のすたる爺や

文明の果てなる地からのメッセージ

雑煮

2008年12月31日 | 日記・エッセイ・コラム

 朝、何を勘違いしたのか?年が明けたものと勘違いしていました。

 前橋方面で開催されるニューイヤー駅伝を見ようとテレビをつけていましたが、バラエティー番組で「この一年の十大ニュースは」なてやっており、あれ?なんか今年はおかしいな?と感じ、いくつかチャンネルをまわしてみると、どうやらまだ年は明けていない模様。

 そういえばまだ大晦日恒例のK-1も見ていなかった。何で年が明けたと勘違いしたのだろう?夢でも見て1日ずれたのだろうか?

 午前中は家にいたので人と会って「明けましておめでとう」を言わなかったのは幸いでしたが、なんだか1日もうけたように思えました。

 夕方、明日の雑煮に入れる具をきざんで、鍋で煮て用意をしました。大根、ゴボウを中心に塩引き鮭が欠かせませんが、叔母の説によると人参も入れるのだとか。父が人参嫌いのために、我が家では人参が雑煮の具から姿を消していますが、本来は人参も不可欠なんだとか。

 年越し蕎麦などとうに食べてしまったので、結局、味見と称して雑煮を食べて夕食にしました。

 決して良い一年ではありませんでしたが、おかげさまで何とか越すことができました。ありがとうございます。

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陸軍中野学校

2008年12月30日 | 日記・エッセイ・コラム

 昨日オートバイでひっくり返っていた90代のお年寄りですが、夜中の2時過ぎに亡くなったと交番から電話がありました。「せっかく死亡事故ゼロを目指してがんばって6年目に突入したのに、残念ですね。」とおまわりさんの言葉。交通指導員の仲間も「ついに記録が途切れたか!まあ、年明けたら心機一転、またやり直そう。」とがっかりしていました。
 このご老人、昨日は病院で薬を処方してもらい、バイクのタイヤをスノータイヤに交換し、その後、沼田にパチンコに行って、その帰りに自宅近くまで来て横転してしまったようです。パチンコに行かなければ道路が凍る前に帰れたものを。

 閑話休題

 戦中の陸軍中野学校の話です。陸軍中野学校は今で言うならスパイ養成学校で、歴史に「たら」「れば」は禁物ですが、こうした機関がもう少し早くできていれば、日本は太平洋戦争に突入しなかったのではなかろうかとも言われています。

 昭和13年に作られた陸軍中野学校は、いわゆる軍人らしからぬ人たちを集めてスパイを育て上げていたわけですが、諜報活動、工作活動を行う人材を養成していました。

 後年、ゲリラ活動を行う教育機関も作られ、第二次大戦後、29年間もフィリピンのルバング島に潜伏していた小野田寛郎さんはこの分野で教育を受けたようです。上官からの命令の解除が無い限り日本に帰らないと主張したエピソードは有名です。

 第二次大戦後、アジア各地でヨーロッパからの独立運動が起きますが、こうしたレジスタンスに旧日本兵が関わっていることも多く、中野学校の残党達がここでも活躍していたようです。

081228f  昭和20年3月の東京大空襲以後、陸軍中野学校は群馬県の富岡市に移転しましたが、現在の富岡高校の加賀藩藩邸の庭に石塔が立っています。

 スパイ教育といえば、友人宅ではママにスパイ教育を受けた子供達が、お父さんのヘソクリやコレクションを次々と発見し、大本営に密告するため、この年末年始の休暇はチビスパイどもの暗躍により、趣味のプラモデル作りもままならない状態に陥っています。

 

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現場検証

2008年12月29日 | 日記・エッセイ・コラム

 夕方、実家に顔を出しに行ったら近くの国道上にカブが倒れているのを発見しました。降りて様子を見行くと、老人がバイクにまたがったままうなっている。毛糸の帽子と首に巻いたマフラーが口元を覆ってで顔は良くわからなかったけど、流血は見当たりませんでした。
 これは大変、とすぐに実家に駆け込み119番と110番。

 この界隈にバイクに乗っている老人は3-4人しかいないので、いやな予感はしたのですが、電話をしてから現場に戻ると、通りすがりの人たちが介抱していていました。意識はあったようで、自分の名前を言える状態でしたが、やはり予想通り実家の近所のお年寄りでした。バイクが滑って転がったようです。南側に杉林があるために日陰で凍る場所ですが、路面が濡れているわけでもありませんでした。
 90代になると思いますが、奥さんを十数年前に亡くし、子供達も外に出ているので、一人暮らしでした。父が言うには毎日2-3回バイクでどこかに出かけるので危なっかしいとは思っていたそうですが、食材や生活用品一つ買いに行くにも自動車がなければままならない土地です。昔から偏屈な人だったので、近所付き合いもない人でした。
 バイクの籠には病院の薬袋が入っていたので、病院に行った帰りだったのでしょう。

 救急車が来て怪我人を運んで、現場にいた人たちも立ち去りましたが、パトカーがまだ来ないので、私はその場に残ってパトカーを待ちました。
 交通指導員で出動した時によく顔を合わせる交番のおまわりさんが来て、現場検証と事情聴取に立会い、家族のことなども聞かれましたが子供達の連絡先などわかりません。田舎の良さなのか?この家の親戚関係は知っていたので、「すぐに家族に連絡できるでしょう。」

 夜、交番のおまわりさんから電話があり、調書を作りたいので明日にでも交番に来られるか?というので、今すぐに行くよと交番に出向いたのが夜の10時半ごろ。
 やはり自分でバイクを転倒させた自爆事故のようです。夜9時過ぎに息子さんに連絡が取れたそうですが、頭蓋骨と肋骨が骨折、内臓もやられていると言うので、厳しい状態かもしれません。
 11時半頃まで交番で調書作りをしました。
 「普通の人ならこんな時間まで付き合ってもらうのも大変ですが、交通指導員さんだから無理をお願いできて助かりました。またお呼びするかもしれませんがご協力ください。」立場上、こうした現場を黙って通る過ぎることができないので、厄介を背負い込むのもしかたないことです。

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製糸工場

2008年12月28日 | 日記・エッセイ・コラム

081228a  世界遺産候補にノミネートされた富岡製糸工場に行ってきました。日本の近代工業発祥の地です。

 「ああ野麦峠」以降、製糸工場=女工哀歌=過酷な重労働=悲惨な末路のごときイメージがついて回りますが、まだそんな時代以前、外国の技術をいかに日本に導入するか?試行錯誤を繰り返していました。

 

081228b  今でこそ養蚕をする農家も珍しくなりましたが、私が小学生の頃はどの農家でも養蚕をしていましたし、蚕のことを「お子様」と言って大切にしていました。

 春子、夏子、秋子、晩秋と年4回、後年品種改良が進むと晩晩秋と年5回蚕を育てたものです。

 特に良質な桑の葉が得られる春子は大量に蚕を飼いました。大きな農家では100g(蚕の卵の量で規模が決まりました)からの蚕を飼うので、家族は寝る場所も養蚕のために使い、外にテントを張って寝ている家庭もありました。

081228d 春子の蚕上げが始まるころには農繁休暇という休みがあり、夏休みが少ない分こういうときに休暇がありました。

081228c  農家で蚕が作った繭玉はそのまま出荷されてしまうので、その後繭玉がどうなるのかは見ることはありませんでした。

 茹で上げられた繭玉はここで一本の絹糸になるわけですが、繭玉は蚕が噴出す一本の糸でできているので、この末端の一本を見つけ出して、繭玉を一本の糸に戻すのが女工たちの腕の見せ所です。

081228e  日本人に技術指導に来ていた、外国人技術者やその家族が住んでいた宿舎。

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The Long and Winding Road

2008年12月27日 | 日記・エッセイ・コラム

 ロシアからドイツのライプツィヒまで自動車で行くというドイツ人が欲しがっている、ランドクルーザーの交渉をしました。論理的思考のドイツ人らしく休み無しの6時間、理論整然とした交渉になったので神経を使いました。

 ウラジオストクからイルクーツクに行き、バイカルを見てからモンゴルに入り、ウランバートルからアルタイを越えてカザフスタンに入り、コサックの道のりをウクライナへ行き、そこからまたロシアに入りポーランドを経てドイツ入り。およそ2万5千キロに及ぶ壮大なドライブですから、装備などに関する情報集めなど私も手伝いたいことがたくさんあります。こういうことを思いつくどころか実践してしまうのが大陸の人だと感心しましたが、何とか成功させてやりたいものです。

 ライプツィヒといえば古い歴史を持つブリュートナーというピアノの生誕地。
 戦前のドイツを代表するピアノメーカーでしたが、戦後は東側諸国御用達のピアノになっていた感があります。
 ピアニストのフジコ・ヘミングさんは幼少の頃からブリュートナーのピアノで鍛えられたそうです。

 

バラバラになってしまったビートルズのメンバーを、ポールマッカートニーが何とか引き戻そうとしていた頃の映像だそうで、そんな雰囲気を感じさせてくれます。

 こんなところでブリュートナーのピアノが使われていたのか?と驚いたのはビートルズの「レットイットビー」の有名なスタジオ録音の映像で、ポールマッカートニーがブリュートナーのピアノを弾きながら歌っています。
 このスタジオでの録音では、同じ状態で「The Long and Winding Road」も録音されています。長く曲がりくねった道ですね。

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お出かけ

2008年12月25日 | 日記・エッセイ・コラム

0812252  新潟へ行ってきました。
 例年ならスキーシーズン真っ盛りのはずの県境のスキーエリアも雪がありません。かなり重篤な状況です。

 新潟市に到着したのは午前中。日本海側から分厚い雲が押し寄せてきていましたが、雪雲ほど色が濃くはなく、雷を伴った激しい雨が降っていました。
 冬の雷は日本海側ではしばしばあるようで、雨は夜更け過ぎに雪へと変わる前兆だとか。

 新潟ラーメンを求めて空港周辺のラーメン屋を尋ねて背脂こってりのラーメンで昼食。今回はだるまラーメンに行こうと計画していましたが、竹尾インターから空港とは反対方向にあったため見つけることができませんでした。昼食後国道7号線バイパスに戻るときに発見しました。

 もしかしたら佐渡で放鳥したトキがいるかも?と期待をこめながら国道7号線を北に向かい、水田を眺めながら走りました。トキは見つけられなかったものの、カラスはたくさんいました。

081225  新発田を越えて聖篭町に入り見つけた駅。日本海側のこういう駅の光景って好きなんです。
 畑山博の「海に降る雪」を読んで、日本海にそって青森まで旅をしたのは91年こことでした。鉛色の海やどんより重い雲。軽薄さを蹴散らすようなこの重々しさが日本海のたまらない魅力です。
 ある種、ロシア的憂鬱に通じるような「暗さ」なんですが。

 夕方、と、言えるのか?3時頃にはあたりは暗く、またものすごい雨になり、帰る道すがら「とんでもない雪になるぞ」と家路を急ぎましたが、我が家の界隈も積もりそうな雪が降ってきました。

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七面鳥

2008年12月22日 | 日記・エッセイ・コラム

今年はまだ雪が降らず、例年よりも温かい年末です。今頃雪が積もらないと年明けに雪が降っても根雪にはならず、降っては溶けてしまいます。
 雪が降らずに暖かければ、ありがたいにこしたことはないのですが、その付け合せは春から夏に来るものです。雨が多い、雪が多いと騒いでも年間を通じるとそこそこバランスが取れているものです。

 十数年前、七面鳥をたくさん飼っていたので、今頃の季節になるとその副業(当時はお役所勤めを営んでいました)で忙しかったものです。

 鳥には卵を産みそれを温めて雛をかえす本能が備わっています。卵を孵化させるために巣についている間は卵を産みません。この本能を100パーセント取り除いてしまったのが、白色レグホーンなどの採卵用の鶏で、人工的に卵を産むためのマシーンになってしまった鶏です。

 七面鳥はこうした品種改良がされたわけではないので、卵を抱く本能が残っています。ところが巨体の上に不器用なので、卵を抱かせても自分の重みでつぶしてしまったり、上手に卵の面倒を見られずに腐らせてしまうことが多かったものです。
 巣から卵を取っ払ってしまえばどうなるか?試してみましたが、鶏ならそれで諦めるかもしれませんが、七面鳥は野性の本能が強いのか、卵はなくとも何日も巣にこもったままで、その間は食事までも少なくなってしまいます。
 巣についた七面鳥はどうすればよいか?食べてしまうのが一番効率の良い方法でした。おかげで、鶏肉が食べられなくなりました。

 地鶏やアヒルや七面鳥など数十羽飼っていたことがありましたが、当時は鳥インフルエンザの心配もなく鳥の生態などを観察して楽しんでいました。

 七面鳥は元々北米の野鳥で、クリスマスに七面鳥はアメリカの風習。

 在日ドイツ人の知人はクリスマスは家族と静かに家で過ごしたいので、電話もメールも一切取りつがないので、天皇誕生日の休日でも休まず働いて、翌日からの二日間は完全オフにするのだそうです。
 七面鳥の話をしたら、当然ドイツではクリスマスに七面鳥など食べませんが、奥さん(日本人)が注文して、今年は七面鳥料理を食べることになりそうです。

 七面鳥とは関係なく「ホワイトクリスマス」
 

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温泉と効能

2008年12月20日 | 日記・エッセイ・コラム

081220  この季節になると「湯冷め」について考えることが多くなります。

 風呂から上がってどのくらい温かいままでいられるのか?寒い季節には重要です。これから本格的に寒くなって、風呂から上がって外に出れば髪の毛やタオルが凍るものの、体だけは暖かくて湯気を放つ。温泉地に住んでいると、これもまた快感です。

 我が家の周辺はあちこちに温泉がありますが、「湯冷め」をテーマに風呂めぐりしてみると温度や泉質などそれぞれ違いがあって、これもまた面白いものです。

 温泉と言っても、竹下内閣の無駄遣いで各市町村がボーリングして掘り当てた温泉と、元々岩の隙間から湧き出ていた温泉では違いがあるように感じます。あちこちの温泉センターめぐりをしましたが「湯ざめが早い」。どちらかと言うと「温泉」と言うよりも、「ヘルスセンター」として設備を楽しむことにしています。

 天然の温泉は「温泉ブーム」が起きる前から、先人達がそれぞれの症状に応じて利用してきたので、保健所の張り紙の効能よりも口コミのほうが的を得ています。

 我が家のある湯宿温泉のお湯は、熱くて長湯できないこともあり、「湯冷め」に関しては中の上かな?とにらんでいますが、夜、布団に入ってから家庭の沸かし湯とは随分違うと感じています。布団にもぐってから腰痛や筋肉痛の部位が温かくなっているのを感じますし、きり傷擦り傷の跡がわりときれいに治ります。

 湯冷めに関しては圧倒的に優れているのは猿ヶ京温泉。風呂から上がって一段落していると、そこからどかっと汗が出てきます。夕方はいると夜中まで素足でいられます。擦り傷などの跡がぬるっと白い皮膜に覆われるので、この分野は優れていないと思いますが、全身暖房としては秀でています。夜中にトイレに行くことの多いお年寄りには、湯冷めをしない効果が大きいと思います。

 一頃、山ヒルに血を吸われた跡が膿んでよく治らないので、草津温泉に何度か通いましたが、意外なことに湯冷めは早い。ドカっと汗をかいて、湯上り後はわりと早く湯冷めをするものの、疲れもドカッと出てくる。私の場合、何回も入っているとリンパ腺に沿って吹き出物のようなものが出てきます。基本的に希硫酸に入っているようなものなので、肌がつるつるになる人もいるようですが、筋肉痛などにはこちらの風呂ほど効果が無いかな?と感じました。

 昔は、春から秋まで体を酷使して、冬は当時をしながら体のメンテナンスをしていたのでしょうが、今は365日、24時間働ける時代です。体のメンテナンスと言っても健康診断で半日あちこちいじりまくられて「治療を要する肥満」とかかれた診断書が送られてくるだけで、行政的に「役目は終わりました。後はご自由に」です。

 せっかく各地にできた温泉もブーム終焉で閉鎖される施設が多いようです。レジャーランド化したために本来の意味を取り違えた結果だと思いますが、自分の体や症状にあう風呂を探すことが重要なのではなかろうか?

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電飾

2008年12月19日 | 日記・エッセイ・コラム

081219  毎年この季節になると電飾で庭を飾る家を見かけるものです。

 忘年会会場の居酒屋を探していましたが、周囲の民家の電飾のほうが賑やかで、居酒屋の裸電球の看板を見落として何度もその前を通り過ぎてしまいました。

 居酒屋の窓から民家の電飾を眺めながら、この夏他界してしまった友人のことを思い出しました。

 元々は大阪の人ですが、毎年夏は京都の大文字焼き、冬は神戸のルミナリエに行くことを年中行事にしていた人で、この夏も「体調が悪いけれど、今年も大文字焼きに行きまっせ」と電話で話しました。

 8月初旬に単身赴任先の名古屋のアパートで病死しているのを発見され、大文字焼きの頃に息子さんからその知らせを受けました。

 神戸のルミナリエは阪神淡路大震災で打撃を受けた神戸復興の願いをこめて催されたイベントと聞いていましたが、当初はちゃらちゃらした電飾飾って、何が「願い」だと冷ややかに考えていました。

 「こんな電気の無駄遣いを毎年眺めにいってどうするのだ?私なんか空を見上げれば冬の星座が煌々と輝いている。都会に住んでいると見られないでしょ。不憫だね!」とからかったものですが、三途の河を渡ってしまってはどうにもなりません。

 昨年末、心のよりどころにしていた大先輩が忘年会の一次会からに次回に移動する路で自動車にはねられて亡くなってしまい、この一年、大切な友人やペットのネコが亡くなる、喪失の多い一年だった感じがします。

 今年は、電飾の明かりがやけに心を慰めてくれる思いがしています。なんとなく、ルミナリエの「願い」がわかってきたような思いもします。いつか、コの季節に神戸に行く機会があったら、いろいろな思いをこめてこの巨大な電飾を眺めて見たいと思います。

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感情的な女性

2008年12月18日 | 日記・エッセイ・コラム

国籍や人種に関係なく「女性は感情的」であることにかわりはないようです。感情的になって的確な判断ができるわけもなく、むしろ逆の判断をしがちですが、ここで振り返ることなく開き直って「なんなのさ」と悔いることなく意地を張れる。女性の強さ?

 田舎なれども我が村にはスポーツクラブや文化クラブがたくさんありますが、決め手となるのは最後は人間関係。「あの人がいるからもう行かない!自分勝手!」”お互い様だろう”と思いつつも、毎回楽しんで上達していたのに、よくあっさりと断ち切れるものだとその潔さと意地っ張りにため息。

 結果的に似たようなクラブやサークルが複数存在することになり、本家と元祖を巡って無言の争いをしているのも「女の意地」。

 そういえば、日本の政界ってどうなってるの?世界不況のムードが漂う中、支持率が云々、漢字が読めない、なんてゴタゴタしている時ではないのでは?「俺が変えてやる!」と名乗りを上げる猛者もなく、ただ足の引っ張り愛しているだけ。議員も烏合の衆ならリストラして人数減らしてもいいのではなかろうか?

 ソビエト末期、演説する壇上のゴルバチョフソビエト大統領を押しのけて、酔っ払いのエリツィンロシア大統領がマイクを奪ったとき、とんでもない大場かがいたもんだとあきれたものですが、ソビエト崩壊後もエリツィンはロシアの大統領。ゴルバチョフは人々から忘れ去られる存在。
 ”こりゃ、もうロシアはだめだ”と艱難辛苦はあったものの、今日に至っているのですから、平凡な天災よりも非凡な狂人。

 「このヤドロクが、男どもは引っ込んでいろ!」と日本の女性議員たちが立ち上がり結集して、総理の椅子を奪ってしまったら、案外いい結果が出るかもしれません。
 男性のように常識やしきたりに縛られませんから、目的が定まっていれば党派を越えて結集するでしょうし、法や慣例など「だったらなんなのよ!」と蹴散らして国作りをするでしょう。安泰になれば女性の常で「好き・嫌い」でいつのまにか分裂していることでしょうが、故に乱世には強いかも?

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美人薄命

2008年12月16日 | 日記・エッセイ・コラム

081216a_2  15世紀フィレンツェの画家サンドロ・ボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」
 中学生の頃図書館の片隅にダサい男子生徒が集まり名作の鑑賞をしたものです。特に、長い髪で格下左手の奥はどうなっているのだろう?と想像力を働かせたものですが、近年は想像力も枯れ果て「素晴らしい絵だなあ」と眺められるようになってしまいました。

 海で生まれたヴィーナスが成長して貝殻に乗って陸に上がってくる光景を描いた絵だといわれています。

081216_2  この名画のモデルとなったといわれる薄幸の美女がいます。シモネッタ・ヴェスプッチという15世紀の美女で、彼女が23歳の若さでなくなったとき、フェレンツェ市民はその死を嘆き悲しんだといわれています。
 妙になじみのあるこの名前。シモネッタですか?
 それはさておき、この薄幸の美女は親の借金のため政略結婚をしヴェスプッチを名乗りますが、アメリカ大陸の名前の元になったアメリゴ・ベスプッチの親戚に当たる家系といわれています。

 「23歳で死んだから美人でいられたんですよ。イタリア人は歳をとるとひどい容姿になります。」とロシア人が言っても五十歩百歩だと思いますが。

 フィレンツェの名門メディチ家のジュリアーノが彼女の恋人ではなかったのか?と伝えられていますが、結婚していても恋人は別というのがヨーロッパの恐ろしいところ。キリスト教が2000年もかけて一夫一妻制を説いているのに。
 このジュリアーノも恋の清算だったのか?シモネッタの死後2年後に暗殺されています。

 恋に命をたずぬれば、名を惜しむかな男子ゆえと歌ったのは与謝野鉄幹ですが、ヨーロッパ貴族など女の取り合いで決闘して殺しあうプリミティブな肉体派。きれいごと並べたってそれだけじゃ女性はついてこない?

 美しくいられる時期が短いから美人薄命なのか?死を間際にして妖艶さがかもし出す美しさゆえの美人薄命なのか?美人は不幸せであるからして愛おしいもので、何もかも手にした美人など「絶対不幸になる!」と願ってしまいます。 

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From Russia With Love

2008年12月14日 | 日記・エッセイ・コラム

 NHKの大河ドラマ「篤姫」が最終回でした。幕末から明治にかけての激動の時代に活躍した人物に注目しながら見てきたドラマでした。
 武士の時代から市民の時代への大転換期なので、幕末の人たちがどうやって「新しい日本」という未体験ゾーンの新しい時代を模索していったのか?とても興味がありました。
 特に大久保利通と西郷隆盛については、どこでどう歯車が狂ってしまったのか注目しながら見てきました。

 幕末の志士達の面白いところは変なこだわりを持っていないことで、自分の考え方など臆面もなくころころ変えてしまう腰の軽さがありました。「新しい日本」という目線に狂いは無いものの、勝海舟を殺しに行った坂本竜馬がいつのまにかその弟子になってしまったり、明治維新の立役者の薩摩にしても、徳川慶喜擁立のために篤姫を送り込んだと思ったら、意のままにならず、ようやく慶喜の時代が来たと思ったら、今度は徳川もろともぶっ潰してしまおうと錦の御旗を持って立ち上がる。

 都から離れたいわゆる偏狭の地から新しいムーブメントが興り、日本全土を飲み込んでいった経緯も面白いのですが、この時代日本各地に「不満」が渦巻いていたのかもしれません。

 現在の官僚制度の元を作ったのは大久保利通で、暗殺後日本は日清日露戦争に突入し、やがて初期の官僚たちがいなくなり、明治維新を知らない世代が官僚をになうようになると、歯車はさらに「官」による統制に傾き、最後は第二次世界大戦に突き進んでしまいました。
 安定と混沌は常に繰り返し時代を支配しているもので、少なくも現在私たちは「混沌」の中にいると思います。

 幸いなことに私は80年代と90年代にロシアを旅することができましたが、まだブレジネフが生きていた1982年初期のロシア(ソビエト)は恐ろしいほど統制が取れた「安定」の時代でした。市民はいてもそれは見えない壁で隔てられた人形のようなもので、私たち外国人と会話をすることさえ許されていなかった時代でした。

 90年代中頃までは「国が死んだ」「混沌」の時代。市場で荷物運びをして働く7-8歳の少年、電車の中に新聞を売りに来る同じくらいの子供。駅でオレンジやジャガイモなどの食材を売る子供。私たち日本人がバブル景気を向かえた昭和末期に生まれた世代の子供達でした。今20代前半。行く先を見失って戸惑う大人たちを、子供達が支えているようなきもしました。

 戦後の日本だって「靴磨きの少年」が街中にいた時代がありましたが、自分の親の世代が目にしてきた光景と同じものを見た重いでした。同時に、こうした経験をしてきた子供達はたくましくなるぞと、警戒感を感じました。

 明治維新にしてもソビエト崩壊にしても、模倣する手本が無い時代の転換期には今まで成功体験を持たない、図太く上を見て生きられる人たちが強いのが世の常。嘆いている人たちにはそれなりの崩壊しか待っていません。
 諦めないであがいているうちチャンスは巡って来るものです。

 かつてソビエトが君臨していた頃、007の強敵はロシア人でしたが、今や敵は国ではなくテロリスト。007だって食い扶持求めて苦労しているのかもしれません。

  そういえば007に”From Russia With Love(ロシアより愛を込めて)”というシリーズもありましたが、その部隊はほとんどトルコでした。
 映画としてはあまり面白くなかった思いもしますが、テーマソングは名曲でした。

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化石燃料

2008年12月13日 | 日記・エッセイ・コラム

 私が燃料を入れた翌日、なぜかガソリンスタンドの表示価格が安くなる。何でもう1日待てなかったんだ?と腹が立ちつつも、人生こんなもんだわさとあきらめています。燃料が安くなるに越したことはありません。

 冬のモンゴルでホームステイした時、家畜の糞を燃料にするものと思っていたら、ストーブで石炭を燃やしていました。

 ウランバートルに近かったこともありますが、各地から採掘された石炭がトレーラーダンプでウランバートルに運ばれてきます。道路は必ずしもよく無いので、でこぼこや舗装に穴が開いた部分があります。そこでダンプがバウンドした時にわずかばかりの石炭がこぼれます。

 わずかばかりと言っても、大きいものでは人の頭ほどあります。

 こうしたポイントの子供達が待っていて、落ちた石炭を拾ってゲルに持ち帰り暖房や煮炊きに使っています。

 石炭とは言え、化石燃料を使っているのですから、自給自足とはいいにくい部分がありますが、彼らが燃料として使う化石燃料などわずかなものです。

 化石燃料の産地なのに、人々はほぼその恩恵を受けることなく生活しているこの皮肉さ。

 私がモンゴルに行ったころは経済混乱期で自動車のガソリンも入手ままならない時代で、運転手が「燃料を入れる」と民家に入って行き、ポリタンクに入ったガソリンを買ってきたのでびっくりしました。なんでも、軍隊の横流しのガソリンだったそうで、それを闇販売している店だったようです。

Petoro 冬のモンゴルでは氷点下50度を体験しましたが、寒いを通り越して痛かったです。外から戻ってきてストーブにあたっても全然温かくならない。

 モンゴルでは暖かい冬を「腐った冬」といい、暖かい冬の後にはチフスなどの伝染病が広まるのだそうです。寒さもまた健康のために一役買っているわけです。

 寒くなるとあの人たちはどうやって今年の寒さをしのぐのだろう?と思い出します。

 私がホームステイしたゲルの近く(5kmほどある)のゲルにかわいい娘さんがいて、顔立ちが女優の古手川祐子さんに似た美しい女性でした。が、近くによるとツーンと臭いがして近づけない。風呂なんかほとんど入っていないのですから当然ですが、なるほどこうやって操を守っているのか?と思いました。

 見渡す限り何も無い大地で、日が昇って日が沈んでいく様を感慨深くボケーっと眺めながら過ごした日々でしたが、「何も無い」という面白い時間を過ごせました。

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学習

2008年12月12日 | 日記・エッセイ・コラム

 十数年前、地域おこしの演劇に参加したことがあります。

 私より若い人たちが中心になって一生懸命「何か」を作ろうとしていました。

 演劇の練習の合間の雑談で「もし明日この世の中がなくなってしまうとしたら何をするか?」という話題が持ち上がりました。まだ20世紀、ノストラダムスの予言が外れる前でした。

 元気の良い女性団員二人が「おらぁ(群馬県人は女性でも自分のことを「俺」って言うんです)一番気にくわねぇ奴をぶっ殺しに行く!」 「俺も同じ!どうせ死ぬんだったら気にいらねえ奴をぶっ殺して、すっきりしてからあの世に行く!」

 なんとまあ、鼻息の荒い話題になってきました。二人ともそこそこの美人なんですが、30歳になっても良縁とは程遠いのもわかる思いがしましたが、私も密かに”こいつら絶対嫁にしたくない!”と腹に決めました。

 話はだんだん血なまぐさくなっていき、そのうちこの話題を出した女性団員(美人ではないが人柄勝負タイプ)が「そうじゃないのよ。私の場合は違うの!私は一番好きな人に会いに行くの!」

 勝負あった!と思うと同時に盛り上がっていたその場の空気が一瞬にして凍りつきました。

 さっきまで「ぶっ殺す!」といきまいていた二人の女性も「すごい!目が覚めた!私も好きな人に会いに行く!」と宗旨転換。

 目が覚めたというよりも、学習したというべきだと思うのですが。

 愉快な連中でしたが、このときの話題が彼女らを変えたのか?今は皆普通の子持ちのオバサンになっています。

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イマジン

2008年12月11日 | 日記・エッセイ・コラム

 ジョンレノンが殺されたのは1980年の12月8日でした。

 この日、私はティッシュ配りのアルバイトで新宿に行き、アルタの電光掲示板に「ジョンレノンが射殺された」と流れ、先ほどティッシュを渡したばかりの通行人が「ええ?ホント?」と声を上げる光景が目に入りました。

 「射殺」という言葉が妙に生々しく感じられました。

 ビートルズにもジョン・レノンにも興味はなかったというより、ビートルズを聴いていきがっている連中が嫌いだったので、特に感慨深いものもありませんでした。それよりもこれより後にガンで亡くなったレゲエのボブ・マーレーのほうがよほど大きな存在に思えました。

 愛だ平和などと口にしているだけで、単なる我侭勝手なだけじゃねえか!という思いがあったのは、オノ・ヨーコとのことがあったからで、今さら何をぬかしやがるという思いでジョンレノンを見ていました。

 正直、ビートルズの復活を見たい思いはありましたが、再結成などさせてなるもんか!という思いもありました。

 ジョンレノンの歌がいい歌だと認められるようになったのはその後十数年たってからで、たぶん彼らの不道徳な部分が日本でもなし崩し的に認められてきた時代になっていたのかもしれません。

 こういう人物が出てこない時代になったというべきか?多様化しすぎてどうでも良くなってしまったというべきか?ヒーローと憎まれ役は紙一重。 

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