熊本城内を旧細川刑部邸前から百間石垣前を通って新堀へ向かう道路である。この道はかつて肥後熊本から豊前小倉に至る豊前街道の一部であった。戦後、昭和50年頃までこの道の左側(三の丸)には化血研があり、売血者が列をなしていた時期もあり、僕ら子供には近寄りがたい区域だった。化血研が移転し、平成5年(1993)には子飼にあった旧細川刑部邸が移築され、観光スポットとしてイメージがガラッと変わった。
「熊本の街道と峠」には次のように解説されている。
新町一丁目の元標から上熊本線の電車通りに出て、藤崎台童園への道(薬師坂)を登り、県営球場の西側から北へ抜ける道が昔の豊前街道の踏み出しである。熊本城域に取り込まれた茶臼山は、北側台地と南側平地との唯一の接点になっており、旅行者の通行をとめることができない。そこで城の西端から北端への最も低い台地上を、一般の交通路として開放していた。
この道は既に平安時代から存在したらしく、藤崎八旛宮もこの道沿いに勧請され、現在の博物館から化血研への道路一帯は古京町と呼ばれ、その時代からの門前町と考えられる。
百間石垣の北を通って新堀門を抜けると、京町にかかる。ここには鍵型道が残っていて、旧城下の面影を偲ばせる。京町一丁目で大津街道(豊後街道)を分岐し、京町本丁を北進すると番所があり、その北側には土居と堀があって城下町の外郭防衛線となっていた。ここを出町口と呼ぶが、今日では道路東側の堀だけが僅かに昔の面影を残している。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/46/c9/833ee9cc7cb42f00ebda6b1b98fb5ecb.jpg)
新町1丁目の里程元標
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/02/e7/476175103fce2475d4b1f578dd24a5a0.jpg)
出町口の空堀跡(10年ほど前に埋められ集合住宅が建てられた)
《今》
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/22/46/363b304c0a952184a2292e83f74ffd40.jpg)
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《昔》
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/39/78/c5cf2af4bacaa31d634e60d534eb8c6f.jpg)
昭和50年代初めの頃の同じ道。昭和55年(1980)出版「熊本の街道と峠」より
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昭和50年代初めの頃の同じ道。昭和55年(1980)出版「熊本の街道と峠」より
「熊本の街道と峠」には次のように解説されている。
新町一丁目の元標から上熊本線の電車通りに出て、藤崎台童園への道(薬師坂)を登り、県営球場の西側から北へ抜ける道が昔の豊前街道の踏み出しである。熊本城域に取り込まれた茶臼山は、北側台地と南側平地との唯一の接点になっており、旅行者の通行をとめることができない。そこで城の西端から北端への最も低い台地上を、一般の交通路として開放していた。
この道は既に平安時代から存在したらしく、藤崎八旛宮もこの道沿いに勧請され、現在の博物館から化血研への道路一帯は古京町と呼ばれ、その時代からの門前町と考えられる。
百間石垣の北を通って新堀門を抜けると、京町にかかる。ここには鍵型道が残っていて、旧城下の面影を偲ばせる。京町一丁目で大津街道(豊後街道)を分岐し、京町本丁を北進すると番所があり、その北側には土居と堀があって城下町の外郭防衛線となっていた。ここを出町口と呼ぶが、今日では道路東側の堀だけが僅かに昔の面影を残している。
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新町1丁目の里程元標
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出町口の空堀跡(10年ほど前に埋められ集合住宅が建てられた)