まだある。まだある。
これも。これも。これも。西瓜。胡瓜。茄子。ズッキーニ。三尺ささげ豆。インゲン豆?韓国カボチャ。苦瓜。などなど。
朝も夕方も、収穫できる。
まだある。まだある。
これも。これも。これも。西瓜。胡瓜。茄子。ズッキーニ。三尺ささげ豆。インゲン豆?韓国カボチャ。苦瓜。などなど。
朝も夕方も、収穫できる。
かさかさ、なは、なは、まやまや。
自作のカレーライスだよ。おいしかったあ😌❤️黄色ズッキーニが見えている。ミニトマトも見えている。
夕方である。外に出てみた。ベランダの鉢物に水撒きをした。朝顔、夏菊、綿の花、百日草、空心菜などなどに。半ズボンのままにして出たので、蚊に食われてしまった。蒸し暑い。短時間だったのに、汗を掻いた。畑のトマト🍅をどっさり収穫した。
お伽噺の野原に、虫が来て鳴いている/ここはお伽噺の野原なんだぞ/と言って聞かせても/引き下がっていかない/虫は/どっちがどっちだか/分からないでいるのだ/そういうことは/しかし/人間にだってあるのだ/お伽噺のお城に入って来て/王様になっていることだってある/しかもそれに気付かせてくれるものもいない/それでいいのだ/そういう夢見るような一生だっていいのだ/夢見るような一生だって/過ぎて行ってくれるのだ/
まばゆいまばゆい。
ああ、まばゆい。
生きていることはまばゆい。
光の中に生きていることは、まばゆい。
しかもそのまばゆい中にいるのは、わたしなのだ。
ああ、おう、ああ、背振山に朝日が昇って来た。
<もう死んでもいいよ>というときが来る。来る。
良寛禅師は、「死ぬ時は死ぬがよく候」と仰っている。死んでもいいときが来ているのなら、そうすればいいのだ。それに従っていればいいのだ。死ぬことは、どのみち、<潔いこと>なのだ。
扉を開ければ、扉の外の世界が開かれている。死の扉もそうなっている。
いまは、翻って、<生きてもいいとき>なのである。では、南無三、生きることを<潔し>と思おう。
午後からもう一篇書き継ぎたいと思ったが、これは不発に終わった。書けなかった。だが、いずれ書けるだろう。書けるまで待つ。待つことにする。待っている内に、正義の味方月光仮面のような存在、パワー全開のX明神さまが加勢に回ってくれる。・・・はずである。
わたしの遊びは、ことばの砂遊び。小さな砂場で遊ぶ。一人で遊ぶ。幼児に等しい。遊びたいときに遊ぶ。
今日は午前中に、20字x34行のエッセーが成立した。我が判断では、いい文章が書けた、書けたと思った。そう思って満足した。で、その後は、潮が満ちたままだ。不思議なことに、干潮にならない。もちろん自己満足。いい気なもんだ。早々とプリントアウトして投函した。不意に、<書ける時>が訪れる。<書けない時>が長く長く沈澱した後で、どこからともなく澄み切った清流が、洪水になって流れ込んで来る。それを一人で楽しむ。