のすたる爺や

文明の果てなる地からのメッセージ

雨だったので

2014年04月30日 | 日記・エッセイ・コラム

 一日だらだらと雨が降り続けました。

140430r 3年前に植えた花モモの蕾が もう少しで開きそうです。イベントでもらった苗木です。

 

 十数年前になりますが5月の連休明けに北京に行ったら桃の花の季節でした。万里の長城付近の岩山にも咲いており、最初は山桜かな?と思いました。

 色合いの少ない中国の自然には桃の強い色が良く映えますが、緑が多い日本の自然の中ではあまりに強い桃の色が逆に不自然に見えてしまいます。桃ほど個性が強くない桜の淡い色合いが妙になじむ思いがします。

 

 実はこの花モモ、果実の実る桃だと思ってもらってきました。昨年から花をつけ始め「桃栗三年とはよく言ったものだ」と感心していたんですが、近所の農家に「これは花モモで実はつかない。お前さんみたいなもんだ。」と教わりました。美しいけれど子供がいない私のような花なんですね。「そうじゃないよ、何をやっても身につかないってことさ。」一理あるようなないような。

140430t 実りがないという意味では もうすぐ咲きそうなこの八重桜もそうです。

 

 知人が山形に旅行に行った時に買ってきた土産で、山形の物だからさくらんぼうが食えると言ってましたが、葉っぱが出てきたらさくらんぼうではなくてただの桜。花が咲いてみれば普通の八重桜でした。

 

 この辺の八重桜の中では色が濃い花なので、花を摘んで塩漬けにして桜茶にしています。

 

 陶淵明 山海経を読む 十三首

孟夏 草木長じ 屋を遶りて樹扶疏たり 衆鳥は託する有るを欣び 吾も亦吾が廬を愛す

既に耕しては亦た已に種ゑ 時に還りて我が書を讀む 窮巷は深轍を隔て 頗る故人の車を迴らす

歡言しては春酒を酌み 我が園中の蔬を摘む 微雨東より來り

汎覽す周王の傳 流觀す山海の圖 俯仰して宇宙を終せば 樂しからずして復た何如

 

 初夏になって草木が伸び、我が家の周りには樹木が繁茂する、鳥たちは喜んで巣作りに励み、わたしも自分の家が気に入っている

 野良仕事に精を出し、家に帰ると読書を楽しむ、狭い道には車も入って来れぬから、わずらわしい付き合いをしなくてすむ

 近隣の人たちと歓談しては酒を酌み交わし、肴に庭の野草を食う、小雨が東のほうから降ってくると、それに伴って気持ちのよい風も吹く

 周王の傳を詳しく読み、それに添えられた絵に目をやる、寝ながらにして宇宙のことがわかるのであるから、こんなに楽しいことはない

 

 日々の暮らしが陶淵明の桃源郷の世界そのものなんですが、これは望んで得られる世界ではなく諦めの果てに得られる世界じゃなかろうか?案外その諦めが「悟り」だったりして。

 陶淵明が偉いと思うのは寝っ転がって読む「周王の傳」に絵が添えられているということ。つまり、座布団枕にゴルゴ13読んでいた今日の私と同じだったんですね。

 1600年前の中国の賢人とゴルゴ13を通じて共感を得られるのも深い味わいです。

 

 「流觀す山海の圖」多分、ここで山海経と言う中国古来の地理の本を暗示しているのでしょう。神話や物の怪や妖怪などのことが書かれた本と言われています。陶淵明の愛読書だったのでしょう。やっぱ、水木しげるの漫画を読んでいた方がふさわしかったのかな?

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千貫峠

2014年04月29日 | 日記・エッセイ・コラム

 今日は写真満載です。

140429c 川場村と片品村を結ぶ千貫峠と言う山道を探索してきました。現在は廃道になっている峠道ですが、昔の踏み跡をたどりながら峠のてっぺんまで登ってきました。

 

 9月に開催されるトレイルランニング大会の120kmコースのルートになる予定で、この大会を機に古道の復活を目指しています。

 

 千貫峠には由来があって、1569年に戦に敗れた武士が会津に逃げる時に使った「裏街道」だそうです。1532年説もあります。このあたりの物語はもう少し調べてみようと思います。

 

 「木賊」と書いて「とくさ」と読む集落から峠に入りました。

140429d  人里から一歩峠に踏み込むと沢と言うよりも谷に近い火山岩の岩沢の中を、昔の踏み跡らしき道を頼りに霧の巻く深山に入り込みました。

 

 トレイルランニングの大会ではこの道を下って来るルートで、時間帯は深夜から明け方になるはずです。すでにここに至るまでに100kmほど山を走って来るので、ランナーたちはかなりのダメージをおっているはずです。

 

 とはいえ、できるだけ現在の状況を壊さないように配慮しながらコースを作らなければならないので、基本的に地面はいじらない方向で行こうかと考えています。

140429a 雪解けして間もないのでコゴメが顔を出していました。

 

 シダ系の植物の中ではアクが少ない植物で、このまま湯がいて醤油やマヨネーズをかけて食べることもできますし、みそ汁に入れてもおいしい植物です。

 

 晩飯のおかずに一掴みほど採ってきました。コゴメを採るときに注意することは 、一つの下部に出ている茎をすべてとらないことで、私は一本か二本しか採りません。どの日食える分だけ採って、あとはそのまま残しておきます。

 山の物は「採る」のではなく「いただく」ものですから、欲をかいちゃならないのです。

140429b_2  こちらはアブラコゴメと呼ばれる種類です。

 

 コゴメよりも脂っぽくて味が濃いと言われていますが、こちらではあまり食べません。

 

 新潟方面に行くとよく食べられているみたいです。

 

 今日の夕食の献立にも入っていなかったのでそのままにしておきました。

140429e

 採らなかったのは調理の問題だけではありません。

 

 このアブラコゴメがはえていたあたりでカモシカの死体のがありました。すでに毛だけになっていました。

 

 死骸はキツネやタヌキなどの肉食の小動物に食べられたはずですが、毛の跡があちこちに点在していました。多分四肢や首などを引きちぎって別の場所まで運んで食べたあとなんでしょうが、多分、イノシシやツキノワグマも加わっているはずです。これだけの大きな肉を引きずれる動物は限られています。骨も残っていませんでした。

140429f こちらは山菜の王様、タラの芽です。こちらではタロッペと呼びます。

 

 夕食おかずに5つだけいただいてきました。天ぷらにして食べます。

 

 今日のおかずは コゴメの味噌汁にタロッペの天ぷら、先日、城跡から摘んできた菜の花を湯がいたお浸し、これで十分感謝です。

 と、実家にもっていったら、最近味噌カツにすっかりはまっている父が「今日は味噌カツを食いたい」とわがままを言うので、どうせ天ぷらでブラを使うのだからこれもありか?

140429 豚肉を買ってきてトンカツを揚げ、ついでにコゴメも天ぷらにしました。天ぷらの残りは明日うどんでも作って食べよう。

 

 トンカツがなければ精進料理になってしまうところでした。

 

 まさに食うために山に入っている典型的な生活スタイル。しばらくは山で採ってきたもので賄える季節になりました。

 無農薬だ、有機野菜だと巷では言いますが、山のもの貰って食っている分にはその王道ですね。山の生産力を考えると、人口が増えても山菜の奪い合いになるだけなので、移民はいらない。

140429g 山の中に何気なく転がっているのは山菜ばかりではありません。

 

 沢の中に転がっていた人の頭ほどの大きさの石。

 

 実はメノウです。余り品質よさそうではありませんが、火山岩の山ではよくあることです。

 

 英石が多い沢でしたから出るのかな?と思っていました。まだ芽吹き前なので落葉樹の葉が出ていないけれど新緑の季節が終わればうっそうとした森の中。メノウより別の物が「出そう」です。

 

140429h こちらの赤い石もメノウの原石です。

 

 注意して見渡すと沢の中のあちこちにこの手の石が転がっていました。

 

 興味なければただの石。他には青石や六方石などを見かけることができました。この峠のある武尊山そのものが火山なので、これらの岩ができたんでしょうね。

 岩には興味あるけれど宝石には興味ないのでメノウの原石踏みつけながら沢を登りました。

140429j クマも こまめに営業活動をしているようです。

 ブナの幹に傘が書かれていて「ジュンコ・ヒロシ」などと書かれていれば人間がナイフで傷をつけたものだと判断できますが、クマは基本的に字が書けません。

 

 これもマーキングの一種で、クマ社会では高いところに傷をつけた方が偉いということになっているようです。

 

 実は、人にも「マーキング」の本能があるのだそうです。自分の部屋にポスターなどを張るのも「この場所は自分の所有地」と暗黙の主張で、犬が電柱に小便ひっかけるのも、政治家が街中にポスターはりまくるのも同じなんですね。

 

 武尊山の2000m超えたラインでもクマの営業活動を見かけますから、結構広範囲で働いているんですね。

 この界隈は完全にクマの領域ですから、我々人類がでかい顔をして歩いてはいけないのですが、トレイルランニングの大会では深夜に選手が通過する地点なので、選手のクマ対策はもちろん、係員のクマ対策も重要な問題となります。

140429i  こちらは多分昨年あたりクマがやらかした傷跡です。

 

 地面に落ちた木の皮の上に、昨年の秋の枯葉が乗っかっていました。

 

 樹皮と幹の間から樹液がしみだしていました。ほどなくこの樹液を求めて動き出した昆虫類が寄ってくることでしょう。

 

 まだ皮が半分残っていましたから枯れることはないと思いますが、やがて立ち枯れしてキノコの巣窟になるのでしょう。

140429k  峠のてっぺんには十二様の祠とお地蔵さんがありました。

 

 掘られた文字を見ると「矢政7年」と書かれていますが、そんな元号はないので安政年間か文政年間だと思います。安政は7年までありましたが12月までなかったはずなので文政7年(1825年)かもしれません。「文」と「矢」。何となく似ているような似ていないような?

 

 石像には掘ったものではなく、何か文字が書かれています。梵語のようにも見えますし、草書のようにも見えますし、解読不能。

 

  それにしてもこのお地蔵さん、お姫様のようでもあり、妙に気になる顔をしています。天女のようにも見えます。頭のかぶりものと顔の表情でゆるキャラのバリィさんを彷彿させます。案外ゆるキャラの原型は日本人の信仰心と関わっているのかも?

 何か由来でもあるのだろうか?

 合唱する手首の上にかかっている帯状の布が気になるんですよ。隠れキリシタンはこの手の石仏にストラというカトリックの神父さんなどが腕にかけている帯を入れることで隠れたメッセージを発しているケースがよくあります。

 この周辺は隠れキリシタンが多かった土地で、仏教徒などに表向きは姿を変える「転び」となって生き延びてきた土地です。

140429l 隠れキリシタンの遺物だろうか?

 

 斜めに見ると振袖のようにも見えますが、ストラの帯が背中を回っているようにも見えます。

 

 羽衣天女だとしたら?それも仏教と関係ない伝説ですし、なぜこの場所に羽衣天女が?とその由来がなおさら解らなくなってしまいます。

 

 この帯みたいなもの、日本なら雷神様が身に着けていますが、どう見ても雷神様の顔ではない。

0429_54 峠のてっぺんに常夜灯を取り付けてきました。

 

 雑木林なので葉が茂って日光があたるのか微妙な場所ですが、大会の時にはこの常夜灯をところどころに着ける予定なので、視認性や耐久性などをテストするみたいです。

 

 こんなところを夜中に試走する人がいるのだろうか?

 9月の彼岸に大会がありますが、例年この時期は天気が悪いので気になります。何よりその前に台風シーズンがあるので、そちらもコースの整備にとっては気になります。

 成功すればすごいレースになると思いますが、来月早々にはエントリーが始まる予定です。

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富岡

2014年04月28日 | 日記・エッセイ・コラム

140428e 富岡製糸場が世界文化遺産登録が確定的になったようです。どこでひっくり返るかわからない外国人ですから、まだ安心はできません。写真は2008年12月に富岡製糸場に行った時の物です。この時の見学者は私のほかに10人程度でした。

 

  富岡市は先々週市長選終えたばかりで市長が再選されましたが、沼田市は見事に元職が叩き落され、新市長が誕生しました。

 

 富岡市がいかにこの製糸場を大切にしているのかは住所でわかります。富岡市富岡一丁目一番がこの製糸場です。この近くに友人が住んでいたので良く出かけたものです。

140428d 官営富岡製糸より私たちには片倉工業の方がなじみが深く、 私が高校生の頃はまだこの工場は稼働していました。平成の初期まで沼田の片倉製糸は繭の買い付けをやっていました。

 

 この工場で女工をやっていた人も身近にいたので、まったく境遇が違う製糸工場の女工を描いた「あゝ野麦峠」が映画化されたときには違和感がありました。まあ、長野県ではそうだったんだろうと言うことになりましたが、左が強かった時代でしたから、傲慢な資本家と労働者の悲哀が絵になったんですね。昭和52年でしたねあの映画。高校の担任の先生が大竹しのぶに魂奪われちゃって、生徒誘っては映画館に見に行ってました。この先生が富岡市の出身だったので、野麦峠の製糸工場と富岡製糸場は別物と語っていました。

 

 野麦峠には2回ほど行ったことがあります。最初は真冬に長野から岐阜側に歩いて超えました。長い峠で雪も深い。ここをあの着物姿で女の子が超えられたものか?なんて考えたもんです。2度目はオートバイで岐阜から長野側に超えました。この時に初めて野麦峠の銅像を見ましたが、肺を病んだ妹を背負って峠を越える兄の姿の銅像でした。えらい体力だなぁと感心しました。

140428b 日本の「近代」はここから始まりましたが、近隣の諸国では先進国からの資本導入ですが、この時代の日本は先進国から技術を買って学んだんですね。

 

 出来合いを持ってきてもらうのではなく、 その下地を買って自ら学んだんですね。その下地となる教養や躾が当時の日本にはすでに備わっていたので、咀嚼して身に着けることができたわけです。

 

 養蚕は女性主体の農業で、かかぁ天下の群馬県では女性が良く働くんです。男はかあちゃんをうまくおだてながら尻に敷かれるふりをして道楽にうつつを抜かすから、道楽の延長線上の政治では総理大臣が4人も出る羽目になるんです。小泉さんだって子供の頃は私の家から5分ほどのところに住んでいたので、変わり者ウィルスに感染して変人になったんです。

 

 昨日接戦だった市長選を終えた沼田市なんかあれよ、勝ち負けに関係なく男たちは選挙疲れで仕事休んでいるからね。燃え尽きてゴムひもの切れたパンツのようになっているので、多分連休明けまで真っ当に働きゃしないよあの連中は。

140428c 富岡製糸場の敷地内には外国人技術者とその家族が住んだ建物や、工員用の診療所も残っていますが、いわゆるプロレタリアートを旗頭にする人たちにすれば、ご希望に添えず残念な施設です。

 

 彼らが言う「ブルジョワ」が広大な農地や小作を抱えていたため、産業転換がうまくいったのも現実で、今のように小規模自営農家ばかりだったらどうなっていただろうか?TPP問題で問われるような気もします。

 物事片方からの側面だけで見ると、見えていないことは多々あるものです。

 

 私が子供の頃は何処の農家でもカイコを飼っていましたし、これが一番大きな農業収入でした。私の家でも養蚕をやっていましたし、カイコの飼い方なら今でもよく憶えています。今回の文化遺産登録にはこうした養蚕農業の保護も含まれているみたいですが、私の村で養蚕をしている農家はわずかに2件となりました。

140428f これもあまり知られていませんが、富岡市にはもう一つ興味深い歴史の遺物があります。

 

 富岡高校の敷地にになる古い建物ですが、加賀藩の 前田利家の5男がこの地を支配し、七日市藩を作り、明治維新まで続きました。

 

 写真の建物はその前田家の屋敷跡です。

 この前田家の屋敷跡が第二次大戦末期には意外なことに利用されます。

140428g 陸軍中野学校の校舎として使われ、中野学校はここで終戦を迎えます。

 

 陸軍中野学校と言えば先ごろ亡くなった小野田寛郎さんが静岡県にあった陸軍中野学校二俣分校の出身で知られていますが、二俣分校は遊撃兵の育成機関でした。

 

 東京が空襲にさらされだした昭和20年4月に陸軍中野学校は富岡のこの地に移転しますが、わずか4か月ほどで戦争は終わりました。

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鯉のぼり

2014年04月27日 | 日記・エッセイ・コラム

140427e 1552年、上杉謙信が地面に刺した杖から芽が出たという逆さ桜。今年もなんとか花をつけました。


 樹医さんによる大規模な手術が行われているようで
、太い幹の悪い部分が切り取られていました。

 

 私が小学生の頃はもっと大きな枝をつけており、この木に登って遊んだものですが、今はそんなこと御禁制です。一頃、花をつけなくなり枯れるんじゃなかろうか?と心配した時期もありましたが、今でいうところの樹医のベテランの植木屋さんが悪い枝を切ってよみがえらせました。 

140427a_2  この冬、回覧板で家に眠っている鯉のぼりがあったら寄付してほしいと回ってきましたが、こういうことだったんですね。湖を横断する鯉のぼり。


 昔は長い杉の木を立てて鯉のぼりを掲げたものですが、最近は家が混みあって杉を立てることも難しければ、運ぶのも大問題です。昔のように山から大勢で担いでくる時代ではありません。

 
 こいのぼりの概念が変わってしまうのではなかろうか?と懸念してしまいますが、谷や川などにワイヤーを横断させて鯉のぼりを飾るようになったのは30年少々前からだと思います。まだ、20代だった頃にめずらしくて見に行ったことがありましたが、近年はよく見かけるようになりました。

 

 端午の節句の由来は、ブエノスアイレスのレストランで燃えるようなアルゼンチンタンゴ 踊りながら口説いたおねえちゃんをベッドに誘ってパンツを脱がせて・・・え?違うの?中国由来?
140427b_2 紀元前278年、楚(そ)の国の高名な詩人、屈原(くつげん)という男がいました。国王の信望も厚く庶民にも親しまれていましたが、陰謀によって国を追われることになり、失望のあまりに5月5日に汨羅(べきら)という川に身を投げてしまいました。(国が滅ぶことを悲しんで自殺したという説もあります)

 

 屈原の死を悲しんだ人々は屈原の遺体が魚に食われないようにと川にちまきを投げて魚のえさにしたそうです。また、汨羅江に多くの船を出し、屈原の遺体を捜しました。これが、今日端午節にちまきを食べたり「龍船」のレースをしたりする由来といわれています。

 

 端午節の日、どこの家庭でも玄関によもぎや菖蒲をぶら下げます。健康祈願のために子どもは体に「艾虎(虎の形をした匂い袋、艾はヨモギのことです)」をかけ、男性は「雄黄酒」という酒を飲みます。

 

 鯉のぼりにも二つの説があり、一つはよく知られている「鯉の滝登り」で、滝を登った鯉は竜になるといわれていることから、出世への縁起を担いだいわれです。これは江戸時代に日本で作られた言われのようです。それ以前は鯉のぼりはなかった。

 

 もうひとつは屈原に由来したもので、人々が探せど見つからなかった屈原の遺体は大きな鯉に運ばれて来たとされ、屈原の遺体を届けてくれた鯉を祭って、鯉の形をした物を祭る風習が出来たという説です。中国では鯉のぼりなど見かけません。

140427  庭先でサクラソウの花が咲き始めました。多分、プリムラと呼ばれる西洋種の サクラソウだと思いますが、植えてもいないのにいつの間にか根を下ろしていました。

 

 白い桜草の花言葉は「初恋」とか「秘めた恋」など意味深ですが、英国では春先に亡くなった人の棺桶をこの花で飾る枕花として用いられているようです。ギリシア神話では花の神フローラの息子が惚れた女にふられたか先立たれたかなにかで、失恋状態の寅次郎のままやつれて死んでしまったことから、息子をこの花に変えたと言われています。プリムラのプリムは一番最初と言う意味で、春先の早い時期に咲くからこの名前なんでしょう。日本だったら太郎とか一郎とか・・・。

140427c_2  花の大きさは何となく似ているけれど、こちらは苺の花です。種類はニョホノカ?

 

 一頃”女峰”と”とよのか”を作ってみたんですが、面倒くさくなってそのままにしていたら増えてしまって、半ば野生化して混ざってしまったのでどれがとよのかでどれが女峰なのかわからなくなってしまいました。

 

 植え替えをしていないから酸っぱい苺の実がなります。小粒ですが。酸味が強いので山猿にも荒らされない。

 

 この酸味を逆手にとって電子レジで熱してから砂糖を加えて軽く煮てジャムにします。苺の粒がそのまま残るのでケーキの飾りつけにでもすればよいのですが、トーストを食べる時に使っています。紅茶を飲むときにはロシアンティーのマナーで、イチゴジャムを口に入れてから紅茶を飲みます。紅茶のカップにジャムを入れるのは邪道です。

 

 銀座、大変だったみたいですね、オバマさんが寿司を食いに来て。店主のお任せメニューしかない寿司屋さんみたいで、クジラの大和煮に絶滅危惧種のクロマグロ食わせて「人生で一番うまい寿司だった」と言わせてみたかったですね。

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儚いね

2014年04月26日 | 日記・エッセイ・コラム

 選挙運動最終日で宣伝カーだけ賑やかな衰退著しい沼田市に行ったついでに台湾料理の店でランチを食べてきました。

 

 「ランーチ」と小学生でも書けない達筆な文字の怪しいボードが店の外に掲げられていて、興味を誘われました。前回来た時は「本日の”おすむめラメーン”」などもっと怪しいメニューが書かれていました。日に日に日本語がまともになってきているのが寂しいです。

 

 「ニンニくの芽と豚肉炒に塩ラーメン」のセットを食べてきましたが、まだ元気なので天に見放されてはいないみたいです。

 

 台湾料理と看板は出ているものの、店を営んでいるのは東北の吉林省の人です。安くて量があるので高校生がよく食べに来ていますが、韓国のフェリーより安全だと思います。

 帰りに名胡桃城址に立ち寄りました。八重桜が咲き菜の花が満開でした。今でこそこんなに整備されていますが私が中学生の頃に遠足で来たときなど草ぼうぼうの荒れ地でした。

 

 千葉や埼玉に行くと2月頃には咲き始める菜の花ですが、こちらではこれから5月連休明けごろがピークです。

 

 菜の花の葉っぱを「カキナ」と呼んでよく食べるのですが、最近は中国式にカラシをたっぷり入れた油で炒めて食べるのがお気に入りです。

 

 何のことはない、晩飯のおかずに山菜感覚で菜の花の葉っぱを摘んできました。それこそ早春に出る下界の菜の花の方が柔らかくて食べやすいのだけどね。硬いんだこちらの菜の花は。

 この城址公園に植えられた菜の花は、町役場が絞って菜種油を作って学校給食などに使っているようです。

 

 城跡の下に利根川が流れをの対岸には沼田市の沼田城があり、北条氏の沼田と真田氏の名胡桃城がにらみ合っていましたが、今で言うなら偽メールで名胡桃城主が出かけた隙をついて北条方が攻め込んできたことで、豊臣秀吉が怒り小田原攻めのきっかけになりました。後北条滅亡の発端はここから始まっています。やがて沼田城も真田氏の城になりましたが、後に財政難と杉木茂左衛門の直訴により沼田真田氏はおとりつぶしになってしまいます。

 

 そんな歴史に関係なくカキナのカラシ油炒め、大変おいしくいただきました。

 夕方、まだ日が高いうちにお風呂に行ってきました。私の住む地区には4か所の共同浴場があり、毎月温泉維持費で一件当たり1500円支払っています。この費用で風呂の掃除を委託しいており、以前は地区の人たちが当番で風呂の清掃をしていました。

 

 今日は一番上の小滝の湯に入ってきました。ほとんど地面の下からお湯が沸き出ているような場所に作られた風呂ですが、現在はポンプアップしてタンクに一度ためてから配給しています。それでも60度前後のお湯が出ています。

 

 時間が早かったのでまだ誰も入っていませんでした。熱くて手も入れられなかったので思い切り水を入れて42度程度にして入りました。

 

 湯上りの後は左隣の湯宿茶屋で冷たい麦茶をいただいて昔の話題で盛り上がりました。

  狭い路地のように見えますが、これがかつてのメインストリートで、車道は川沿いに別につく垂れています。

 

 右手前にある白い壁は窪湯と呼ばれるこの地区では一番大きな共同浴場で、かつてはこの路地の先が村で一番大きな商店街で、 左側の家もそれぞれ商店になっていました。

 

 村のあちこちから買い物に来てここで温泉に入ってから帰るのが時代の風物詩でした。

 

 平家物語風に盛者必衰と呼ぶには悲しすぎるので、栄枯盛衰と言った方が似合っているのかもしれません。時代の歯車がかみ合えばまた息を吹き返すこともあるのでしょうが、今は黄昏ていくばかりです。

 

 栄枯盛衰は世の道理だとも思えますが、人の夢と書いて儚さを意味する言葉としてもよく用いられます。儚さと言えば「邯鄲(かんたん)の夢」と言う中国のことわざがあります。

 

 邯鄲と呼ばれる地域から出世を目指して都に向かう青年が、途中の茶屋でコーリャンのおかゆを注文します。おかゆができるまで将来のことを夢で知ることができるまくらを借りてひと眠りすると、自分の人生の50年分を夢で見てしまいます。目が覚めたら、まだコーリャンのおかゆが煮えないほどのわずかな時間で、「俺の人生って飯を炊く時間より短い間でわかるようなものだったのか?」と愕然として、郷里に帰る逸話から来たそうです。

 

 「一炊の夢」もこの逸話から出た言葉ですね。

 

 城下町城跡自分が住む土地、浮いたり沈んだりの中では沈んだままになっている状態で、儚さだけが元気よく大手を振って闊歩してます。

 

 オマケ

140426e ソビエト時代の記念切手です。ソビエトのボルシェビキをたたえた切手ですね。

 なんか、めっちゃおぞましぃ~切手だけど、どないやねんプーちゃん。

 同性愛は勘弁してもらいたいことでは、同性愛禁止法をぶち上げたロシアのプーちゃんに非常に感銘しているけれど、おひざ元がこれでしたからね。まぁ、開き直ってこの法律にとやかく言う国に「ドヤ?」とこの切手見せてやれば考え変わるでしょう。

  昔、「YMCAでゲイの出会いを」みたいな歌をビレッジピープルが歌って、西城秀樹がカバーして大ヒットしていましたが、ピンクレディーの「ピンクタイフーン」もビレッジピープルの「In the navy」で”いかした男がいる海軍にはいろう!”と言う歌でした。

 70年代終わりごろにビレッジピープルが来日してツバキハウスと言うディスコに行ったということで、あそこはあやしい趣味の人のたまり場になっているなんて言われたもんでした。

 落ち?・・・パンツをはかないね。ってなことでお後がよろしいようで。

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森の音

2014年04月25日 | 日記・エッセイ・コラム

 標高1200mの森の中で、おむすびを食べたら眠くなったので、寝っ転がって昼寝をしました。

 

 横になっていると音だけが周辺の情報を津手当くれるのですが、とりわけ目立って音が大きいのがウグイスの声。静かに横になっているとだんだんこちらに近づいてくるのがわかります。
 ウグイスは大胆なくせに小心者なのでなかなか姿を見せませんが、薄目をあけると頭上のキハダの木の上にとまっているのが見えました。下から見上げると腹の部分の毛が赤茶色です。ここが世に言うきれいな鶯色ならメジロです。小汚いのがウグイスです。

 

 注意深く聞いているとウグイスも個体ごとに鳴き声が微妙に異なります。鳴き方やキーの高さや声の質など、それぞれ微妙なところで違うことがわかります。

140425  私の周辺には7ー8羽のウグイスがいたみたいで、その鳴き声の中他の鳥の声も聞こえてきました。私のわかる範囲ではホトトギスとシジュウカラ、キビタキ、カラス。その他もろもろ。

 

 視線に敏感な野鳥は望遠鏡で覗くもんじゃないんです。声を聴く程度が一番良い距離感です。

 ウグイスの谷渡りという鳴き方がありますが、危険を察知したときに出す鳴き方です。「ケキョケキョケキョ」と谷渡りが始まるとその瞬間に他の鳥の鳴き声も止まります。

 

 しばらくすると、唐松林の中を枯れ葉を踏みしめて歩く足音がします。この場所ならツキノワグマかカモシカですが、音から判断するとカモシカみたいです。音が風上から聞こえるので熊なら独特な臭いが漂ってくる距離です。耳と鼻と皮膚で感じる自然の方が多くの情報を得られるのか?目を閉じていることによって生じる恐怖感がそうさせるのか?歩いているだけではわからない山の状況がつかめました。

140425a  キツツキが木をつつく音が遠くに聞こえました。ドラミングと言うんだそうです。このあたりだとアカゲラもクマゲラも生活しているはずです。

 

 たぶん枯れた木をつついているのでしょう。中が腐って空洞になっているのか?音がよく響きます。広葉樹かな?枯れた木に巣くう虫。なんだろう?カミキリムシの幼虫かな?

 

 冬の宴たけなわの時期には里に下りていたり、雪の少ない南に出稼ぎに行っている鳥がそろそろ山に戻り始めています。

 

 そういえば、夜に真っ先に目についたオリオンの星を探すようになったのですから、暑い寒いに関係なく時は動いています。

140425c 冬季休業中だったツキノワグマも営業再開しているみたいで、立木で爪をといだ痕跡があちこちに見かけられました。

 

 これも、クマなりにルールがあるようで、人が歩く道の裏側で作業をしています。ただ通り過ぎると分からないのですが、一歩歩道を離れて木々の間を歩くと、目につかない後ろ側に爪とぎの後が見られます。

 

 人間がやったら「この馬鹿野郎!くだらないことやりやがって!」とドツキ回すところですが、相手がクマの場合恐いから「いいんじゃないですか?」とお目こぼしするしかありません。ヤーさん相手に立ち上がる市民の団結のような自然保護ですから、反撃してくる奴には徹底的に服従して、耳を貸す奴には高飛車に出るのが手段です。

 

 写真の爪とぎ後は先週通った時にはなかったもので、この一週間につけられたものでしょう。高さは私の胸くらいだったのでそれほど大きなクマではないはずです。爪の溝も大きくないのでようやく独り立ちした新成人が冬を越したのでしょう。

 

 爪とぎ後の右下の傷からは樹液がしみだしており、小さな虫がこの樹液を吸いに来ておりました。こうした虫が卵を産み付け、傷の部分が壊死して穴になり、昆虫や鳥や小動物の隠れ家になります。 もう少し暖かくなるとこうした樹液の周りにスズメバチが寄ってくるので要注意です。

140425b クマの理論とすれば「こうして森の生き物の生活のために木を傷つけてんねん。ええことしたってん。なんぞ文句あんのかい?忘れたころに顔出して、木を大切にせいなんて偉そうなことぬかしくさるんじゃないわい。ボケ!」

 

 ところがこの数年クマのボランティア活動が活発になりすぎて、皮をむかれて立枯れする樹木が増えているのも現実で、善意の裏側には結果としての「悪」があることもけっしてわすれてはなりません。

 

 問題は誰が「世の中そういうもんじゃない」とクマに説教するかで、猟師のおっさんたちは憲法9条の縛りで動けないから、自然保護なんたらの市民のおばちゃんたちが千羽鶴もって説得に行くのがいいと思います!頑張ってね!

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カモシカ

2014年04月24日 | 日記・エッセイ・コラム

140423 洗濯石鹸を買いに行ったらファーファ・ロシア版なるものが売られていたのでついつい買ってしまいました。

 

 きっと日本ではご禁制になっている環境根こそぎぶっ潰す薬剤が入った、ロシア製の強力な洗剤だろうと期待していたのですが、 普通のファーファで、ぬいぐるみのクマさんがロシア民族衣装風の服を着ている絵柄だけだったみたいです。

 

 洗濯してみましたがシャツも作業ズボンも溶けたりボロボロになったりせず、至極尋常な洗濯物に仕上がりました。めでたしめでたし。

 

 90年代の物資が不足していたロシアでは北朝鮮製の歯磨き粉が出回っていましたが、研磨剤がたっぷり入っているので歯が削れてなくなるという噂が立っていました。それなら試してみようと買ってきて使っていましたが、昔の愛煙家御用達のザクトライオンみたいなザラザラ感がありました。

 

 歯を磨いたは口の中に後30分ほど歯磨き粉の感覚が残っており、昔の歯磨き粉を思い出しました。チューブも金属製のチューブで、今当たり前の型崩れしないチューブではなかったので、末端からきれいに巻いていかないと変な形になってしまうチューブでした。これはこれで懐かしくて面白かったけどね。

 

140424  トレイルランニングのコースを作業しながら歩いてきました。

 

 まだ目を出さないから松の林の隙間から2158mの武尊山がよく見えました。

 残雪にカモシカの足跡がたくさん残っていました。

 
 こちらではクラシシとかクラッポなんて呼ばれることもあるカモシカですが、「クラ」とは崖や岩場のことを意味します。谷川岳の岩場の「一ノ倉」の「倉」も岩場を意味合いしています。

 

 岩場の多い山に住んでいるからカモシカのことをクラシシと呼んでいたのでしょう。 

140424b  カモシカが笹を食べたあとが残っていました。

 多分この冬、積もった雪から 出ていた葉っぱの部分の先っちょだけ食べたのでしょう。

 

 笹なら豊富にありますが決して彼らにとってはごちそうではないみたいで、積極的に食べるようなものではなさそうです。

 コケや木の芽など、少しづつ広範囲にわたって食べ歩いているようで、これも彼らに自然が与えた智慧で、枯らさない程度に少しづつあちこちから冬の食べ物を集めているみたいです。

140424a  カモシカはフィジカル的には強靭な体を持っていますが、鹿との争いに負けて環境の厳しい土地に追いやられている動物です。クラシシの名前の由来となった岩場やがけで見かけるのも、そういった趣味があるわけではなく、外敵が少ない危険な環境を選んだからで、辺境の動物です。

 

 我々辺境の人間と同様にノーテンキで警戒心が薄いので一頃は捕獲されやすい獲物として絶滅の危機に瀕したことがありました。

 

 日本人も世界から見れば辺境の民族なのでお人よしです。だから、腹黒い国にいいように利用されてしまうのですが、最近お役人が政府に吹き込んでいる移民受け入れ政策などその最たるものです。

 カモシカが少なくなったからと言って、この山の中に外来品種など住まわせたら、本来のカモシカがいなくなって大変なことになるのですが、人間が頭だ考えることはこんなものです。

 カモシカはカモシカで環境変化に適用しつつ数を増やし、今や害獣の一角を占めるほど勢力を増してきました。連中なりに努力しているんですよ。困ったもんですが。

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イワン・スサーニン

2014年04月23日 | 日記・エッセイ・コラム

 国境を接する国同士が仲がよいなんてことはありえないもので、仲がよければ国境など生まれません。日本と中華圏の軋轢など世界レベルから見たら些細なものです。

 

 20世紀、世界に多大な混乱を巻き起こしたソビエト。旧東側諸国でソビエトを快く思っている国などないでしょう。

   ロシアとドイツの間にポーランドと言う国があります。強国の間で翻弄される国ですが、ロシア人の姓に多い~スキー、~スカヤさんはポーランド系の姓です。

 

  プロイセン(ドイツ)とロシアの軋轢などはこのポーランドの奪い合いのようなものでしたが、是非次回のワールドカップヨーロッパ予選はドイツ、ロシア、ポーランドにウクライナとバルト三国を同じグループにして競わせて見たいものです。

 

 面白いことに(当然かもしれませんが)、ロシア人はポーランドを侵略したなんてこれっぽっちも思っておらず、「ポーランドはロシアを侵略したとんでもない国だ」と言い放ちます。確かに、ポーランドはロシア人の元祖ウクライナを支配したこともありましたし、17世紀のロシアの混乱期にはポーランドがロシアに侵攻しようと狙いましたが、記憶に新しいのは20世紀にロシア(ソ連)がポーランドを衛星国という名の属国にしたほうではないでしょうか?

 

  やったことは憶えていなくてもやられたことは憶えている、とすれば、あらゆる近隣諸国と領土争いや一戦交えてきた中国なんか、よくのうのうと日本のことを言えるものだと思います。

 

 イワン・スサーニンという英雄がいました。ロシアでは誰しもこの人の偉業を知っているし17世紀初頭の英雄で、たとえ話にもよく出てくる名前です。

 

 イワン・スサーニンはコストマの小作農夫でしたが、ロシアの動乱に乗じて入り込んできたポーランド軍に捕まり、モスクワへの水先案内をさせられます。

 

    「この道がモスクワへ通じる道だ」と、とんでもない密林の奥地にポーランド軍を引き込み、「騙された!」と気がついたポーランド軍に処刑されてしまいますが、とき既に遅く、密林は猛吹雪に見舞われてポーランド軍は壊滅してしまいます。

 

   たった一人の男が国を守った偉業を、グリンカは「皇帝陛下に捧げた命」というオペラに仕立て、ソビエト時代には”皇帝陛下”では具合が悪いので、歌詞の内容を一部変えて「イワン・スサーニン」と言う名に変えて、国への忠誠心のプロパガンダに利用しました。

   単なる農夫とはいえ、ポーランド軍はなぜ簡単にイワン・スサーニンの水先案内を信用したのか?本当にポーランド軍を陥れるために密林へと誘い込んだのか?表向きはイワン・スサーニンの偉業を歌いながらも、裏では「怪しい」と疑ってかかるのがロシア人。多分お調子者のチャイニーズのような男だったのでしょう。

 

   領主に虐げられてきた中世の農夫ですから、「国が云々」なんて関係なくポーランド軍においしいものをいただければ簡単に寝返る。だからこそ、ポーランド軍も信用して後に続いたわけで、イワン・スサーニンもあわよくばポーランドがロシア皇帝を倒して、自分が良い待遇で召抱えられることを打算していたかもしれません。

 

   意図的にではなくマジに道を間違えて、とんでもない密林の奥地へとポーランド軍を案内したのではなかろうか?モスクワがどの方角にあるかはわかっていても、行ったことなんかなかったでしょう。

 

    途中「道を間違えたかな?」と思っても、引き連れてきた軍人に「ゴメンネ」とは恐くていえません。しかたないから「この道で間違いない!」と言うしかありません。開き直るコリアンのような性格だったんでしょう。

 

   結果、道を間違えたことがばれて処刑されてしまったものの、ポーランド軍も密林の中に取り残され、食料も尽き、天候も悪化し全滅してしまったと言うのが本当ではなかろうか?と冷ややかに考えるロシア人。

 

   でも、道を間違えたイワン・スサーニンと同じく、「本当はこうなんだ」と恐くて言えず、ソビエトのプロパガンダにあわせてイワン・スサーニンはロシアを救った 英雄だ!と歌っていたら、今度はソビエトが壊滅してしまいました。

 

 自動車で走っていて道を間違えた時”イワン・スサーニン”の名前が会話に出てきます。私など方向音痴で、街場に出ると良く道を間違えて戸惑いますが、横で「スサーニン!イワン・スサーニン!」と揶揄されます。最初は道を間違えたと言う意味のロシアのスラングなのかな?と思っていましたが、こうした故事の例えだったんですね。

 

   ならば、と、逆手にとって、”道を間違えたかな?”と思ったときはこちらから”ヤー イワン・スサーニン(私はイワンスサーニンです)”と言うと妙に受けまくります。カーナビのことをイワン・スサーニンと紹介しても大笑いです。

 

 思えば歴代ソビエトの書記長こそ20世紀のイワン・スサーニンだったと思います。

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春到来

2014年04月22日 | 日記・エッセイ・コラム

 オバマさんが国賓として来日するようですね。国賓なのに夫人は同行しないみたいで、ファーストレディーとしていかがなものか?と、非難されそうな気もします。

 

 ファーストレディーと言えば、かつてのソビエトのファーストレディー。ゴルバチョフのライザ夫人が出てくるまで、表に出てくる夫人はいなかったですね。ブレジネフの夫人など1982年にブレジネフが死んで、その葬儀のニュースで初めて見ましたが、太ったアナグマのようなお婆さんでした。その後のアンドロポフの夫人も両国国技館向けの体型だったと記憶しています。

 

 ロシア美人なんて単なる伝説?と冷ややかな目線で見ていた覚えがありますが、ロシアの友人が言うにはゴルバチョフの時代になってようやく外交に出て恥ずかしくない夫人が出てきた。と言ってました。見てくればかりではなく品性を含めて。でも、ゴルバチョフの人気は「ソビエトをぶっ壊した」と低いのですが・・・。

 

 国のトップの夫人の役割は我々庶民が思う以上に大きいのでしょうが、日本の場合小泉総理は一人者なので外遊に夫人は同行せず、代わりにお姉さんが陰で動いていました。田中総理の時は総理のいろいろ下半身事情などもあって夫人は外に出てこない代わりに真紀子ちゃんが暗躍していました。

 

 鳩山の嫁さんは夫同様に頭がいっちゃってたし、菅の嫁さんは下品極まりなかったので二回目のサミットの時には同行できなかったみたいです。

 

 アメリカのファーストレディーが何を非難されているのか?興味ないのでよくわかりませんが、外遊先に韓国が割り込んできたからかな?
 韓国も今オバマさんに来てもらってどうしようもない状態になっているのですが。

 

 日本のメディアは「日本の立ち位置」や「米国がどう出てくる?」の疑心暗鬼ばかり心配していますが、ものの考え方が中間管理職目線ですね。
 島国日本は世界の辺境地なんですから、腕のいい一人親方でいいと思うのですが、「独立心」を育んでいかなければ将来危うい気もします。

 

 さて、独立心あふれるおじさんたちは今シーズン最初の花見を行いました。町議会議員選挙も終わり、隣の市長選は基本的に関係ないので気兼ねなく楽しめると飲み物の料理持ち寄っての花見とあいなりました。そろそろ桜も咲き始めました。
 このところ寒かったのでフキノトウ以外の山菜はまだ出ていないのですが、どこで見つけてきたのか、コゴメのゴマよごしを持ってきたおじさんがいました。私は葉ワサビを茹でて持っていきましたが、こうした山菜料理は奥様方よりおじさんたちの方が上手です。特に、ノンベエ親父はいろいろ研究していますね。

 

 皆それぞれに歳を取ったので昔のように馬鹿騒ぎをしなくなりましたが、話題が何だったのか?全然憶えていません。

 

 あえて思い出せば、私たちが子供の頃の方が油物を多く食べていたような。と言う話題で、山菜と油炒めや揚げ物は相性が良く、山菜が旨かったのか?油の風味がおいしく感じさせたのか?今より体を動かしていたこともありますが、油物や塩味がうれしかった気がしています。

 

 特に健康に気を使っているわけではないのですが、大汗をかいた時はしょっぱいものを食べたくなりますし、寒い時には油っぽいものを食べたくなるもので、体が欲しているものに謙虚に耳を傾けていればそれが健康で、死んでしまうときは何をしようが死んでしまうもので、あと何回桜を見られるか残りは少なくなっていることは確かですから、「諦める」ことも健康のポイントだよな。なんて話でした。

 
 なんだかわからないけど春が来て、いよいよ冬眠から目覚めるのかな?と言ったところです。 

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デジタル

2014年04月21日 | 日記・エッセイ・コラム

140421 「キツネ・・・ネコ・・・コブタ・・・タヌキ…キツネ・・・ネコ・・・コブタ・・・タヌキ」

 

 小学生とエンドレスのしりとりをしながらの通学路。延々このやり取りを続けていたら次第に意識吹っ飛んで頭がボケーっとしてきました。

 

 小学校の周辺の桜が満開になりました。村内に4つあった小学校が統合されてこの小学校一つになってしまいました。戦線から桜がこの小学校のシンボルになっていましたが、私たちの時代には太い山桜が植えられていました。

 

 アメリカシロヒトリの異常発生や土砂崩れ対策の土木工事などでヤマザクラの古木は伐採され、整備後にソメイヨシノが植えられ、3-40cmの太さに育っています。ソメイヨシノになったことで桜の開花時期が早くなりました。

140421a 一日どんより小雨が降っていた「花曇り」のような天気で、デジカメをモノクロモードにして写真を撮ってみました。

 

 桜はモノクロでも絵になる花で、色合いが薄いソメイヨシノはモノクロにしたほうが水墨画のようで味わいが出ることもあります。

 

 昔はね。モノクロ写真だったんです。カラーはフィルムもプリントも高かったんで、100フィート缶と言って30mもある長~いモノクロフィルムを買ってきて、仲間と分けて使っていました。新聞社の支局員と顔なじみの同級生がいて、よくフィルムをもらっていました。

 

 現像もD76希釈現像なんてやってましたね。温度保つのが大変でした。学校の写真室でプリントに焼き付けたんですが、バライタ紙と言う安い印画紙で、乾燥させるとクルクル勝手に巻いてしまうんです。プロマイド紙と言う光沢がある印画紙も出回っていましたが、高くて買う気にはなれませんでした。

140421b 今になると正統派王道のモノクロ写真で、とてもコストがかかる「趣味」の世界になってしまいました。

 

 最近はモノクロ写真もデジカメで写してインクジェットのプリンターでプリントするそうです。

 

 電池のいらない機械式カメラで撮影していましたから、カメラが進化してオートが当たり前になったのについていけず、ようやくオートもいいのかな?と思い始めたころには、カメラがピントを合わせてくれるオートフォーカスが当たり前になり、いくら何でもそりゃねえだろう!とつっぱっているうちにデジカメが当たり前になってしまいました。

140421c オートフォーカスの苦手なところはこちらの思ったところにピントが合ってくれないことで、このところメインで使っているファインダーのないコンパクトデジカメでは接写の時のピント合わせにはイライラします。

 

 しかも視力が衰えてきたので、オートフォーカスの恩恵にすがり付いているのが現実ですが、ピントがあっているのかどうかもわからないまま、自宅でパソコンの画面で見ると思い切りずれている、なんてことは年中行事です。フィルムだと無駄な部分も残ってしまいますが、デジカメは簡単に消去できるのでこれはこれで便利です。

 

 フィルムは多くて36枚と上限が決まっているので、あと何枚写せると引き算なんですが、デジカメの場合その気兼ねがいらないからバンバンシャッター押せるけれど、フィルム時代の感覚がまだ抜けきっていないから景気よくシャッターを押すことができません。

140421d 最近はもっと横着になって写真さえ写さなくなりましたが、デジタル機器が普及して面白くなくなったのは映像と音楽ですね。

 

 携帯電話でまかなえると言うのが何とも味気ない気がします。

 

 そんなこともあって、読書は何とか 紙の本にすがりついているのですが、やがて電子書籍になってしまうのだろうか?まだ紙の持つ情報量に追いついてはいないと思うけど。年々新しいことの挑戦するのが面倒臭くなってきて、近年画期的な進歩はコンビニコーヒーの買い方を覚えたことでしょう。

 

 項羽と劉邦の時代の英雄に股くぐりの韓信と言う豪傑がおりました、長い刀を背負っていたら街のチンピラに絡まれ「あんたの長刀は飾り物か?」とからかわれ、それでも逆らわずチンピラの股をくぐる屈辱を受けましたが、「恥は一時、大志は一生」とこんなくだらない連中を相手に命を粗末にする価値はないと意に介しませんでした。

 

 私の場合「恥は一生、大志はそん時だけ」なんですが、これがあまり定着してしまうと股くぐりの韓信ではなく、韓国の信用と同じようになってしまうので、「大志」を持たないようにしています。

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ボケの花咲く

2014年04月20日 | 日記・エッセイ・コラム

140420 朝、雨が止んだばかりでした。我が家の玄関前の紫モクレンが蕾を膨らませ近日中には開花しそうです。

 

 朝露に濡れた様が妙に色っぽので、家に戻ってデジカメを持ってきてパシャ!開花前の蕾が一番色が良い。

 

 紫モクレンは根元から脇枝がたくさん出るので、「取り木」と言って、この脇枝に土をラップで巻きつけておくと根が生えてきます。ある程度根っこが育ったなと思ったら、枝を切り離し植樹します。

 

 玄関前の紫モクレンもこうしてもらってきた木です。白いモクレンと比べてモクレン特有の香りが少ない気もします。

 

 この春は久々にカメラを持ち出して花を写していますが、こういう時はどちらかと言うと心情穏やかではないときで、いらいらすることが多いと感じたら綺麗なものを見るようにしてバランスを心がけています。

 

 夏になればいやがおうにも山を歩き回って高山植物などを写さなければならないのですが、この季節は人の手が入った花を眺めるのも良いものです。

140420a こちらは紅色のボケの花。

 秋になると実をつけ、これを果実酒にする予定で植えたのですが、基本的にバラ科の植物ですからやたら生命力が強い。

 

 手入れを怠っていたら藪になってとげが痛いので、根元から切ったのですが、数年後には根性で元の勢力を取り戻していました。

 日本の家紋に木瓜(もっこう)紋と言うのがあり、このボケの花がモチーフになっているようです。

 

 心穏やかな朝でしたが、地元の勤労奉仕が待ち受けていました。地区の農道の石垣の上の藪の伐採です。ほとんど崖のような傾斜なので、区で予算を取って外注する話になっていたのですが、予算がつかなかったのでリポビタンD3本でやる羽目になってしまいました。

 

 いろいろ細かなことに気がついて意見を述べる人は多いのですが、こうした作業に出てくる人はたったの二人。気がついたら口に出す前に体動かせ!と言いたいところですが、高齢化限界集落ですから年寄りがしゃしゃり出てきてがけから転落してお葬式も困ります。余計な現場監督がいないだけ気楽でした。

 

 猿が頻繁に出入りしている藪なので、その痕跡があちこちに見受けられました。この道路の先には戦後開拓した畑地帯がありますが、耕作者が棺桶に入ってしまう一方なのでもはや荒れ放題。わずかに1件だけ畑を作っている状態ですが、一帯が荒れると野生動物が畑の作物を収穫してしまうのでヤケになっています。

 

  夜、町議会議員選挙の開票がありました。戸籍上女性の中学の同級生が出馬していましたがトップ当選でした。女性候補者が出るだけでも難しい保守的な地域ですが、時代が変わったと言うのか?某宗教団体の組織票のご霊験と言うのか?

 

 当人の関係ないところで「久美子を男にする会」のメンバーが集まり、ホルモン焼きを食べながらとりあえず祝杯!をあげました。

 

 どれだけ票を取れば一人前の男と呼ばれるのだろう?ボブ・ディランが来日しているみたいですね。選挙には関係ないけど。

 

 我々の話題の中心は3名落選する候補者の読みで、競馬で言うところの3連単で最下位から3人の予想をしていたのですが、誰が票を取らないと言うより、誰を落としたいの恨みつらみになるのが田舎の面白いところです。冷静に1着2着は当てましたが、3着落選は予想していなかった人物でした。

 

 今回は共産党が2名候補者を出して、基礎票からすれば票の食い合いで共倒れも期待で来たのですが、かつての民主党系候補に流れていた票が共産党を支えたみたいです。

 

 1着落選は毎回出て落選している常連さんでだいたい毎回同じ数の票を取っています。安定した落選候補でした。

 

 2着落選はかつては労組をバックに民主党から出ていた議員で、最近は自民党に移ったかと思えばなんたら学会の入信したとか、思想信条かなぐり捨ててあちこちなりふり構わずにフラフラするので、かつて支えていた労組系の票も共産党に移ってしまいました。

 

 この1着2着はほぼ決まりだったのですが、ハナの差でした。

 

 3着はいわゆる保守系リベラルの人で、いいとこのお坊ちゃんです。自然保護運動などに熱心ですが、「市民」のように品格ないことはしない人物でした。「市民」に担ぎ上げられて落とされた神輿のような気もしますが、背後に「市民」が見え隠れすると一般からは警戒されます。人物はいい人だったんですが。

 

 さすがに3連単を当てた同級生はいませんでした。

 

 さて、これから桜の季節花見の本番を迎えます。ここからが本当の試練です。

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沼田公園

2014年04月19日 | 日記・エッセイ・コラム

140419 昨日日に引き続き沼田市に出かけてきました。時間があったので沼田城址の公園に足を運びました。と、言うよりここのイベントの会場づくりの手伝いにひっぱられたわけで、こっそり姿を消しての散歩を楽しみました。


 
 桜の季節に振るのは久々ですが、多分今夜あたりは花見の宴で賑やかになることでしょう。

 桜も満開と言うよりそろそろ終わりかな?と言った感じでした。

 私の町は今日が選挙運動最終日なので、うるさくて家にいられたものではありません。これ幸いに出てきましたが、こちらは来週が市長選挙、なんだかきな臭いムードが漂っていました。

140419a イベントは花と緑のなんたらかんたらで、県が絡んでいるみたいで県知事も来るようです。
 
 こういうイベントになると・・・。

 

 もうすぐ市長選を迎える沼田市ですが、ここの市長は仕事はできないけれどこうしたイベントで空虚な演説をすることが大好きな人物です。当然、午後のイベント開催には出てきて中身のない演説を長々喋ることでしょう。

 
 が、このイベントに出てきたゆるキャラは昨日のブログでも紹介した小松姫ではありませんか。 

140419b  小松姫は商工会議所のゆるキャラで、今回の選挙で現職市長と真っ向からぶつかり合うだろうと言われている候補が商工会議所の親分。

 多分、このイベントも商工会議所と県のコラボレーションでしょう。普通なら何でもないとりあわせですが、現職市長が敵陣に乗り込んでくる図式になりました。

 考えてみればこの沼田城址に会ったお城だって、もともとは後北条のお城で、川を挟んだ対岸の真田にちょっかい出したがため豊臣秀吉が乗り込んできて小田原攻めのきっかけになった土地。その真田も後に杉木茂左衛門の直訴によっておとりつぶしになります。

 

 この時代の争いに比べればとるに足らない小物の足の引っ張り合いなんですが、生き方も人生も重さがないよなぁ。

140419c  高校生の頃 、この公園で夏目雅子さんに会ったことがあります。

 まだカネボウかなにかのモデルでデビューしたばかりの頃でしたが、夏目雅子さんのお母さんがこの土地の出身なのでよく来ていたそうです。

 

 連休明けの5月頃だったと記憶していますが、この公園で着物を着て日傘をさした夏目雅子さんが地元の写真家のおじさんたちのモデルになっていました。

 

 たまたま私たちが柔道着をぶら下げて通ったので「お前らちょっとモデルをやれ!」と呼び止められて、和服姿の夏目雅子さんの隣で学ラン来て柔道着を肩にかけた私が凛として立っている写真が出来上がりました。

 

 大変申し訳ないことですが、この時夏目雅子さんを存じ上げていなかったんです。だいたいテレビも見ない受験生でしたし、女優さんの名前など全く無頓着だったので「きれいな人だなぁ。」とうっとり見入ってしまいました。化粧品店の店先に水着姿でビキニの方のひもが外れかかった夏目雅子さんのポスターが張られていましたが、その写真では小麦色に焼けていた肌が、ここでは真っ白な肌で、同じ人物には見えなかったんです。

140419d  写真館のおやじさんにキャビネ版に焼き増ししてもらった写真はモノクロ写真で、和服のお嬢様と書生さんの絵柄がレトロと言うのか、ノスタルジックと言うべきか昭和まっ只中のような絵になっていました。

 

 亡くなって30年近くになりますが、水面の桜花を眺めながら夏目雅子さんのことを思い出してしまいました。散り際が胸をかきむしりますね。

 

 もっと胸をかきむしるのは夏目雅子さんを知らないロシア人が「あなたはホステスと浮気をした」とこの貴重な写真を燃やしてしまいました。誰がどう見ても小汚い高校生とモデルさんなんですが、そんな浮名を流すほどさばけていたら、あんたと出会う前に結婚してたわい。写真館のおやじさんもすでに亡くなって写真館そのものがなくなった今、貴重な国宝級の写真の残りはどこにあるのだろう?

140419e 市の武道館では女子中学生と女子高生が剣道の稽古をしていました。

 

 武道が盛んな地域なので、昔は半分が柔道場、半分が剣道場 で3段まではここで昇段試験を受けました。

 

 夏目雅子さんの撮影会に出くわした時も、この武道館に小学生の柔道の指導に行く時でした。

 

 私が柔道やるきっかけもこの武道館でした。小児結核やるような虚弱な子供だったので、小学生の頃は日曜にピアノとバイオリンを習いに来ていましたが、時代はスポ根劇画全盛でしたからこっそり柔道教室に乗り換えてしまいました。後で親にばれて散々叱られましたが、おかげで体も強くなりましたし、あのままピアノやっていたらきっと不良少年になっていたと思う。

 

140419f 沼田公園にある帰国記念植樹の碑。

 この石碑が建てられたのが1960年、朝日新聞などの踊らされた北朝鮮の帰国事業が始まって10年ほどたったころのものですね。

 

 沼田市は戦前戦中に半島方面から移り住んだ人が多い土地で、当時は林業の材木搬出などの仕事や商人として入り込んできた人が多くいました。大半は半島の最南端や済州島あたりから移り住んできた人たちだったと聞いています。

 

 食えないからこちらに移り住んできた人がほとんどでしたが、 左の人たちは「強制連行」にしたがるんですよ。左の人たちはよっぽど嫌いなんですね、半島の人たちを。

 

 この地を離れて地上の楽園に向かう人たちが、この公園につつじや桜などを植えて行き、半世紀以上もみんなで大切に管理しています。

 

 帰国した人たちどうなったんでしょうね?どう考えても、どうなったんでしょうな?ホンマ。

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正覚寺の枝垂桜

2014年04月18日 | 日記・エッセイ・コラム

140418 沼田市に行ったら正覚寺の枝垂桜が満開でした。

 毎年4月29日にお祭りがあり、お稚児様のお祝いがあるのですが、そのころにはこの桜も花の時期を終えています。

 正覚寺は真田ゆかりのお寺で、真田信幸の正室の小松姫のお墓があります。小松姫は本多忠勝の娘で徳川の養女となって真田家に嫁ぎました。 本多忠勝と言えば徳川四天王のひとり。

 徳川方についた信幸と、豊臣方に父の昌幸、弟の信繁(幸村)に分かれた真田家です。

 

 分裂後に父昌幸が孫の顔が見たいと沼田に立ち寄ったところ、城の留守を預かっていた小松姫は戦装束で舅の前に現れ、親族とは言え敵味方なので城内に入れることはままならないと門前払いします。

140418a 仕方なく、昌幸はこの正覚寺で休憩をしていると、小松姫が子供の手を引いてお参りに来て、昌幸は孫に会うことができたと言う話が有名です。

 小松姫は容姿端麗で頭脳明晰な女性だったそうで、その昔の大河ドラマ「真田太平記」では紺野美沙子さんが小松姫の役をやっていました。

 

 大蓮院殿英誉皓月大禅定尼が小松姫の戒名。「誉」「禅定」が入っているので、在家のまま出家し五重相伝を受けた人物につける浄土宗の戒名ですね。

 

 29日のお祭りに顔を出したいと思っているのですが、そのころは我が家の界隈も桜が満開になるので、花見だとかバーベキューだとか宴会だとかいろいろ多忙でついつい足が遠のいてしまっています。

 

 真田ゆかりの正覚寺には隠れキリシタンと思われる人物のお墓もあるそうで、紹介できることを願いつつ、花見だとかバーベキューだとか宴会だとか忙しい合間を縫って出かける日がいつの日か来ることを記念して、ご両家のいやさかと皆様のますますの繁栄を祝して乾杯のあいさつとさせていただきます。

140418b 20日が投票のこちらの町議会選挙は宴もたけなわですが、 27日投票の沼田市の市長選挙は3人の候補者が入り乱れてこれから始まります。

 

 宴会に例えるなら、顔ぶれも出そろい昼間のOL勤めを終えたコンパニオンのおねえさんが会場の外で待機しているので「おねえさん来たみたいだし、そろそろ始めようか?誰が乾杯の音頭とる?」と偉い人三人が乾杯・中締め・三々七拍子の順番を巡りビール瓶手にして顔色をうかがっている時間帯。お膳には煮物と刺身が並んでいるだけで、鍋には火が付いておらずまだ天ぷらも運ばれてこない中、反社会的な勢力は宴会場の隅で「待ってられるかよ」とさっさとコップにビール注いでお新香かじりながら飲んでしまっている状態と言えるでしょう。

 

 来週の今頃は数少ないデュエット曲を巡っておじさん三人がマイクの奪い合いをしている状態で、「いまどき”銀座の鯉の活き作り”じゃねえだろう!”ロンリーチャップリン”だよ。」「馬鹿ぬかせ!オヨネーズみたいな顔して!」「おねえちゃんおじさんと”愛が生まれた日”歌おうね。」

 「カラオケ流行らないしぃ~、時給いいから我慢しているだけだし~。」「恋するフォーチュンクッキー踊れないのぉ?ダッサ~イ!」

 おねえちゃんも有権者も冷ややかな目線の中、きわめて低次元の三国志が繰り広げられていることでしょう。 

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世情

2014年04月17日 | 日記・エッセイ・コラム

 韓国では客船が沈没300人前後の犠牲者が出そうです。

 日本からの支援も必要ないそうなので、君子危うきに近寄らず。自立した距離を取りましょう。

 

 ウクライナは内戦直前のような状態になってきましたが、NATOの利益とプーちゃんの利益が相反するためにまだまだ混迷しそうです。ウクライナの暫定政権も暴力的ですね。分離・独立運動の背景はただ単に経済状態ばかりが原因ではない気もしますが、自由を求めてソビエトから独立したウクライナより「おそロシア」の恐怖の国の方がいいと言うくらいですからね。

 

 住民投票が認められてロシアに編入されたら住民がどこかに飛ばされちゃったなんてことになれば、ソビエト復活です。

 

 さて、昨日、理化学研究所の小保方さんの上司と思われていた人が記者会見したみたいですが、巧妙に「わて上司でも何でもあらへんねん。」という口調でしたが、もしSTAP細胞が存在したと実証できたらうっかり否定すると自分の立場が危うくなるかも知れないので、「あるような、ないような、どうなんでしょうね。」みたいな態度でした。 

 

 なんだか、自分の保身のために記者会見に出てきたような絵柄でしたが、出てきた意味ないじゃん。

 

 理研の記者会見では会見の直前に発表する内容を書いたプリントが配布されるそうで、記者はこれを読んで気持ちが萎えたところで会見が始まるようです。おおかたのマスメディアの人たちは科学知識に乏しいですから、プリントの内容が何がなんだかわからないのでしょう。巧妙な戦術です。

 

 理研に限ったことではないのですが、日本の研究機関に某東アジア諸国の研究員が結構は入り込んでいます。そう、パクさんとリーさんのパクリコンビがいるわけです。焼き肉のタレの開発に来ているのか?先端技術を盗みに来ているのか?後者の方だと思います。マボちゃん開発の背景にも中国が忍び込ませた麻婆豆腐研究者が、最新の技術を盗みに来ていたのかもしれません。

 

 実験手順のプロトコルもうっかり表に出来ないのはこうした背景があるからなんでしょうし、USAの研究者が「アメリカに来て研究するといい。」と言ってきたのもビジネスになるからなんでしょう。

 

 理化学研究所にしても騒ぎ起こされて外に放り出したいけれど、もし本当に存在したら麻婆豆腐や増えるワカメより利益になるかもしれません。

 

 科学なんてものは複雑怪奇に見せておいて、実の所はものすごく単純な部分で化学反応が起きているなんてのがおもしろいのであって、ガンコおやじのこだわりのラーメンの裏側では魂のスープに味の素とハイミーたっぷり入れて、それが「秘伝」のカラクリだったなんてのが真骨頂だと思います。

 

 STAP現象を起こす「秘伝」は「酸」だそうですが、実は小保方研究員の割烹着姿の陰にはバルサミコ酢があったりして、おとぼけ研究員にマスコミの目を釘付けにしておいて、背後ではSTAP現象を起こすドレッシングの開発を急いでいるのかもしれない。

 

 それよりも、問題は、週末の雨。傘は関係ない!行かなくちゃ、木を植えに行かなくちゃ、山の中に行かなくちゃ、雨の中! ジャンジャンジャンジャン。

 

 以前、「木を植えた男」と言う絵本が大ブームになりましたが、木を植えているおじさんには誰も注目してくれません。

 

 杉を伐採した跡地に楓の植林を頼まれて500本ほど植えるのですが、雨が降れば楓にとって好都合。半面、雨の中を植えるのはおじさんたちにとってはきつい仕事です。

 

 植林にも根を活着させ、育ちやすくさせるポイントがあるんですが、こういうことをボランティアにやらせるとひどい植え方をするんです。ただ単に穴を掘って木を植えた木になっているだけですから、ボランティアが植林した後の手直しは我々が植えるよりも時間がかかります。

 

 今回もボランティアが植え残した楓の植林と、植えた後の手直しなんですが、当人たちは大挙して押しかけ2-3時間木を植えたような気になって、バーベキューして帰ったようですが、最初からただ単にバーベキューして帰ってもらった方が後の手間がかからなかったでしょう。植林は無駄です。

 

 参加者と行政の自己満足なんでしょうが、森を侮っているととんでもないしっぺ返しが来ます。真剣に取り組んでもらいたいものです。

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期日前投票

2014年04月16日 | 日記・エッセイ・コラム

 騒がしいので町議会議員選挙の期日前投票に行ってきました。「投票済み」のポスターでもあれば玄関前に張りたいです。

 

 期日前投票。役場で受付に勝ち馬投票券を渡し「一着と二着の予想を書けばいいんだよね。」と聞くと、さすが役場職員は手馴れています「今は3連単と言って3着まで予想が当たるともっと豪華な払い戻しがあります。」

 

 毎度こんなやり取りをしていますが、役場職員も腕を上げたな!とほこらしく思いました。集団的自衛権の憲法解釈のこともあって、最高裁判所の裁判官に鉄槌をくらわすムードで出かけたんですが、町議会議員の選挙と最高裁判所の裁判官の信任投票は全然関係ない。気負ってきたのに、なんか拍子抜けしちゃったなぁ。

 

 期日前投票を済ませてお気楽な身になりましたが、今回の町議会議員選挙には中学時代の同級生だった女性が初老のおばさんとなって出馬しています。

 

 
 ろくな者はいないけれどこういう事があると集まる習性を持った年回りなので、「久美子を男にする会」を立ち上げ、夕方、2回目の会合が行われる事になりました。3リットルの樽生ビールとタマネギと春菊とゴボウのかき揚げを大量に作って、会議に行ってきました。

 

 某宗教系政治団体からの出馬なので、そこそこ安定圏内の得票は見込まれていますし、人畜に被害をもたらさなければ選挙なんぞどうでも良いのですが、まだ桜も咲かない花見の前のこの不毛の時期に、みんなが集まって一杯やるには格好の口実です。もちろん、口うるさいから当人抜きで集まって飲んでいるわけですが、今回の選挙で唯一の女性候補なので奥様方のご機嫌も悪くないらしく、つまみが豊富な集まりになりました。

 

 同級生の間で話題になったのは彼女の選挙ポスターの写真の出来が悪いこと。デジカメで写したんでしょうが、なんか平面的で平べったい写真になっていました。肌の色合いも悪く口紅と頬紅だけがやけに目について、発見された白骨死体に肉付けされたような写真に見えましたが、「いや、あれは老眼鏡をかけたアンパンマンだ」という奴もいれば、「頬被りをすればおてもやんを踊れる顔になっている」など、まぁ、元々そのたぐいの顔ですから。酒の肴にはなるけれどあまり評判がよい写真ではなかったみたいです。

 

 以前の同級生の集まりで、頭に「くの字」型に折った座布団縛り付けて佐渡おけさを踊った写真を持ってきた奴がいて、「この顔の方がよっぽど凛々しいだろう。」
 確かに凛々しい!頭に座布団さえ乗っていなければ。

 

 なんだかよくわからないけれど、候補者を応援する会だったのか?笑い物にする会だったのか?それはさておいて、選挙後の花見まで息災でいようと一本締めになりました。

 昭和の時代なら村議会議員の選挙の最中にこうして酒盛りなどやろうものならあらぬ噂が立ったもので、議員が地区の代表のようなものだったので村の辻には篝火を焚いての夜警がありました。
 これはこれでばかばかしい選挙でしたが、なんだかこの熱さが懐かしい気もします。それでいて、住民も行政なんぞに頼っていなかったので、住民の意見も重さがありましたが、なんだか近年は有権者の下心を見透かしたような候補者ばかり幅を利かせています。

 

 孤高の智慧者みたいなじいさんもいて、よけいなことには口を出さないけれど、この人の言うことなら的を得ていると信頼されていた人でしたが、最近は裏付けのない「正義」を振りかざして思考停止している人が多々見受けられるようになり、「義」がなくなって、声の大きさが評価されているように思えます。

 

 国も含めてだけど、議員の数ってこんなに必要なんだろうか?

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