のすたる爺や

文明の果てなる地からのメッセージ

大晦日もおでんです

2015年12月31日 | 日記・エッセイ・コラム

 除夜の鐘 ききつ夜逃げの 我が家かな

 今年も終わりです。心豊かに一年を見送って、心新たに新年を迎えたいですね。

 井戸は車にて綱の長さ十二尋 勝手は北向きにて師走の空から風ひゆうひゆうと吹き抜けの寒さ

 今日は財布の中に見当たらない樋口一葉の「大つごもり」です。奉公に出された少女お峰が大晦日の日にちょっとお店のお金をくすねてしまう。それも彼女の親が借金を返さなければならなかったからで。そのことで罪の意識にさいなまれておどおどしていると、この店の道楽息子石之助が遊ぶ金欲しさにひきだしの中にあったお金を丸ごと持って行ってしまい、お峰がくすねた金もみんなこの石之助の犯罪になってしまった。ざっとこんな話です。

 大晦日の「大つごもり」読もうと毎年用意していたんですが、なかなかタイミングが合わなくて、久々に今年は読むことができました。

 今の東京の台東区本郷界隈が樋口一葉の生活圏でしたが、近くに目障りな東京大学があったりでなかなか足を運ぶ機会がありませんでした。「たけくらべ」の舞台となった吉原遊郭付近もいかがわしいお風呂地帯で、朝顔市でもなければちょいと足を踏みこむのもためらわれてしまいます。

 ツィードのジャケット羽織って黒い革靴履いて、レンジファインダーのカメラに白黒フィルム入れて、本郷界隈の歴史探訪してみたいなと思っているので11月23日の一葉の命日に行こうかと思っていたのですが、今年もかないませんでした。夏目漱石までは手が届くのですが、樋口一葉はちょっと敷居が高い。福沢諭吉に至っては畏れ多い。アベノミクスの経済効果はまだまだですね。

 どこぞの半島では醜悪なキムヨナ像を撤去するしないで悶着しているようですが、胸像はその人の偉業をたたえたり自らの戒めのために作るものであるのですから、いまだにコリアン売春婦が飛び交う上野や新大久保のコリアンタウンに移転されたらいかがでしょうか?いっそのことお札の肖像画に使って「あれは民間団体がやっていることで、ウリナラ政府には関係がないニダ」など、連中ならまかり通る理論ですね。

 無粋なことはやめとこう。

 来年の某国営放送局の大河ドラマは真田が取り上げられるとかで、狸の皮算用が始めっています。北条が真田の出城を攻め込んで秀吉に口実を与えて後北条滅亡のきっかけになった名胡桃城の第一期改修工事が終了しました。 年内に終わらせなければならないとかで、年末は大忙しだったみたいです。

 大河ドラマで主演を務める半沢直樹の役者をこちらに呼ぼうと郷土史の方々が動いています。できれば奥さんの菅野美穂も呼んでもらえると嬉しいです!

 小松姫の役を吉田羊がやるので、多分沼田に来るんでしょう。ドラマには関係ないけれど、沢口靖子にも来てほしい。

 今年の大河ドラマは大こけだったみたいで、今でいうなら群馬県初代県知事になった人物なんだけど知名度が低かったからですかね?

 女性を主役にしたいなら応仁の乱を起こした日野富子とか、皇室に無礼がなければ持統天皇とか、大物はたくさんいるんですけどねぇ。

 ここから利根川をはさんだ対岸の沼田城ににらみを利かせていましたが、後北条が滅亡し真田が沼田城の城主となります。

 沼田城に移った真田も五代目で滅びてしまいます。

 一年もいよいよ終わりです。おせちと言うわけではありませんが、きんぴらごぼうとおでんを作りました。年の瀬閉店セールで練り物具材が半額でした。

 きんぴらごぼうは年越しそばに添えて食べようと作りましたが、大晦日とは関係ないおでんは、前回寒い中食べてしくじったので今回は温かい部屋の中で食べようという計画と、正月中、具材を足して食べようという長期計画。そして、年越しそばの汁をおでんの煮ダシにして、茹でた蕎麦にきんぴらごぼうを乗っけて「いい年でした」と見送ろうかと思っています。今回は赤ん坊背負った屋台のおやじの出番はありません。

 昨年の冬と言っても、一昨年の冬と言った方が感覚的に近いのかな?父がよくおでんを作っていました。煮汁に醤油や砂糖を足して里芋の煮っ転がしや、煮魚などを作るだしのベースにしていたんですね。主に、具は私が食べて汁を父が別の煮ものに使っていました。昨年末に父が亡くなりこの冬は一度もおでんを作ることがなかったのですが、ストーブの熱があるうちはちょくちょく作って煮汁を楽しもうかと思っています。

 お江戸方面ではよく使う「ちくわぶ」と言う具材を試してみました。本物のちくわは魚を使っていますが、ちくわぶは小麦粉です。なかなか味が沁み込まないので一晩寝かしたほうがいい味になるのかな?

 土佐の高知のはりまや橋の近くで食べたおでんにはタコが入っていて驚きましたが、季節がラスーパーに並んでいるのは酢蛸ばかりで生のタコ、高いのよ。で、はんぺん買ってきました。サメの肉使ってるんですね。

 いろいろ異なる具材で出るダシの複雑なこと。人間社会みたいです。たしかにダシ吸っているだけで自らなにも出てこない奴もいますが、これもまたおでんの花。

 ってなところで、良いお年をお迎えください。

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読書三昧の年末

2015年12月30日 | 日記・エッセイ・コラム

 体調の問題もありこの年末年始はスキー場に行かないので、読書を主体として過ごすことにしています。

 このところテロリズムできな臭いフランス情勢ですが、断片的にしか読み返していなかったフランス革命を描いた歴史叙事詩「ベルサイユのばら」を一気に読みかえすことができました。考えてみればフランス革命の市民蜂起だって一種のテロリズムだったんですが、あれって失敗していれば一揆でしたね。

 一方的に人権を虐げられた民衆が言論の機会も与えられず、最後の主張の手段として起こすテロはありなんじゃないかって思うんですよ。さしずめ、現在のウイグルやチベット当たりなど中国共産党にとってはテロかもしれないけれど、一方的に人権を踏みつけているのですからありなんじゃないですか?

 もっと大きく解釈すれば、太平洋戦争だって欧米の植民地主義に対する黄色人種のテロだったのかもしれませんよ。戦後、戦勝国が実に巧妙に自分たちの立ち位置をすり替えただけのことで、ヨーロッパにおけるドイツだって第一次大戦の敗戦国として法外な戦後賠償を貸せられていなければ国民がナチスを選ぶこともなかったんでしょう。

 昨今のフランスでの爆破テロだってよくよく考えてみればイスラム側にも一理あるんですが、大義とはなりえない。だいたい、何を求めているのか主張もあいまいなまま行動だけが先行している。そもそも元になる国が分裂して内ゲバやっているんだからどっかの国の連合赤軍事件みたいじゃありませんか。

 サッダーム・フセインだってアルカイーダのウサマ・ビン・ラディンだって指導者として名前も顔も出しているけれど、ISISはそれさえ出てこない。何を目的としているのかわからないこういうあいまいな連中って嫌ですね。オスカルだって「私に続け!」と武装市民率いて先頭に立って撃ち殺されてしまうから正当化されたんで、地下の下水道にこもって画策している参謀だったら宝塚だって取り上げなかったでしょう。

 オスカルが男装の令嬢だからかっこいいけれど、もし女装の男性だったらフランスの歴史はどう変わっただろう?結構手ごわいフランスになっていたかもしれません。女装の男性を演じる宝塚スター。この非常に複雑な役どころを安奈淳や汀夏子はどう演じただろう?最初にベルバラの演技指導をした長谷川一夫は女形の歌舞伎役者だったので、初代オスカルの榛名由梨は女性より女性らしい男役になれたかもしれない。

 同世代のオスカルと言えば涼風真世でしたね。宝塚の方々の歌って、発声や発音に気遣いすぎるのか?妙に不自然で微妙に音程が外れて聴きにくい唄い方をするのですが、涼風真世の歌って聴きやすかったんです。天海祐希世代になってしまうと自分より若い世代なので、ちょっと見え方が違ってしまう。やっぱ涼風真世ですね。

 何かのテレビ番組で映画「旅情」の「Summertime In Venice」を歌っていましたが、あれは素敵でした。ロッサノ・ブラッツィの歌よりわかりやすかったです。日本語の歌詞でしたから。

 子供の頃テレビだと思うけど「旅情」を見た記憶があります。イタリアのベニスが舞台の映画ですが、いきなりロンドンやエッフェル塔が出てくるので、これが全部ベニスにあるもんだと勘違いしていました。20代になって名画座で見てどっぷりつかってしまいました。

 1955年の作品で同じイタリアを舞台とした「ローマの休日(1953年)」と近い年代に作られた映画なんですが、方や、オードリー・ヘップバーン、方やキャサリン・ヘップバーン。どちらもヘボンさんですね。「ローマの休日」は王女様の休日、「旅情」は今でいうならOLが海外旅行する物語なんですけど、キャサリン・ヘップバーンが手にしているカメラが興味深かった。丸い円盤にレンズが三つくっついているカメラで、今ならズームレンズ一本で事足りるのですが、レンズをくるりと回して望遠にしたり広角にするカメラでした。

 イタリア映画は何方かと言うと暗い感じがするのですが、英米人が描くイタリアは同じ敗戦国なのにイタリアが裕福で優雅に見えて、南国特有の明るさもあったんでしょうが、ゲーテに「君よ知るや南の国」と言わしめるゆえんを感じたもんです。

 「ローマの休日」では音楽が浮かんでこないけれど、「旅情」は「Summertime In Venice」が浮かんできます。

 そんなわけでイタリア気分になったのでスパゲティーを作ることにしました。

 スパゲティーは元々ニーハオのラーメンがシルクロードを伝わってイタリアに渡り、原材料の質の違いなどからニーハオ麺とは異質の麺になったと言われています。それなら原点に立ち戻ろうじゃないかと、炒飯風味付けでチャーゲッティーにしました。刻み葱を油で炒めてハムと玉子を加え、玉子がほどほどスクランブル状になったら茹でたパスタを加えて、塩コショウで味付け。後に醤油を入れるから塩は控えめに。

 醤油は4-5回に分けて風味付けします。醤油炒飯の時もここんところポイントで、醤油は少しづつ分けてですよ。最後はゴマ油で風味付けがいいのですが、今回はおろしにんにくを少々。スパゲティーはにんにくを入れるとかなり雑な味付けしても食えるもんです。

 閑話休題。毎度話は飛んでしまいましたが、本屋に注文していたKCコミックの「レッド(1969~1972)」が届きました。横浜国大や東京水産大を中心にした京浜安保共闘と呼ばれた日本共産党(革命左派)神奈川委員会が、同志社を拠点とする共産主義者同盟赤軍派と合流し、連合赤軍として山岳ベース事件を経て浅間山荘事件を起こすまでのドキュメンタリのような漫画です。イブニングと言う雑誌に連載されているマンガで、書籍化されたことを友人が紹介してくれました。先日紹介した迦葉山ベースでのリンチ殺人事件まではまだ本になっていませんが、榛名山ベースでのリンチ殺人が始まるあたりまで書籍化されています。

 個人名は山の名前に変えられていて固有名詞などは黒塗りになっていますが、ちょっと調べればすぐにわかります。何より面白い描き方はこの事件で亡くなった人物の絵には殺害された順番の番号がふられていて、殺された連中がどんなことをやっていたのかなどもわかりやすい描き方になっています。

 興味深いのは当時この運動に関わって、のうのうと娑婆に出てきた連中のインタビューなどもあり、かなり信ぴょう性の高いマンガになっていることなどもわかります。

 マンガと言っても大変読みごたえがありそうなので、これからじっくり読もうと思っています。

 社会主義共産主義運動とは一歩距離を置いたこの時代の学生達はどうしていたのか?

 やはり脳裏を離れないのは全共闘の嵐が吹きまくっていた京都で大学生営んでいた高野悦子の「二十歳の原点(にじゅっさいのげんてん)」。1969年1月2日から自殺する1969年6月22日までの日記で、連合赤軍が事件を起こしていた1971年に出版されています。連合赤軍で事件を起こした連中と同世代の女学生ですね。

 私が高校生の頃には人気があった本ですが、手にしたのは19歳の時、古本屋の段ボールの30円コーナーに積まれていました。その前に原口統三の「二十歳のエチュード」を読んで衝撃を受けたんです。「難しくて何書いているのかわかんねぇ!」

 この歳に読んで「わかんねぇ!」と唖然としたウィルヘルム・ライヒの「性と文化の革命」と並んで基礎知識の欠落を痛感しましたが、原口統三には自分と同年代の学生がこんな無駄に難しいことを考えていたのか?と旧制高校の恐ろしさを感じました。

 原口統三が傾倒していたアルチュール・ランボーなどいまだにどこがいいのかわからないけれど、私の身近では酔っ払うとわけのわからないことを言いだすアル中の詩人が時折暴れるので、アルチューノ・ランボーとか、酔っ払ってみんなに迷惑かけるから「みなにらんぼう」なんて名前だけは残っています。

 まぁ、あれよ、あんなもん二十歳かそこらで世の中わかり切ったような気になっている甘っちょろい若造の自己満足よ。と、この歳なると言えますが、あの当時は自分の力のなさに打ちのめされました。

 そんなわけで「二十歳の原点」は自分が20歳になったら読もうと決めて机の上に積んでおいたのですが、読みはじめたら二十歳の感性にビンビン響くんですよ。「独りであること未熟であることこれが私の二十歳の原点である」ここでドカーンときましたね。ある意味正常な学生だとおもんだけど、周りが学生運動やっているようなあんな時代です。彼らとは一歩離れている自分が置かれている立場に悩むんですね。その未熟さがビンビン響くんですよ。若くて未熟なんだけど未熟なりに一生懸命何か訴えようとしている。太宰治にもそんなところを感じるんですが、未熟者同士その健気さが自分とかぶるのね。

 今の時代もこの年代の人たちの目には「夢がない時代」に映るのかもしれないけれど、何をしたいのかわからないもどかしさはこの世代の特権かもしれませんね。いろいろ娑婆が見えるようになってくるから迷いますよ。迷うと言うことは複数の答えが見えているからで、むしろ、迷いなく共産主義革命に突き進んでいった連中の方がよっぽど無知で浅はかだったのかもしれない。

 ミーハーだから感動のあまり京都に行っちゃいましたからね。高野悦子が通っていた立命館大学見てきたり、電車に飛び込んだ場所に行ったら花束がありました。読者が来ていたんですね。高野悦子が良く足を運んだシアンクレールと言うジャズ喫茶も探してみましたが、見つからなかった。見つかったらMJQ聴きたいなと思っていたのですが。店の名前がしゃれていますよね。

 十数年前にバイクで栃木に行って西那須野の駅に近い宗源寺と言うお寺から少し離れた高野悦子のお墓参りに行ったことがあります。代々院号がついていましたからいい御家庭のお生まれのようです。

 平成になってからも青春の蹉跌に陥ってる参拝者が結構いるんですよ。こんなの採用する企業なんかないよなと思える幽霊のようなおねえちゃんや、こいつ絶対もてないぜ女の子と交際したことなんかないんじゃないか?と一目でわかるネクラなにいちゃんとか、さも悩み事抱えていそうだけど悩む前に体動かせ行動しろ馬鹿は頭で考えるな!と言いたくなるような若者ばかりで、まぁ、こりゃ将来期待できそうにないなと思えてならない若者達だからあんまり健康そうなやつはいなかったですね。

 50過ぎて読み返してみても、あの時代に読んでおいてよかったなと甘酸っぱいのか苦いのか?割り切れない苛立ちの感覚が甦ってきます。文字ばかりで絵のない本もいいもんです。

 旅に出よう テントとシュラフの入ったザックをしょい ポケットには1箱の煙草と笛をもち 旅に出よう

 今でもマイルドセブンとクマよけの笛もって山に行ってます。非常食のカロリーメイトも必需品です。

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赤ちょうちんに誘われて

2015年12月29日 | 日記・エッセイ・コラム

 さぁ、今年も残すところ3日となりました。こうやって残りの日数を数えることを「数え日」と呼ぶんだそうです。

 消防団の夜警が始まったので、若い衆に差し入れのためにおでんを作って持って行きました。元々おでんの具材でだしが出るのですが、今回は四国風イリコダシでベースを作って練りものを多めにして、牛筋の煮込みを入れてやったらいい出汁ができたんですよ。

 自分が食べる分だけ別の鍋に移して大鍋は消防小屋に持って行ったんですけど、ダイコンと玉子は味見で先に食べてしまいました。

 ♪覚えてますか 寒い夜 赤ちょうちんに誘われて おでんをたくさん買いましたぁ~♪

 おでんと言えばおじさん世代にはかぐや姫の赤ちょうちんですね。銭湯の帰り、半纏来て同棲相手と「ちょっとおでんでも食べて行こうか。バイトの金入ったんだ。」なんてね。ただれた青春群像を実践してみたかったんだけど現実は厳しいからね。相手もいなかったし金もない。何よりアパートの周りに赤ちょうちんもなかった。

 中高年のおっさんがスポーツカーに乗って、若かった頃に届かなかった憧れを手にしたような気になる、そんなささいな満足なんですよ。赤ちょうちんのおでん。

 そんなわけで、近くの共同浴場の温泉で温まって、その帰り道におでん屋に寄って甦る70年代の歪んだ青春群像を再現しようじゃねぇか!と、玄関に折り畳みのテーブルとカセットガスコンロとおでんの鍋とラジカセ用意して、風呂に行ってきてから玄関前にセットしてね。赤ちょうちんなんて持っていないからお祭り用の提灯で、じゃあ雰囲気ないから、交通整理の赤い光のLEDの誘導灯立ててそれっぽい雰囲気作って。

 おでん屋のおやじもいたほうがリアルでいいんじゃないかって、できればこのおでん屋のおやじも情けない人生歩んでいた方が味があって絵になりますわな。女房に逃げられて赤ん坊背負ってこの寒空の下でおでん屋やっているなんて、高度経済成長の足音がそこまで来ているのに戦後を引きずってもがいている60年代のレトロな香り漂ってさらにいい味わいでしょう。

 5歳の頃だったけかな。父と沼田市に行って、立ち飲みのおでん屋みたいな店があったんですよ。今頃の季節かな?雪はなかったけれど寒い日でもう暗くなっていた。当時のおでんは串が刺さっているのがお決まりで、立ち飲みのカウンターだから私の頭上にそれがあったんですが、串の刺さったちくわを食べた記憶があります。鍛冶町と言う職人街で、左官屋さんか大工さんか職人姿のおやじさんが隣で飲んでいて、そのおじさんの背後に暖簾があったんですが、娑婆との境界はその暖簾だけで扉も壁もない吹き曝し。身長が低かった私には暖簾の外が見えるんです。

 私より1-2歳年下と思える女の子がいて、その子の手を握ったおなかの大きなお母さんが外に立っていたんです。きっとこのおじさんの奥さんなんだろうな。と察しましたが、亭主が飲み終わるのを待っていたんでしょうね。父親と一緒に暖簾の内側にいる自分が妙に申し訳なく思えて、その子の視線を避けるようにちくわを食べた感覚がいまだにあるんですね。

 まあ、いろいろな童話が頭の中にたたき込まれていた子供でしたから余計なことが思い浮かぶんですよ。「このお母さんはままははだろうか?」って考えた記憶も残っていますが、継母の意味が解ったのは数年後です。きっともらわれてきた不幸な女の子なんだろうとか、このおじさんはこの子を働かせて酒を飲んでいる悪い人に違いない。だとか、余計な詮索はなはだしいのですが、心苦しい思いがしたものです。

 赤ちょうちんや居酒屋の退廃的な雰囲気にすごく惹かれるんですが、幼児体験からなのか?なんだか人生劇場見せられそうでそれが重すぎて立ち入れないんですよ。居酒屋は10代の頃に読んだエミール・ゾラの「居酒屋」の自堕落なイメージもあるんですけどね。

 まあ、そんなわけで一人で赤ちょうちんごっこやっていれば人様の人生に関与しなくっていいんじゃねえのかって。

 「何か適当なところ一皿。それと牛乳熱燗で。」って注文しても、おでん屋のおやじは基本ぬいぐるみですから自分で牛乳温めて、おでんを皿にとって練辛子盛って。絶妙のタイミングで縁の下から自営業のネコが出てくるんですよこれが。鍋から外に出せばすぐ冷たくなるんだけど、「兄ちゃん一杯やってかねぇかい」って、人肌にまでチクワ冷まして自営業のネコに食わせる頃には、テレビや映画の映像では体感できない現実が押し迫ってきているんです。

 氷点下ですし、雪もちらついていますし、♪洗い髪が芯まで冷えて♪ なんて悠長なもんではなく凍り始めています。憧れのただれた青春群像が人生を奪いかねない。

 寒冷地では湯上りに赤ちょうちんで熱燗牛乳一杯が命がけになります。年の瀬に外でおでんの鍋を前に凍死していたらご近所でどんなこと言われるか?絶対「マッチ売りの少女」のような美しくも悲しい物語として語り継がれることはないこと請け合いです。

 凍死直前の末期だ。幻覚も出ることでしょう。さつま揚げ一口食べたら七面鳥の丸焼きが出てきて、コンニャク一口食べたら大きな苺が乗ったケーキが出てきて、牛スジ一切れ食べたら幸せそうな家族が出てきて…やっぱお笑いになってしまう。

 冬の居眠り凍死はロシアじゃ珍しくないけど、日本じゃ大騒ぎになる。

 冬の鍋物は家の中でストーブの上で煮込むのが真っ当なんですね。

 大いなる社会実験はここまでにして、家の中に戻って石油ストーブでおでんの鍋を温める前に、もう一度風呂に入って体を温める羽目になりました。

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イザベラ・バードに学ぶ

2015年12月28日 | 日記・エッセイ・コラム

 明治の時代に日本各地を旅して詳細なスケッチと文でその紀行を綴ったイザベラ・バードと言う英国女性がいます。ちなみに世界各地で奇行を繰り広げている私とは全然違う立派な人物です。

 日本に関しては「日本奥地紀行」と言う本が出ています。「Unbeaten Tracks in Japan 日本における人跡未踏の道と言う意味ですね」

 良いことも悪いこともありのままに書いてあるので、大変参考になる本です。

 日本のみならず中国や朝鮮を旅して紀行を綴ったので、近年、イザベラ・バードの見た日本が注目されてきたこともあって、かつては古本屋の100円コーナーにあった本も結構な値段で取引されているようです。

 Youtubeでも「イザベラバードの日本紀行」で検索すると全てではありませんが清水ミチコの朗読で本の中身を聴くことができます。

 イザベラ・バードが来日したのは明治11年(1878年)6月なので、137年半ほど前ですが。「上陸して最初に私の受けた印象は、浮浪者がひとりもいないことであった。街頭には、小柄で、醜くしなびて、がにまたで、猫背で、胸は凹み、貧相だが優しそうな顔をした連中がいたが、いづれもみな自分の仕事を持っていた」と書かれています。横浜で上陸して、新橋まで電車で行ったようですがミスタードーナツでフレンチクルーラーを食べたなんて記述はなく、近年ガイジンさんにも人気のガード下の居酒屋で焼き鳥食べたなんて記述もありません。新橋まで行って何してたんだと問いたくもなりますが、なぜなら、そんなものがなかった時代だからです。ちなみに、私が新橋の居酒屋でアルバイトする100年も前の話です。現在の駅の自動改札見たらぶったまげることでしょう。私なんかいまだに自動改札には緊張します。

 イザベラ・バードは欧米の都市を見てきているので、東京には「人が多い」と言うことだけで大した感銘を受けなかったようです。当時入り込んできた外国からの観光客と違うところは、彼らが足を踏みこまなかった奥地まで入り込んでその生活を垣間見てきたことで、貴重な歴史資料とも言えるでしょう。東京から日光へ行き、せっかくここまで来たのに蛮族の宝庫の私の住む村を避けるように新潟に渡って山の反対側の湯沢まで来ています。北海道出はアイヌの人々にも会い、次の機会では関西方面もまわっています。

 「私はそれから奥地や蝦夷を1200マイルに渡って旅をしたが、まったく安全でしかも心配もなかった。世界中で日本ほど婦人が危険にも無作法な目にもあわず、まったく安全に旅行できる国はないと信じている」と、当時の日本の治安の良さを書き綴っています。

 「警察の話では、港に二万二千人も他所から来ているという。しかも祭りに浮かれている三万二千の人びとに対し、二十五人の警官で充分であった。私はそこを午後三時に去ったが、そのときまでに一人も酒に酔ってるものを見なかったし、またひとつも乱暴な態度や失礼な振舞いを見なかった。私が群集に乱暴に押されることは少しもなかった。どんなに人が混雑しているところでも彼らは輪を作って、私が息をつける空間を残してくれた。」多分現代でもこれほどの治安の良さをします国際港はないと思いますが、今の「オ・モ・テ・ナ・シ」に通じる気づかいも既に存在していました。

 90年代にイザベラ・バードが歩いた東北の道をオートバイで回ってきました。イザベラは山形県の置賜の赤湯を特に気に行ったようで、今の南陽市のあたりですが、「東洋のアルカディア」「エデンの園」のようだと評しています。アルカディアはギリシアの南端の地域ですが、今の時代なら経済破たん国家の危機と勘違いされてしまいそうです。英語でArcadianと言えば「牧歌的な」とか「素朴な」の意味があるので、冬行ったわけではないから気候温暖で人々が豊かな暮らしをしているように思えたんでしょうね。確かに、その一面があるようで、伊達政宗もこの地を気に入って「死語はここに祀れ」と伊達政宗のお墓がある土地です。今でもリンゴやブドウなど世界トップレベルの品質を誇る産地なので、私の地域の果樹園は南陽の果樹を目指して研究しています。

 「山腹を削って作った沼のわずかな田畑も、日当たりのよい広々とした米沢平野と同じように、すばらしくきれいに整頓してあり、全くよく耕作されており、風土に適した作物を豊富に産出する。これはどこでも同じである。草ぼうぼうの”なまけ者の畑”は、日本には存在しない」 これは耕作放棄地が広がる今の私たちに耳の痛い指摘です。

 地方を旅したばかりではなく新島襄・八重子夫妻に会ったり、昨今偏差値28のシールズの学生が在学している問題で何かと不遇な明治学院大学を作ることになるヘボン博士にも会っています。James Curtis Hepburn、ヘボン式文字と呼ばれる日本語のローマ字表記を作った人で、パスポートなどの日本の個人名や地名はこの表記で記されます。オードリー・ヘップバーンも同じ”Hepburn”ですが、耳でとらえた名前と文字を目でとられた名前との違いなんでしょうね。どちらも外人さんが発音すると「ヘッボーン」と聞こえます。

 「日本人の黄色い皮膚、馬のような固い髪、弱弱しい瞼、細長い眼、尻下がりの眉毛、平べったい鼻、凹んだ胸、蒙古系の頬が出た顔形、ちっぽけな体格、男たちのよろよろした歩きつき、女たちのよちよちした歩きぶりなど、一般に日本人の姿を見て感じるのは堕落しているという印象である」

 猫背でガニマタ、ベタ足で歩く当時の日本人の歩き方は西洋人には随分貧層に見えたようです。平坦が少ない山岳地、雪の多い道を歩くにはこの歩き方が向いているんですけどね。「見るも痛々しいのは、疥癬、しらくも頭、たむし、ただれ目、不健康そうな発疹など嫌な病気が蔓延していることである。村人達の三〇パーセントは、天然痘のひどい跡を残している」と、当時の日本の衛生状態などを記していますが、寒冷で乾燥し人の手が入った石畳の国から見たら高温多湿の自然のままの日本の環境は不衛生に映ったんでしょうね。

 一方、イザベラ・バードが朝鮮半島に入ったのは李朝朝鮮末期、日朝併合前の時代です。

 「朝鮮人は、優れた知力を気前よく授けられている。特にスコットランドで”判りが速い”といって知られている類の生まれつきの才能がある。外国人教師は朝鮮人の機敏さともの判りの良さに就いて喜んで証言する。朝鮮人には天分があって言語をとても速く習得し、中国人や日本人よりも流暢に、またずっと良い発音で話せる。朝鮮人には猜疑、狡猾、嘘を言う癖などの東洋的な悪徳が見られ、人間同士の信頼は薄い。女性は隔離され、ひどく劣悪な地位に置かれている。」

 今の半島にも通じる素養の片りんを発見していますね。世渡りのうまさと誠実さのなさ。後に彼女が北京に行くまで、ソウルは世界一汚い街に見えたようです。「私は北京を見るまではソウルを地球上でもっとも不潔な都市、また紹興”中国浙江省北部の県”の悪臭に出会うまではもっとも悪臭のひどい都市と考えていた!」「その路地の多くは、荷を積んだ二頭の雄牛が通れないほど狭い。実にやっと人ひとりが、荷を積んだ雄牛一頭を通せる広さしか無い。さらに立ち並んでいるひどくむさくるしい家々や、その家が出す固体や液状の廃物を受け入れる緑色のぬるぬるしたどぶと、そしてその汚れた臭い縁によって一層狭められている。」

 「それにも拘わらず、ソウルには美術の対象になるものが何も無く、古代の遺物ははなはだ少ない。」「劇場も無い。ソウルは他国の都市が持っている魅力をまるで欠いている。ソウルには古い時代の廃墟も無く、図書館も無く、文学も無い。」凄惨な首都だったんですね。

 「その肩に税の重荷が掛かっている人びとつまり特権を持たない厖大な大衆が両班にひどく苦しめられているのは、疑いない事である。両班は代金を支払わないで、人びとを酷使して労働させるばかりでなく、さらに貸し付け金の名目で、無慈悲に強制取り立て[収奪]を行なっている。ある商人か農夫がある程度の金額を蓄えたと噂されるか知られると、両班または役人が貸し付け金を要求する。」両班(ヤンバン)と呼ばれる公認の吸血鬼にしゃぶりつくされる奴隷(一般人)の様子も見たようです。

 「朝鮮では、私は朝鮮人を人種の滓(かす)と考え、その状況を希望の持てないものと見做すようになっていた。しかしプリモルスク(現在のロシア沿海州付近)で、私は、自分の意見をかなり修正する根拠となるものを見た。自らを富裕な農民階級に高めた朝鮮人、またロシアの警察官、開拓者や軍の将校から等しく勤勉と善行の持ち主だ、というすばらしい評判を受けた朝鮮人たちは、例外的に勤勉で倹約する質朴な人では無い事を心に留めておかなくてはなるまい。彼らはたいてい飢饉から逃れて来て飢えに苦しんだ人びとであった。そして彼らの繁栄とその全般的な振舞は朝鮮に居る同国人が、もしもいつか正直な行政と稼ぎの保証がなされるならば、徐々に人間になれる事であろう、という希望を私に与えてくれた。」

 「要約して、以下のような意見を思い切って述べる事にする。多くの人口を抱えている朝鮮の状況は、日本かロシアの孰れかの援助を得て次第に改善されるよう運命付けられている。」

 1894年~1897年の3年の間に4回の訪朝を元に書かれた文です。朝鮮が日本に併合されたのは1910年8月29日で、イザベラ・バードが1904年10月にすでに亡くなった後でした。

 もちろん、朝鮮半島の人々の良いところも書かれています。そういう面ではとてもスクエアな目線で見た紀行文だと思います。

 自ら変革できない人々。これは何も民族に限った問題じゃないと思いますが、人間の肉体だって2週間もすれば入れ替わっているもので、こういうのを「代謝」と言います。代謝せずいつまでも生き残っている細胞が「癌」です。役目を終えた為政者が、自らの居心地の良さを手放せずにいつまでも居座っているとどうなるか?お隣をのぞけばわかりますね。

 外務大臣が韓国に行って何やら決めてきたみたいです。多分約束事は守られないでしょう。

 慰安婦問題を片付けるには、まず韓国自身現在も世界各国に売春婦を輸出して外貨を稼いでいることと正面切って向かい合わなければ糸口など見えないでしょう。ただ単に日銭欲しさのゴネ得だと喜んでいると、大きなしっぺ返しが待っています。

 どう友好ムードを演出しようが、既に日本国民が”もはやどうでもいい国”と冷え切っているので、「韓国製」は売れないでしょうし信頼もされないでしょう。歴史を調子できない民族はどうなるでしたっけ?クネちゃん。

 滅びゆく定めは仕方ないので、我々はもっと我々自身を磨きましょう。日本の品格を誇りましょう。

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クネちゃんの夜逃げイブ

2015年12月27日 | 日記・エッセイ・コラム

 クネちゃんの国、また何か難癖つけて金せびろうって言うんですかね?明日あたり日本の外務大臣が行って差し上げるみたいですね。

 私鉄沿線の駅前商店街の薄汚いスナックのママさんが、路地に段ボール置くなとか、早く店閉まって薄暗くしてくれないと客が入ってこないとか難癖つけるようなもんで、商店街の会合じゃ「いやならお前が出て行け!商店街のイメージが悪くなる」と店主たちにどやされ、信用金庫に行って自分の生きざまのだらしなさ棚に上げて不幸な生い立ちの身の上話して「今度安倍ちゃんからまとまったお金が入るから、もう少し返済待ってほしいニダ。」なんて言いつつ、除夜の鐘聴きながら夜逃げしそうな気配。

 どうもIMFも習ちゃんとこも見放したのかな?

 田舎の農家のおじさんなんかにもクネちゃん国のような言い回しで要望を伝える人がいるんですよ。素直にここんところが不便だから何とかしてほしいと言えばいいのに、お前んところは代々付き合いがあって…そんなわけでやってもらわなければ困るんだ。なんて言い方してくる奴に限って世話になんかなっていないもんですが、こちらも余裕があるから「お手伝いしましょう」とは言うものの、その後の態度次第でいつでも冷たく見放せるように逃げ足だけは確保しておく。

 この田舎のおやじ達、近年は育ちが良くなって少なくなってきたものの「もらってやらあ」と言う態度の底辺層が結構います。それはプライドとは言わない。虚栄です。腹になくともありがとうございますの一言も言えない蛮人に施すほど暇じゃない。

 外務大臣も話だけ聞いて「考えときますと」金ちゃん国が釜山まで国土を伸ばした時のことを考えときましょう。

 この何日かで冷え込んできたけれど、昨年の今頃は氷点下二ケタでした。まだまだ温かい。

 炭焼シーズン到来ですが、炭焼も後継者がいなくなって困っているようです。私が小学生の時に「勉強しないと一生炭焼して暮らすんだぞ!」と日教組の教員に言われたもんですが、今や炭焼はマエストロです。マジで老後の生活のために勉強してみるかな?

 

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さらし者にしたれ

2015年12月26日 | 日記・エッセイ・コラム

 ちょっと通りがかったので様子を見てきました。

 ってなに?連合赤軍山岳ベース事件で殺害された分子が埋められていた現場です。

 たまたま私たちが山林整備に入って、間伐して周辺の藪を切り開いたので世に出ましたが、それまでは人も近づけない藪の中で気が覆い茂って陽の光もあたらない場所でした。山本順一、大槻節子、金子みちよの3人が殺されてこの場所には山本・大槻の2人が埋められたはずです。

 山岳ベース事件のリンチでは29人いたメンバーの中で12人亡くなっていると思いますが、ここで殺された連中だってその前の殺人事件には関与していたわけですから同情する価値もありませんし、生きていたってろくな人間になっていなかったのでこれも天命だと思います。が、大槻、金子に至っては容姿も頭もいい(横浜国大)ことから首謀者の永田洋子の嫉妬が原因だったと言われています。

 否定に次ぐ否定、批判に次ぐ批判、そのいきつく先は排除に次ぐ排除で一番悪い奴が生き残る。地獄の黙示録ですな。

 冬も終わる頃でしたが、この事件が発覚して「まだ山の中に赤軍派が隠れているかもしれない」と通学の時に鎌や鉈を持った大人が同行し、今までカギをかけたことがなかった農家が鍵をかけるようになりました。浅間山荘事件まで一カ月前後だったと思いますが、緊張した日々を過ごした記憶があります。

 現場を見た大人が言うにはえらい死にざまだったみたいですよ。散々殴られて外に放置されて死んだ遺体を土の中に埋めたんですから。

 当然こんな奴らですから誰一人現場を訪れた痕跡もなく、年末になると我々が様子を見に来るのも、仕事柄関わった気持ち悪さのためでもあります。

 冥福。冥途に服して戻ってくるなよと言う意味に思えて使わないようにしていますが、この連中に関しては地獄の窯の中に永久に閉じ込められているのがふさわしい。たまたま殺害と言う死にかたをしただけで、銃砲店襲撃や鋼板襲撃などのテロ行為に加担していたんですから情状酌量の余地もありません。加害者にならなければ被害者になるだけの力関係の中で結構後半まで生き延びていたのですから。

 この事件を新聞やテレビで見て、子供心に『一番ブスが生き残った』と思ったもんです。

 地形から察するとこの林のあたりが掘り返した痕跡を感じるので、実際に埋められていた場所なんでしょう。

 逆光とカメラのレンズにつけたフィルターが手脂で汚れていたんでしょう。オーブじゃないですよ多分。

 今のシールズなんかよりは勉強していたと思うのですが、20代の若者の考えることはまだまだ浅はかです。第二次大戦を「愚かだ」「無駄死に」と揶揄しつつ、それ以上に無駄で愚かしいことをやらかしていたのですからお笑いです。

 こうした馬鹿連中のおかげで我々世代は余計なことに頭を回さないように過酷な詰め込み教育にさらされたのですが、やがて下の世代ではその歪みが出て校内暴力が発生する。殺伐としすぎた受験戦争世代が癒しを求めて走ったのがオウム事件。ゆとりが必要と方向を変えたらゆとりすぎて馬鹿学生が蔓延する昨今。一番重要なのは親や家庭のしつけだったんじゃなかろうか?

 馬鹿は死ななきゃ治らないとはよく言ったものだけど、連合赤軍事件で死刑判決が出たにもかかわらず刑が執行されないのはなんで?

 連合赤軍事件のメンバーの中には娑婆に復帰した連中もいるみたいですが、自分たちの犯罪現場の掃除くらいやれ。

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ファミレスにて

2015年12月25日 | 日記・エッセイ・コラム

 今年初めてじゃなかろうか?お昼にファミレスに行きました。サバの味噌煮定食、ご機嫌です。

 最初は「クリスマスだからハンバーグでも食べるか」と乗り込んだおじさんたちですが、ふたをあけると皆和風の定食になっていました。ドリンクバーやスープバーよりも味噌汁おかわりし放題の方が有難い今日この頃。

 おじさんたちの間で話題になったのは埼玉県の上尾市の平田通子と言う共産党の市会議員が、自衛隊工科学校の生徒募集を「殺人を練習する学校だから」と募集掲載するなと議会で発言した事件のことで、一応取り消して発言を削除するように撤回を申し出たみたいですが、こうした失言を他の政党の人が言ったなら彼女は撤回を認めただろうか?

 おじさんたちの中には40年前まで過激派に身を置いていた元共産党員の人物もいます。日本共産党臨時中央指導部の「山村工作隊」に身を置き、「球根栽培法」と言うガリ版刷りの冊子を頼りに、共産主義革命のために火炎瓶や爆弾作りをしていたそうです。「党は俺たちを除名処分にしたと言ってるけど、俺たちは共産党の革命ために活動していたんだ。」とご立腹でした。足抜けするに際しても生命の危機を感じたそうですが、幸か不幸か公安監視下だったので生き延びられたと申しています。

 この界隈で山にこもっていた連合赤軍だって人を殺す訓練のために山にこもっていたのですし、内ゲバで14人殺していますよね。他にも警察官も殺していますよね。中核派や革マルなどの殺人集団も共産党のお仲間ではなかったっけ?やがて、おばかなシールズも内輪もめして死者を出すことでしょう。妬みと欲求不満の集まりのなれの果ては見えています。

 党のノーメンクラツーラが心地よい世の中のために、下々の人々が「分子」と呼ばれて踏みつけられていく。ブルジョワ社会よりよっぽど強烈な格差社会になっているので、シールズこけたら「関係ないもん」としらを切る。年明けにはそんな光景が来る広げられるでしょう。あの時代より「自己責任」が大きくなっています。

 自転車乗りのチャーリーが母校の中学の校庭に植えた松の木の伐採の話を持ってきました。冬休みの間に立ち枯れの松の木を伐採してもらいたいとのことですが、何年も手入れをしていないため木を支えていた鉄筋が木の幹に食い込んでこれが枯れる原因になったみたいです。さも、「目障りだからさっさと伐採してくれ」といったニュアンスの依頼だったようです。チャーリーが言うには、「俺たちが卒業の時に植えた記念樹なんです。」

 まあ、世間なんておおむねこんなもんです。

 先日の父の法事の時に小学校4年生の甥が宮沢賢治の本に興味を持ったみたいで、「伯父さんが死んだら下さい。」と期待しているので、まだ死ぬわけにはいかないけど読ませるならいい歳頃かな?と生前贈与で送ることにしました。

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イブなんですね

2015年12月24日 | 日記・エッセイ・コラム

 小学校1年生の2学期の終業式の後、教室でちょっとしたクリスマスパーティーをやりました。と、言っても田舎なのでクリスマスが何なのかも知らないどころか、白黒テレビの向こう側の出来事で自分たちには関係ない世界の話だと思っているような子供ばかりでした。

 パーティーと言っても大きなヤカンに入ったインスタントコーヒーを湯飲み茶碗に注いでミカンをもらっただけでしたが、コーヒーを飲むことにものすごく「大人」を感じたものです。幼稚園じゃないんだぜ、小学生なんだぜ!みたいな背伸びをしました。

 父親が出稼ぎに出てしまった家庭や、両親が炭焼きのために山の中に入ってしまう家庭などもあり、決して明るい時代ではなかったのですが、それを悲観的に捕えないのが子供のパワーです。私なんかその二日後に雪深い越後のお寺に「修行」に行かされてしまったのですから、全然楽しい冬休みではなかったはずなんですが、なんか楽しかったですね。コーヒーとミカンのクリスマス。ケーキなんて概念なかったですね。

 クリスマスとは全然関係ないと思うけれど、担任の先生が紙芝居で「泣いた赤鬼」を読んでくれました。

 山奥に心優しい赤鬼が住んでいて、人と友達になりたいけれど人々は「鬼」を恐れて近寄らない。「心の優しい赤鬼です。どなたでもお尋ねください。お茶もありますお菓子もあります」と立て看板を出して人が訪ねてくるのを待っていたけれど誰も来ない。それを知った青鬼が「僕が人里で暴れるから君は僕を退治しなさい。そうすれば君は人から信用される」と、芝居を実行するわけですね。人の信頼を得た赤鬼のところにはそれから人が訪問するようになった。ある日、青鬼のところに行くと、「僕と君が友達だとわかると村の人は君を信用しなくなるから、僕は旅に出るよ。」と置手紙があり、青鬼は姿を消していた。それを知って赤鬼は泣くんですね。

 子供なりに衝撃的な話で、何とも理不尽で割り切れない気持ちになったもんですが、ボキャブラリーが少ないから「孤独」と言う言葉は出てこなかったけれど、感覚は十分埋め込まれました。

 利己的なアメリカ人が一年で一日だけ優しい心を取り戻し貧しい人に施しをしたくなるような気になる日ですが、免罪の日ではありません。

 クリスマスはキリストが磔になった日と勘違いされている方は結構いらっしゃるみたいで、生まれた日が12月25日、殺された日が4月13日の金曜日です。

 20年くらい前だったかな、地区の公民館で子供会のクリスマス会がありました。私はサンタさんの服を着てガキどもの皆さんにプレゼントを持ってくる役だったのですが、えらい吹雪になっちまってね。公民館の駐車場まで車で行って、公民館の中に入って「サンタさんだよ!大黒様じゃないからね。」とプレゼントを配って帰ろうとすると、子供たちが外まで見送りに来てくれました。

 有難いんだけど、クルマのエンジンかけたまま玄関わきの駐車場に置いてあるんですよね。それでも見送ってくれるから雪の降り積もった通りを延々歩いて、子供たちが公民館の中に入ったなとチラ見して駐車場に戻ろうとしていたら。「まだサンタさんがいる!」と窓から外を眺めていた子供に見つかっちまって、寒い大雪の中大回りして駐車場の車まで戻ったことがあります。

 そのガキどもの皆さんが今や親になる時代です。光陰矢の如し。

 手作りのクリスマスカードいただきました。

 朝目が覚めると、枕もとの靴下にサンタさんの贈り物が・・・勘弁してもらいたい。

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負の遺産って何だろう?

2015年12月23日 | 日記・エッセイ・コラム

 20日に父の一周忌法要は済ませましたが、今日が命日なのでお供えなどを持ってくる人もおり、それなりに忙しく過ごしました。

 残りの時間はビデオを見たり本を読んだりしてのんびり過ごせました。

 ロマン・ポランスキー監督で話題になった「戦場のピアニスト」今日は本で読みました。

 映画では説明されていなかったけれど、第二次大戦中のナチスドイツではポーランド人にショパンの音楽は禁止していました。理由はポーランド民謡をモチーフにしたマズルカやポロネーズがポーランド人に勇気を与えてしまうからと言うことらしいのですが、戦乱の廃墟の中でピアストのシュピルマンはショパンを弾きます。

 ユダヤ系ポーランド人だったシュピルマンは、脱走して逃げ込んだ瓦礫と化した廃墟の中でナチスの将校に職業を尋ねられ「ピアニストです」と答える。「それなら何か弾いてみろ」と言う将校の前でショパンを奏で「いい演奏だ」と気にいったドイツ人将校は、彼をかくまい食料を与え命を救います。

 シュピルマンがどう生き抜いたかばかりに目線が行ってしまいましたが、このピアニストをかくまったドイツ人将校は戦後ソビエトに連行され収容所で亡くなっています。

 本で読み返してみると、生き残ったシュピルマンよりもドイツ人将校に興味を持ってしまいました。禁止されているショパンを目の前で演奏されて聴き惚れ、匿い、食料を運び、自分はソビエトの収容所で死んでしまう。この人生も凄絶だと思いますが、敗者と言うだけで評価に値しないのだろうか?戦争がなければ音楽好きの軍人だったんでしょう。

  Auschwitz(アウシュビッツ)ドイツ語の呼び方で、ポーランドではオシフィエンチムと言う土地で、ポーランドと言ってもスロバキアに近い南部のへき地にそれはあります。ポーランドにすれば世界的な負の遺産が自分の国にあるのはあまりありがたくないみたいですが、ここで働いていた兵士にはポーランド人も随分いたみたいです。三つの収容所があり特に第二収容所のビルケナウが有名な場所です。

 良く勘違いされるみたいですが、「アンネの日記」のアンネ・フランクがチフスで亡くなったのはハンブルグの南のベルゲン・ベルセン収容所で、アウシュビッツではありません。

 あの大戦から70年が経っています。

 昭和23年、12月23日。巣鴨プリズンで東条英機の処刑が行われました。次の天皇の誕生日を狙ったかのような日取りの選び方です。

 勝者が敗者を事後法で裁いた極東軍事裁判ではA級戦犯7名、BC級戦犯53名が処刑されましたが、巣鴨プリズンの跡地に作られたサンシャインシティー60の「60」には日本の反骨心が込められています。

 天皇誕生日。いまだに70年前のことを天皇陛下に語らせるのもいかがなものか?この風潮こそ「負の遺産」と言う気がしないでもない。静かなる憤懣が新たな火種にならなければよいけど、あの大戦から70年が経っています。

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運のつき?

2015年12月22日 | 日記・エッセイ・コラム

 冬至ですね。

 モモクリ3年カキ8年、ユズのばかやろ18年。柚子をもらったので風呂に浮かべて柚子湯を楽しみました。

 ちょいと風邪気味だったので昨日は入浴前にミカンを10個ばかり爆食いして、ミカンの皮を風呂に浮かべて柚子湯の気分になっていましたが、今日は本物です。

 冬至に「ん」がつくものを食べると「運」が回ってくると聞いたのは夕食の後。今日の夕食はトロロそば。「ん」がねえぞ。昼はカレーライスだったので、「ん」がねえぞ。朝ですよ、朝は目玉焼きにわかめの味噌汁!しっかりと「ん」がねぇぞ」。

 夜食に食パン食べて「ん」を補いました。

 国立競技場のデザインコンペ、A案に決まったみたいですね。きっと森元総理が「B案がいい」と言ったからでしょう。

 夕方知人宅でニュース映像見ていたのですが、頭を坊主頭にしたためなのか?森元総理が急に老けて生気が失せたように見えました。なんだか体でも悪いんじゃなかろうか?もっと太っていたような気もしますが、ライザップ?どっちにしても東京オリンピック開催される頃にはこの世にいなくなっていたりして。

 森さんは森さんで対ロシア関係には非常に重要な役割をこなせる人なので、余計なことを言わず野心や欲も捨ててお国のために最後のご奉公をしていただけたら。

 「日本のタイヤが変わります!」とブリジストンのタイヤのコマーシャルに出ていた渥美清さんを見た時、「寅さん急に老けたな」と感じたのですが、ほどなく亡くなってしまいました。

 中井貴一と黒木メイサが出たドラマに出演していた緒形拳さんが妙に痩せて皺だらけだったのでおかしいな?と感じていたら、ほどなく亡くなってしまいました。

 坂口良子さんもこの秋亡くなったワインが好きだった女優さんも、「急に老けたな」と妙な感じがしたものです。

 う~ん。なんだか妙な予感がしてなりませぬ。

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ヒートテックな話

2015年12月21日 | 日記・エッセイ・コラム

 霧の都北京。またえらい状態になっているようですね。

 カール・セイガンと言う人が「核の冬」という理論を出したことがありました。核爆発によって浮遊した塵が成層圏に突入して世界中が日照不足になり氷河期が訪れるというような話だったと思いますが、核を用いずにこの状態に持ち込んだ北京は立派です。こんな環境でも生きられるんですね、人類って。

 深圳では積み上げた建設残土が崩れて建物を飲み込み、80人を超える死者が出ている模様です。数字の概念が異なる国なのでまともに受け止められませんが、35以上なら無量大数まで「いっぱいのたくさん」の国ですから、実感がある数字は35までなのかな?連中なりの大勢の人がなくなったと言う感覚なんでしょうね。

 昨年冬、ユニクロでヒートテックの半そでシャツを買って使ってみたのですが、それほど温かいとは思えない代物でした。冬山登山用のアンダーシャツの方がはるかに温かいのは当然ですが、値段が値段だけに”こんな物か”と思っていました。

 この夏、親戚の葬儀で気温36℃の熊谷に行ったときに、間違えてこのシャツを着て行ってしまったのですが、怖ろしいほど熱くなるシャツでした。冬はともかく夏は霊験あらたかです。

 秋になり長袖のシャツを買って夜寝る時に来てねていたのですが、サイズがきついためなのか?シャツが発熱するためなのか?変な夢を見ては飛び起きる日々が続きました。そんなわけでしばらく夜寝る時には木綿のシャツを着て寝ていましたが、このところ冷え込んできたのでまたヒートテックを着て寝ています。このくらい寒くなると夢でうなされません。

 足の指の骨折が尾を引いてまだ左足がつま先に荷重をかけられない状態なので、この冬はスキーをしないほうがよさそうだなと、雪が降らないことを幸いにスキーの準備もしていません。ヒートテックで温まるより、ストーブで温まりたい。灯油も安くなってきたし。

 ヒートテックは汗をかかないと発熱しないらしいので、たぬきうどんに辛子をたっぷり入れて発汗を促すことにしました。

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国家の死

2015年12月20日 | 日記・エッセイ・コラム

 靖国神社の池に中国国旗を立てた事件があったようです。向うの人間の仕業か?それを装った日本人の仕業かわかりませんが、こういうことをすると結局自分の国に悪影響が出る「天に唾吐く」行為となるでしょう。他国であれ自国であれその国の象徴たるものを蔑む人は自分自身のよりどころを汚しているに等しい。

 1970年代のことですが、日本で国際的なマラソン大大会などが開かれると、沿道の人たちは各国の国旗を持って応援するほほえましい光景が見られました。が、選手が通り過ぎ、大会が終わると旗をそのまま捨てて踏みつけて立ち去る光景を外国人たちが怒っていました。

 当時の日本人の感覚では「たかだか旗に何を目くじら立てているんだ?」と理解できない時代でしたが、何が悪いのかわからないのは教育の問題でしょう。最近はこうしたやらせ的な旗振りもなくなり、他国の国旗を踏みつけるような無知からも脱却した模様ですが、それだけ世界に開かれたのかもしれません。国旗を粗雑に扱うことが英雄視されている時代があった日本ですが、どこの国の国旗であれ今はそれが下品な行為だと非難されるのは間違いありません。

 国旗や国歌に対する「礼」を持たないほうがカッコよいと勘違いしていたことに日本人が気がつくのはサッカーのプロ化からではなかろうか?お山の大将でいられた野球と違い、国際試合が多いサッカー。見る側も嫌がおうにも世界との対局になってきます。自国を蔑んでニヒルぶることがいかにみっともないか?世界と向き合うことでわかってきたのでしょう。プチインテリよりもチャラチャラしたサポーターの方がよほど国際化に適応しているというよりも、適応せざるをえなかった。

 92年のバルセロナオリンピックの時に女子マラソンで優勝した選手はロシア人だったと記憶していますが、当時ソビエト崩壊直後で独立国家共同体CISと言う組織でオリンピックに選手を送っていました。表彰式はCISの旗を使っていたようですが、国旗をどうすればよいのかうろうろしている隙に2位に入賞した有森選手が日の丸もってウイニングランをしてしまいました。

 その後、ロシアと言う独立国ができたわけですが、エリツィン時代のロシアの国歌には歌詞がない。人々が集まると旧ソビエトの国歌を歌うか、カチューシャの合唱でした。

 ソビエト崩壊。「国家の死」と私は感じました。

 そんな時代、12月の今頃ですが、ノボクズネックと言うシベリアの炭鉱の町に行く機械がありまして、新潟空港からイルクーツクに飛び、シベリア鉄道でノボシビルスクに行きました。ここで一晩過ごして翌日にノボクズネック行の列車に乗る計画だったのですが、経済混乱期です、予約していたホテルが閉鎖になっていました。

 街をうろうろして鉄道の駅で一晩過ごしましたが、鉄道の運行もあるのかないのか土壇場になってみないとわからない時代だったので、不安な思いで一晩を過ごしました。

 行き過ぎた国家主義者は好きになれませんが、国外で渋い目にあったこともないくせに国家を蔑む薄っぺらい人間は大嫌いです。

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情操教育は難しいですね

2015年12月19日 | 日記・エッセイ・コラム

 甥と姪にクリスマスプレゼントの本を買いに行ってきました。

 こんなご時世だから子供には目先の安直な教育書よりも、末永く意識に残る情操的な種を植え付けておくことが好ましい。

 小学校6年生の甥には著名な人物辞典、4年生の姪には日本の昔話集。もう一人の弟の4年生の息子には世界の昔話集、問題は幼稚園児の姪で興味を持っているのが戦車と戦闘機。将来の夢は自衛隊員かピアニストと言う乱暴者の娘なので手を焼いているようですが、膝の上に乗せてお話をしてやるとよい子で聴いてくれるので、前回あった時にはアンデルセンのマッチ売りの少女の話をしました。

 現代っ子はマッチを知らないんです。明菜を泣かせて好き勝手なことをしていた音痴の歌手のことではありません。火をつけるマッチですね。

 マッチについて説明すると、「ライターなら長く燃えてるよ。」そうだよね、それって、そうだよね。そこら辺のゴミ拾ってきてライターで火をつけて温まればよかったんだよね。うん、めでたしめでたし!

 この夏、桃太郎のお話をしてやったときも、桃太郎がきびだんごで犬とサルとキジを従えて鬼が島に行くと、「鬼はF16戦闘機とヒトマル式戦車を持ってるの!」と言うので、リクエストにお応えして鬼ヶ島から発進したF16戦闘機はキジと空中戦を交えて、キジが撃ち落とされて制空権を鬼にとられた桃太郎軍団は、鬼軍の10式戦車で壊滅されてしまい、鬼はいつまでも幸せに暮らしました。と話の内容が変わってしまいました。

 近代兵器が一発加わると昔話も話が変わってしまいます。

 弟が言うにはいもとようこの絵はおとなしく眺めているというので、新美南吉の「てぶくろをかいに」の絵本を見つけてきました。

 伯父ちゃんが読むと気前よくリクエストで話を変えてしまうので、融通の利かないお母さんに読んでもらうのが好ましいでしょう。

 情操教育は難しいですね。

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1970年考

2015年12月18日 | 日記・エッセイ・コラム

 小学3年生の頃、秋の写生の授業で山の稜線に生える樹木を稜線のラインと直角に描いたら先生に注意されたことがあります。樹木はどんな傾斜であれ真っ直ぐ天に向かって生えているものだと。

 納得できなかったものの”そういうものなのか”と思うようにしていましたが、葉っぱが落ちた山を眺めていたら案外当時の自分の目は正しかったんではないか?と思えてしまいました。

 山の斜面に生えている樹木はその斜面なりに傾いて生えている。先生の嘘つき!杉などの針葉樹は真っ直ぐ天に向かって育ちますが、広い面積を必要とする広葉樹は葉っぱの間の光を求めて迷走しながら育つので、必ずしも真っ直ぐ天に向かって伸びるとは限らない。案外、子供の目線は鋭いところを見ているもんです。人が言うほど馬鹿ではなかったんだ。

 この時の先生、ギンギンの日教組活動家で田舎の素朴な子供を教化するために送り込まれたようですが、我々地元のガキどもの皆さんは彼らが思っている以上、自然の生業に沿って生きているモンスター級の素朴なガキどもだったので、彼らの崇高な理論など理解することもなく何ら変わることない野生児のまま駆逐してしまいました。

 当人は壺井栄の「二十四の瞳」の大石久子先生のように未開の寒村に新しい風を吹き込むつもりでやってきたんでしょうが、この大石先生ってやることなすこと中途半端で情けない教師。そのあたりは似ていましたが子供たちに好かれていたかどうかでは全く逆で、同窓会に呼ばれることもなければその後の消息がどうなったか誰も気にも留めていないので、人間性の問題だったんでしょうね。

 私なんか目の敵のようにいじめられていたようなのですが、当人はそんな自覚もなく学校に息抜きに来ていました。どの子供も家に帰れば仕事の手伝いなど目白押しだったので、気楽に楽しめる場所が学校で、45分の授業の合間の5分間の休憩時間のために授業があったようなもんです。

 風変わりな児童もおりました。休み時間の時は一緒に外で遊んでいるのですが、授業の時間になるとその席だけ空席になっている風の又三郎のような子供で、授業中はひとりで砂場で遊んでいたり周辺の山をふらついている子供でした。いわゆる知能に障害を持つ子供でしたが、そういうもんなんだとなじんでいるので特に違和感も感じませんでした。4年生になる時に養護学校に連れていかれてしまいました。

 大阪万博があった頃で、世の中の動きが急激変化する分岐点のような年でした。この時の先生がシンパシーを持っていた学生運動も内ゲバへと方向が変わり、一方で三島由紀夫が割腹自殺をし、富士ゼロックスが「モーレツからビューティフルへ」のキャッチコピーを流行らせた時代でした。

 翌年には連合赤軍事件が地元で起きて、この先生の希望は根底からひっくり返され去って行きました。

 たかだか45年、時代の先端はめまぐるしく変わって新しい価値観を求めて右往左往しましたが、あれはあれで良かったんではなかろうか?と最近は思います。案外素朴な野生児時代に根をおろしているからだろうか?

 人間が頭で思いつくことはろくなことがない。自然の生業に耳を傾けていれば道は開ける。

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人魚っているのかな?

2015年12月17日 | 日記・エッセイ・コラム

 夫婦別姓を認めないのは憲法違反か?と無粋な「市民」が裁判おこしていましたが、最高裁が「夫婦同姓の制度は我が国の社会に定着してきたもの」と判断を下しました。

 ご不満なら中国や韓国は結婚しても女性の姓が変わらないので、そういう国に移民なさってはいかがでしょうか?強くお薦めします。

 近年、同性同士の婚姻が認められるなど奇妙なご時世になっていますが、これはジェンダーの問題ばかりではなく「家族」の精度が崩れているのでしょうね。多分、戦後はやり始めた「核家族」から私たち世代の「ダブルインカム・ノーキッズ」など、時代を追うごとに長年培ってきて家族精度が崩れて、もはや意味をなさなくなってくるのでは?

 ふと思ったんですが、これから寒くなると活躍する「雪女」。北欧の雪の女王にしてもなんで美しい女性なんでしょうね?雪男になっちまうと毛むくじゃらでゴリラのお仲間みたいな生物でしょう。

 人魚だってそうですよ。だいたい女性でしょ。男なら気持ち悪い半魚人ですよ。こういうジェンダー差別って問題じゃないんですかね?

 アンデルセンの「人魚姫」を読むと人魚姫には父親がいるのですが、絵本には出てきません。人魚だって上半身が女性で下半身が魚だから絵になるのであって、あれが逆だったらえらいものになっていたかもしれません。

 日本の人魚物語と言えば小川未明の「赤いろうそくと人魚」があります。

 文明の進んだ人間会で育った方が好ましいからと母親人魚が陸で子供を産み、その子供人魚を拾って育てるろうそく作りの老夫婦がいました。成長した人魚はそのろうそくに絵をかき、そのろうそくを神社に祭ると事故が起きないと評判になります。が、そこに意地悪い商人がやってきて、ろうそく作りの夫婦は金欲しさに人魚を売ってしまう。と、人間の業の深さが物語のかなめです。

 平成5年でしたが、今頃の季節に小川未明ゆかりの糸魚川の海岸で一晩過ごしました。天気が荒れると道路まで波しぶきが襲ってくる冬の日本海ですが、漁火と思われる明かりが海の上にぽつぽつ見える静かな夜でした。

 暗い北国の海 オリオン星座は 烏賊を釣っている 田中冬二の「親不知」と言う詩です。そんな夜で、オリオンの三ツ星が良く見える夜の海でした。

 なるほど、この雰囲気の中なら人魚が出てきても納得できると思えるいい一時を過ごしました。

 コーヒー飲みながら「赤い蝋燭と人魚」の話を思い出していたんですが、闇の中で話声がするんですよ。それも聞き取れない言葉で。どうやら当時まだ珍しかった携帯電話で誰か話しているようなんですが、聞き取れない言葉ニダ。どう考えても新潟弁でもない言葉ニダ。もしかして人さらいをする金ちゃん国の工作員?冬の夜の海岸に人がいるなんて、私を含めて怪しい人に決まっている。

 詩情豊かなひと時を過ごしていたのに無粋な声で台無しでした。

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