私が学生時代、山岳部の先輩に、妙に熱い男がいました。真面目で几帳面で熱心で、スポーツマンの爽やかを通り越して濃くなったような男でした。顔も濃かったけど。
この濃い先輩が女性を紹介され、一本気な人ですから当然熱心に一本やりで、レンタカーを借りてデートに行きました。几帳面な人ですから、”何時何分どこを通過”と自分の想定する行程を時折腕時計を見ながら確認し"異常なし!"。
登山ならこれでも良いのですが、デートの最中に頻繁意図形を気にされると女性も「私のこと気に入らないのかしら?」と思ってしまいます。彼にすれば何時何分にどこにいたと、女性のご両親に言えるよう確認しながらのデートだったのでしょう。
「あなた、さっきから時計ばかり見ているけれど、なにか他の予定でもあるの?」と怪訝に思った女性が聞くと、「何を言っているんだ!君と一緒にいるときに時間なんか関係ない!」といきなり腕時計をはずして自動車の窓から投げ捨ててしまいました。
あまりの濃さに女性が尻込みし交際はたち消えになったと聞いたとき"さもありなん"と思いましたが、卒業してから程なく、どこでそうよりが戻ったのか?いつの間にか結婚していました。
ロシアのことわざにこんなのがあります。”Счастливые часов не наблюдают.(幸せな人は、時計を見ない)”
交際相手の女性が1-2週間の滞在で日本の生活を見に来る時、最初は長い日程をどうやって過ごそうか?と策が尽きる思いがするものです。"案ずるより生むがやすし"で気がついて見ると決められた日程は終わり、帰国の途に着くお相手を見送る日が来ている。
見送って時が立つごとに「なんて短い時間だったのか」と思い返すものです。
後になって「ああすればよかった」「こんなこともできたのに」と悔やむものですが、思ったことの半分もできれば良いほうで、思い残したことがあるからこそ次回につながるものです。気に病まずに次にあったときへのエネルギーになるものです。
”歳をとる”この言葉は決して肯定的に受け止められていない言葉になってしまいましたが、時間は積み重ねていくもので、”歳を纏う”と表現できたら格好良いですね。”歳をとる"ということは決められた人生の末路からの残り時間を模索しているようにも思えます。
時間は無表情に過ぎていくものですが、共に過ごした時間は増えていくだけで減る事はありません。
野球の打率は10割から減っていくもので、一つの凡打で10割は水の泡になってしまいますが、ホームランは積み重ねていくものです。
そう考えてみると、共に時を過ごすことのみならず、年齢を重ねることも奥行きを深めるためにはとても意義があることと信じて、また時を過ごしています。