東日本大震災の復興のお手伝いに行ってきました。
この土日で高速道路1000円乗り放題が終了してしまうこともあって、東北自動車道は各地のナンバーの自動車で混雑していましたが、仙台で降りると地元車両以外をあまり見かけなくなりました。
仙台から海辺に向かい、多賀城、松島を経て海辺を北上、女川町まで行きました。
私の山岳会の先輩が、近隣の市の元消防団長で、この市の消防団が被災地に支援物資を配達に行くと言うので、その手伝いに誘われくっついていきました。
どうしても写真のような光景にばかり目が行きがちですが、わずかな差で津波や浸水を免れた土地もあり、それが少しばかりの標高の差や、波の障害となる建物や島などがあったり、ほんのわずかな差がまさに、明暗を分けた場所もあり、今回は津波に乗り越えられてしまったが、防波堤の持つ意味の大きさを感じました。
太平洋側を走る道路が防波堤を兼ねており、もちろん、それを乗り越えて波が押し寄せた場所や、この防波堤道路をくぐる道路から波が入りこんだ場所もありましたが、道路の海側と山側では待った個光景が違う場所が多かった思いもします。防波堤道路の西側では田んぼに稲が植えられ、東側では荒涼とした瓦礫の台地になっている土地も多く、小さな抵抗でしかなかった防波堤も決して無駄ではないと思います。
東松島の食堂で少し早い昼飯を食べましたが、食堂で地元の家族が震災孤児の話をしているのが耳に入りました。
「里親を探すって言っても、そんなに簡単じゃないだろうから、あの子はどうなるんだろうね。」と、聞き耳を立てながらも胸が締め付けられるような会話でした。
食堂のお姉さんに「このあたりは津波にやられなかったの?」と聞くと、「水をかぶったけど、津波は来なかったわね。」
「水をかぶる」と津波が来る」は彼女の概念の中では異なるようで、浸水したのが「水をかぶる」建物などが押し流されたり倒壊することを「津波にやられる」と分けているようです。
雑草の生命力はすごいもので、塩害が取りざたされる土地でも青く芽吹いていました。海水をかぶったスギなどは赤く立ち枯れていました。
意外に強いな!と感心したのはサクラの木で、一見海水に使ってかれたかのように見えて、新しい目を吹いていたり、明らかに津波が押し寄せた場所でも花が咲いたのか、桜の実がなっている木もありました。潔さが売りのサクラですが、日本人の強さを垣間見ました。
津波の後に起きた火災にやらた地域。
大方の瓦礫は撤去されていましたが、まだこうして残った建物などが目に入りました。
特に印象的だったのはプロパンガスのボンベが中から裂けたものが残置されていた光景で、一箇所に集められていましたが、大きな爆発があったことが想像されます。
女川に向かう途中松島を通りましたが、天然の防波堤となった島々に守られたとは言え、津波にやられれた建物も目に付きました。
それでも、復旧して営業を再開した店や、遊覧船も動いており、観光地として息を吹き返していました。
歌に唄われる瑞巌寺の入り口の写真です。お参りして行きたかったのですが、観光客で駐車場が一杯だったので、今回はあきらめました。
津波の被害にあった自動車も、多くは回収されて置き場に山積みされており、解体業者による搬出も勧めているようですが、まだ街のあちこちにぐしゃぐしゃにつぶれた自動車が放置されています。
津波で押し流された漁船などが住宅地にそのまま放置されている光景も多々ありましたが、所有権などの問題などもあり、簡単に撤去できない問題もあるようです。
東北電力の女川原発はこの山の中に在ります。津波の被害どころか、地元の人が津波から逃れるために逃げてきた場所です。
現場を理解している設計者のちょっとした配慮がこのたびの震災で福島と明暗を分けた思いもします。
この港湾から振り返って内陸側を見ると背筋が凍るような光景で、津波がこんな高さまで来ていたのか?と驚かされました。
コンクリートの建物が基礎の杭から引き抜かれるように倒れ、三階建てのビルの屋上の手すりが郡谷李と曲がっている光景などがまだ残っていました。
瓦礫を満載した大型ダンプがひっきりなしに走って、撤去作業が進んでいました。
この写真の奥に見悦総合運動場に最後の支援物資を届けて私たちの役目は終わりました。
私と元消防団長の先輩は一考とは別に自家用車で来ていたので、女川町から海側を通って福島県へとを経由して帰るルートを選びました。
報告は後日です。