吉野家の牛丼280円に値下げとコマーシャルをやっていたので、沼田の吉野家に足を運んだらすでにつぶれて閉鎖されていました。
次に近い吉野家は渋川なので、1時間もかけて食べに行くほどのものではありません。だいたい、元が取れない。
思い起こしてみれば都会に出ると牛丼を食べたものですが、近場の沼田に牛丼店ができたころにはすっかり足が遠のいていました。いつごろから足が遠のいたのか?と思い越せば狂牛病騒ぎで輸入牛肉の規制が始まったころで、その頃はまだ近隣に牛丼屋などなかったし、たまたまお江戸に出たときにはすでに牛丼がメニューから消えていました。
ところで、いつごろから牛丼を食べるようになったのかと思い返すと、初めて牛丼を食べたのは高校3年生のときで、もちろんそれまでに♪ここは吉野家・・・牛丼一筋80年♪のコマーシャルなどで存在は知っていましたがお目にかかったことはありんませんでした。
高校生の時に早稲田大学の受験の下見に行った時に高田馬場の駅から交差点をわたり地下鉄東西線の駅に入れる階段があるビルで2階がムトウ楽器で名店街と言ったっけかな?その地下一階に食堂のスペースがあり、そこに牛めしの松屋がありました。
カウンターの小さな店で背後には回転寿司、あと札幌ラーメンの店があったな。店内の真ん中にはエルムというカレーとスパゲティーだけの店で、人生に疲れたような親子が同じメニューだけを作っていました。
こうした食堂街なので、たびたび店は変わりましたが、このカレー店だけは平成まで残っていたと思います。今はどうなっているのだろう?
そんなわけで初めての牛丼は松屋でした。その後に早稲田通りにあった吉野家を体験することになるのですが、程なく吉野家が倒産。海外進出がアダになったそうで、われわれの間ではインドに進出して失敗したのでは?なんて語られていました。
中島みゆきの「狼になりたい」では「吉野屋」と言う名で夜明け間じかの牛丼屋が出てきますが、これが新宿の青梅街道のガードをくぐってすぐの牛丼屋だというので行ってみたら松屋でした。
昭和50年代ですから女性が牛丼屋に足を運ぶことは少なかったと思うのですが、そう言いつつもほとんど女性客を見なかったですね。あの頃は。
今でこそメニューの豊富なすき家が台頭してきていますが、私の中での牛丼屋は松屋と吉野家でした。値段は2-30円高いけど松屋は味噌汁が付いていたので、こちらに行くことが多かったのですが、名店街の松屋はやがて閉店。末期の頃のこの店の牛丼はひどいもので、肉は脂身ばかりでよく煮えていないたまねぎばかりが多かった。
この閉店と重なるように栄通りかその隣の通りに松屋がオープンし、今に通じる券売機で食券を買って注文するスタイルになっていました。
理工学部はビッグボックスから右のほうへ店もろくにない殺風景な坂道を登っていくので、メインストリートにある吉野家はほとんど無縁でした。
今のようにラーメン屋の激戦区でもありませんでした、食事も学食か、駅の周辺しか行かなかったので、松屋の牛丼でさえ高額な食べ物でしたが、大戸屋という定食屋があってここは安いのでよく行きました。
そう言えばあの時代は変な居酒屋もずいぶんありましたね。何杯呑んでも決して酔わないチューハイを出す店があって。酔っ払わないけれど腕の内側に赤い斑点が出てくるんです。
メザシのように細く小さなシシャモ。どうすればこれだけ薄く作れるのかそちらの技術を褒めたい紙切れのような油揚げ。タバコを1割り増しでばら売りするタバコ屋の婆さん。
貧乏学生相手に中国並みのビジネスが成り立っていた学生街だったんですね。よく五体満足で抜け出てきたもんです。
安けりゃいいのか?値段がすべてさの人生だったので、2%ターゲットインフレに逆行する吉野家の決断。大いに結構じゃありませんか。