のすたる爺や

文明の果てなる地からのメッセージ

2013年08月15日 | 日記・エッセイ・コラム

 「縁」と言う概念は面白いものです。これを外国人に説明するとき、どこまで理解してもらえたのか?考えあぐねてしまう言葉の一つです。

 「縁遠い」などと言いますが、「結婚」を「縁」としてとらえるのは仏教の考え方なのだそうです。原因があれば結果があることを「因果」といいますが、原因と結果を取り持つものが「縁」なのだそうです。

 なんでも、仏教では人と人とが出会う「縁」は前世から決まっているのだそうで、これを「因縁」と言うそうです。「袖すりあうも他生の縁、つまづく石も縁の橋」どこに出会いの縁が潜んでいるのかわかりません。

 「本日はお日柄もよく」に始まり、後日「縁がなかったと言うことで」で終わるお見合いの定型句を、私など幾度となく繰り返してきましたが、「縁がある」「縁がない」で諦めがついたのですから、考えている以上に生活の中で「縁」の重さを認識しながら生きているのかもしれません。

 かつて「縁遠い」という表現は女性に対して用いられることが多かった表現なのだそうで、女性が外に出て働く機会もなく、男女の出会いの場もなければ「見合い話」を持ってきてくれる人がいないことには「縁遠く」なってしまうものでした。

 現在の日本社会などむしろその逆で、大部分の時間を会社で過ごすことを余儀なくされている男性こそ「縁遠い」で、職場や取引先に女性はいても、それはただ単にいるだけで「縁」とは無縁なので、まさに「縁遠い」そのものかもしれません。

 「合縁奇縁」、人の心のつながりは「縁」あってこその不思議なものなので、ただそこに男がいて女がいるだけでは縁など結びつくものでもありません。

 昨今の日本は「結婚しない」もライフスタイルの一つになってしまいましたし、特に女性にそういう意見を多く耳にします。女性が経済的に自立できるようになったとたんにこういう意見が飛び出してくるようになったので、おまえさんがたの掲げていた「愛」だの「恋」だのはいったい何たったんだ?と問いたくもなりますが、単なる発情のいいわけだったんでしょうと冷ややかに見ています。

 占いなんてものも、「縁」を模索する人間の頼りなさゆえに成り立つもので、不確かで目に見えない「縁」を何頭で関連付けることで安堵感を得る道具の一つでしょう。

 思うに「縁」は多分に自分自身の中に潜んでいる「感情」そのもので、双方の感情が一致して「縁がある」と称するものなのかもしれませんが、「心」と「頭」で考えることのギャップを埋めるためには、何かしら定義づけが欲しくなるもので、それが趣味や学歴や職業などであったり、あるいは占いであったり、一致する部分を見つけて相手を定義付けることで安心できるのかもしれません。また、秘めていたいた感情を解き放つための起爆剤として必要なことかもしれませんが、くれぐれもそれだけに囚われないようにしてほしいものです。

 斯様に人の心を不安定にしてしまうのは恋ゆえで、「恋」の旧字体は「心」が「乱れる」と言う意味を持つ「戀」と言う字です。意に反して暴れだす心を抑えるためになにかにすがる事は自然なことですし、恥ずべきことではありません。

 「心」は常に揺れ動き不確かなものですが、相手も同じ「心」をもつ人間なのでそれが難しいところです。心の欲求なんて案外単純物で、「心地よい」か「不快」のどちらかなので、お互いが気兼ねせずに心地よくいられればそれこそ「良い縁」なのでしょうが、余計な横槍を入れるのが頭が考える「理屈」です。

 このギャプが「悩み」で、相反する二つの意見に困惑しながら生きているからこそ人間で、どちらか一方に偏れば動物かコンピューターです。

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