徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

祖母のはなし。

2023-05-22 23:44:45 | ファミリー
 昭和52年(1977)に93歳で他界した僕の父方の祖母は、娘時代、父親が飽託郡大江村の村長を務めていて割と裕福な家だったので芝居見物などにもよく行っていたようである。僕は両親が共働きだったので、幼い頃はもっぱら祖母に育てられたが、よく芝居や歌手の公演などに連れて行ってもらった。歌舞伎のことに妙に詳しかったのもきっと若い頃、隆盛を極めていた大和座や東雲座などの劇場へも観劇に行っていたのだろう。しかし、夫(僕の祖父)が早世してからは機織り仕事で生活費を稼ぎ、苦労して二人の息子を育て上げた。その頃には実家も水道町一帯の大火で持ち家十数軒が焼失するなどもあって没落していたらしい。
 祖母を助けることになった機織り仕事は、十六歳の時、大江村にあった河田経緯堂という絹織物工場に通って身に付けたという。この工場は、かの文豪・徳富蘇峰先生が開いた大江義塾があったところである。先生がこの塾を閉鎖して上京するや、先生の姉婿河田精一氏がその屋敷を譲り受け、この工場を開設したそうである。
 祖母は、この工場で身に付けた機織り仕事に夜を日に継いで働き、父と叔父の幼い兄弟と出戻りの義姉を養っていたのである。娘時代、機織りの工場に行った理由について、縮緬、羽二重、絽などの特殊な織りの技術を身に付けるためであって、けっして労賃目当てではないと言い張った。父親が大江村の村長時代、祭りや折々に家で盛大な宴会が行われていたことなどを父に何十遍、何百遍となく聞かせていたそうだ。
 父が小学六年生の頃、祖母と二人で街を歩いていると向う側からやってきた七十歳前後と思しき老婆が急に立ち止まり、「お人違いかもしれませんが阿部さんのお嬢さんではありませんか?」。祖母も一瞬驚いたが、それからなんと一時間にもおよぶ立ち話が続いたという。酒盛りのこと、火事のことなど話題は尽きない様子だったが、その老婆は阿部家の酒宴の時によく呼んだ町芸者で「土手券」と呼ばれて人気があったそうである。
 祖母の実家は女系の家だったから、父が生まれると曾祖父は六キロの道もいとわず、孫の顔を見に日参したという。その曾祖父も父が生まれた翌年には他界した。そんなわけで祖母は山あり谷ありの人生だったようである。


幼い頃、歌謡公演などを見に祖母が僕をよく連れて行ってくれた熊本市公会堂

熊本市公会堂で記憶に残っている渡辺はま子の「支那の夜」