1920年代よりフランスを中心に活躍した日本人画家の藤田嗣治(レオナール・フジタ)の半生を描いた映画「フジタ(FOUJITA)」が今秋公開される。オダギリジョー主演、小栗康平監督の話題作である。
熊本ゆかりの画家であり、わが母校の大先輩でもあるフジタについては、これまで何度かブログで取り上げたが、その中から主なものを再掲してみた。
▼藤田嗣治の幻の作品にやっと出逢う!(2010.2.25)
藤田嗣治(Leonard Foujita)の幻の作品にやっと出逢えた。場所は熊本大学附属小学校の校長室。学校創立135年を記念して、大金を投じて修復を行なったらしい。1点は「ライオンのいる構図」の中の「男の像」で昭和3年(1928年)の作。トレーシングペーパーに鉛筆で描きこまれている。もう1点は墨で描いた「女性像」で昭和4年(1929年)の作。なぜここにあるかというと、藤田嗣治は、実はこの学校のOB、つまり僕の大先輩になる。陸軍軍医だった父親が熊本鎮台に勤務した時期、藤田嗣治は2歳から10年間を熊本で成長した。彼が寄贈した絵がわが母校に飾られているという話は随分昔から知っていたが、まだ一度もお目にかかったことはなかった。最近、修復されたという話を聞き、とにかく一度は見ておきたかった。もとこの学校の職員でもある母を連れて数十年ぶりに校門をくぐった。
▼藤田嗣治 ~ 乳白色の裸婦の秘密 ~(2012.5.10)
今から90年前、フランス・パリで絶賛を浴びた日本人画家レオナール・フジタこと藤田嗣治(ふじたつぐはる、1886-1968)。彼が国際舞台で成功したのは「寝室の裸婦 キキ」をはじめとする裸婦像の、半透明の“乳白色の肌”が人々を魅了したからだといわれる。昨夜のBSプレミアム「極上美の饗宴」では、現代のカメラマンが写真技術を駆使してその“乳白色の肌”の再現にチャレンジした。また藤田が終生秘密にしたという乳白色の技法を洋画家によって再現しながらその秘密を探っていた。
番組を見ながら、熊大附属小のOBでもある藤田が寄贈したという絵を見に、母を伴って熊大附属小の校長室を訪れた時のことを思い出していた。熊本県立美術館に展示されている「バイオリンを持つ子供」やブリヂストン美術館の何点かの藤田の作品はホンモノを見たことがあるが、機会があれば「寝室の裸婦 キキ」などの裸婦像もホンモノを見てみたいものだ。
▼3年ぶりの再会! ~ レオナール・フジタとパリ 展 ~(2013.7.2)
今日から熊本県立美術館で「レオナール・フジタとパリ」展が始まったのでさっそく観に行った。フジタ独特の乳白色で描かれた裸婦像を始め、初めて実物にお目にかかるものばかり。その中に3年ぶり2度目の再会をはたした作品が2点あった。それは、1点は「ライオンのいる構図」の中の「男の像」でトレーシングペーパーに鉛筆で描きこまれたもの。もう1点は墨で描いた「女性像」である。この2点、実は普段、熊大附属小学校の校長室に飾られている。3年前に母と一緒に附属小学校の校長室を訪ね初めて拝見した。その時は作品にまつわる詳しい話はあまり聞けなかったが、今回は詳しい解説が掲示されていて経緯がよくわかった。それによると、昭和4年(1929)9月、フジタは17年ぶりにパリから当時の妻ユキ(リュシー・バドゥー)を伴って帰国する。そして東京、大阪、福岡で個展を開いたが、福岡の会場に附属小学校の関係者がフジタを訪問。熊本へ強い望郷の念を抱いていたフジタはその場で作品2点を母校に寄贈することにした。というわけだ。3年前に観た時にはよくわからなかった「女性像」の隅の書き込みが、今回は間近で見ることが出来たので読み取れた。それは次の様に書いてあった。
▼藤田嗣治が子どもだったころ(2013.7.4)
一昨日、「レオナール・フジタとパリ」展を見て、藤田嗣治が少年時代を過ごした熊本の町や母校・熊大附小の様子がどうだったのかが急に知りたくなった。何か手がかりになるものはと考えたら、わが家に熊大附小の百年誌があることを思い出した。今から38年も前の昭和50年(1975)に発行されたものだ。学校創立の正確な年月日はわかっていないようだが、明治天皇の行在所となったり、古くは勝海舟や坂本龍馬らが訪れた新町の御客屋を一時期校舎としていたことや、西南戦争で熊本隊を率い西郷軍に加わった池辺吉十郎がさかんに授業参観に訪れていたという記録が残っていることなどから明治10年の戦争よりは前であることは確からしい。藤田がこの小学校に通ったのは生年からみて、西南戦争から10数年後の1890年代であることは間違いない。さすがに当時の藤田の様子を知る方もいなかったのか彼に関する記述はない。しかし、当時の小学生や教職員の様子が写真とともに断片的に紹介されている。ついでに稗田町の一角にある彼の旧居跡を訪れてみた。わが家から歩いて10分くらいのところだが、ここは今では記念碑が建てられている。僕が小学生の頃、すぐ近くの同級生の家へしょっちゅう遊びに来たものだが、その頃は記念碑などはなかったと思う。これは時代とともに藤田の評価が変わったことの一つの表れなのかもしれない。
▼熊本市西区稗田町の藤田嗣治旧居跡
熊本ゆかりの画家であり、わが母校の大先輩でもあるフジタについては、これまで何度かブログで取り上げたが、その中から主なものを再掲してみた。
▼藤田嗣治の幻の作品にやっと出逢う!(2010.2.25)
藤田嗣治(Leonard Foujita)の幻の作品にやっと出逢えた。場所は熊本大学附属小学校の校長室。学校創立135年を記念して、大金を投じて修復を行なったらしい。1点は「ライオンのいる構図」の中の「男の像」で昭和3年(1928年)の作。トレーシングペーパーに鉛筆で描きこまれている。もう1点は墨で描いた「女性像」で昭和4年(1929年)の作。なぜここにあるかというと、藤田嗣治は、実はこの学校のOB、つまり僕の大先輩になる。陸軍軍医だった父親が熊本鎮台に勤務した時期、藤田嗣治は2歳から10年間を熊本で成長した。彼が寄贈した絵がわが母校に飾られているという話は随分昔から知っていたが、まだ一度もお目にかかったことはなかった。最近、修復されたという話を聞き、とにかく一度は見ておきたかった。もとこの学校の職員でもある母を連れて数十年ぶりに校門をくぐった。
▼藤田嗣治 ~ 乳白色の裸婦の秘密 ~(2012.5.10)
今から90年前、フランス・パリで絶賛を浴びた日本人画家レオナール・フジタこと藤田嗣治(ふじたつぐはる、1886-1968)。彼が国際舞台で成功したのは「寝室の裸婦 キキ」をはじめとする裸婦像の、半透明の“乳白色の肌”が人々を魅了したからだといわれる。昨夜のBSプレミアム「極上美の饗宴」では、現代のカメラマンが写真技術を駆使してその“乳白色の肌”の再現にチャレンジした。また藤田が終生秘密にしたという乳白色の技法を洋画家によって再現しながらその秘密を探っていた。
番組を見ながら、熊大附属小のOBでもある藤田が寄贈したという絵を見に、母を伴って熊大附属小の校長室を訪れた時のことを思い出していた。熊本県立美術館に展示されている「バイオリンを持つ子供」やブリヂストン美術館の何点かの藤田の作品はホンモノを見たことがあるが、機会があれば「寝室の裸婦 キキ」などの裸婦像もホンモノを見てみたいものだ。
▼3年ぶりの再会! ~ レオナール・フジタとパリ 展 ~(2013.7.2)
今日から熊本県立美術館で「レオナール・フジタとパリ」展が始まったのでさっそく観に行った。フジタ独特の乳白色で描かれた裸婦像を始め、初めて実物にお目にかかるものばかり。その中に3年ぶり2度目の再会をはたした作品が2点あった。それは、1点は「ライオンのいる構図」の中の「男の像」でトレーシングペーパーに鉛筆で描きこまれたもの。もう1点は墨で描いた「女性像」である。この2点、実は普段、熊大附属小学校の校長室に飾られている。3年前に母と一緒に附属小学校の校長室を訪ね初めて拝見した。その時は作品にまつわる詳しい話はあまり聞けなかったが、今回は詳しい解説が掲示されていて経緯がよくわかった。それによると、昭和4年(1929)9月、フジタは17年ぶりにパリから当時の妻ユキ(リュシー・バドゥー)を伴って帰国する。そして東京、大阪、福岡で個展を開いたが、福岡の会場に附属小学校の関係者がフジタを訪問。熊本へ強い望郷の念を抱いていたフジタはその場で作品2点を母校に寄贈することにした。というわけだ。3年前に観た時にはよくわからなかった「女性像」の隅の書き込みが、今回は間近で見ることが出来たので読み取れた。それは次の様に書いてあった。
「為 記念 報恩 或寄贈 昭和四年十一月二十七日(誕生日)
熊本縣第一師範学校附属小学校 小学校卒業生 藤田嗣治」
熊本縣第一師範学校附属小学校 小学校卒業生 藤田嗣治」
▼藤田嗣治が子どもだったころ(2013.7.4)
一昨日、「レオナール・フジタとパリ」展を見て、藤田嗣治が少年時代を過ごした熊本の町や母校・熊大附小の様子がどうだったのかが急に知りたくなった。何か手がかりになるものはと考えたら、わが家に熊大附小の百年誌があることを思い出した。今から38年も前の昭和50年(1975)に発行されたものだ。学校創立の正確な年月日はわかっていないようだが、明治天皇の行在所となったり、古くは勝海舟や坂本龍馬らが訪れた新町の御客屋を一時期校舎としていたことや、西南戦争で熊本隊を率い西郷軍に加わった池辺吉十郎がさかんに授業参観に訪れていたという記録が残っていることなどから明治10年の戦争よりは前であることは確からしい。藤田がこの小学校に通ったのは生年からみて、西南戦争から10数年後の1890年代であることは間違いない。さすがに当時の藤田の様子を知る方もいなかったのか彼に関する記述はない。しかし、当時の小学生や教職員の様子が写真とともに断片的に紹介されている。ついでに稗田町の一角にある彼の旧居跡を訪れてみた。わが家から歩いて10分くらいのところだが、ここは今では記念碑が建てられている。僕が小学生の頃、すぐ近くの同級生の家へしょっちゅう遊びに来たものだが、その頃は記念碑などはなかったと思う。これは時代とともに藤田の評価が変わったことの一つの表れなのかもしれない。
▼熊本市西区稗田町の藤田嗣治旧居跡