もうすぐひな祭りなのに真冬の寒さです。
「そういえば浅間山荘のあった年もこんな寒さだったな。」と60代の男性が話していました。
浅間山荘突入は1972年2月28日。この年はうるう年で札幌オリンピックがあった年でした。41年も過ぎていたんですね。
浅間山荘事件が起きるまで連合赤軍のリンチ事件が明らかになって、この山奥に隠れているかもしれないと大人たちが神経質になっていた時期でした。
私は小学生でしたが、学校のテレビ室でこの事件を見ていました。確か校長の鶴の一声で、授業を中断してテレビ室に集められました。
果たして学校側にどんな意図があったのか?そんなことはまったく気にしていませんでしたし、授業よりはテレビのほうが楽しそうなので喜んで山荘が壊される様子を眺めていました。
今になって思い起こせば、僻地教育に意欲を持った日教組教師が多数この山奥にもやってきた時代でしたから、あるいはこの教師に対して「お前らのやろうとしていることはこういうことだ」と言うメッセージだったんではなかろうか?
彼らは何をしたかったのだろうか?わりとこのあたりがあいまいで、何をやらかしたかばかりが表に出ます。何をやりたかったのか?根底にあったのは妬みでしょう。それを借り物の大儀や平等なんて美名で正当化し、正義を疑うことをしない。
ある意味この3年少々で日本をがたがたにした政権と流れているものは同じでしょう。
妬みです。アンチテーゼを叫ぶのは上手でも自分がテーゼになったら何もできない。そりゃそうです何をしたいのか構想を持っていないのですから、人が作ったものにケチをつけることしかできない。
そう考えてみると、あの頃「出る釘は打たれる」ではないけれど、ぬきんでたことをやるとこっぴどく叱る先生がいました。才能の芽を摘みバカを優遇して「平等」を唱える人物がいましたわ。確かに息苦しくて面白くない1-2年でしたあの時代は。
ところで、あの年は寒い冬だったんだろうか?雪は少なかったような記憶はあります。集団就職なんてものがまだあった時代で、同級生のお姉さんが集団就職で東京の工場に行くなんて話していたのを思い出しました。こうした若者の都会からの仕送りで農村が成り立っていた時代でもあったんですね。
あの時代と同じくらい静かな冬になったのは不景気のせいかもしれませんし、若い人が村を出て年寄りばかりになったためなのかもしれません。