第十五章 正義の人
人混みの中に私たちはいた。新宿駅の西口だろうか?
台風で電車にも影響が出たのであろう、ただでさえ混雑しているこの駅が足止めされた人たちであふれかえっている。
京王線の改札付近で「私の詩集」と書かれた看板を首にぶら下げたベレー帽姿の初老の女性がいた。私が学生時代にも見かけた顔だ。その頃はまだ少女の気配が抜けない二十代前半だったと思うが、年を経てもその頃の面影は残っていた。茶色いワラ半紙にガリ版印刷だった詩集が、漂白されたコピー用紙に変わっていたが、四十年近くこんなことをしていたのだろうか?継続は力なりか?力がなかったから継続していたのか?
あまりの混雑に立っていることもままならなくなった詩集売りは、看板も手作り詩集も片付け、人ごみの中へと消えていった。
「来ました。」
京王線の改札から手提げの袋をぶら下げた七十歳くらいの女性が出てきた。
背筋を伸ばし凛として歩くスーツ姿の女性で、白髪の混じったショートヘアーに厳しそうな眼を持つ女性だった。
彼女は人込みをかき分けるように西口バスターミナル方面へと歩みを進めた。
都庁が新宿に移転してこの周辺の姿も随分変わったが、私が上京した年の夏、このバスターミナルで、バスの車内にガソリンをまいて火をつけ、多数の死傷者を出す大事件があった。
犯人は幼少の頃から貧しい生活を強いられ、読み書きもままならない人物だったという。結婚して子供をもうけたがほどなく離婚し、別れた奥さんが精神疾患を患ったがために、子供の養育費をねん出するために各地を転々としていたという。
住むところがなく、野宿をしているところをビルの職員に注意されたことを「 馬鹿にされた」と思い込み、自分の不甲斐なさへの思いを世の中への憎しみに転嫁してしまった。
「バヤカロー、なめやがって!」
そう叫んでガソリンと火のついた新聞紙を車内に投げ込んだ。
判決は事件の時に犯人が精神に異常を期していたということで、無期懲役だったことに、私を含めて多くの人々は不満だったと思う。しかし、この犯人はのちに刑務所内の工場で首吊り自殺をしたと聞いている。
ターゲットの女性はバスターミナル方面に出ると、横殴りに巻くように吹いているビル風の雨を避けようと傘を開いた。
その刹那、忍さんの柏手の音が響いた。
女性の体が宙に浮いたかと思うと頭から真っ逆さまにコンクリートの地面に叩きつけられた。
「滅!」
いつになく険しい表情の忍さんが大きく叫ぶと、長い髪の毛が逆立ち周辺の空間がゆがんだ。
地面にたたきつけられた女性の口から、真っ黒で醜悪な表情をした彼女の本性が這い出てきて、すぐさま真っ赤な炎に燃やしつくされた。
「餓鬼ですか?」
「人間の本性の一種です。自分自身の中で支配欲を増幅させた結果、このような醜悪な姿になったのです。」
忍さんは髪を束ねながら言った。
いきなり人が風に飛ばされて倒れたように見えたのか?周辺にいた人たちが駆け寄ってきて、声をかけたり、救急車を呼ぶなど、台風のもたらした蒸し暑さの中を汗でびしょ濡れになりながらの救助活動が始まった。
そのどさくさに、私はこの倒れた女性の額に手を当てたが、およそ見てくれとは異なる壮絶な光景が私の脳裏に吹き込まれてきた。
悦子と呼ばれたこの女性は聡明で利発な少女として評判だった。勉強も運動も誰よりも優れていると当人は自負していたが、彼女にとって「女性」であることが何よりの足かせになっていると思い込んでいた。
他の子供たちより少しだけ早く社会に対して目が覚めた。それが彼女の不幸の元だったようだ。利発な知性と比べて、寛容な大人になるための心の成長が追いついていかなかった。
粗野で支配的で暴力をふるう父親。それに黙って耐えているだけの母親。彼女はそんな両親が憎くてならなかった。特に「女だから」と耐えているだけの母親を憎み蔑んでいた。
昭和の中頃までの家庭なんてどこの家でもそうであったが、父親も権限ばかりが異様に強く、女子供はそれにおびえながら暮らしていたものだ。それでも「結婚」と言う足かせと「子供」と言う鎹が家庭をつなぎとめていて。一つの秩序になっていた。
彼女は母親のような女になりたくない一心で、一日も早く大人になって自立したいと勉学にもいそしんだ。
誰かを恨み、何かを憎むことが自分の内なる力になることを彼女自身知っていた。しかし、こうした歪んだ力が、彼女自身を貶めていることにはまったく気が付いていなかった。
生徒会長になれなかったのも、委員に選ばれなかったのも全て自分が女性であるからだと決めつけていた。
なんということはない、彼女の自信に満ちた威圧的で高慢な態度に周囲が距離をとっていただけのことなのだが、それを認めたくない彼女は、友達を幼稚と見下すことで自分を高みに置こうとしていた。孤独、恨み、威圧がぐるぐると回り、いつしか彼女の周囲からは誰もいなくなっていた。
六十年安保闘争と七十年安保闘争の違いは何か?と、私が高校生の頃に聞かれたことがある。
その先生はこう言った。六十年安保はゲバ棒で、七十年安保は鉄パイプだ。対して違いはない。と。
鉄パイプの時代に彼女は高校生になっていた。
「女に勉強なんか必要ない。」
父親のこの軽はずみな一言に、彼女は親元を離れ新聞奨学生として高校に通う決意を自分で決めた。もちろん、この父親の不用意な言葉に対しての決断に、両親や担任教師から思い直すよう言われもしたが、「もう決めたことですから!」と家出同然で新聞店に住み込んでの高校生活が始まった。
親離れ子離れが云々言われる昨今、立派な自立心ではあるが、その根源は「不満」でしかなかった。
時折新聞紙面に登場する学生運動の女性闘士は彼女にとっての憧れであった。男たちを従えて自分の理想とする国家作りに燃える女性。
しかしながら、時代の歯車は既に内部分裂へと向かっていた。
親や社会に逆らうことが若者の特権と勘違いされていた時代でもあったが、元々不平や不満を持った若者たちの集まりである。それも、主流になろうとしてなれなかった者たちの集まりであるから、誰が主導者になるかで腹の探り合いになる。
もはや彼らが口実に使っていた「労働者」は次第に信ぴょう性がなくなり、先見性のある者たちは「福祉」を新しい口実として、自分たちの不満を晴らす道具に用いようとしていた。
三年間、新聞店の学校の往復だけでの狭い世界で、一度も家に帰ることもなく彼女は卒業した。
その頃には彼女が憧れた学生運動の闘士たちは破綻して、その多くは犯罪者として追われる者になっていた。
彼女は地方の国立二期校の大学の教員養成課程に進学することができ、そちらでも働きながら自立生活をして勉学にいそしんだ。
都市部では破綻していた学生運動も地方ではまだ勢いを持っていたが、彼女にとってはもはや徒党を組む連中が愚かに見えてならなかった。親のすねをかじって一人前の顔をして叫んでいる連中は彼女の見下しの対象でしかなかった。群れる連中を見下ろすことで、自らの誇りと思っていた。
大学を卒業後に教師の道を選んだのは支配欲からだった。誰にも頼らず自立して生きてきた自信が更に彼女を高慢に押し上げていた。
「進学」という圧倒的正義を武器にした彼女に逆らえる生徒はおらず、自分の意のままに生徒を操れると思うちっぽけな権力が彼女の快感でもあった。どうやって生徒の成績を上げるか?その数値が彼女の自信につながる全てだと認識していたが、やがて生徒や父兄から彼女の人間性について問われるようになる。教師間でも孤立していた彼女は次第に居場所がなくなるのであった。
しかし、全ては自分の周辺が悪い。彼女の能力を認めないのは周りが愚かだからと思い込んで譲らなかった。
自分が見限られたのではなく、こちらから見限ってやったのだ!と、学校の教員をやめた彼女は東京に出てきて、進学塾で講師をするようになる。
ここには彼女が理想とする社会があり生徒がいた。どんなに厳しい課題を出してもついてくる生徒、人間性なんて言う曖昧なものではなく、進学実績という数値が彼女の評価を裏付けていた。
三十五歳の時に彼女は結婚をする。相手の男は郊外の市役所に勤める公務員。どちらかというと平凡で、彼女にとっては支配しやすい対象だった。
結婚するときに彼女は実家を訪ねた。十五の時に家を出て以来二十年ぶりに里帰りした彼女を失望させたのは、すっかり温厚になった父親と共に仲良く暮らしていた母親で、彼女には厚顔無恥に見えてならなかった。その平凡が.許せなかった。憎しみだけを糧に生きてきた彼女にとって、この両親を許すことはできなかった。
その次に彼女が実家を訪れたのは、父と母の葬儀の時だけだった。
二年後に彼女は男の子を出産した。彼女の自尊心を満足させてくれる優秀な子供に育てる自信に満ちていたが、生まれた子供はダウン症の障害を持つ子供だった。
かいがいしく子供の世話をする夫と違って、彼女にはこの子供に何の愛情もわかなかった。
それどころか、全ては無能な夫だからこんな子供が生まれたのだと思い込もうとしていた。
仕事もそっちのけで子供の世話や施設探しに奔走する夫とも次第に心が離れていき、いつの間にか彼女が一人取り残されるような家庭になっていった。
しかし、彼女にとっては余計な手間が離れて、自分の好きなことに熱中する時間が増えただけに感じていた。
夏休み、講師を務める進学塾の合宿でリゾート地に行って帰宅すると、夫と子供の姿がなかった。
夫は子供を連れて自分の実家に帰ってしまい、テーブルには夫の署名捺印が入った離婚届がポツンと置かれていた。
自分から離婚届けを突き出してやりたいという悔しさは多少あったが、余計な足手まといがなくなった爽快感の方が彼女にとっては大きかった。
翌日、彼女は何の躊躇もなくその書類を役所に提出した。
風の便りに聞いた話では、彼女と別れた夫は、近くの施設に子供を入れることができ、施設で働いていた女性と再婚したらしい。障害を持つ子供は二十三の時に亡くなったらしい。
わが子の死に悲しみなど微塵もなく、これで完全に縁が切れたと気分が安らかになった。
もはや、彼女は自分が鬼婆となっていることなど、まったく認識していなかった。
幸福か不幸か?これは個人の認識次第ではあるが、おおむね不幸な人は関わる人たちも不幸に巻き込む伝染性を持っている。
いつしか、自立した女、仕事ができる女と名が知れるようになり、彼女に家庭の相談に来る者たちには迷うことなく「離婚」を薦めるようになっていた。
果たしてそれが幸せなのか不幸せなのか?そこまで責任を負う必要は彼女にはないと思っていた。
そう、彼女は「正義の人」だった。いついかなる時でも彼女は「正義」に基づいて動いていていた。それが人を幸せにするのか?不幸にするのかなんてことはどうでもよいことだった。彼女にとっての正義。それこそがこの世で何より重んじなければならないものだった。
「正義」を振りかざすとき、その人の目線は高みから見下ろせるようになる。そのちっぽけな征服感のために彼女は生きるようになっていた。
類は友を呼ぶというが、同じような「正義」を持つ人たちが彼女の周りに集まるようになってきた。安っぽい「正義」が噛合わないときには、別に共通の敵を作ることで彼女らは団結を保った。
しかしそれは、彼女が若かりし頃に見下ろしていた学生運動家と大差ないものであることに、彼女は気が付いていなかった。
やがて彼女は「市民」と呼ばれる活動に熱中していった。それは何事よりも自分の自己満足を満たしてくれるものであった。
この日も「市民」の活動に出かけるためにこのバスターミナルに来たのだった。
誰かのためを口にしながら実は自分の存在を誇示する事が彼女にとっての「正義」で、果たして彼女の存在が人々にとって意義があったのか?と考えると、むしろマイナスだったのではなかろうか?
アルコールや麻薬に溺れる人たちと彼女の「正義」はどう違っていたのだろう?つまり彼女は自分の「快楽」に溺れていたに他ならない。自己満足の道具として、もっとも使ってはいけないものを振り回していた。
次第に憐れむ気持ちも失せ、突然倒れた彼女を助けるために駆け付けた人波から離れた。
憑き物などなくとも人は鬼になれる、それは心のどこかにその種を隠しているからなのだろうが、その趣旨を育てるのは見栄や妬み、そして恨み。これらにとらわれた人を「不自由」というのだろう。
「死」が彼女を「正義」と言う醜悪な魔物から解放した。と、したら。なんと皮肉なことだろう。
「正義の人」それは彼女の生きざまだったのだろうが、その「正義」はどれだけ多くの人を傷つけてきたのだろう?
ネットに中傷の書き込むをする者たちの七割は正義感からだという。しかし、そう答える人ほど書き込み回数が増えてストーカー化しやすいという。また時としてその「正義」が人を死に至らしめることも起きる。
「正義」。使いこなせない者の手に渡ると、なんてもろくておぞましい凶器になるのだろう。