のすたる爺や

文明の果てなる地からのメッセージ

菜の花フェスタ

2007年04月30日 | 日記・エッセイ・コラム

1 菜(な)の花(はな)ばたけに 入(い)り日(ひ)うすれ
(み)わたす山(やま)のは かすみ深(ふか)
春風(はるかぜ)そよ吹(ふ)く 空(そら)を見れば
夕月(ゆうづき)かかりて においあわし
 
2 里(さと)わのほ影(かげ)も 森(もり)の色(いろ)
田中(たなか)の小道(こみち)を たどる人(ひと)
かわずのなく音(ね)も 鐘(かね)の音(おと)
さながらかすめる おぼろ月夜(づきよ)

070430_1 誰でも知っている歌ですが、「おぼろ月夜」という題名がなかなか出てきませんでした。

 「月」がテーマなので、「秋」を連想してしまいますが、春の歌だったんですね。

 菜の花が食用になることを知ったのは随分歳を経てからで、学生時代に市場でアルバイトをしていた頃のことです。

 こちらでは連休近くなって菜の花が咲くので、菜の花が硬く花そのもは食用にむきませんが、菜種油を作るのならそれは大きな影響を持ちません。

070430a  猿ヶ京で菜の花フェスタがありました。休耕田に菜の花を植えて、菜種油を取り、これを温泉地の旅館に使ってもらったり、将来的にはバイオ燃料を作ってバスに利用してもらうなど計画は広大です。

 エコロジーなんてことを特に考えて生活している田舎の人たちではありません。「おらんずが汚したら川下の人たちが難儀すべぇ」とそれだけの気持で汚さないようにしているだけで、きれいにしていれば自分たちも心地よく生活できるからです。

070430b  大義名分はしばしば人を傲慢にするもので、傲慢ならまだしも戦争だって大義名分で成り立つので要注意です。

 エコロジーを錦の御旗にエコならぬエゴを振りまく机上の空論の人々がまかり通る中、地に足がついたエコロジーほどささやかな思いやりの中で行われているものです。

 

070430c  昨年取れた菜種油で山菜のテンプラを振舞っていました。

 私が幼少の頃は油を買いに行くときにはビンを持っていって、1合、2合と量り売りで買っていました。子供の私が買いに行くと、「おまけ」と余計に入れてもらえるのが嬉しかったもので、これがまた自分の稼ぎのように誇らしいものでした。菜種油も貴重なものでしたが、ビンもまた貴重なもので、油用のビン、醤油用のビンと分けて、何回も使っていました。醤油用の一升瓶は首の部分が太くて2?入るビンだったと記憶しています。

070430d こちらは家庭でできる食用油の再利用。石鹸の作り方コーナーです。

 本当は旅館の浴場に使いたいのですが、テンプラ油の再生石鹸など使っていたとなれば理解を示さない客も多いことでしょう。これからです。

 油から油を落とす石鹸ができることも不思議な思いもしますが、昔は使い古したテンプラ油と重曹で石鹸を作ったおぼえがあります。

070430e

 田んぼの堰で昔遊んだ「舟競争」紙で船を作ってやったこともありましたが、ピンポン球など水に浮くもので遊んだものです。

 水に浮かべてヨーイドンで下流のゴールにどちらが先に到着するかを比べる単純な遊びです。

 子供時代のこうした遊びにも達人がいて、水の流れを読めるんですね。こうした子供達はおしなべて勉強のほうはさっぱりでしたが、それでも秀でた一芸なので尊敬されていました。

070430h  会場ではハーモニカ名人のコンサートが行われていました。

 早春の生暖かさにハーモニカの音色ってよく似合うんですよね。

入日

いりひ

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子供の祭り

2007年04月29日 | 日記・エッセイ・コラム

0704293 ♪うみはひろいなおおきいな♪「うみ」、♪山は白銀朝日を浴びて♪「スキー」、♪おうまのおやこは なかよしこよし♪「おうま」。
 林柳波(はやし りゅうは)という詩人が作った歌詞です。

 林柳波は沼田市出身の詩人で、4月29日には「柳波フェスティバル」という子供のためのイベントが開かれています。

 林柳波は昭和49年に亡くなりましたが、生活拠点が長野県の小布施であったり、正直なところ地元ではあまり意識されていませんでしたし、知っている人にも良い風評はあまりききませんでした。沼田で生まれたというだけで、小学校(現在で言うなら中学校)卒業後東京に出てしまっていますし、林きむ子との恋愛、結婚、晩年他所に子供作って離婚などの人生の波乱もありました。

070429k 私の中学時代の国語の先生がこういう下半身にだらしない作家が大嫌いで、島崎当村も北原白秋も色恋沙汰を起こしているので「生き方がきれいではない」。太宰治の谷川温泉での心中未遂などリアルタイムで見てきた世代なので、「甘ったれている。」
 そんなわけで林柳波についても「群馬県人であって欲しくない」なんて言っていました。
 
 林柳波と結婚した林きむ子は今で言うならモデル兼実業家なんでしょうが、日向輝武という代議士の妻でした。夫が疑獄事件に巻き込まれて投獄され獄中死。1年もたたぬうちに林柳波との再婚は当時とすれば大スキャンダルだったようです。
 ちなみに日向輝武は群馬県藤岡市出身。林きむ子のお母さんは群馬県松井田出身。

 林きむ子は大正時代の三大美人の一人だったそうです。

  まあ先生には申し訳ないとしても、なんだっていいじゃないの。お祭りなんだし。
 というわけで沼田に出かけてきました。

070429  昨夜、同級生から「娘がさぁ、ユネスコなんたら合唱団とかに入って、明日のヤナギバ祭りで歌うっつうんさぁ。見に来てやってくんねいかい。」と電話がありました。
 ”ヤナギバ”じゃなくて”りゅうは”だろう”!。同じ先生に教わっていたのに、気兼ねどころか気にもしていない。

 年取ってからできた子供だからかわいいのでしょうね。「娘が歌いますんで」と、赤飯のおむすび配っていました。で、どれが彼の娘なのかわからないままに出番が終わり「お前の娘が一番いい表情で歌っていた。たいしたもんだ!」と誉めることへの後ろめたさ。

070429d ゴルフ場のカートを利用したトロッコ風子供列車が出ていました。”面白いアイデア”と、乗りたかったのですが、「オトナはダメです!」

 仰々しいパレードカーよりも、大人が乗っても十分絵になる乗り物ではなかろうか?と思います。速度も歩く速さに近いでしょうし。

 

070429c  子供の教育は早いほうが良い?巨人の星の星一徹ではありませんが、物心つく前からしっかり農耕教育して後継者を育成?
 アメリカのジョンディアーのトラクターですね。ヤンマーと技術提携しているので、小型のものはヤンマー製です。
 この界隈では野菜農家には評判の良いジョンディアですが、酪農家には「あれは平坦地向けのトラクター」と人気がありません。
 以前、ヒューストンのNASAに行った時に施設の芝の手入れでジョンディアのトラクターが活躍していましたが、中身はヤンマーの20馬力物でした。
 写真のトラクターは排ガスを出さない新世代トラクター?
070429l  毎年4月29日には正覚寺でお稚児さんのお祭りがあり、この縁日は植木屋が立ち並ぶので、私も植木目当てで何回か来たことがありました。

 実はこの日が正覚寺の縁日だったなんてことは咲く根まで知りませんでした。というより、昨年、こんなところにお寺があったのかと気がついた次第です。

 お稚児さんは一般募集しているようです。

07042919  昨年、この桜の木の下で「枝垂桜って美しい!」と感動してしまいました。

 風が強くて桜の花びらが舞う光景にすっかり魂奪われて、「日本人に生まれてよかったなぁ」としみじみ思ってしまいました。

 今年は昨年よりも早く桜が咲いたので「終わっているかな?」と期待していませんでしたが、この1週間ほど寒かったこともあり花が残っていました。

070429m  群馬県人なら太田の呑龍さまは子育ての神様として誰でも知っているところですが、沼田の正覚寺にも呑龍さまを祭ってあります。

 その「縁」もあって、子供のための縁日になっているのでしょう。

 地元で子供のための「縁日」として有名なのは春分の日と秋分の日に行われる茂左エ門地蔵の縁日ですが、こちらも大きな縁日です。

07042923 呑龍上人というのは、弘治2年(1556年)武蔵国埼玉郡で生まれ、江戸時代の初期に活躍した 浄土宗の僧侶です。

 各地を巡っ ては困窮する多くの 人々を救い、まずしい家の子供達を寺に預かっ ては、勉学の機会を与えたり、人々の悩み事の相談に当たった人物だそうです。

 昔なら「元気な子供に育ちますように」とお願い事もシンプルだったんでしょうが、欲望は限りないものです。

 「できれば優秀な成績で著名な大学に行って、上級試験に受かって役所に入り、事務次官になって、天下りを転々として退職金稼いで、私達に楽をさせてくれれば、その程度で十分です。」

 身の程をわきまえず、ささやかなお願いをしているのでしょうか?

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スペードの女王

2007年04月29日 | 日記・エッセイ・コラム

 プーシキンの小説に「スペードの女王」というのがあります。

  19世紀のロシアの首都ペテルブルグではファラオンという賭博性を持ったカードゲームが流行っており、夜な夜な夜の帳の中で人々はこの賭博に熱中していました。

 主人公のゲルマンは工兵の士官。そんな様子を毎晩眺めに来る男でしたが、「掛け金がないから」と自分ではやらない奇妙な男でした。なんとかして確実に勝てる方法はないか?ゲルマンはそんなことばかり考えていました。

 ペテルブルクに住む80歳の伯爵夫人がかつてベルサイユ宮殿でオレルアン公とファラオンで勝負をして、3回連続で買ったと言う話を耳にしたゲルマンは、何とかその秘術を聞き出そうと画策します。

 伯爵夫人にはリーザと言う養女がいました。ゲルマンは毎晩伯爵家の窓の下にたってリーザに恋の言葉を投げかけ、ラブレターを送り、努力の甲斐があってようやく家に中に入れてもらえるようになりました。

 ところが、ゲルマンの目当ては養女のリーザではありません。伯爵夫人の秘術です。家に入るとゲルマンはいきなり伯爵夫人の寝室に押し込み、ファラオンで勝つ秘術を聞きだそうとします。伯爵夫人はそんな秘術などないと突っぱねますが、ゲルマンはピストルを突きつけて「言え!」と迫ったとき、伯爵夫人は驚いて死んでしまいます。

 伯爵夫人のたたりを恐れたゲルマンは葬儀に行きますが、伯爵夫人の死に顔を覗き込んだ瞬間、死人が目を細めて一瞥したように思えて、慌てて家に帰り布団をかぶって寝込んでしまいます。

 窓に月明かりが刺す頃、ゲルマンの部屋に白い衣装の伯爵夫人が現れます。「3、7、1、この順に張れば勝てます。ただし一晩に張るのは1枚だけ。勝ったうえは生涯二度とカードを手にしてはいけません。そして、もうひとつ、養女のリザヴェータを嫁にもらってくれるなら、私を殺した罪は許します」

 そういい残して伯爵夫人の幽霊は消えてます。「3.7.1。3.7.1」何度も繰り返しながら賭場に行ったゲルマンは、最初の晩に大きな賭けでもうけたモスクワの男を相手に勝負し、「3」をはって勝ちます。

 翌晩は「7」をはってまた勝負に勝ちます。これはまさしく秘術だ!そう確信したゲルマンは最後の三日目に空前絶後の大勝負に出ます。

 伯爵夫人が言った「1」をはると、バクチの親の手札も「1」。まさしく伯爵夫人の言うとおりだったと思うゲルマンに、バクチの親がにっこり微笑んで「あんたの負けだ」。

 ゲルマンは自分の手札を見ると「1」だったはずがいつの間にかスペードのクィーンに変わっていました。そんなバカな?と思うゲルマンに対して、カードの中の女王絵が目を細めてニヤリと笑い、その顔は伯爵夫人に見えました。

 発狂してしまったゲルマンは精神病院のベッドの上で、「7.3.1。7.3.スペードのクィーン」とつぶやき続けています。

 さて、ロシアにはもう一つの「スペードの女王」があります。日本で言うならコックリさんとトイレの花子さんを合わせたようなものです。

 儀式に必要な道具はスペードのクィーンのカードと、ろうそくと鏡。時間は真夜中。その他地方によっていろいろローカルルールがあるので細かいところは違っていますが、カードとろうそくと鏡は必ず用います。

 呪文を唱えると鏡の奥にスペードの女王が現れ、予言をしたり恋の願いをかなえてくれたりするそうですが、鏡の中に魂が引き込まれて死んでしまうこともあるとか。朝、冷たくなっている少女の傍らには、鏡が落ちていたなどと言う噂が、何年かに一度小娘たちの間に流行るそうです。

 で、「スペードの女王は出てきたの?」と聞くと「本当に出て来たと言う話は聞いた事がない」です。

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端午の節句

2007年04月28日 | 日記・エッセイ・コラム

 端午の節句も近いので、まずはこの映像をお楽しみください。

 ♪ここをクリック♪

 5月5日の端午の節句といえば武者人形、こいのぼり、ちまき、背くらべなどを思い浮かべることでしょう。

 節句は中国から渡来したものですが、陰陽五行の国なので「五節句」といって五つの節句があります。五節句にもいろいろ説があって

 1月1日(春節)、1月15日(上元節)、3月3日(清明節)、5月5日(端午節)、8月15日(中秋節)。とする説や

 1月7日(人日節)、3月3日、5月5日、7月7日(七夕節)、9月9日(重陽)。とする説などが入り乱れています。(本来は旧暦)

 農業の視点からすると上の節のほうが農作業の骨休みにあうのですが、奇数の並びに特別な意味を見出す陰陽の視点では下の節のほうが理にかなっています。あるいは1月7日ではなく1月1日かもしれませんし、11月11日が入ってもおかしくありません。

 ハルビンでは今年の旧暦1月15日の上元節には「燈篭会」と呼ばれる、ちょうちんを飾る祭りが行われました。

 紀元前278年、(そ)の国の高名な詩人、屈原(くつげん)という男がいました。国王の信望も厚く庶民にも親しまれていましたが、陰謀によって国を追われることになり、失望のあまりに5月5日に汨羅(べきら)という川に身を投げてしまいました。(国が滅ぶことを悲しんで自殺したという説もあります)

 屈原の死を悲しんだ人々は屈原の遺体が魚に食われないようにと川にちまきを投げて魚のえさにしたそうです。また、汨羅江に多くの船を出し、屈原の遺体を捜しました。これが、今日端午節ちまきを食べたり「龍船」のレースをしたりする由来といわれています。

 端午節の日、どこの家庭でも玄関によもぎ菖蒲をぶら下げます。健康祈願のために子どもは体に「艾虎(虎の形をした匂い袋)」をかけ、男性は「雄黄酒」という酒を飲みます。

 こいのぼりにも二つの説があり、一つはよく知られている「鯉の滝登り」で、滝を登った鯉は竜になるといわれていることから、出世への縁起を担いだいわれです。これは江戸時代に日本で作られた言われのようです。それ以前はこいのぼりはなかった。

 もうひとつは屈原に由来したもので、人々が探せど見つからなかった屈原の遺体は大きな鯉に運ばれて来たとされ、屈原の遺体を届けてくれた鯉を祭って、鯉の形をした物を祭る風習が出来たという説です。

 中国から渡来した風習が日本独自にアレンジされて原型がよくわからなくなってしまいましたが、今年の端午の節句はこんな話も思い出してみてください。

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巨匠

2007年04月27日 | 日記・エッセイ・コラム

070428 ロシアの著名なチェロ奏者がムスチスラフ・ロストロポービッチ死去しました。
 ロストロポービッチは今で言うところのアゼルバイジャン出身の音楽家。

 「イワン・デニーソヴィチの一日」など長命な反体制ノーベル文学賞作家のソルジェーニツィンの窮状を見かねて自分の別荘を提供し、反体制的だと74年にソビエトから追放された人物でした。 
 一般人ならそのまま収容所送りだったのでしょうが、その頃は既に世界的に著名な音楽家になっていたのでソビエト政府もてを出せず、国外追放になったのでしょう。
 ソビエト崩壊後、ロシアに戻ってきました。

  音楽家のロストロポービッチはロシア市民にも広く知られて、親しまれていますが、作家ソルジェーニツィンは年配の人たちにとって「反体制」の認識があるのか、「恐い」というイメージがあるようです。
 ソルジェーニツィンがチェチェン人ということもありますが、ソビエトの暗部を描いた小説家なので、「隠れて読まなければならない作家」という意識があるようです。現在ロシアではソルジェーニツィン賞と呼ばれる文学賞も設立されています。

 ピアノのリヒテル、バイオリンのヤンシャ・ハイフェッツなど「巨匠」と呼ばれる人たちが次々と奇跡に入り、最近のクラシック界は若い先鋭たちが新しい感性で、新しい時代を切り開いているように感じます。

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新郎新娘

2007年04月26日 | 日記・エッセイ・コラム

 日本では結婚する男女を新郎新婦と言いますが、中国語では新郎新婦新郎新娘と呼びます。その語源は中国の昔話に原点がありました。

 昔、三人の誠実な靴職人がいて、ある日、三人が街を歩いていると「有志不在年高 無志空長百歳」(志があれば年齢など関係ない、志がなければ百歳になっても無駄なこと)と看板を掲げてる家が目に止まりました。

 一番年長の職人が「この家には非凡な才子がいるに違いない」というと、二番目の年齢の職人が「質素なあばら家だけど、人窮志不窮(人は貧しくても志は貧しくない)」といいました。

 三人はどんな人間がいるのか家の中に入っていきました。その貧しい家の中には独身の美男子がいました。その青年の名は新郎(シンラン)。早速三人は新郎の才覚を試すことにしました。

 「お互いに一つづつ頼み事をして、それをかなえられるかで勝負しようではありませんか」

 三人は新郎に提案しました。新郎は「君子は客に先を譲るのが礼儀ですから、皆さんが先攻してください。」と受けました。三人はそれぞれ新郎に難解な課題を出しました。

 一番年長の職人は「太陽くらいの大きな饅頭を作ってください。」

 二番目の職人は「海の水と同じ量の油を甕に入れてください。」

 一番若い職人は「道の長さと同じ丈の布を織ってください。」

 課題の品物は翌日までに用意することになりました。翌日、三人が新郎の家に行くと、新郎は何事もないように落ち着き払っていました。

 一番年長の職人が「太陽の大きさの饅頭はできましたか?」と聞くと

 「小麦粉をたくさん用意してありますので、太陽を持ってきてください。その大きさにあわせて作ってさしあげます。」

 「後日持ってきますので、今すぐに作らなくても結構です。」一番年長の職人は困ってしまいました。

 二番目の職人が「それでは海の水ほどの油を甕に入れてきてくださいましたか?」と聞くと

 「準備はできていますが、海の水の量がどのくらいあるのかわからないので計ってきてください。そうすれば、その量だけの油を甕に入れてさしあげます。」

 地学的に海水の容量が計算されていなかった時代ですので二番目の職人も困ってしまいました。「私のはそんな暇がないので甕に入るだけ入れればよい。」と引き下がってしまいました。

 三番目の職人が「道の長さほどの布は織りあがりましたか?」と尋ねると

 「もちろん織りあがっています。道の長さを図ってきてくださればその長さに切ってさしあげます。」

 国土交通省も道路公団もない時代なので道の長さなど図りようもありません。三人は新郎を困らせるどころか反対に問い詰められてしまいました。

 さて、今度は新郎が三人に課題を課す番です。

 「お三方、私は六証が欲しいのです。どうか見つけてきてください。」

 三人には六証が何のことかわかりません。方々の町をたずねて、いろいろな店を回ってみましたが見つけることはおろか、六証が何かを知ることもできませんでした。

 三人は町から遠く離れた山奥に行けば何かしら手がかりがあるかも知れると、いくつもの山を越え、川を渡り、一面に花が咲いている渓谷にたどり着きました。

 川のほとりで年のころなら17-8歳の娘が洗濯をしていたので三人は声をかけました。

 「娘さん、お名前はなんと申される?

 「新娘(シンニャン)ともうします。何か御用ですか?」

 「私たちは六証を探してここまで来ました。もしあなたが持っていらっしゃるのならぜひとも分けていただきたい。お金ならいくらでも出します。」

 新娘は六証を買うという3人の話を聞いて笑い出しました。「はるばる遠くからいらしたのですから売ってあげましょう。」

 と、三人を家に案内しました。新娘は部屋の中から升・はさみ・鏡・そろばん・ものさし・はかりを一つづつ持ってきました。三人はあわてて

 「何を勘違いなさっている、私たちが探しているのは六証です。」

 「六証とはこれらのことを言うのですよ。穀物の分量を証明するのは升。着物の作り方を証明するのははさみ。容姿の良し悪しを証明するのは鏡。帳簿の計算を証明するのはそろばん。布の長さを証明するのはものさし。物の重さを証明するのははかりです。」

 三人はこれだ!と悟って新娘にお金を払い六証を譲り受けて一目散に新郎の元へ行きました。

 新郎は「六証」を見て、世の中には自分よりも賢い人がいることを悟りました。そして、三人にこのことを教えた新娘の才学をうらやましく思い、三人にぜひとも仲人をお願いしたいと頼みました。

 もとより善良な三人は喜んで引き受け、再び山を越え川を渡り新娘のところに伝えにいきました。新娘は新郎の才覚を試そうと思い、三日で頑丈な家を作って欲しいと歌を送りました。

 窓も門も要らない 柱も瓦も梁もない 上も下も木とは縁がない 自然にできた石の壁

 三人はこのことを伝え、いくらなんでも難問過ぎるのであきらめるように新郎に薦めました。ところが、新郎は

 「新娘を迎えてください。そして、お三人にはめでたい酒をご馳走いたします。」

 新郎は山に行きいばらを切り開き草を刈りとり、格好の洞窟を見つけました。新娘は新郎の才覚を認めていっしょになり幸せな日々をおくりました。

 

 今でも中国では新婚夫婦の部屋を「洞房(トンファン)」と言うのですが、この物語からできた言葉です。今では簡略化されましたが、仲人には夫の代表、妻の代表、中間でまとめる役の三人の仲人を立て、これを三媒(サンメイ)といいます。机の上には六証升・はさみ・鏡・そろばん・ものさし・はかりを飾ります。この手続きを踏んだ結婚のことを「三媒六証」といい、一番正式な結婚といわれています。

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与謝野晶子

2007年04月25日 | 日記・エッセイ・コラム

070426  旅に立つ

 与謝野晶子

 いざ、天の日は我がために
 金の車をきしらせよ、
 颶風(ぐふう)の羽は東より

 いざ、こころよく我を追へ。
 黄泉の底まで、泣きながら、
 頼む男を尋ねたる、

 その昔にもやや劣る。
 晶子や物に狂うらん、
 燃ゆる我が火を抱きながら、
 天がけにゆく、西へ行く、
 巴里の君へ逢ひに行く。

 源氏物語の口語訳を手がけて捻出したお金で、夫の与謝野寛をパリに送り出し、その後を追って晶子自信が万理に向かった時、最初に立ち寄ったのがウラジオストク。
 与謝野晶子はウラジオストクからシベリア鉄道に乗ってパリへ向かいました。

 極東大学にこの情熱的な詩の歌碑があります。もちろんロシア語の訳文つきです。

070426a_1  この当時の与謝野晶子は恵まれた状況ではなく、ロマン派文学の人気も落ち「明星」は廃刊になり、夫の与謝野寛はぐうたら生活に陥ってしまい、さらに子沢山。

 「金のために」と気乗りしないまでも「源氏物語」の口語訳を手がけ、そのお金で夫をパリ留学に送り出した激動の時期です。

 夫の後を追って列車を乗り継いでパリまで向かう最初の地がウラジオストクでした。

 あの時代「意思を持った女性」の代表でもあった与謝野晶子ですが、妻であり、母であり、家庭の大黒柱で、そこまで貫いたから敬意を持たれ評価されるのでしょう。「身勝手」と「自立」を取り違えた人たちと違うところは「~のために」という行為があるかないかだと思います。

 考えてみれば与謝野晶子がやらかしたことだって、妻帯者の与謝野鉄幹を寝取ってしまったり、「やわはだの あつきしちおに」と歌の秩序を覆してしまったり、「君死にたまうことなかれ」と反戦を高らかと謳いあげてみたり、当時の常識とはかけ離れたことをやっていたのですが、捨て身で通すべき筋を通し、果たすべき義務を果たしていたから誰しも認めるのでしょうね。

 与謝野晶子の名を借りて自分の「我侭」や「功名心」を押し付ける者のなんと多いことか。虎の衣を狩る狐達。

 与謝野晶子は私の村にもゆかりのある歌人です。与謝野晶子が法師温泉で読んだ歌。

 草枕手枕に似じ借らざらん  
 山のいでゆの丸太のまくら  

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王様と私

2007年04月24日 | 日記・エッセイ・コラム

040724 映画 「王様と私」をビデオで見ました。映画で使われている名曲「シャル・ウィー・ダンス」は、日本でダンスブームを引き起こすきっかけになり、日本で作られた映画「シャル・ウィー・ダンス」のストーリーがハリウッドやディズニーで映画化されるなど、「名作は多様な形で甦る」と実感しました。

 主演のユル・ブリンナーは知っていましたが、教師役の女優は誰だったっけ?と思い出せませんでした。デボラ・カーですね。

 ユル・ブリンナーといえば独特のスキンヘッドで「十戒」や「王様と私」や「荒野の七人」などで活躍する姿を思い浮かべることでしょう。

 個人的に一番印象に残っているのは皇女アナスターシアを扱った「ANASTASIA(追想)」で、イングリット・バーグマンが出ているからです。

 個人的に、イングリット・バーグマンやオードリー・ヘップバーンが出ている映画はつまらなくても「名作!」と言えます。

 ユル・ブリンナーの数奇な生い立ちも魅力的です。

040724a  ユル・ブリンナーは幼少のころに京都に住んでいたことがあるそうで、日本にもなじみの深い役者でした。その生い立ちにも諸説がありますがソビエト生まれといわれていました。一説には樺太生まれの日本人とのハーフという説もありました。

  1989年にユル・ブリンナーの息子が彼についての本を出版して、生まれたのはウラジオストクということが判明しました。 

 彼の息子の書いた本によれば、父親はモンゴル系スイス人、母親はユダヤ系ロシア人でウラジオストクで生まれたのだそうです。ロシア名ユーリー・イワノビッチ・ブリネル。

 ルーマニアのジプシーの血を引くとか、オーストリアのアジア人の血を引く、フランスのジプシー、ウクライナのコサックなどいろいろな説があったのは彼の容姿のみならず出生もミステリーにすることで人々の注目を集めるためだったようです。

 よくよく思い返してみるとスキンヘッド以外にも独特な風貌を持った役者でした。「十戒」ではエジプトの王を演じていましたが、エジプト人のようにも見えましたし、西洋人といえば西洋人に見えますし、不思議な役者さんでした。

040724b 左の写真はユル・ブリンナーが生まれた家だそうです。トランバイ(路面電車)の架線が写っているので、スベトランスカヤ通りから極東技術大学に向かうあたりだと思います。

 この石垣は見覚えがあるので、革命戦士広場の近くのような気もします。

 現在は船会社の事務所になっているようです。ブリネル家もまだウラジオストクに親戚が残っているそうです。帝政ロシア時代には貿易商をしていた家系だそうです。

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エリツィン死す

2007年04月23日 | 日記・エッセイ・コラム

 平凡な天才よりも非凡な狂人を好むロシア。

 ソ連を崩壊に導いたボリス・エリツィン元大統領が亡くなったようです。元々、エリツィン元大統領在任中から心臓に持病を持っていて、在任中に死ぬのでは?なんて話題になったこともあります。

 社会主義革命以来の激動の時代を乗り越えたすごい政治家ではないのか?と思うのですが、「ただ単に混乱を導いただけ。」とロシアの友人たちは冷ややかです。

 確かに、あの時代はひどかったけど、この大統領は面白いキャラクターを持った人物でした。
 ソビエトの議員時代には川の中から這い上がってきて「暗殺未遂」?と噂が立ち、後年の手記で実は酔っ払って川に落ちたことが判明したり、ゴルバチョフ時代の節酒時代には故郷エカテリンブルグで密造ウォッカ作りに精を出していて、パンの耳でろ過したウォッカがおいしいということを発見したり、ロシア大統領としての活躍もご存知のとおりです。

 私達の目には秩序崩壊したロシアの姿が印象的ですが、「苦しくても後戻りはできない」と「自由」を模索していた時代だとも思えます。

 今もロシアの税制はメチャクチャなんですが、エリツィン時代はもっとすごいもので、まともに納税すれば売り上げよりも税金の額が多くなるといわれていました。

 ピョートル大帝は「髭きり」で有名ですが、これも実は税金対策で、都市部では髭を伸ばした人から税金を取りました。財政が苦しくなると思いついたことに税金をかけるので、他にもスイカに税金をかけルナ殿暴挙をやらかしたものの、「自分の名前を書けない女性は結婚する資格が無い」と女性に教育を受ける機会を作り、今日のロシア女性の高学歴化の基盤をつくています。

 いいこともあれば悪いこともある。ある一面からは良いことでも、反対側から見れば悪しきこと、物事裏表があるもので、エリツィン時代の混乱がなければ、今日の繁栄もなかったのでは? 

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悲恋歌

2007年04月22日 | 日記・エッセイ・コラム

 4月15日の日記の中でギリシアの大歌手ハリス・アレクシーウについて触れましたが、今日はそのハリスアレクシーウが作ったとされる「悲恋歌」を紹介します。濃い恋の歌ですが、私のお気に入りの一つです。

 ♪ここをクリック♪

 映像の中で歌っているのはMerina Kanaギリシアの歌手。

 ギリシア音楽はアラブやエジプト風の曲も多く、Merinaはこうした歌をどちらかと言うと得意にしている歌手だと思います。

 「悲恋歌」はちょっとモダーンで中東風な雰囲気を持ったメロディーではありませんが、美しいメロディーにアンニュイが漂い、オトナの歌の雰囲気を持っています。

Μουσική - Στίχοι: Χάρις Αλεξίου

Σ' ένα μινοράκι σ' έβαλα κρυφά
πάλι η μουσική θα κάνει θαύματα
γιατί σε θέλω
Της ψυχής μου ο ήχος είν' αυτός που ακούς
σε παραπλανώ με στίχους ψεύτικους
γιατί σε θέλω
Έτσι βγαίνουν τα τραγούδια μάτια μου
σε γνωρίζει ο πόνος κι έρχεται κοντά σου
ακουμπάει το χέρι πάνω στα μαλλιά σου
κι έτσι κάνεις κουράγιο
και τραγούδι άγιο
Το τραγούδι μου γλυκό λυπητερό
καρυάτιδα να γίνω δεν μπορώ
για να με θέλεις
Μια φωτογραφία μου παλιά κρατάς
δεν της μοιάζω πια γι' αυτό δε μ' αγαπάς
αχ....δε με θέλεις
Έτσι βγαίνουν τα τραγούδια....
Χίλιες νύχτες κι άλλες τόσες σ' αγαπώ
με θυμό με τρέλα με παράπονο
πόσο σε θέλω
Μέσ' στο μινοράκι κρύφτηκα κι εγώ
στης μειοψηφίας το μικρόκοσμο
γιατί σε θέλω
Έτσι βγαίνουν τα τραγούδια

悲恋歌  ハリス・アレクシーウ

ある悲恋歌の中で内緒であなたのことを歌ったの

そうしたらこの歌はとても素晴らしくなったの

だってあなたが欲しいから

あなたが耳にするのは私の魂の奏でる音と

嘘めいた歌詞で惑わす

だってあなたが欲しいから

*こうやって愛の歌は生まれるのよ

心の痛みがいつか慣れたころ

あなたの髪に触れ

そしていろいろな苦労をして

聖なる歌の証となるの

私の歌は辛口甘口

カリディアスにはなりたくてもなれない

あなたがそう望んでも

昔の私の写真をまだもっているのね

今はすっかり変わってしまったわ

だからもう愛していない

もう寂しくないのね

*くりかえし

千夜、それよりももっと愛しているわ

怒っても、羽目をはずしても、頭にきても

それでももっとだってあなたが欲しい

悲恋歌の中に私自身も隠した

狭いスポット、狭い世界の中に

だってあなたに側にいて欲しいから

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密輸?

2007年04月21日 | 日記・エッセイ・コラム

070421k  大きな声では言えないので、小さな文字で書こうと思いましたが、読みにくいでしょ。だから、普通の大きさで書きます。

 マレーシアのコンテナーを出す日でした。

 トランクの中に彼らが丁寧に詰め込んでいたのが日本のエロ本。あちらではご禁制の品。

 日本人っていい人たちだなぁ。「なんだ、そんなものが欲しいのか!協力しよう!」と家にエロ本を取りに行く人までいて、集まったエロ本が数十冊。「スケベの本、見つかったら大変よ。タイホ、タイホ。」とそれをトランクの底に丁寧に並べて、シートをかぶせて、その上にヘッドライトやスイッチなどの部品をたっぷり詰め込んでトランクを閉め、コンテナーに積み込みました。

 「社長の人部品を待ってる。でも、働くの人スケベの本待ってる。これ、みんなのボーナス。」ボーナス現物支給!エロ本?

 週刊現代や週間ポストまで彼らの言う「スケベの本」に含まれていたのには驚きましたが、どうせ記事なんか読まないので、前後のグラビアだけで「スケベの本」と判断したんでしょうね。

 それこそスケベ心で辞書を片手に「いつ卑猥なシーンが出てくるだろう?」と”安部内閣の支持率低下を追い風に、政権交代の足がかりとしたい民主党は・・・”なんて記事を翻訳していたら?笑っちゃいますが、やらかしそうな人たち。

 日本ではエロ本を輸出してもココム違反になりませんし、ボカシやモザイクのかかった日本のエロ本では軍事転用は難しいでしょう。それでも、向こうではご禁制の品物を詰め込んだのですから、考えてみれば、私も密輸に手を貸したことになります。

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カウンターテナー

2007年04月20日 | 日記・エッセイ・コラム

070420  Олега Безинских (オレグ・ベジンスキー)。

 ロシアのカウンターテナーの歌手です。カウンターテナーとは男性が女性の領域の音域まで出せるファルセットの使い手で、日本でももののけ姫以降注目されるようになりました。

 その昔、教会音楽は男性のコーラスが主流だったヨーロッパではボーイソプラノの少年が変声期を迎えないようにと、玉を取ってしまったそうで、こうしたカウンターテナーの人を「カストラート」去勢と呼びました。

 今は人権問題なので、カストラートのカウンターテナーなど存在しないそうで、こうした人たちは特異の才能を持った人たちです。

 低音域の声は持って生まれた素質に左右されますが、高音域は鍛えると出すことができるのだとか。

 ベジンスキーをロシア人が発音すると「ビェジンスキー」で、日本人には「美人好きー」に聞こえるかもしれません。

 が、本当に美人とデュエットしている映像を発見しました。

 ♪ここをクリック♪

 トマソ・アルビノーニのアダージョ。有名な曲です。一緒に歌っているのはザーラというロシアのポップス歌手です。一瞬エリザベス・テーラーが演じるクレオパトラか?と思える美しさ。

070420a  ザーラはロマ(ジプシー)の血を引く女性で、中央アジア風の旋律を持ったポップスを得意としているようです。大学ではペルシア語を専攻していたとか。

 アルメニア人だろうか?トルクメニスタン?グルジアだろうか?なんて最初はいろいろ想像してしまいましたが、私も美人好きー?

 そりゃ、音楽的にはベジンスキーのほうが一枚も二枚も上なんでしょうが、やっぱ、健康的な私にはベジンスキーよりもザーラのほうがいいもの。

 昔から言います。健全な女体には健全な精子が宿る!体を鍛えましょう!

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モンゴル人

2007年04月19日 | 日記・エッセイ・コラム

070419  モンゴル人にバイヤーが中古自動車の部品を買い付けに来たので案内しました。

 私がモンゴル語ができたりロシア語が喋れたりで、すっかり打ち解けてしまいましたが、私がウランバートルで富めっていたアパートの窓から見えるアパートの住人で、「世界は狭い!」と驚いていました。

 日本人と見てくれがにているので、ちょっと見た目はいかつい日本人ですが、体つきや歩き方ですぐにモンゴル人とわかります。典型的なのが横綱朝青龍。彼の上半身に力が入った歩き方はモンゴル人男性の特徴的なスタイル。

070419a  嬉しいとすぐ態度に出てしまうのも彼らの特徴かもしれません。

 ガンタン・テグチンレン寺の話などをしたら「お前はチベット仏教に理解がある」とすっかり喜んでしまい、踊るように嬉しさを表現していました。

 彼らのこの人間臭さがたまらなく魅力的です。

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人間の条件

2007年04月18日 | 日記・エッセイ・コラム

 9時間にも及ぶ長編映画に小林正樹監督の「人間の条件」という名作があります。一度深夜映画館で見たことがありますが、6時間ほどは寝ていたような気がします。後にビデオを借りて1週間ほどかけて見直した映画です。

 満州に農業技師として渡った主人公が徴兵され、敗戦を迎え、シベリアの捕虜となり、妻の元に帰りたい一心で死に物狂いで脱走したものの、雪原の中で果てていく物語ですが、「何のために」「誰のための戦争」と突きつけられる、重い映画でした。

 「日本でこんな事件が起きるとは思わなかった」と、ウラジオストクの友人は長崎の元市長銃殺事件に衝撃を受けたそうです。
 実はこの手の事件はロシアでよく起きている事件で、かく言うウラジオストクでも市長候補者が暗殺される事件が起きています。

 強者による弾圧はテロを生み出すことになりますが、強いものに虐げられる者と、自分の思い込みや身勝手が通らないことでへそを曲げるものは大きく異なります。
 この犯人は市役所に言いがかりつけてそれが通らないからと強行に及ぶ後者の方で、「暴力団組員」という分かちやすいカテゴリーに属していたとは言え、こうした強行に及ばないまでも、最近、ごねれば身勝手が通ると振舞う人が少なくないなと感じています。

 些細なことかもしれませんが、ファミレスで夕食を食べていた時のことです。ドリンクバーの飲み物がセルフサービスなので、これはファミレスでは珍しいことではありませんが、隣の席で威張っている人がいました。
 ウェイトレスを呼びつけて「何で客に持ってこさせるのだ?」と大声で怒鳴りつけていました。「俺はこれだぞ!」と障害者手帳を出し、がみがみ威張っていました。
 普通に歩いて入ってきて、どこが悪いのかわかりませんが、障害者なら障害者で先に「こういう事情で自分でとりにいけない」といえばウェイトレスでも周囲の席の客でも快くドリンクバーに行ってくれると思うのですが、自分の欲求不満のはけ口に言いがかりをつけているように思えて不快になりました。この客と一緒に来た同行者もいましたが、どう見ても普通の人で、申し訳なさそうな顔をして視線をはずしていました。

 自己中心的な言い分に賛同どころか理解する人もいないのは世の常。長崎の犯人も、アメリカの大学の銃撃事件の犯人も、根底では同じ穴のムジナで、思い込みと妄想の行き着く我侭の産物で、どちらも「人間」のありかたをはずしています。

 「人」と「人」の関わりがあって「人間」なんですから、「人」であることと「人間」であることは大きく違うなと感じました。

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米つくり

2007年04月17日 | 日記・エッセイ・コラム

 米作りが始まる季節になってきました。

 あれほど物議をかもした米の輸入自由化ですが、結果的に良い米は高く売れ、そうでない米は売れないとはっきりしたことや、それでも輸入米は売れないと消費者の意向が反映されるようになっただけに思えます。

 かつて日本の開拓団が入植した不毛の地、中国の東北部。現在では一大米の産地になっています。

 戦前、多くの日本人の開拓団がたくさん入植していましたが、疲弊する農村人口を言葉巧みに海外へ映しただけの国家的だまし討ちのようなもので、何の物資的バックアップもせず、精神論で開墾させていたのですから悲惨な話です。

 農民達も開墾するまでが精一杯で、コーリャンやライ麦など寒冷地での作物が作れた程度で、水稲を作るまでには至りませんでした。

 もとより稲は中国南の農作物で、そのために米を使った料理は南、北は麦を使った料理と分かれています。

 日本人開拓団の基礎はあったとは言え、10年やそこらで開墾も技術の定着もできるものではありません。

Beisaku 現在の黒龍江省に田園が広がる背景には、戦後一人の日本人農民の献身的な技術導入がありました。

 岩手県の沢内村出身の藤原長作さんという篤農家が黒龍江省に日本の水稲栽培の技術を伝えに旅立ったのは1981年ことでした。

 藤原さんは稗や粟しか取れなかった沢内村の土地を、豊富な米が取れるまでに品種改良や耕地の改良を苦心してきた人でした。

おりしも、米あまりに陥った日本では「減反」政策の嵐が吹き荒れ、農家が米を作ることが行政にとって悪いことのような押し付けがありました。

 日本の米作者にとってこれほど人をばかにした政策もなく、米は全て食糧庁のおめしあげで、米を出荷する事は「供出」などとよばれていました。しかも、10年前に冷害が一度起こっただけで米不足、外国米の輸入自由化、まったく機能をしていなかった食糧庁は解散し、米の価格も完全自由化になりました。

 が、1981年当時は米作りにまったく意欲がわかないほどの社会状況でしたし、農家が米を作るのは田んぼの維持や、長年の習慣のような部分もあったように思えます。

 藤原さんは日本のこんな状況に失望して日中友好協会の招きで黒龍江省に米作の指導に来た感じもします。

 最初に訪れたのが方正県の富余村で、この地の農家の田んぼを借りて生産性の高い水稲作りの実験が始まりました。当初は藤原さんが68歳の老人だったこともあり、農家がなかなか信頼せず、県が損害が出た場合の費用を保障して田んぼを借り受けました。

 当時の田んぼつくりは水田に種籾を直播する原始的な農法で、手間はかかりませんが込み合いすぎて病気が出やすかったり、村が出たりする農法でした。イモチ病になるにはもってこいの農法です。温暖な南のほうでインディカ米を作る場合は直播でも問題ないのですが、ジャポニカ米は病気に弱いので健康な稲を育てるところから始めなければなりません。

 畑に稲もみを播種し、ビニールシートで覆って発芽させ、15cm程度に育ったら間隔を保って稲を植えつける日本式の栽培技術ですが、農民の目には間隔を開けて田植えをする日本式の農法には、収穫量が減るのではと懐疑的だったそうです。

 当初は話半分に傍観していた農民たちもだんだんに藤原さんの熱意に引きずられるように興味を持って行きます。収穫高も彼らが今まで行って板のほうとは比較にならないほど良かったこともあって、次第に藤原さんのところに農法を学びに来る農民が増えてきたそうです。藤原さんにとっても学びに来る人たちの熱意が嬉しかったそうです。

 冷害に強く、収穫も高い日本式農法の導入で米作の機運は一気に高まり、わずか5年間で方正県の田んぼの面積が7倍になり、中国でも有数の米の産地になりました。ここで取れた米は中国国内はもとよりロシアやヨーロッパにも輸出されているそうです。

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