のすたる爺や

文明の果てなる地からのメッセージ

もう一つおまけに、なんだかなぁ

2020年12月29日 | 日記・エッセイ・コラム

 年末年始がどのくらい荒れる天候になるのか?とりあえず今日はいい天気で良かったのですが、急斜面は雪崩の危険が出てました。

 スキー場ではネパール人引き連れて仕事をしましたが、なにげにジャンパーを脱いだら着ている服がノースフェイスのダウンジャケットや、マムートのセーターなど高級品ばかり。こっちは行きつけのブティックのワークマンなのに。

 そのノースフェース、ヒマラヤで転落死した登山者の衣服引っ剥がしてきたんだろう。と、聞くと、とんでもない。日本で買ったんですよ。

 リッチだ。ネパール人リッチだ。

 ルンビニのネパール人、日本で働いた金を仕送りして家を建てている最中だとか。

 昭和の時代、まだネパールが王国だった頃。「ネパ-ルの王様は世界で二番目に金持ち。でもネパール人は世界で二番目に貧乏。」なんて言ってましたが、日本人は貧しいよなぁ。その貧しい日本人にご飯たかるなよなぁ。牛丼食いたいなんて言うなよなぁ。ヒンドゥー教徒のくせに。

 参考のために聞いてみたら、彼らは死ぬと川の畔で焼かれて遺骨は川に流される水葬だそうです。金持ちは薪がたくさん変えるから骨まで焼けるけど、ケチると薪が少なくて、ミュディアムレアの生焼け状態で流される。インドのベナレスに行ったとき、ガンジス川に焼き魚ならほどよい焼き加減の人の死体が流れてきて、川の中に入るのをやめました。

 インドの場合、あの人口を考えると、土葬にするには場所がない。火葬したら燃料が膨大になってしまう。水葬ってのも自然の成り行きかと思ってしまいます。チベットの鳥葬だって、火葬の燃料になる薪に使う樹木がない。土葬したって乾燥してのような大地だから腐らない。水葬するほど川なんかないし凍っている。だから鳥の餌も自然との協調。野鳥保護の皆さんも末路は鳥葬なんていかがでしょうかね。イヌワシも喜ぶよ。

 モンゴルに行ったとき、風葬を見ました。と、言うより、馬に乗って草原をパカパカしていたら丘の上に白骨化した人がいたのですが、オオカミやタルバカンなんかが食べて片付けるんでしょうね。これもまた自然との融和。

 雪の塊が崩れてきて、氷葬になるところだった。

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さらに、なんだかねぇ

2020年12月28日 | 日記・エッセイ・コラム

 羽田総理の息子が死んじゃったんですね。しかもニーハオウィルスで。日本の国会議員じゃ初めてらしいけれど、これが与党側なら蜂の巣をつついたような騒ぎになるんでしょうね。

 ニュースバリューの問題じゃなく、立憲民主党側だからメディアが抑えているような感じがします。

 国会議員がコロナで死んだのだからもっと、大きく取り上げて、なぜ観戦したか、新種のコロナか?など突き詰めるべきだと思うけど、妙に静か。とは言え、テレビ見ていないけど。国民に危機感を告げるのに国会議員が役立たなくてどうするの?

 そんな渦中。ほとんど人と接しない生活しているのに27日から毎年恒例の年末年始のスキー場に行ってます。先日の大雪で一晩で2m超えた地域ですね。

 このところ天気が良くて雪もしまってきてずいぶん減ったかに見えますが、まだ雪に埋もれて動かせないリフトの除雪に行ったら2mの上積もっていました。

 このところ、ニダやニーハオのバイトを押しつけられていましたが、今年はナマステ族です。ナマステと言ってもインドではなくネパール人で、夏場はアウトドアのインチキラクターしている連中です。例年、冬になると稼いだ金持ってネパールに帰り、雪が溶ける頃になるとまた日本にやってくるのですが、今年はニーハオウィルスの影響で、一度出たらもう帰ってこられないかも知れないので、日本に残って年越し。冬の生活のためにスキー場に来ています。

 ヒマラヤ登山のおかげで多少はネパール語にも接してきましたが、何が秀逸とい行っても彼らの英語はすごいです。ネイティブでは絶対わからない。スモール・チキンと言われて「小鳥」とわかるのは、非ネイティブイングリッシュ族だからでしょうね。ネイティブなら狭い鶏肉?何のこっちゃ?ですよ。右脳で英語を解釈している。

 ここは日本のムスタン。と言ったら、妙に納得した顔でうなずいていました。ネパールにもこれほど過酷なところに人は住んでいないと。嘘こくな!とんでもねえ所に人が住んでたぞ!標高高すぎて馬がひっくり返る中、ヤク(牛)がに運びしているような所に、村があったぞ。

 南のインド国境に近いルンビニから来ている青年が言うには、冬は氷点下になるかならない程度、雪は降らない。と言ってましたが、お釈迦様が生まれたあたり。今でこそあのザマですが2600年も遡ればたいしたもんだったんです。

 ほとんどがヒンドゥー教徒だそうですが、牛肉は食べないのか?と聞いたら、牛丼は大好きだそうです。

 この連中眺めていて、お釈迦様が何で悟りを開いたのか?さっぱりわからない。悩みも苦悩もなさそうなのんきな連中。

 高原キャベツの青年が、嫁探しもかねて来ています。結構イケメンの24歳。たまたま昨年バイトに来ていた横浜の女子大生が、スキーに来ていたので紹介してやりました。嫁に行ったらキャベツ食べ放題だぞ!何でも、この夏は大阪あたりではキャベツが一個500円だったとかで、時代はキャベツです。

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なんだかねぇ

2020年12月27日 | 日記・エッセイ・コラム

 なんだかねぇ。変な夢を見て目が覚めたんですよ。

 伊豆半島の先っぽで海底火山が活動して、アジが干物になって浮き上がってくるんですよ。ちゃんとひらきになってですよ。

 なるほど地熱で干物になる訳か!って変に納得して、海辺でそれを拾って持ち帰ろうとしているのですが、ウミネコが横からかっさらっていくんですよ。ウミネコってのはカモメのお仲間だと思っていたら、鳥の格好はしているものの顔が猫で、三毛とか茶トラとかいろいろいるんですね。

 山と違って海は不思議がいっぱいだ。と、アジの干物拾い集めているのですが、そこで目が覚めて、なんか疲れているのかなぁ?って、枕元の雑記帳に夢のことを書いて、もう一度寝たんですが、何なんでしょうね。

 何なんでしょうね。と言えば、今月の初めに隣の地区の家の外に変な物が捨てられておりました。

 以前、流し台などの廃材使って何か作っていると話を聞きましたが、加工が難しいステンレスを良くこんな風に使えたな。と、板金技術には敬服します。でも、こんな物作ってどうする気だったんでしょうね。60代半ばのおやじさんですが。

 大方、大掃除で邪魔になって外に出したのでしょうが、このおやじさんのやることも時々わからない。

 海底火山でアジが干物になる夢を見るなんて、まだ正気に近いのかも知れない。

 少し安心してます。

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森の別荘地の話

2020年12月22日 | 日記・エッセイ・コラム

 冬至も過ぎ、四、五日前から日が延びてきているのを感じていますが、寒さはこれからが宴もたけなわです。

 宴もたけなわ。ニーハオウィルス蔓延中で忘年会など国賊的行為となります故、今年は縁が無い言葉になるのかな?

 別荘地に行って雪かきをしてきましたが、ガイジンさんの別荘地なので、クリスマスになると人が集まってくるようです。

 一昨年までは23日は祝日だったので、今頃は人が集まっていましたが、今年はまだ誰も上がってきていません。おかげで一日じっくり雪かき作業でした。

 雪で車が簡単に入ってこられるような場所ではないので、宅急便は下の道路にクルマを停めて歩いて配達をしていました。車道から1km近く山奥なので大変な作業です。

 一日天気が良かったので日差しが目にきつかったのか、家に戻ってから雪目状態で目が渋いです。

 およそ正常な日本人ならこんな所に無理して住むようなことはしませんが、別荘どころか常時住んで生活している外人さんもいます。趣味の問題なので、なんと言ってみようもないし、私だってこんな山奥で卯建の上がらない生活しているより、南青山の瀟洒な邸宅に住んでAMGのベンツに乗って女子大生のお姉ちゃんたぶらかしていればいいのに、何でこんな生活しているのか?と、問われれば、趣味の・・・っていうかぁ・・・これが甲斐性なんでしょうね。

 ロシアのウラジオストク郊外にこんな森の中の集落がありまして、ダーチャ、と呼ばれる菜園付きの別荘地でもありますが、常時生活している人たちもいます。森の住人。ハリーポッターならハグリットと言う巨人ですが、結構毛深いけおやじが住んでいたりするんですよ。ロシアの森の中にも。

 日本のように除雪がしっかりしていないけれど、気温が低い乾いた雪だから意外と自動車も入っていけました。

 ふと、そんなことを思い出しながら雪かきしてましたが、ヨーロッパの森の感覚がこういう場所を選ばせるのだろうな。なんてことを考えました。

 寒くなってもまだ冬の始まりの気温。雪は湿って重かった。夕方には来ているものが濡れて、と言っても汗もあるのだけど、寒いのを通り越して痛くなって帰ってきました。

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雪よりネギ

2020年12月18日 | 日記・エッセイ・コラム

 また今夜あたりから雪になりそうな気配です。

 なんでも、私の街で2mを超える雪が降ったと、某国営放送が報道していたらしいけれど、ご町内にそういう地域もあるけど、アーバンライクな私の家の周りはそんなに降っていません。

 峠の向こうの湯沢あたりでは高速道路が大雪のためにクルマが立ち往生して自衛隊が出動しているようで、昨日の昼過ぎからヘリが頭上を飛び交ってました。

 2日近くの長時間、道路の上で閉じ込められている人たちに、長岡の岩塚製菓の配送トラックが、高崎まで配達の途中だった自社のせんべいを配布したそうです。こういう心遣いが日本人の美学ですね。

 黒豆せんべいはよく食べているせんべいで、土日に開催している茶屋では常時おいてますし、今日も薪ストーブの火に当たりながらおじさん達とお茶菓子に食べてましたが、帰宅してニュースを知って、なんか誇らしかった。

 クルマの燃料はいつも満タンが雪が降るときの常識で、お菓子やチョコなど何かしらの食べ物はいつも積んでいます。非常用と言うより、肥満体型維持のための努力ですけどね。

 今年はこういう年なので、うっかり風邪もひけない。

 いつもはネギ味噌を食べるのですが、今年はネギ南蛮というのか、ピリ辛ネギを作ってよく食べています。

 短冊にしたネギに豆板醤加えて、ごま油で風味つけただけですが、なんだかんだとネギ一本程度毎日食べています。

 ネギラーメンなる物を初めて食べたのは昭和の終わりで、当時はラーメン行列が始まった頃。環七ラーメン戦争なんて時代でしたが、私のアパートから近い環八に、冬になると店を開くラーメンショップって店がありまして、東北弁の出稼ぎ労働者がたむろしている店でした。

 ここのネギ南蛮ラーメンってのが絶品で、スープは豚骨スープでした。

 で、ネギ南蛮の作り方をそれとなく教わって、ネギが安くなる冬になるとネギラーメン作って楽しんでいます。

 風邪の予防になるのか?は、さておき、つまみにもいいし、お試しあれ。

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小説 死神 第十五章 正義の人

2020年12月05日 | 日記・エッセイ・コラム

第十五章 正義の人

 

 人混みの中に私たちはいた。新宿駅の西口だろうか?

 台風で電車にも影響が出たのであろう、ただでさえ混雑しているこの駅が足止めされた人たちであふれかえっている。

 

 京王線の改札付近で「私の詩集」と書かれた看板を首にぶら下げたベレー帽姿の初老の女性がいた。私が学生時代にも見かけた顔だ。その頃はまだ少女の気配が抜けない二十代前半だったと思うが、年を経てもその頃の面影は残っていた。茶色いワラ半紙にガリ版印刷だった詩集が、漂白されたコピー用紙に変わっていたが、四十年近くこんなことをしていたのだろうか?継続は力なりか?力がなかったから継続していたのか?

 あまりの混雑に立っていることもままならなくなった詩集売りは、看板も手作り詩集も片付け、人ごみの中へと消えていった。

 

 「来ました。」

 京王線の改札から手提げの袋をぶら下げた七十歳くらいの女性が出てきた。

 背筋を伸ばし凛として歩くスーツ姿の女性で、白髪の混じったショートヘアーに厳しそうな眼を持つ女性だった。

 彼女は人込みをかき分けるように西口バスターミナル方面へと歩みを進めた。

 

 都庁が新宿に移転してこの周辺の姿も随分変わったが、私が上京した年の夏、このバスターミナルで、バスの車内にガソリンをまいて火をつけ、多数の死傷者を出す大事件があった。

 犯人は幼少の頃から貧しい生活を強いられ、読み書きもままならない人物だったという。結婚して子供をもうけたがほどなく離婚し、別れた奥さんが精神疾患を患ったがために、子供の養育費をねん出するために各地を転々としていたという。

 住むところがなく、野宿をしているところをビルの職員に注意されたことを「 馬鹿にされた」と思い込み、自分の不甲斐なさへの思いを世の中への憎しみに転嫁してしまった。

 「バヤカロー、なめやがって!」

 そう叫んでガソリンと火のついた新聞紙を車内に投げ込んだ。

 判決は事件の時に犯人が精神に異常を期していたということで、無期懲役だったことに、私を含めて多くの人々は不満だったと思う。しかし、この犯人はのちに刑務所内の工場で首吊り自殺をしたと聞いている。

 

 ターゲットの女性はバスターミナル方面に出ると、横殴りに巻くように吹いているビル風の雨を避けようと傘を開いた。

 その刹那、忍さんの柏手の音が響いた。

 女性の体が宙に浮いたかと思うと頭から真っ逆さまにコンクリートの地面に叩きつけられた。

 「滅!」

 いつになく険しい表情の忍さんが大きく叫ぶと、長い髪の毛が逆立ち周辺の空間がゆがんだ。

 地面にたたきつけられた女性の口から、真っ黒で醜悪な表情をした彼女の本性が這い出てきて、すぐさま真っ赤な炎に燃やしつくされた。

 

 「餓鬼ですか?」

 「人間の本性の一種です。自分自身の中で支配欲を増幅させた結果、このような醜悪な姿になったのです。」

 忍さんは髪を束ねながら言った。

 

 

 いきなり人が風に飛ばされて倒れたように見えたのか?周辺にいた人たちが駆け寄ってきて、声をかけたり、救急車を呼ぶなど、台風のもたらした蒸し暑さの中を汗でびしょ濡れになりながらの救助活動が始まった。

 そのどさくさに、私はこの倒れた女性の額に手を当てたが、およそ見てくれとは異なる壮絶な光景が私の脳裏に吹き込まれてきた。

 

 悦子と呼ばれたこの女性は聡明で利発な少女として評判だった。勉強も運動も誰よりも優れていると当人は自負していたが、彼女にとって「女性」であることが何よりの足かせになっていると思い込んでいた。

 他の子供たちより少しだけ早く社会に対して目が覚めた。それが彼女の不幸の元だったようだ。利発な知性と比べて、寛容な大人になるための心の成長が追いついていかなかった。

 

 粗野で支配的で暴力をふるう父親。それに黙って耐えているだけの母親。彼女はそんな両親が憎くてならなかった。特に「女だから」と耐えているだけの母親を憎み蔑んでいた。

 昭和の中頃までの家庭なんてどこの家でもそうであったが、父親も権限ばかりが異様に強く、女子供はそれにおびえながら暮らしていたものだ。それでも「結婚」と言う足かせと「子供」と言う鎹が家庭をつなぎとめていて。一つの秩序になっていた。

 

 彼女は母親のような女になりたくない一心で、一日も早く大人になって自立したいと勉学にもいそしんだ。

 誰かを恨み、何かを憎むことが自分の内なる力になることを彼女自身知っていた。しかし、こうした歪んだ力が、彼女自身を貶めていることにはまったく気が付いていなかった。

 

 生徒会長になれなかったのも、委員に選ばれなかったのも全て自分が女性であるからだと決めつけていた。

 なんということはない、彼女の自信に満ちた威圧的で高慢な態度に周囲が距離をとっていただけのことなのだが、それを認めたくない彼女は、友達を幼稚と見下すことで自分を高みに置こうとしていた。孤独、恨み、威圧がぐるぐると回り、いつしか彼女の周囲からは誰もいなくなっていた。

 

 六十年安保闘争と七十年安保闘争の違いは何か?と、私が高校生の頃に聞かれたことがある。

 その先生はこう言った。六十年安保はゲバ棒で、七十年安保は鉄パイプだ。対して違いはない。と。

 

 鉄パイプの時代に彼女は高校生になっていた。

 「女に勉強なんか必要ない。」

 父親のこの軽はずみな一言に、彼女は親元を離れ新聞奨学生として高校に通う決意を自分で決めた。もちろん、この父親の不用意な言葉に対しての決断に、両親や担任教師から思い直すよう言われもしたが、「もう決めたことですから!」と家出同然で新聞店に住み込んでの高校生活が始まった。

 

 親離れ子離れが云々言われる昨今、立派な自立心ではあるが、その根源は「不満」でしかなかった。

 

 時折新聞紙面に登場する学生運動の女性闘士は彼女にとっての憧れであった。男たちを従えて自分の理想とする国家作りに燃える女性。

 しかしながら、時代の歯車は既に内部分裂へと向かっていた。

 親や社会に逆らうことが若者の特権と勘違いされていた時代でもあったが、元々不平や不満を持った若者たちの集まりである。それも、主流になろうとしてなれなかった者たちの集まりであるから、誰が主導者になるかで腹の探り合いになる。

 もはや彼らが口実に使っていた「労働者」は次第に信ぴょう性がなくなり、先見性のある者たちは「福祉」を新しい口実として、自分たちの不満を晴らす道具に用いようとしていた。

 

 三年間、新聞店の学校の往復だけでの狭い世界で、一度も家に帰ることもなく彼女は卒業した。

 その頃には彼女が憧れた学生運動の闘士たちは破綻して、その多くは犯罪者として追われる者になっていた。

 

 彼女は地方の国立二期校の大学の教員養成課程に進学することができ、そちらでも働きながら自立生活をして勉学にいそしんだ。  

 都市部では破綻していた学生運動も地方ではまだ勢いを持っていたが、彼女にとってはもはや徒党を組む連中が愚かに見えてならなかった。親のすねをかじって一人前の顔をして叫んでいる連中は彼女の見下しの対象でしかなかった。群れる連中を見下ろすことで、自らの誇りと思っていた。

 

 大学を卒業後に教師の道を選んだのは支配欲からだった。誰にも頼らず自立して生きてきた自信が更に彼女を高慢に押し上げていた。

 「進学」という圧倒的正義を武器にした彼女に逆らえる生徒はおらず、自分の意のままに生徒を操れると思うちっぽけな権力が彼女の快感でもあった。どうやって生徒の成績を上げるか?その数値が彼女の自信につながる全てだと認識していたが、やがて生徒や父兄から彼女の人間性について問われるようになる。教師間でも孤立していた彼女は次第に居場所がなくなるのであった。

 しかし、全ては自分の周辺が悪い。彼女の能力を認めないのは周りが愚かだからと思い込んで譲らなかった。

 

 自分が見限られたのではなく、こちらから見限ってやったのだ!と、学校の教員をやめた彼女は東京に出てきて、進学塾で講師をするようになる。

 ここには彼女が理想とする社会があり生徒がいた。どんなに厳しい課題を出してもついてくる生徒、人間性なんて言う曖昧なものではなく、進学実績という数値が彼女の評価を裏付けていた。

 

 三十五歳の時に彼女は結婚をする。相手の男は郊外の市役所に勤める公務員。どちらかというと平凡で、彼女にとっては支配しやすい対象だった。

 結婚するときに彼女は実家を訪ねた。十五の時に家を出て以来二十年ぶりに里帰りした彼女を失望させたのは、すっかり温厚になった父親と共に仲良く暮らしていた母親で、彼女には厚顔無恥に見えてならなかった。その平凡が.許せなかった。憎しみだけを糧に生きてきた彼女にとって、この両親を許すことはできなかった。

 その次に彼女が実家を訪れたのは、父と母の葬儀の時だけだった。

 

 二年後に彼女は男の子を出産した。彼女の自尊心を満足させてくれる優秀な子供に育てる自信に満ちていたが、生まれた子供はダウン症の障害を持つ子供だった。

 かいがいしく子供の世話をする夫と違って、彼女にはこの子供に何の愛情もわかなかった。

 それどころか、全ては無能な夫だからこんな子供が生まれたのだと思い込もうとしていた。

 

 仕事もそっちのけで子供の世話や施設探しに奔走する夫とも次第に心が離れていき、いつの間にか彼女が一人取り残されるような家庭になっていった。

 しかし、彼女にとっては余計な手間が離れて、自分の好きなことに熱中する時間が増えただけに感じていた。

 

 夏休み、講師を務める進学塾の合宿でリゾート地に行って帰宅すると、夫と子供の姿がなかった。

 夫は子供を連れて自分の実家に帰ってしまい、テーブルには夫の署名捺印が入った離婚届がポツンと置かれていた。

 自分から離婚届けを突き出してやりたいという悔しさは多少あったが、余計な足手まといがなくなった爽快感の方が彼女にとっては大きかった。

 翌日、彼女は何の躊躇もなくその書類を役所に提出した。

 

 風の便りに聞いた話では、彼女と別れた夫は、近くの施設に子供を入れることができ、施設で働いていた女性と再婚したらしい。障害を持つ子供は二十三の時に亡くなったらしい。

 わが子の死に悲しみなど微塵もなく、これで完全に縁が切れたと気分が安らかになった。

 もはや、彼女は自分が鬼婆となっていることなど、まったく認識していなかった。

 

 幸福か不幸か?これは個人の認識次第ではあるが、おおむね不幸な人は関わる人たちも不幸に巻き込む伝染性を持っている。

 

 いつしか、自立した女、仕事ができる女と名が知れるようになり、彼女に家庭の相談に来る者たちには迷うことなく「離婚」を薦めるようになっていた。

 果たしてそれが幸せなのか不幸せなのか?そこまで責任を負う必要は彼女にはないと思っていた。

 

 そう、彼女は「正義の人」だった。いついかなる時でも彼女は「正義」に基づいて動いていていた。それが人を幸せにするのか?不幸にするのかなんてことはどうでもよいことだった。彼女にとっての正義。それこそがこの世で何より重んじなければならないものだった。

 「正義」を振りかざすとき、その人の目線は高みから見下ろせるようになる。そのちっぽけな征服感のために彼女は生きるようになっていた。

 

 類は友を呼ぶというが、同じような「正義」を持つ人たちが彼女の周りに集まるようになってきた。安っぽい「正義」が噛合わないときには、別に共通の敵を作ることで彼女らは団結を保った。

 

 しかしそれは、彼女が若かりし頃に見下ろしていた学生運動家と大差ないものであることに、彼女は気が付いていなかった。

 やがて彼女は「市民」と呼ばれる活動に熱中していった。それは何事よりも自分の自己満足を満たしてくれるものであった。 

 この日も「市民」の活動に出かけるためにこのバスターミナルに来たのだった。

 

 誰かのためを口にしながら実は自分の存在を誇示する事が彼女にとっての「正義」で、果たして彼女の存在が人々にとって意義があったのか?と考えると、むしろマイナスだったのではなかろうか?

 アルコールや麻薬に溺れる人たちと彼女の「正義」はどう違っていたのだろう?つまり彼女は自分の「快楽」に溺れていたに他ならない。自己満足の道具として、もっとも使ってはいけないものを振り回していた。

 

 次第に憐れむ気持ちも失せ、突然倒れた彼女を助けるために駆け付けた人波から離れた。

 憑き物などなくとも人は鬼になれる、それは心のどこかにその種を隠しているからなのだろうが、その趣旨を育てるのは見栄や妬み、そして恨み。これらにとらわれた人を「不自由」というのだろう。

 

 「死」が彼女を「正義」と言う醜悪な魔物から解放した。と、したら。なんと皮肉なことだろう。

 

 「正義の人」それは彼女の生きざまだったのだろうが、その「正義」はどれだけ多くの人を傷つけてきたのだろう?

 ネットに中傷の書き込むをする者たちの七割は正義感からだという。しかし、そう答える人ほど書き込み回数が増えてストーカー化しやすいという。また時としてその「正義」が人を死に至らしめることも起きる。

 「正義」。使いこなせない者の手に渡ると、なんてもろくておぞましい凶器になるのだろう。

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