知り合いに古い懐中時計をもらいました。古いと言ってもクォーツの時計で、電池が切れれたので使わなくなったものです。さらにMaid in Chinaですから。ごく最近のものです。たぶん、1000円もしないものでしょう。
今まで興味はあったけれど手にすることがなかった懐中時計なので、妙に気持が昂ぶっています。
小川未明の作品に懐中時計を扱ったものがあります。田舎で教員をしていた主人公が地方を離れ都会に出るにあたって、教え子達がお金を出し合って懐中時計をプレゼントします。それは決して流行の妻子に着物ではありませんでしたが、時間が狂うこともない良い代物でした。
やがて出世した主人公はその懐中時計を売って新しい高級なものを買いました。しかし、毎日時間がずれる。ある日自分の会社の社員にその話をすると、「私の時計は安物ですが、ぜんぜん狂いません。私が苦学していたときにやっと手に入れた宝物です。」と自慢するので、見せてもらったら、見覚えのある傷がある。主人公が都会に出る時に生徒達にもらった懐中時計でした。
時間が狂わない。そんなに素晴らしい時計を送ってもらったことにも気がつかず、手放してしまったことを悔やみ、自分が慢心していたことに気がついた主人公は、部下にその時計をゆずってくれないかと頼む物語です。
そんなご大層な物語がある代物ではありませんが、この小説ことを思い出して、なんとなくいい気持ちになっています。
思い返してみると、小川未明の小説ももう何年も読み返していなかったので、この秋に読み返す本のリストに加えました。
「牛女」これも小川未明の小説に出てくる物語です。
社会に出てようやく意味がわかった、よしだたくろうの「夏休み」。夏休みがなくなっていたことに気がつき、なるほど、大人たちがこの歌に共感を持ったわけだとわかりました。
麦藁帽子は もう消えた 田んぼの蛙は もう消えた それでも待ってる 夏休み
姉さん先生 もう居ない きれいな先生 もう居ない それでも待ってる 夏休み
知人の息子さんは中学生。山のような宿題を抱えていますが、今月中にあらかた片付けて8月はしっかり遊ぶんだと張り切っていました。
思い返すと、宿題を前半で片付けるか、後半で片付けるか?自分もいろいろ試したことがありましたが、毎日コツコツ勉強しようなんてあくまで計画書だけで、まったくそんな気はありませんでした。
ロシアでは6月末から9月1日までが夏休みですが、学年が替わる年度切り替えに当たるため宿題などありません。小中学生でも落第はあるので、自分の意思で勉強しなければ上に上がれないだけのことです。
まだソビエトだった時代、私の友人の両親は仕事で高い功績を上げたご褒美に6ヶ月の長期休暇を与えられ、今のウクライナ、黒海に突き出たクリミヤ半島のサナトリウム(日本で言う国民宿舎のようなもの)にバカンスに出かけました。当然子供も連れて行くわけですが、このバカンス中、彼はクリミヤの学校に転入して、サナトリウムから学校へ通っていたそうです。
両親のバカンスが終わりウラジオストクに戻ると新しい年度が始まっており、この年から外国語が授業に入る学年でした。英語、ドイツ語、フランス語などから選択するわけですが、その頃、すでに一番人気がある外国語は英語だったそうです。
語学選択の時にいなかった彼にあてがわれたのはあまり人気がないスペイン語。将来英語が不可欠だと思っていた両親は学校に乗り込んで、何とか英語を勉強させて欲しいと、強引に満員御礼の英語のクラスにねじ込んだのだそうです。
現在の中国東北三省(遼寧省・吉林省・黒龍江省)はかつて満州と呼ばれていました。戦前戦中の日本の傀儡政権満州国への憎悪もあって、中国では「満洲」と言う呼び名はタブーになっています。
中国の人々の認識の中には「満洲」と言う名前は日本人がつけた名前と誤解している人さえいます。それを言うなら中華人民共和国の「人民」が日本の造語で、文明開化後「People」の訳語として作られた言葉です。
万里の長城の東の端は渤海にまで到達しています。万里の長城の北は異民族の地と漢族は線引きしていました。東北三省を「関東」と呼ぶのも、万里の長城の向こうだから「関」の東側と区別しています。
清朝を樹立したヌルハチは万里の長城の東北から来た騎馬民族で、中国の主流を成す漢民族から見れば言語も異なる異民族です。ヌルハチは女真族という民族でしたが、そのほかにも多数の民族が現在の東北三省に存在していました。これらの民族をひとまとめにして満州族と改めたのはヌルハチの後継者ホンタイジの時代でした。
「満洲」の名の由来は仏教の「文殊菩薩」です。文殊菩薩はサンスクリット語で「マンジュシュリー」といいます。この「マンジュシュリー」の音韻が漢字に当てはめられ「満洲」と言う言葉が生まれました。はじめから文殊とでもしておけばもっとわかりやすかったのに。
ロシア語で満州を「Манчжурии(マンヂューリ)」といいますし、現在もそう呼んでいます。の黒龍江省の北西部ロシア国境近くに「満州里」と言う街があります。「マンチューリ」と発音します。
なぜこの地が文殊菩薩に由来しているのか?「3人寄れば文殊の知恵」で少数民族が集まって知恵を出し合ったわけでもないみたいです。
仏教の経典の一つ「華厳経」の中では、文殊菩薩の住む場所は東北の清涼山(五台山)にあるといわれており、文殊菩薩が崇められていたようです。各部族の首長がやがて神格化されていく中でそれぞれ文殊の生まれ変わりだったり、文殊の使いであったなど文殊菩薩に関わっていたようです。
同じ騎馬民族で「元」を作ったモンゴルはチベット仏教の国です、ダライ・ラマのダライは「海」を現すモンゴル語で、内陸のモンゴルにとって海は神秘の髪の地域だったために、ラマの高僧に「ダライ」の称号を賜ったのだそうです。チベット仏教のモンゴルでも文殊菩薩は特に崇められています。
満州が差別用語のごとく扱われるのは被害妄想もいいところで、本来はもっとありがたい意味合いを込めた言葉だったわけです。異民族支配清朝への恨み、日本の傀儡政権満州国への憎しみなどもあって、特に文化大革命の時代には満州族は徹底した弾圧にさらされます。その多くは東北三省以外の地に移民させられたり、名前を漢族式に変えさせられたそうです。
現在、東北三省に住むのは漢民族がほとんどですが、満州族にすれば「侵略者」に他ならないのではないでしょうか?
実態はさておき、相手が嫌がることをしないのは礼儀ですからあえて「満洲」を使わないほうが無難でしょう。誤解している人に対しては「かわいそうな人だな」と思えばよいことです。
館林市で竜巻発生。自動車が吹き飛ばされたり、家が壊れるなどの被害が出たようです。
同じ県内でも館林と私の住むところとは北と南の両はじなので、あまり馴染みがありません。
たまたまそちらに仕事で出かけていた同級生は竜巻そのものを見ることはできなったようですが、災害後の渋滞に出くわしたそうです。まさか日本で自動車が飛ばされる竜巻など思いもよらなかったので、つぶれた自動車を見てどんな事故があったのだ?と。
局地的なゲリラ豪雨といい、今回の竜巻といい、起床の異常なのか?元々自然が持っている力なのか? 館林と言えば「ぶんぶく茶釜」の舞台です。
夜、花火大会の交通整理に出動しました。今年の持ち場は丘の上の建物が邪魔して花火がまったく見えない場所で、音だけが聞こえました。
知り合いの高校生に会ったので立ち話をしました。「おじさん、私たちが子供の頃から交通安全の仕事をしているよね。」
「子供の頃」と言われ、今でもまだ子供だろう!と言いたい思いがしました。彼女らは平成5年生まれだそうで、平成5年なんてこちらの感覚としてはつい最近です。
経済白書に「もはや戦後ではない」と言う言葉が用いられたのが1956年。終戦11年後。
「戦後」とはこの1956年までという説もあります。
偶然、高校時代の同級生に会いました。卒業して以来ですから30年近くたっていますが、それなりに歳をとっているのですぐにはわかりませんでした。
見たことがあるおじさんだな?と思い出したのが、この同級生の父親の顔。「○○君のお父さんですか?」と喉まで出掛かって、当人だとわかりました。
お互い「ふけたなぁ」と歳をとったことを再認識する思いでした。
高校時代、この同級生が怪我で入院した時に看護婦さん目当てで何回か病院に見舞いに行きましたが、彼の父親と何度か顔を合わせて面識がありました。その風貌にそっくりになっていたので面白いものです。
自分では年齢相応に風貌が変貌していることなどわからないものです。
日本をアパートの一室にたとえるなら、隣に住んでいる住民はこんな感じでしょうか?
アパート東亜荘は駅から遠い線路の側の木造2階建てのアパート。貨物電車が通ると揺れる(地震)、雨が降ると雨水は側溝からあふれて道路は川になり、玄関の土間は水浸しになる老朽アパート。
主人公の麻生(日本)は狭い四畳半のワンルームに住む主張のない独身男のサラリーマン。仕事の帰りに合コンに行っても溶け込めず、コンビニで缶ビールとポテトチップを買ってきてビデオで映画を見るのが毎日の楽しみ。アパートの店子は身勝手な連中ばかりで、自分のことしか考えていない連中ばかり。
隣の角部屋は暴対法で崩壊した元広域暴力団(ソビエト)の組長で、今はカタギになろうと表面上は株式会社を作っている社長(ロシア)が住んでおり、人はよさそうだが怒るといつぶん殴られるかわからないので要注意。主人公麻生の下駄箱の一部を不法占拠している(北方領土)が、捨ててもいいような汚いボロ靴を放り込んでいて使っている様子もない。にもかかわらず、返還する気持ちも毛頭ない。かつて、麻生の前に住んでいた住民の友人の鈴木が下駄箱帰せと乗り込んでいったが、ご馳走になって丸め込まれ「靴片足分返してお手打ち」と言う条件(二島返還優先論)を飲まされそうになったことがあります。
反対の隣角部屋には廊下や階段などの公共スペースを巡ってアパート内での争いが絶えない田舎からひと旗揚げに上京してきた愚連隊の兄ちゃん(中国)が住んでいます。留守の間に押入れの仕切りを勝手に動かして占有したり(天然ガス試掘などの問題)、炒め物料理が大好きで台所が油だらけにしゴキブリが大量繁殖して人の部屋に入り込んだり(環境問題と不法滞在外国人)の問題震源地。
上の階には一端のチンピラにもなれない部屋に引きこもったままのヤンキー(北朝鮮)が住んでおり、時々朝麻生の牛乳を盗んで(拉致)飲んでいるのもこいつらしく、薬中だとかオレオレ詐欺をやっているなどと悪い噂が耐えません。元暴力団の会社社長と、愚連隊の兄ちゃんには愛想よく時々ご馳走なってパシリになっているらしい。
同じ階にはヤンキーの親族の口うるさいおばさんが(韓国)住んでおり、元広域暴力団の社長(ロシア)や愚連隊の兄ちゃん(中国)にはとことん弱いが、その反動が弱腰のカウチポテトのサラリーマン(日本)に集中してしまい、ことあらば焼き魚の煙が臭い、テレビの音がうるさい、ゴミの収集日を守らないと自分のことを棚に上げて怒鳴り込んできます。
住民同士のトラブルがあると最終的のその矛先は麻生に向けられて、麻生をいじめることで腹いせをしている。
家賃(国連負担金)をまともに支払っているのは麻生だけのアパートですが、どうやら大家(国連)は他の店子の家賃まで麻生に上乗せして押し付けているらしく、一番狭く環境も悪い部屋なのに家賃だけはずば抜けて高い。
じつは東亜荘中心にある小泉の部屋の柱はシロアリ(官僚)に食われてスカスカになっているのですが、住人は誰も気がついておらず、この部屋がつぶれる事はつまりアパート全体が倒壊することなのに、住民は麻生が出て行ってこの部屋がなくなる事を望んでいる。
道路(太平洋)の反対側には今なお残る現役の広域暴力団事務所(USA)があり、かつては麻生のアパートの大家とは対立関係にあったものだから、つねにこちらににらみを利かせています。麻生もアパートの住民とトラブルがあるとこの広域暴力団に仲立ちを頼っているものですから、何か事を起こすたびにカツアゲのごとく麻生は金をせびられる。対立する抗争相手(アラブ)と出入りをするのは勝手だが、その後始末に麻生も引き込まれたがために、駅からの帰り道に抗争相手の残党らしき人影が麻生の後をくっついてくると怯えなければならなくなった。
などと想定すると「不謹慎だ」とおしかりを受けそうです。日本人を営むことは本当は大変なことなのですが、諸外国の皆様にはなかなかわかってもらえません。それでも、開き直って明るく元気に暮らしましょう。
梅雨明け宣言から10日ほど過ぎましたが、梅雨空のような曇り空です。
湿った日が続くためか、昔の柔道での怪我のあとが痛みます。スポーツなんぞやるべきではなかったと、こういうときになっては後悔しています。
商業雑誌か何かの撮影の現場に出くわしました。スティールカメラでモデルさんを写すロケでしたが、アシスタント数人がカメラの設置から場所作りまでやって、「先生」と呼ばれるカメラマンはただシャッターを押すだけに見えました。女優の小雪の身長を低くしたような女性がポーズを取っていました。。
が、私がモデルだと思っていたのはたぶんスタイリストとよばれるスタッフで、カメラのリハーサルのようなことをやっていたようです。
道路わきに停まっていたマイクロバスから、付き人が日傘で覆うように出てきたのがこれでもか!と厚化粧をした本番のモデルさんで、ポーズを変える度にスタイリストが服装の手直しをして、メーク係が化粧を直していました。
個人的にはリハーサルでポーズをとっていたスタッフの女性のほうがきれいに見えましたが、写真移りは違うのでしょうね。
大掛かりな撮影だなと遠巻きに眺めていましたが、何の商品のコマーシャル写真なのかはわかりませんでした。
「曇ってますねぇ。」「雨降ってきましたよ。」「雲で隠れてうす暗いのですかね?それとも月の影になっているんでしょうか?」「なんか、とうに月食の時間は過ぎているような気がしますけど・・・」
結局、雲に隠れて日食のかけらも見られませんでした。
次回は2035年、それまで生きているだろうか?
昔、雪山に登山に行って雪洞を掘って寝て、朝目が覚めて、朝食を食べていたらどう考えても西と思える方角に朝日が沈んでいく光景を目にしました。12時間余計に寝てしまったのですが、それを認めたくないものですから「きっと天変地異が起きたに違いない。そうだ、そうにきまっている!」と慌てて下山してきたことがありました。
陽はまた昇る。
文化大革命の時代(1966~76年)この小冊子を持った若者たちが紅衛兵となって「造反有理(造反するには理由がある)」「革命無罪(革命のためなら罪は問われない)」と破壊の限りをつくしました。
主にターゲットにされたのは学校教員や医者などで、壇上につるし上げられ、党の代表がこの手帳をかざして自白を強要し、そのほとんどはでっち上げの冤罪でした。
もちろんこのバッジは毛沢東バッジで、金日成バッジではありません。「燃えよデブゴン」のサモハン・キンポーのような顔したおじさんが毛沢東です。
毛沢東語録は骨董品店などに行くと二束三文で売っていますが、買うのは外国人くらいのものです。
毛沢東が言うことを党の青年部と紅衛兵が勝手に自分に都合よく解釈し、「反革命分子」を作り上げました。
生き残るためには他人はもちろん、自分の家族まで密告して罪に陥れるという、非情がまかり通ったのが文化大革命の時代でした。
中国の伝統的な家族意識まで根底から崩壊させられ、ただただ破壊に費やした10年間を中国人民は経験しています。
今、毛沢東に踊らされた子供たちの2世の世代が、中国の経済的繁栄の牽引をしています。日本に住む留学生や研修生が親の世代を蔑む言葉をよく耳にします。
文化大革命は愚民化政策のようなものだったので、この時代に「模範」とされた人々は字も読めず自ら考えることもできない、現代では使い道のない人々を産出してしまいました。
このおじさんが中国人民を飢餓と貧困の恐怖のどん底に叩き込みました。
まだ威厳が生きているので各地に銅像や肖像が掲げられています。
良くも悪くも人民中国の象徴なので、腹のそこではうんざりしながらも、表面的には足蹴にできないジレンマが中国の人々にはあります。
毛沢東時代に行われた悪行の数々が日本軍の所業に転化されてしまっている物もしばしばあります。
赤い表紙の小冊子は40代以上の世代には自分たちの人生を否定される「踏み絵」のようなものかもしれません。くれぐれも酔っ払ってこの小冊子振り回して「造反有理!」「革命無罪!」などとやらないように。生命が脅かされますぞ!
「大地の子」では内蒙古の労働思想改造所に送られた陸一心が、日本帰りの華僑青年黄書海に日本語を教わり、禁じられていた日本語(ひらがな)を毛沢東語録のカバーの下に書いてしまったがために危うく死刑になりそうになりかけます。
これは陸一心が労働思想改造所で持っていた毛沢東語録・・・なわけないでしょう。私が書いたものです。それにしても汚ねえ時だな。
私たち戦後世代の日本人が、太平洋戦争についてあれこれ言われると気分良くないように、彼らにとっても文化大革命は同じようなものなので、揚げ足取りのようにつついて不快感を与える必要もないでしょう。これも礼儀の一つだと思います。
歴史も然り、人生も然り、過ちや恥ずかしい繰り返しをしながら育っていくものです。大切なのは過ちを正しながら良い将来へ向けて努力する姿勢だと思います。
イタリアのベルルスコーニ首相。今度は売春婦との問題で騒がれています。
つい先日まではナポリG8サミットのホストイタリア首相ですが、違う方面のホストもなさっているようで・・・72歳にして元気でなにより???
皆既日食は22日でしたが、何を勘違いしたか、今日と思い込んでいて、関東でも多少は部分日食が見られるだろうと用意をして待っていましたが、日食の時間になっても何の変化もなく「やっぱり関東では緯度が北過ぎるのか?」と、しばらく空を眺めていました。22日の11時ごろですね。せっかく期待していたのに前倒しで日食はありませんでした。
昨年の皆既日食。ノボシビルスクものです。
ヒ素カレー事件の林被告の死刑が確定しました。事件から10年以上も経過しています。知人宅のテレビでそのニュースを見て、 「やっぱ、毒入りカレーを食わせて執行するのかな?」などと話しましたが、「意味のわからない事件だったよなぁ。」
なぜあの事件が起きたのか?人間関係というのか、人付き合いの問題からなんでしょうが、こうした猟奇的な事件を社会問題にされると、責任が曖昧になります。
そういえばヒ素カレー事件が騒がれた頃、この知人宅の奥さん(フィリピン人)が、ニュースで「林被告は容疑を否認しています。」というアナウンサーの言葉を聞いて、「そうだよね。あんなところで子供ができたら大変だよね。」と「否認」と「避妊」を勘違いしたボケをかまして、「まだまだ日本語の難しさがわかっていないなぁ」と大笑いしたものですが、その奥さんも今や日本国籍を取っています。
毒物と言えば、この家の子供が小学校の夏休みの宿題で昆虫の観察をするために、蝶の幼虫の青虫を捕まえてきて飼育したことがありました。餌はキャベツの葉などを使っていましたが、街に出たときに安い中国産野菜を買ってきて、外側の食べられない部分を青虫の餌に入れておいたら、翌朝青虫が全滅していたことがあったそうです。残留農薬でしょう。
中国産冷凍食品などの事件があった時に「起きて当たり前」と感じたそうです。確か、パナマでは300名を越える不快な死亡事故が相次ぎ、原因を探ったら中国産のインスタントラーメンだったと言う事件もありました。
私の山岳会の先輩は、チェコでの消防団のオリンピックを視察するために今日成田から出発しました。消防団と言っても日本で言うならボーイスカウト、共産圏ならコムソモリスクのピオネールと呼ばれる子供達がやっていた消防活動。日本からは長崎の少年消防団が参加するそうです。
火事と言えば、初めてウラジオストクに行ったとき、飛行機が着陸態勢に入って窓の外に広がっていたのが牧草地の野火。最初は「野焼きかな」と思って眺めていましたが、農民達が多数集まって火を消していました。消防車らしきものは見えませんでした。
ロシア人の兵役逃れではありませんが、どうやって消防団の誘いから逃れるかが地元の若い衆の気がかりで、ロシアの兵役なら27歳まで逃げ切れればお役ごめんですが、田舎の消防団など四十台半ばまで安穏としていられない。
私など交通指導員から誘いがあった時に「渡りに船」とばかりに消防団から足抜けしましたが、これはこれで結構大変な役回り。今週のように交通安全週間の最中は毎朝子供達の通学に立ち会わなければなりません。
私たちが子供の頃通学途中で恐かったのはクマで、いつのまにかそれが自動車になったと思ったら、最近は「人」なんだそうで、不振な人物を見かけたら要注意。
先週は手押し車を押して新潟方面に向かって歩いていホームレス風の人物を見かけたので”もしかしたら著名な画家かもしれない”と気を張っていました。
どうやら1-2日で峠を越えて新潟方面に行った模様です。
関係ないけど、
Лесной олень (森の鹿)
恋に焦がれて鳴く鳥よりも 鳴かぬ蛍が身をこがす ツンテシャン チントンシャン
粋な都都逸巷に流れ、どうやら今宵はドイツの話題。 チン ポンテシャン。
今を去ること明治の昔、石見の国。今で言うなら島根県、津和野出身の才気あふれる若者がドイツに国費留学生として派遣されました。その名は森林太郎。後に知られる文豪森鴎外であります。鴎外と言えば「舞姫」
踊り子エリスは父親に死なれ葬式を出す金がなく途方にくれていると、たまたまそこを通りがかった日本人留学生の軍医太田豊太郎に声をかけられます。
「なにゆゑに泣きたまふか。ところに係累なき外人は、かへりて力を貸しやすきこともあらん。」それに対して彼女は「我を救ひたまへ、君。わが恥なき人とならんを。母はわが彼の言葉に従はねばとて、我を打ちき。父は死にたり。明日は葬らではかなはぬに、家に一銭の貯へだになし。」と答えるのですが、もちろんこんな日本人でもわからない古の言葉で語り合ったわけではありません。ドイツ語だったのでしょう。
チン ポテ ツンテシャン 嫌なお方の親切よりも、好いたお人の無理が良い
いつの時代もどこの国でも札束に物を言わせる馬鹿な男はいるものです。父親の葬式を出す金がなくて途方にくれる舞姫エリス。
葬式のお金を劇場主に前借できないか相談したところ、詰る話が劇場主の愛人になれば出してやる、と、現代のセクハラ問題を突きつけられて悩んでいたことを知った太田豊太郎は、小額の現金しか持ち合わせていなかったので、自分の懐中時計を彼女に手渡し、「これを質屋に入れて急場のお金をこしらえなさい。後で質札を持ってきてくれればいいですから。」と、ここからエリスとの付き合いが始まるわけです。
コンビニの駐車場でケツ半分出してナンパしている若造とは随分違う。
物語はその後のエリスと豊太郎が過ごした日々や、豊太郎と陸軍から派遣されてきた大尉との確執などが紹介され、最後は美しく豊太郎が日本に去っていくのですが、現実はもっと泥臭い。後日談もあるそうです。
そこで都都逸 逢うて別れて 別れて逢うて 末は野の風 秋の風 一期一会の別れかな 井伊直弼の都都逸。
舞姫エリスのモデルとなった女性がいたことも事実だそうで、後日談として、留学期間を終了した林太郎が日本に帰国した後、その女性が日本まで遠路はるばる追いかけてきましたが、津和野の旧家の森家がそれを良しとせず、彼女は泣く泣くドイツに帰ったそうです。
ツン ツンテントントンシャン 惚れて通えば 千里も一里 逢えずに帰れば また千里
現代にも通じる国際男女問題を100年以上前にすでにやらかしていたわけで、一般の国民とはかけ離れたごく一部のエリートの華々しい世界での物語なので読者には夢物語にしか見えなかったのでしょうが、はたして今のご時世にこの「舞姫」が上梓されていたら、反響どころか非難の嵐にさらせれることでしょう。
トンテンカトンテツントシャン 浮名立ちゃ それも困るが世間の人に 知らせないのも惜しい仲
すぐに報道番組の今週の特集などで取り上げられ、エリスが泣きの涙で「私はピー!(実名の部分にかぶせられる防御音)さんが言うことを信じていたから日本まで来ました。…はい、津和野のピー!さんの実家にも電車を何回も乗り継いで行ってきました。ピー!さんは私に会おうともせず、母親が出てきて門前払いされました。」
そんでもって都都逸 諦めましたよ、どう諦めた、諦めきれぬと諦めた ツンテシャン トンテシャン
取材陣がようやく鴎外を捕まえ、モザイクがかかった画面に声も機械的に変えて「お互い大人なんだから合意の上での出会いでしょう。いまさら日本にまで押しかけられても…どうにもなりませんよ。」などというインタビューを映した後、キャスターがしかめっ面で「海外出張のエリートサラリーマンが招いた旅の恥は書き捨てという安易な行動が生んだ悲劇…」というような批評を一発入れてから「それでは各地の天気予報です。」というパターンが丸見えです。
切れてくれなら切れてもやろう、逢わぬ昔に、して返せ ツントテチントシャントシャン
火遊びはほどほどに粋な暑い夏をお過ごしませ。
産婦人科病院で新生児の取り違い。一人は恵まれた家庭へ、一人は不幸な家庭へ取り違えたまま育てられる。よくドラマなどであるパターンですが、中国でも実際に同じような事件があったそうです。(あっても珍しくないような管理能力ですが・・・)
同じ日に3人の子供が生まれ、二人は双子で農家の息子達、一人は勤め人の都市在住者の息子だったそうですが、どういうわけか都市在住者の息子が双子の片割れとして引き取られ、双子の一人が間違われて都市の両親の元に引き取られるミスがありました。
20年が過ぎ、当然、双子は似ていません。双子のはずなのに、一人は背も高い美男子、もう一人はズングリしたブ男。
双子は貧しい農村で苦労して育ちますが、間違われて引き取られた双子の片割れは都市の金持ちの家庭で恵まれた育ち方をします。
ある日、この双子の近所の人が街に出て、この双子の片方によく似た青年を見かけ、かねてより自分の子供が双子なのに似ていないことを気にしていた農村の両親は、双子に良く似た青年を街に探しにいきます。
街で見かけた青年は美男子のほうに似ていたのですが、この両親が執念で探し当てます。20年以上の歳月を経て子供の取り違えがあったことに気がついたわけですが、もとの親の元に戻ったかと言うと、当然恵まれた家庭で育った双子の片割れが、貧しい農村の親の元になど行きたがるはずもありません。
間違えて貧しい農村で育ったブサイクな金持ちの息子は「今さらどうでもいい」と本当の親のところには戻らなかったそうです。