徒然なか話

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北岡神社のふるさと ~ 歴史のまち 二本木 ~

2014-08-04 18:33:08 | 歴史
 北岡神社の神幸行列を見ながら、二本木の歴史に思いを馳せた。御旅所で言葉を交わした地元住民の「二本木と聞くとほとんどの方が遊郭を思い浮かべるようですが、それは明治から昭和の一時期であって、実は二本木には熊本の深~い歴史が刻まれているんですよね~」という言葉が心に残った。


 明治39年、坪井川の上に架けられた三嬌橋(さんきょうばし)。この橋を渡ると坪井川と白川に挟まれた二本木遊郭が広がっていた。三嬌橋という名前の響きもどこか艶めかしい。


 奈良時代から室町時代にかけて肥後の国府があったと考えられている場所(二本木遺跡群)がこの熊本朝日放送の辺り。大きな建物や道路、溝、塀などの遺構が見つかっている。この辺り一帯が当時の肥後の中心地であり、官庁街だったと考えられる。


 北岡神社神輿神幸の御旅所になっているのは、明治5年、熊本県が白川県と名を変えていた一時期、県庁が置かれていたところ(二本木4丁目)。北岡神社が京都の祇園社(八坂神社)の御分霊を勧請し、承平4年(934)、最初に創建されたのは、ここから少し南へ下った湯の原(現二本木5丁目)である。


 二本木に国府があった平安時代中期の寛和2年(986)に肥後の国司として赴任したのが、平安時代の歌人として名を馳せ、また清少納言の父としても名高い清原元輔(きよはらのもとすけ)である。北岡神社の北側に元輔を祭神とした清原神社がある。


 清原元輔と交流があったと伝えられるのが女流歌人の檜垣。この清原神社には檜垣も祀られている。小さな祠を覗いてみると、元輔と思しき座像が左側に、右側には女神と思しき座像が二体見える。このどちらかが檜垣なのか。