめることも楽しい。それを知ることになる。
4
誹謗が当を得ていることもある。この場合は、誹謗にはならない。それは忠告である。忠告であれば、受け入れやすい。これで我が身を是正すればいいのである。是正した暁には、忠告をしてくれた者も、ともに、喜んでくれることになる。
5
われわれは人の中にいるから、人の目がある。いつも人の目がわたしを見ていることになる。そしてその人の目が気になってしようがない。人はどう見ているだろうかと気がかりになる。そうすると、人の目に合った生き方をすることに専念するようになって、主体性が失われ、依存性が高くなる。
6
黙っていても非難されるのであれば、黙らなくなったら非難がなくなるはずだが、新たな段階に進めば、そこでまた新たな非難が追加されることになる。非難は付いて回る。のであれば、非難から逃れることは出来ない。非難される苦しみを最小限にして、忍耐をこころみ、腹を据えることになる。哲学がそこに生まれても来る。
7
非難される側にいるだけではない。わたしたちは非難する側に回ることも大好きなのだ。受難者であるばかりではない。十中八九は、加害者にもなっているのである。恨みをはらすというのも加害の一方法である。正義を等しているように見えて、実は不正義に落ちてもいるのである。
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人の振り見て我が振り直せの諺がある。
といっても我が身の不正義と向き合っているばかりではつまらない。そうしていれば、鬱屈した性格の人になってしまいそうだ。息を抜くことも必要だ。解き放つことも必要だ。精神衛生上、そうした方が得策である。気分を転換して、散歩でもしたらいいのである。音楽でも聴いたらいいのである。
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仏陀は此処で何を説き明かしたかったのであろう。聞き手のアツラという人の悩みを解放してあげたかったのだろうか。仏陀は人を見て法を説く人であった。アツラは多く非難を受ける立場の人だったのだろうか。