からりと晴れた。夏風も吹いている。室内の気温は、10時過ぎで、30度。湿度75%。扇風機を回しているが、暑い。さっき、風呂場に行って、井戸水に浸した冷水タオルで、上半身を拭き上げた。夜中の汗を洗い落とした。一日のうちに、こうして、何度か着ているものを着替える。白い雲が湧き上がっている。蝉が鳴いている。
からりと晴れた。夏風も吹いている。室内の気温は、10時過ぎで、30度。湿度75%。扇風機を回しているが、暑い。さっき、風呂場に行って、井戸水に浸した冷水タオルで、上半身を拭き上げた。夜中の汗を洗い落とした。一日のうちに、こうして、何度か着ているものを着替える。白い雲が湧き上がっている。蝉が鳴いている。
かなかな・かな・たまら・やたま・たまら。夕方のお呪い。いい一日を有り難うございましたの、お礼の。
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何をしたからいい一日だった?
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うん、何をしたからではなくて、そのままでいい一日だった、のじゃないかな。
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朝が来て昼が来て夕方が来ている。
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息を吸ってみる、深く。下腹がぷううとふくれるほど一杯に。おいしい。
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でも、外には出て行かなかった。一歩たりとも。怠け者を通した。
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昼ご飯の後で、シャワーを浴びた。冷や麦の肉うどんのスープが熱くて汗を掻いた。これがすこぶるおいしかった。玉葱と九条葱が一杯入っていた。
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シャワーを浴びた後は、ずっと冷房をつけた部屋で過ごしている。贅沢してる。
目測、40cmの大きな胡瓜を、家内が畑から収穫して来た。大きくなるまで放置して置いたのである。
デカイ。
食べるのに数日かかりそう。
7
わたしを仏にしようとしているのが仏である。わたしを仏智に導いているのが仏である。わたしを仏にして、出現のこの仏界に、生き生きと生かしているのが仏である。
であれば、遠慮はいるものか。仏として此処で明るく生きて、精一杯光り輝いていればいい。
・・・そういう受け止め方、じめじめ陰鬱にじめつかない受け止め方というのもある。
8
今日は午後からそんなことを考えた。仏教の修行もしていない者のわたしでは、いかにも不遜か、これでは。
お日様がさらりさらりと爽やかに射して来ているから、こうなったのだ。
6
なるほどそうである。そうでなければ、星々が輝いていることはあるまい。わたしに釣り合っているからこそ、星々がわたしを臆面せずに輝いているのである。
無駄に輝いているはずなどないではないか。わたしをそうするにふさわしい存在だと認めて、明るい輝きを見せているのだ。
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それでこそがっぷり四つの取り組みなのである。星々とわたしとの一期一会の出遭いが実現できるのである。
5
此処でいま、修行成道が果満している。果満とは、<此処で即、結果している>ということだ。善果充満の思想だ。
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・・・という受け止めをされた。即身是仏。この身このままが仏の現れ、として、<いま此処で生きている光輝ある自己>を尊厳する見方があった。
4
「仏は是れ究竟なり。三大阿僧祇劫に於いて修行果満して、方(まさ)に始めて成道す」。
仏とは、我々が目指して行く究極の彼方に光輝く導き手。阿僧祇劫という無限の時間を導かれ導かれ、やっとその先で、長い長い修行が成立して、成道が来る。此処で出遭うのが仏だ。
・・・という見方が、古来ずっと、圧倒的だった、それまでは。阿僧祇劫という果てしない時間空間が、仏とわたしを隔てていた。
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臨済禅師はその距離をとっぱらった。
3
とすれば、われわれは、つねに仏と一緒に暮らしていることになる。仏そもののとして暮らしていることになる。
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そういう受け止めが出来たら、即心是仏(そくしんぜぶつ)なのだ。受け取った心そのものが仏を写し取っているのだ。
2
仏とは何処にあるか。それは、面前聴法底。生きて、目を輝かせて、仏の面前で仏法を聴いているあなただ。・・・というのだ。
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仏法を説いて聴かせているのは大宇宙という仏。それを目に見て耳に聴いている者も仏。仏でなければ仏を見聞きすることは出来ない。
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わたしに今、法を説いて聴かせているのは夏空。青い空。広々としてそこにある大空。ナツアカネも飛び回って来て、わたしに向かい合う。
1
珈琲タイムだ。甘い小豆餡の最中を食べた。ホットコーヒーだったので、それだけで汗が滲みだして来た。
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面前聴法底。めんぜんちょうぼうてい。
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これは臨済義玄禅師の禅語。これを考える。ふてぶてしい顔をして考える。