来年は、夏目漱石が誕生して150年、熊本に来て120年という記念すべき年。熊本県で行われている「プロジェクト“SOSEKI”」の一環として、今日、「“SOSEKI”トークス2015 漱石講演会」が開催された。
作家の高橋源一郎さんが「21世紀の漱石」と題して、文芸評論家としての幅広い知識を織り交ぜながら、漱石の作品がなぜ、今もなお多くの人々に愛され、読まれているのかについて大胆な仮説を交えて講演した。
時代の移り変わりとともに、読まれる作家も変わっていくが、日本の近代文学史上、最も読まれている小説が漱石の「こころ」と太宰治の「人間失格」。
漱石の作品が読者の心をとらえてはなさないのは、その多くの作品の中に埋め込まれた「謎」にあるのではないかという。たとえば、「こころ」の冒頭で、主人公である「私」が出逢った先生のことを「どうもどこかで見たことのある顔」と思うくだりがある。これは、普通は後の展開のための伏線なのだが、この小説にはそれを説明するような事柄は何も出てこない。この点について、高橋さんは、実は「私」とは先生の若い頃の姿、つまり、先生と「私」は同一人物ではないかと言う「松元寛説」をとる。さらに、先生の遺書に書かれたKなる人物のモデルについて、Kの条件に合う人物は「石川啄木」ではないかという仮説を展開した。
作家の高橋源一郎さんが「21世紀の漱石」と題して、文芸評論家としての幅広い知識を織り交ぜながら、漱石の作品がなぜ、今もなお多くの人々に愛され、読まれているのかについて大胆な仮説を交えて講演した。
時代の移り変わりとともに、読まれる作家も変わっていくが、日本の近代文学史上、最も読まれている小説が漱石の「こころ」と太宰治の「人間失格」。
漱石の作品が読者の心をとらえてはなさないのは、その多くの作品の中に埋め込まれた「謎」にあるのではないかという。たとえば、「こころ」の冒頭で、主人公である「私」が出逢った先生のことを「どうもどこかで見たことのある顔」と思うくだりがある。これは、普通は後の展開のための伏線なのだが、この小説にはそれを説明するような事柄は何も出てこない。この点について、高橋さんは、実は「私」とは先生の若い頃の姿、つまり、先生と「私」は同一人物ではないかと言う「松元寛説」をとる。さらに、先生の遺書に書かれたKなる人物のモデルについて、Kの条件に合う人物は「石川啄木」ではないかという仮説を展開した。