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のすたる爺や

文明の果てなる地からのメッセージ

動物農場

2006年12月31日 | 日記・エッセイ・コラム

 昨日、イラクの独裁者だったサダム・フセインが絞首刑になった模様です。独裁者のたどるべき末路と言ってしまえばそれまでですが、死刑確定からわずか4日。本当に死刑になったのだろうか?

 この戦争で大もうけした武器製造会社とUSA政府がフロリダのプライベートビーチにサダム・フセインやオサマ・ビン・ラディン、金正日などをかくまっていて、ビンラディンとフセインは浜辺でビーチェアに寝そべってダイキリ飲みながら「キムはどうしんだ?」「またプライベートシアターで映画でも見てるんだんべ。」「あいつは根暗だからな。」 なんて会話を交わしているのかもしれません。

 そういえば日本でも12月25日に4名の死刑が執行されたとラジオのニュースで言っていました。死刑確定から執行まで長いのが日本の流儀。生きる希望が出てきたときに死刑執行?

 独裁者と言えば、ソビエトのスターリンを風刺した面白い小説があります。

061231  ジョーンズ氏の荘園農場に飼われていた動物たちは、豚のメージャー爺さんの「人間がいる限り動物の生活は楽にならない!人間を追放しろ!」の言葉で秘密裏に結束します。

 「人間は生産せず消費する唯一の動物である。ミルクも出さなければ卵も産まない。力がなくて鋤も引けない。野うさぎを捕まえるほど早く走ることもできない。それにもかかわらず、彼らは動物たちに君臨している。動物を働かせ、動物には餓死すれすれの最低量を与えるだけで、後は全部独り占めにしている。」

 メージャー爺さんはこの演説を行った三日後に静かに息を引き取ります。メージャー爺さんが予言した叛乱がいつ起こるかはわかりませんが、そのために準備をしなければなりません。組織を作ったり、教育をするのは豚たちがやらなければなりませんでした。

 豚たちの中でも突出していたのが、ナポレオンとスノーポールと言う二匹の豚です。ナポレオンは獰猛な顔つきのバークシャー種で雄弁ではありませんが、押しの強い豚でした。スノーポールは演説もうまく工夫する才能を持っていたがナポレオンほどの強引さはない豚でした。

 豚たちはメージャー爺さんの教えを練って、一つの思想体系にまとめました。これが「動物主義」です。やがて動物たちは蜂起し、農園の主で人間のジョーンズ氏を追い出し。豚のナポレオンやスノーポールたちが中心になり、動物たちは自分の農園のために力をあわせて働きます。

 動物たちによる革命が成功し、字の上手なスノーポールは「荘園農場」の看板を塗りつぶし「動物農場」と書き換えます。また、動物主義の原則を7つの戒律にまとめ、納屋の壁に大きく書きます。

 1、いやしくも二本の足で歩くものは全て敵である

 2、いやしくも四本の足で歩くもの、もしくは翼を持っているものは全て味方である。

 3、およそ動物たるものは、衣服を身につけないこと。

 4、およそ動物たるものは、ベットで眠らないこと。

 5、およそ動物たるものは、酒を飲まないこと。

 6、およそ動物たるものは、他の動物を殺害しないこと。

 7、全ての動物は平等である。

 理論家のスノーポールは生産性を上げるために風車を建設しようとしますが、陰謀家のナポレオンは自ら育てた9匹の獰猛な犬を放ってスノーポールを襲わせます。スノーポールは犬に噛まれながらも命からがら逃げ出し、ナポレオンは自分の委員会が秘密会議で取り仕切ることを宣言し、独裁者として農場に君臨します。

 動物たちが建設した風車は一度は嵐で倒れ、二度目は人間ジョーンズ氏らによって爆破されます。しかし、動物たちはくじけずに数年後に風車は完成します。

 ところが風車が完成し生産性が向上しても豚たち以外の動物の暮らしは良くなりません。そればかりか、献身的に作業に従事した馬のボクサーなど過労で倒れたら場に売り飛ばされてしまいます。

 独裁者となった豚のナポレオンは人間の残した家に住みベットで寝るようになります。農場で起こる不都合な出来事は追放したスノーポールが陰で糸を引いていると錯覚し、スノーポールに加担したものを裏切り者としてみなの前で処刑します。

 動物たちはその光景に衝撃を受けて沈黙してしまいます。動物たちの農場はいつの間にか豚のための農場になってしまいました。7つのスローガンもいつの間にか次々修正され、最後の第七項にも加筆されてしまいました。「全ての動物は平等である。しかし、ある種の動物は他の動物よりもっと平等である。」

 相変わらず貧困と厳しい労働に追われる動物たちと裏腹に、豚たちは人間の服を着て近隣の農場主たちと取引を始めます。「二本足は敵、四本足は味方」のスロ-ガンも忘れ、豚たちは二本足で立ち人間たちとパーティーを開きます。衣服を身につけ二本足で立ち人間と盃を酌み交わす豚たち。もはや、どれが人間でどれが豚なのか区別もつかない光景になっていました。

 英国のジョージ・オーウェルの書いた「動物農場」と言う寓話です。荘園農場主のジョーンズ氏を皇帝、豚のメージャー爺さんをレーニン、ナポレオンをスターリン、スノーポールをトロツキーに置き換えると何を風刺にしたのかわかるかと思います。ナポレオンがスノーポールを襲わせた9匹の犬は国家秘密警察、豚は共産党のノーメンクラツーラです。「動物主義」は「社会主義」です。風車の建設は産業5カ年計画。ナポレオンと近隣農場の取引は独ソ不可侵条約。後にソビエトが一方的に破棄した日ソ不可侵条約も入るかもしれません。

 オーウェルは「動物農場」で、1917年2月革命から1943年のテヘラン会議にいたるまでのソビエトを風刺しています。オーウェルは大のスターリン嫌いだったようです。面白いのはイギリスやドイツなども風刺として出てきたり、同時の出来事などと照らし合わせて読むと深い物語かもしれません。

 ただ単にソ連の風刺ではなく、独裁者と言うテーマで見ると豚のナポレオンをいろいろな独裁者に置き換えて登場動物をその周辺の関係者に置き換えることができます。意外と独裁者誕生の周辺には同じ流れがあるものです。政治的な独裁者ばかりではなく、ワンマン社長の起業や盛衰など絡めて見ても面白いかもしれません。独裁者やワンマンな人のやることは、当初の目的こそ立派なものの、最後は自分の利益に凝り固まって国民や社員を顧みない似たような経緯と末路をたどるものです。

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トロイカ

2006年12月30日 | 日記・エッセイ・コラム

061229e  昨日に続いて寿司ネタ。

 ノロウィルスの影響で生魚を使う寿司にどんな影響が出ているのかわかりませんが、寿司が世界的に普及することによってマグロの確保が難しくなっているようです。

 なんと言っても中国人が食べだすと消費量が大きく変化します。しかも大量に作らせて食べ残すことが美徳と考える文化なので、私達日本人には受け入れられないような残飯が出ます。

 韓国にも同じ文化がありますが、90年代末の経済危機のときに生活習慣さえも改めています。

061229f  ネギトロなるものを初めて食べたのは1987年の8月で、大学の同級生のドドンパ山口さんの引越しを手伝いに行った時でした。

 ネギトロという名前は耳にしたことがありましたが、ネギの白い部分のことだろうか?などと考えていました。

 ドドンパ山口さんが近くの回転寿司で買ってきて振舞ってくれたネギトロが初めてのネギトロでしたが、”マグロの中落ちじゃねえか!”

 築地の青果市場でアルバイトしていたころなので、隣の魚市場で魔義路の骨や頭の肉を中落ちと呼んで、スプーンでむしりとって市場に出入りする人たちが食べていたのは知っていました。いわば業界の裏ネタ。

 まさかこんなものを商品化するなんて!発想にも驚きましたが、それをやらかしたのが海から遠い群馬県の渋川市の赤城食品。意外にも海とは無縁の群馬から出現した寿司ネタです。

061229g  寿司ネタといえば、ロシアの有名な歌曲にトロイカと言うのがあります。

 複数の馬(3頭)が併走する馬車をトロイカと言い、ゴルバチョフが提唱したペレストロイカも社会主義と資本主義など複数の方法が併走を意味することでトロイカと言う言葉が用いられました。

 日本では雪の白樺並木を馬橇が颯爽と走りぬく爽やかな歌になっていますが、原曲は愛しい娘を異民族(タタール人)の地主に奪われてしまった青年が、馬橇の御者に身の上話をして嘆く悲しい歌です。

 今風に言えばタクシーの運転手に「運転手はん、聞いてやっておくんなはれ。庶務課の愛ちゃんのことなんやけどな、わてと1年もつきあっていたんや。週に3日はやってたんや。

 それがな、それが、部長の禿山が横恋慕しおってな、あのセクハラオヤジ女房子供おんねんで、あのおっさん年甲斐もなく若い娘に熱上げよって、わてはこうして地方に飛ばされたんや。気にいらん上司やったけどわても耐えてたんや。それがな、寿司をご馳走になったとき、部長がイカを食うとるのにわてがトロを食うたことを内規違反や言うて、わては左遷になってもうたんや。みんな策略や。

 やめたるワイ!こんな会社思うたんやけど、こういうご時世やさかい再就職もでけへんやろ。せやさかい、離れていても心は一つやで、必ず迎えに行くさかいまっといてぇ言うてこっちに来たんやねん。

 それがな、運転手はん。それが、待っててくれへんかったんや。「心はあなた。でも、体はみんなの愛ちゃん!」言うて、あいつ、部長の愛人28号になりよったんや。わかりまっか?この悔しさ。しかも、しかもやで、お手当ては会社の残業代で支払っておんねん。ホンマ、せこいおっさんやで。

 ホンマごめんな、運転手はんにはなんも関係ない話やったもんな。愚痴言うてすまんかったな・・・わての人生なんやッたんやろ?」

 酔っ払い客が降りた後、タクシーの運転手は愛車のクラウンの屋根に降り積もった雪を落としながら「おめぇだけがオラが家族みてえなもんだ」とつぶやいた。

 ♪ここをクリック(MP3で音楽が聴けます)

 トロイカ

冬の凍ったヴォルガを郵便トロイカが行く

御者は悲しげに歌を歌い

頭をうなだれる

何を悲しんでいるのだね

白髪の客が優しく尋ねる

何を悩んでいるのだね?

どうして心を痛めたのだ?

ああ、親切なだんなさん

おいらがあの子に惚れて1年になります。

ところが、横恋慕したタタール人の村長がおいらを追いやったのさ

ああ親切なだんなさん聞いてくださいよ

もうすぐクリスマスなのに

あの娘は金持ちに取られっちまった

もう彼女には楽しい日々なんてありゃしないよ

御者は悲しくうなだれ鞭を思い切りふりあげ

馬にお前だけが身内だよとと悲しくため息をついた

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青春の蹉跌は寿司なのだ!

2006年12月29日 | 日記・エッセイ・コラム

 志賀直哉の小説に「小僧の神様」と言う小説があります。 

 神田の秤屋に丁稚奉公している仙吉と言う少年は、番頭たちが話をしている鮨の話を聞き、これがまたこの世で並ぶものがないほどうまいものだと思い込みます。いつの日にか番頭になって、その旨い鮨と言うものを食べてみたいと願っていました。

 京橋に使いに出たときに屋台の寿司屋を見つけ、どんなにおいしいものか食べてみようとしますが、鮨一カンが6銭、仙吉には4銭しか持ち金がありませんでした。仙吉が鮨をあきらめて立ち去っていく不憫な姿をその屋台で食事をしていたとある貴族議員が見ていました。

 あるとき、その議員が神田に秤を買いに出かけ、たまたまその店が仙吉の奉公する店でした。貴族議員は寿司屋で見かけた仙吉をを指さし「その小僧さんに運ばせてくれ」と、仙吉に自宅まで秤を運ばせます。

 「ご苦労様、褒美に何かご馳走してやろう。」と仙吉を寿司屋に連れて行き、「好きなものを食べなさい」と仙吉を寿司屋に残して立ち去ります。

061228  三人前の鮨をたいらげた仙吉は「あの客は何で自分が鮨を食べてみたかったことを知っていたのだろう?きっとあの方は私が考えていることを全部知っている神様かもしれない。」

 貴族議員にすれば気まぐれの道楽程度の行為です”いいことをしたのになんかさびしいな”と物足りなさを感じていましたが、仙吉にすれば神様のような客です。苦しいときにはなどには「あの客」のことを思い出しては「神様は見ていてくださる」と自分を慰め励ましていました。

 願望でもしっかりと把握して一生懸命生きていればどこかで人は見ているものです。見下ろすことなく上を見つめていけば道は開けることでしょう。

 そう思いつつ、「小僧の神様」のように寿司を食べたいと始終願っていますが、誰もご馳走してくれません。

 寿司はネタを下にして醤油をつけて食べると言うことを知ったのは学生の頃です。おいしいけれど苦い思い出があります。

 まだ私が美少年と呼ばれていた学生時代のことです。夢も希望もない閉塞的なご時世でござんした。

 高校時代から付き合っていた女性がおり、一緒に文芸同人などを主催していた仲間でしたが、今にして思えば彼女の影響でロシア文学を読んでいたことが悔しくもあります。

 お互い江戸に進学で出てきたのですが、上京してあわただしく過ごすうちに梅雨の季節となっておりました。

 久々に会いましょうかという話になって、高田馬場のジャズ喫茶イントロで待ち合わせをしました。

 薄暗い店内にコルトレーンが鳴り響いており、スウィング・ジャーナル読みながら聞き入っている客や、わけのわからん難解な本(ただ単に難解なだけで意味のない哲学書)持ち込んで、芥川のような表情で読みふけっている者。自分が健康であることが後ろめたくも思える退廃的な空間に私はおりました。

 ふと、自分の服装が惨めに思えてきました。黒い学生服のズボンと、グリーンに3本のラインが入ったスポーツシャツ。私自身はお気に入りの服装で来たつもりでしたが、襟のないシャツが気になっていました。

 なんとなく背伸びをしてみたくてジン・トニックなるものをオーダーしてみたものの、そのシャンプーのような匂いに辟易していました。

 約束の時間より30分遅れて彼女は来たのですが、妙な違和感を感じました。アパートとキャンバスとバイト先しか世界のない私と違い、わずかの間に彼女は東京の人間になった感はしましたが、それが無理して背伸びをしているようで不憫に思えました。

 お互いが向かおうとしている方向がすれ違っている感じは始終付きまとっていましたが、どう話を進めてよいのか私はわからずもっぱら聞き役に回っていました。「夢や希望なんて持っていれば挫折するだけじゃない。」といわれたときには冷ややかな気持ちになりました。「挫折」なんて言葉を安易に使ってもらいたくありませんでしたし、自分の欲が満たされないからとそれを挫折と呼ぶのは身勝手な思いがしました。

 群馬県では旧制中学から高校になった学校は男子校、女子高に分かれています。県庁所在地の女子高で鍛えられてきた彼女は、実は世の中が何でも男性主体で、女の自分がいくらがんばっても先が知れていると言う現実を突きつけられて、何もやる気が起きなくなったと言うことをしきりに言っていました。

 それは男とて同じようなもので、そのとき私が行っていた学校はイイトコのお坊ちゃんが小学校から純粋培養されて上がってくる学校だったのですが、こうして上がってくる連中と私のように地方から試験を通過して入ってくる学生との間には歴然とした格差がありました。

 私などが一生働いても手に入れることができないようなクルーザーを葉山のハーバーに持っていたり、乗っている車が左ハンドルだったり、趣味ともなるとその格差に唖然とさせられることがしばしありました。

 我々は一生懸命努力しても、こいつらの持つ会社で働かせてもらう程度だ、そんなことを真剣に考えたことがあります。世の中は対等ではないと考えるといらいらしてきましたが、こういったやんごとなきお家柄の友人を持っていると助かることもありまして、酔っ払いの喧嘩に巻き込まれて怪我をさせてしまった傷害事件でお縄になったときは非常に助かりました。

 娑婆の裏が急激に見えてきたので、お互い人生嫌になる思いをしていたのでしょうが、彼女は厭世的になっていた感じがしました。

 私自身社会の底辺をなめる思いでつらい時期でした。何をすればよいのかわからない時期でしたが、それでも、「僕が僕であるために僕は僕であろうとした」

 新宿に出て居酒屋なる所に入りウィスキーなるものを飲んだのですが、こんなもののどこがうまいのかわかりませんでした。

 大人になろうと言うよりも、大人を演じようとしている彼女が悲しくもあり、私は私で自分がどうあれば良いのかもわからないことが悲しくもあり。

 坂道を登っている彼女がうらやましくもあり、坂道を下っている自分が情けなくもあり。”きっと今すれ違った!”いかんともしがたい「空白」を感じました。

 きっとこのままではいけない、多分いけないと、時の流れを戻すような流れはお互いの心中にあったのでしょうが、その術を知りませんでした。

 ほろ酔い気分の彼女を送り駅まで付き添いました。西武新宿の駅前で彼女は突然目を閉じてこちらを向いたので、「これはもしや!」と思いましたが、何しろ人ごみの中です。万一こちらの思い違いで「痴漢!」なんて騒がれでもしようものなら、大学教授にならねばなりません。

 一応紳士のたしなみとしてワンステップおくつもりで「眠いんですか?」と聞いてしまったのが運のつきでした。

 私としては「いいえ、そうではないんです、実はかくかくしかじか、うしうし、うまうま」と彼女から言ってもらって、「それではご相伴に」と言う筋書きを短時間で考えたのですが、返ってきた言葉は意外でした。

 「だからあんたは馬鹿なのよ!」と平手打ちでした。こっちのほうがよほど人目を引いた!

 改札口を振り向きもせず、颯爽と人ごみに消えている姿を呆然と見ていたのが最後でした。

 今にして思えば、大きな賭けを挑んできたのは彼女のほうで、それがうすうすわかっていて受け止める自信がなかったのが私でした。私のほうが逃げたんです!きっと。

 心の中に大きな穴があいた思いで、ゴムひもの切れたパンツのように力なく街の中を歩いていたのですが、思い返すと悔しさがこみ上げ、電信柱にもたれて泣いてました。

 「青年よどうした!」という声に振り返ると、酔っ払いのサラリーマンのおじさんが二人いました。

 「たった今、人と別れてきたもので」と言って、脳裏をよぎったのが、この言葉は川端康成の「伊豆の踊り子」のラストシーンで、惜別の手を振る踊り子(かおるちゃんでしたな)の姿を、船の上から見ながら涙する主人公に、船員が「ご気分でも悪いのですか?」と聞いたときに言った、最も感動的で最もかっこいいシーンのせりふだった。こんな別れを演じてみたいと言う要望はあったのですが、実際に口走ってしまったシチュエーションがあまりにもかっこよくない。惨めだ。こんなはずではなかった。また涙が込み上げた。

 なんだか良くわからないけれど、「青年よ!元気を出せ!」と酔っ払いのおじさん二人に寿司屋に連れて行ってもらいました。このとき握り寿司はひっくり返してネタに醤油をつけて食べるのだと言うことを教えてもらいました。

 失恋から得るものもあるはずですが、私は寿司の食べ方を学びました。唯一の不幸は女心の何たるかに気がつこうともしなかったことがこの後の人生に影を落とすことになったのですが…

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三芳選婿

2006年12月28日 | 日記・エッセイ・コラム

「森を見て木を見ず、木を見て森を見ず」どちらも片手落ちです。しばしば私達は人を肩書きだけで判別してしまったり、小さなことにこだわって対極を見落とすことが多いものです。いろいろな付録が多すぎて素直な目線で「人間本位」を見ることはとても難しいことだと思います。

 最後に問われるのは人格だと思うのですが、近年話題の熟年離婚など、肩書きのために結婚したものの、勤務先から用なしになれば家庭でも用なしになる男性の惨めささえ感じます。自分の価値観が、名刺に書き込める程度の価値しかなかったことを身を持って知る時にはとき既に遅し。

061227_1  中国のハルビンで出くわした結婚式の写真です。

 女性にとっても夫となる相手を選ぶことは自分の将来を左右することなのでとても不安なことです。良い婿と出会えれば幸福になりますが、悪い婿と出会っても哲学者になれるかどうかは定かではありません。

 結婚相手に最も大切な条件はなんでしょうか?実は、男も女も必要不可欠なものがあります。余計な付録に惑わされて案外見落としがちですが、しっかり見据えておきたいものです。中国の昔話に男装をして自分の結婚相手を探しに出た少女の物語があります。

 昔の中国に三人の美人姉妹がいました。長女は大芳、次女は二芳、三女は三芳と呼ばれていました。長女の大芳は役人に嫁ぎ、次女の二芳は金持ちの実業家に嫁ぎました。

 ある日父母が三女の三芳を呼んで、どんな婿を選ぶつもりなのか問いました。

 「大芳のような役人の婿はどうだね?」 「役人は嫌です。だって、汚い役人ばかりで清廉な役人は少ないでしょう。大姉さんの夫だって将来どうなるかわかりはしません。孫子の代まで後ろ指を刺されるのは嫌です。」

 「二芳の夫のような金持ちの実業家はどうだね?」 「金持ちの息子は家を没落させるから嫌です。中姉さんの夫だってわかりません。飲む打つ買うと放蕩して貧乏になり、末は乞食になるのは嫌です。」

 「末娘や、役人はダメ金持ちはダメでは、おまえはどんな、婿を選ぶつもりなのだ?」 「拍子木は上にも下にもなります。お日様はどの家にも照ります。だから貧乏金持ちに関係なく気の合う人を探したいのです。」

 三芳は父母の許しを得て男の格好をして婿探しの旅に出かけます。

 最初の日に出会ったのが若い大工。体格もがっちりしていて健康そうです。男装をした三芳も少し心を惹かれました。大工はノミで家の梁のホゾを刻んでいました。そのホゾ穴が奇妙に大きいので怪訝に思った三芳は大工に問いかけます。

 「どうしてノミの穴がそんなに大きいのだね?」 「この家の施主はケチで旨い物を食わせてくれないから、いいかげんに仕事をしているのさ。」 

 三芳は何もいいませんでしたが、心の中で”この男は心がゆがんでいる。こんな男の嫁にはなれない”とつぶやきました。

 次の日に出会ったのは容姿の良い商人でした。三芳は心を動かされました。商人は砂で落花生を炒っていましたが、落花生の殻には砂がついたままで売っています。

 「どうして砂だらけの落花生を売るんだね?」 「こうすると売る時に分量が増えるんだよ。商人の知恵だよ。」

 三芳は何もいいませんでしたが、心の中で”この男には良心がない。こんな男の嫁にはなれない”とつぶやきました。

 三日目に出会った男はのろまそうな農民でした。男は道端でしきりにキョロキョロと周囲を見ています。不思議の思った三芳は「何を見ているのだね?」と訪ねると、男は人を待っていると答えました。

 「俺が畑仕事を終えて家に帰るとき、この場所で財布を拾ったんだ。中を見ると百枚の金貨と二百枚の銀貨が入っていた。こんな大金を落とした人はきっと困っているの違いない、だから俺はここで落とし主が来るのを待っているんだ。」

 三芳は試しに「落とし主が来ないのならおまえが貰ってしまえばいいではないか。」と問い掛けてみると、男は激怒して「俺たちは貧しくてもそんな悪いことはしない!」といいました。

 その言葉を聞いてなかなか見所のある男だ!と感じた三芳は話題を変えました。

 「話は変わるが、おまえさん、家族はいるのかね?」 「年寄りの母と2人きりだ。」 「嫁はいないのかね?」 「こんな貧乏人のところへ誰が好き好んで嫁などにくるものか?」 そう言ってからその男は三芳に向かって目をむき出して言いました。

 「拾った金を貰ってしまえなどというおまえはなんて腹黒い男だ!さっさと消えうせろ!」 

 三芳は笑いながら「私はお前さんを見所のある立派な人間だと思っているのだよ。」

 「人をからかうのもいいかげんにせい!殴るぞ!」 と男は怒りました。

 三芳はまたも笑って「まあ、まあ、怒らないで下さいよ。私をあなたの妻にしてください。」 というと、男は唖然とした顔で言いました。

 「おまえも俺も男同士ではないか!貧乏人をからかうのもいいかげんにしやがれ!」 と激怒しました。

 三芳は帽子を脱いで女の姿に戻り男を驚かせました。

 後に三芳はこの農民の男と結婚し、老父母と楽しく暮らしましたが、上の姉の夫は不正がばれて役人をクビになり、二番目の姉の夫は放蕩がたたって一文無しになってしまいました。

 物語はここまでです。老婆心ながら、ところで三芳の夫になった男が拾ったお金はどうなってしまったのだろう?なんか、ここがとても重要なポイントになるような気もしないではないと勘ぐってしまうのですが、ホント、どうなったのだろう?

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犬の歌

2006年12月27日 | 日記・エッセイ・コラム

 До свиданья, друг мой, до свиданья.
 Милый мой, ты у меня в груди.
 Предназначенное расставанье
 Обещает встречу впереди.

 До свиданья, друг мой, без руки, без слова,
 Не грусти и не печаль бровей,-
 В этой жизни умирать не ново,
 Но и жить, конечно, не новей

 「さようなら 友よ さようなら
 なつかしい友 きみを忘れない
 定められた別れの時
 それが ぼくらの再会を約束している
 さようなら 友よ 手もにぎらず 言葉もかわさないけれど
 哀しまないでくれ 眉もひそめないでほしい
 この世で死ぬなど ことあたらしくはない
 けれど生きることも むろん ことあたらしくはないはずだ 」

051227_1

 まずははじめにBGM代わりにエセーニンの詩にワジム・ロツキンがメロディーをつけ、アンナ・レスニコワが歌う「犬のうた」歌詞は下に掲載しておきます。

 ここをクリック(MP3で音楽が聴けます

 1925年の12月27日、詩人セルゲーエセーニンは自らの血でこの詩を書き残して自殺したと言われています。
  エセーニンは数奇な人生を歩んだ詩人で、牧歌的な農村の色合いの濃い詩を生み出していた人生の半分と、ソビエト革命以降の半生の落差が極端です。

 自殺とされるその死も謎に包まれており、没80年だった昨年の今頃にはエセーニンの死に関するドラマがロシアのテレビで放送されて大評判でした。

 1912年にモスクワに出てきたエセーニンはさまざまな仕事をしながら詩を作り、14年にはいくつかの詩を発表しています。1915年にペトログラード(現在のサンクトペテルブルグ)に移り翌年には処女詩集「招魂際」で文壇にデビューしました。

 性格的には酒乱だったようで、性格破綻スレスレのタイプだったようです。ペトログラードで兵役に付きソビエト革命を迎えます。1917年の2月革命で脱走兵になりペトログラードに戻ってきます。

 1922年に17歳年上のアメリカ人の舞踏家、イサドラ・ダンカンと結婚しドイツ・フランス・アメリカを旅します。イサドラ・ダンカンはモダンバレエを作り出した舞踏家と呼ばれ、「踊るヴィーナス」としてその世界では今でも著名な人物。

 USA側や舞踏家たちの目線で見れば、イサドラ・ダンカンが若い飲んだくれのアル中のロシア人にひっかかったと見ています。

 エセーニンはソビエトの放つ新しい理念に希望や憧れは持っていたものの、それはつまり工業化によって彼の愛していた農村文化を破壊させていくジレンマに悩んでいたそうです。キリスト教国でありながらロシア人の自然観は日本人に近いものがあり、自然に対する感性が原始的で宗教的(シャーマニズム的)な面があります。エセーニンもこうした自然観を持っている人物だったと思います。

 後半の人生の中で生み出す詩は工業化にとって購買していく田園を歌ったものや、鉄の馬(鉄道)と競走して敗れる子牛の姿をうたったものなど、素朴から悲壮感へと変わって行きます。

 ただでさえエキセントリックな性格にアルコールが加わり絶望感の中で著名な舞踏家のヒモのような暮らしをしていて長く続くはずもありません。1925年イサドラに見捨てられます。その年の12月27日、手首を切り、その血で最後の詩をしたため30歳の生涯を終えます。

 エセーニンの詩はロシアの人々に愛され、ソビエト時代にはさまざまな歌曲となって世に出たり、たまたま聴いた曲がエセーニンの詩だったなどよくあることです。現在でも新しいポップスにエセーニンの詩が取り上げられていることもあります。

 エセーニンの詩を愛するロシア女性も多いですが、そのほとんどは農村詩人と呼ばれていた初期の頃の詩を好みます。革命以降の詩にはトゲトゲした含みや、切実で悲壮な詩が多いので読んでいて心が苦しくなるそうです。

 「犬のうた」はまだ農民詩人と呼ばれていた初期の頃の作品(1915年)で、「涙を流さずにこの詩は読めない」とロシア人が言う名作です。慈しみが涙と共にあふれます。

 飼い主に逆らえない不憫な犬を農奴を重ねてみることができます。私は最後の部分の人に面白半分に石を投げつけられながらも、生きるために耐えなければならない不憫な犬の姿が目に浮かんでなりません。

 犬のうた

 金色の麦のむしろが、ならんでる。

 穀物小屋の朝まだき。

 雌犬が七ひきの子を産んだ。

 赤毛の子犬を七ひき産んだ。

 一日じゅう、雌犬は仔犬をかわいがり、

 舌で、うぶ毛をなめていた。

 雌犬のあたたかいおなかの下で、

 雪がとけて流れていた。

 日が暮れて、にわとりが、

 とまりぎにねむるころ、

 おやじが、ふきげんな顔をして、

 七ひきごっそり袋にいれた。

 ふりつんだ雪のなか、

 おやじのあとから、雌犬は走った・・・

 来てみれば、まだ凍らない沼の水、

 いつまでもいつまでもふるえてた。

 おなかの汗をなめながら、

 力もぬけた帰り道。

 わら家の上に出た月が、

 仔犬のひとつに思われて。

 クンクン悲しく泣きながら、

 青い空を見ていると、

 しずかにすべる細い月。

 丘のむこうに見えなくなった。

 ふざけて石を投げられて、

 泣いてるように音もなく、

 雌犬の目からはらはらと、

 ころがりおちた金の星。

ПЕСНЬ О СОБАКЕ

<mytag var="text"></mytag>Утром в ржаном закуте,
Где златятся рогожи в ряд,
Семерых ощенила сука,
Рыжих семерых щенят.

До вечера она их ласкала,
Причесывая языком,
И струился снежок подталый
Под теплым ее животом.

А вечером, когда куры
Обсиживают шесток,
Вышел хозяин хмурый,
Семерых всех поклал в мешок.

По сугробам она бежала,
Поспевая за ним бежать...
И так долго, долго дрожала
Воды незамерзшей гладь.

А когда чуть плелась обратно,
Слизывая пот с боков,
Показался ей месяц над хатой
Одним из ее щенков.

В синюю высь звонко
Глядела она, скуля,
А месяц скользил тонкий
И скрылся за холм в полях.

И глухо, как от подачки,
Когда бросят ей камень в смех,
Покатились глаза собачьи
Золотыми звездами в снег.
<mytag var="year"></mytag>
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シロタ・ゴードン

2006年12月26日 | 日記・エッセイ・コラム

Godon1  憲法改正論議が取りざたされる昨今の日本です。憲法9条ばかりが注目されていますが、個人的には日本国憲法前文だけでも十分のような気もします。日本人は十分努力していると思います。

 憲法14条では「法の下での平等」、憲法24条では「婚姻・両性の平等」、憲法44条では「国会議員の資格」の中に男女平等の文言が盛り込まれています。

 左の写真の上下の女性、実は同じ人物です。60年近い年月のなせる賜物です。

 ベアテ・シロタ・ゴードンと言う女性で、日本国憲法に「男女平等」を盛り込むよう働きかけた女性です。

 1923年にウィーンで生まれ、父親は著名なピアニストのレオ・シロタ氏です。「シロタ」と言う姓に日本人を連想してしまいますが、ウクライナの出身。ユダヤ系ウクライナ人です。

 父親が山田耕作の招きで今の東京藝術大学に講師として日本に来たので、彼女が5歳のときに母のオーギュスティーヌと共に来日し、少女時代を東京の乃木坂で過ごします。日本語もペラペラです。

Godon2  第二次大戦が勃発し、両親は日本に住んでいましたが、彼女は留学中で国外にいました。1945年8月15日、日本のポツダム宣言受諾で戦争は終結しますが、軍の関係者でなければ日本に入れないために、日本語が堪能だったこともあり、GHQ民生部の職員と言う形で日本に戻ってきて両親と再会します。

 日本国憲法草案はわずか9日間でGHQによって作られたものですが、人権問題に関わる小委員会はたった三人で構成されているような状態でした。

 彼女は日本での生活を通して女性の権利がいかに踏みにじられていたかを身にしみていたので、何とか男女平等を取り入れてもらいたいと決心します。法律は専門外の彼女でしたが、ワイマール憲法やソビエト社会主義共和国憲法を手本にして、「男女平等、母性の保護、子供の権利、教育を受ける権利」など、人権に関する41項目の草案を2日間で書き上げます。その草案はマッカーサーによって31項目に削除されます。

 マッカーサーによって削除された草案の一つに「All natural persons should be given equal right」と言うのがあります。「全ての自然人は平等の権利が与えられるべきだ」と訳すのでしょうが、「All natural persons」と言う言葉がミソです。

 最近、両親が死去して日本にいる祖母を頼って日本で生活しているタイ人の少女の在留資格延長について、在留資格延長を認めない入国管理局に対して法務大臣が一喝し、審査期間中の3ヶ月間の延長を認める判断が下されました。外国人の養子縁組などに関する法律もクローズアップされました。

 複雑な思いで事の成り行きを注目していしたが、もし、マッカーサーが削除した草案が盛り込まれていたなら、「All natural persons」の文言が残っていたなら、この出来事は起こらなかったのではなかろうか?と思いもしました。All natural persons、全ての国民ではなく全ての命ととらえたなら・・・

 並み居る法律学者達の中に伍して22歳の彼女が草案を書き上げる基本となったのは、女性である自分がどう生きたいかという希望だったそうです。チャンスの有無は別にして、志を持ち実行する事は本当に素晴らしいことだと思います。

 ベアテ・シロタ・ゴードンやマザー・テレサのように偉大な功績を残す女性はこれからも現れることでしょうが、こうした偉人の威光を笠に来て自分の「我」を押し付ける某国の女性政治家(政党)には腹が立ちます。外国の女性政治家と比べるとガキじみていて見劣りするどころか、見比べることさえはばかられる甘ったれた連中なので、、まだまだ男女平等遠からずと言う思いもします。「女性」と言う甘えも許されなくなってくるでしょうから、遠からず消えてなくなるでしょうが、その前に北朝鮮拉致問題の責任を取れと言いたいです。

 人権に関しては神経質すぎるきらいもありますが、日本と言う国はもとより、日本人は崇高な人権意識を持っていると自負しています。そして、その日本人の人権意識の中に、意外なことに旧ソビエト圏の流れを汲む女性やソビエト社会主義共和国憲法が関与していた事は興味深いことだと思います。

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クリスマス

2006年12月25日 | 日記・エッセイ・コラム

061225  ロシアのクリスマスは1月7日。これは、ロシアがユリウス暦を使っていたために、現在世界で一般的になっているグレゴリオ暦とズレが出たためです。

 ソビエトの10月革命も学校ではそう教わりましたが、暦の違いで実際には11月です。

 12月のクリスマスを「西側のクリスマス」や「カトリックのクリスマス」などと呼んで、時に祝うような習慣はありませんでしたが、近年ではパーティーのためのクリスマスとして受け入れられているようです。

061225a  もちろん、1月7日のクリスマスは神聖なものですから、家族で過ごしたり、教会へ行ったりと宗教色が濃く、休日です。

 写真は「西側のクリスマス」の12月25日のもの。少女達の服装の色合いがロシア的です。

 ロシアのクリスマスにはジェッド・マローズ(寒気のおじさん)というサンタさんのようなおじいさんと、妖精スニグラーチカ(雪娘)のコンビが出現します。厳しい寒気と雪は畑の害虫を退治したり、雪が積もって土地が肥沃になることを意味します。こうして過酷な冬の自然を受け入れたんでしょうね。

061225b  子供達の衣装はスニグラーチカを意識したもの奈でしょうが、西側のクリスマスにもロシアらしさが残っていて興味深いです。

 日本の伝統的なクリスマスと言えば、鼻メガネをかけて繁華街を梯子する背広姿のサラリーマンのおじさんと、そのおじさんにまとわりつきボーナスの上前をはねる女狐ホステスですが、「おじさん」たちの勢いがなくなり「若者」が台頭してくると鼻メガネを見かけなくなりました。

 ところで、クリスマスがキリスト教の宗教行事と言うことを理解しているのだろうか?

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White Chrismas

2006年12月24日 | 日記・エッセイ・コラム

061224  ”White Chrismas”を歌ったビング・クロスビーが亡くなったのが、私が高校生の時でした。私にとっては”White Chrismas”も、ビング・クロスビーもこのときはまったく知らない存在でしたが、同級生にビング・クロスビーの歌を好きな奴がおりまして、彼の家に招かれ、トリオのシステムコンポーネントのステレオでレコードを聴かされました。

 どちらかと言うと、ゴージャスなステレオのほうに驚いたのが本音でした。彼のお姉さんがピザ・トーストなるものを作って持ってきてくれて、ピザと名がつくものを食べたのもこのときが初めてで、カルチャーショックを受けました。 なぜかクリスマスと言うとピザを思い浮かべてしまうのはこの影響かもしれません。

 このとき、ビング・グロスビーの歌については全然気にしていませんでしたが、”White Chrismas”はそれまでにも聞いたことがあり、興味を持っていた曲でした。ビング・クロスビーが世に出したことを知ったのはこのときが初めてでした。

 1942年にビング・クロスビー主演の「Holiday Inn」と言う映画の主題歌に使われ、その後1954年に映画「White Chrismas」と言う題名でリメイクされ世界的にヒットした曲でした。

 

061224b  小学生の時、クリスマス・イブの晩の天気予報でこのメロディーが流れとても気に入りました、翌年も同じ季節にこのメロディーが流れ、クリスマスの歌なんだなと言うことはわかりました。中学生の時に歌番組で日本の歌手が”White Chrismas”を歌い、これでようやく題名までたどり着き、高校のときにビング・クロスビーが歌ったもので映画の主題歌だったにたどり着いたわけです。足掛け10年。

 心に留めておくだけで、どこかで気がつくもので、「興味」を持つと言うことは大切だと思います。

061224a  ところでこの”White Chrismas”と言う歌。世界的に知られて歌われているいる歌にもかかわらず、日本語の歌詞がありません。
 オールディーズの歌ですから”悲しみのホワイトクリスマス”なんて題名で、ロカビリーの人たちが歌ってもよさそうなものでしたが…

 この名曲の作詞・作曲をしたIrving Berlin (1888 - 1989)が、この歌詞以外で歌うことを禁止したからだそうで、別の歌詞をつけることも、別の言葉で歌うことも許されない歌なのだそうです。
 そのため、ロシアでも英語で歌われています。

 ちなみに、東京でクリスマスに雪が降った最後は、昭和38年だそうです。

White Chrismas

I'm dreaming of a white Christmas
Just like the ones I used to know
Where the treetops glisten
and children listen
To hear sleigh bells in the snow.

I'm dreaming of a white Christmas
With every Christmas card I write
May your days be merry and bright
And may all your Christmases be white.


ホワイトクリスマスを 夢見ているの
懐かしい日々 そのままに
梢は輝き 子供たちは耳をすますの
雪の中を走る そりの鈴の音に

夢見ているのは 雪のクリスマスなの

どのクリスマス・カードにも書くわ
あなたに きらめく幸せな日々がありますように
そしてクリスマスが銀世界に包まれますようにって

061224c

 ひねくれた性格なのか、クリスマスはじめ人が浮かれるお祭りごとが大嫌いなので、クリスマスソングもしんみりしたものが好きです。

 子供の頃、祖母に「お前が楽しくて浮かれているときに、悲しんで泣いている人もいるのだから、お前はその人たちのことを忘れてはいけないよ。」と、言われて育ったことが影響しているのかもしれません。祖母は「幸せ」と言うのは限られた量しかなくて、誰かが幸せなときには誰かが不幸になっていると考えている人でしたが、三つ子の魂です。

061224d  夕べ、ウランバートルの施設からメールが入っていました。この秋、中学生になった娘達へ送った冬物の衣料品とお菓子が届いたとのこと。「クリスマスプレゼント」と書かれていたので、モンゴルでもクリスマスをやるようになったでしょう。来年はクリスマスカードも送ったほうがいいのかな?なんて考えています。

 チベット仏教の国なので、正月に届けばと思って贈ったのですが、予想よりも早く届いてしまいました。厳冬期には氷点下50度を超える土地なので、はたして日本の冬物がどれだけ役に立つかわかりませんが、相手の顔を思い浮かべながら贈り物を買うときって楽しいですね。この子達が小さな幸せを誰かに橋渡ししてくれることを願っています。立派な人になることなんてどうでもいい、人様のためになる人に育って欲しい。それだけです。

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百万本のバラの謎?

2006年12月23日 | 日記・エッセイ・コラム

 怪我と病気に苛まれたこの1年の大きな成果?と言えば、「百万本のバラ」についてまた一歩探求できたことで、ラトビア大学図書館の協力で、原曲の原曲「マーラが与えた人生」までたどり付くことができました。

 ♪ここをクリック♪ (MP3で音楽が聴けます) アラ・ブガチョバが歌う ”Миллион алых роз” 加藤登紀子さんの「百万本のバラ」はこの歌を元にしています。

 ♪ここをクリック♪ (MP3で音楽が聴けます)さらにその原曲だった ”Dāvāja Māriņa” 「マーラが与えた人生」  アイヤ・クレレというラトビアの歌手が歌っています。

 「百万本のバラ」がむなしい恋の歌であるのに対して、その原曲の「マーラが与えた人生」は運命に苛まれた人々の嘆きの歌です。歌詞は最後に紹介します。

 以下、以前紹介した「百万本のバラ」に関するコラムです。

 2003年2月のコラムから

 日本では加藤登紀子さんの歌で有名な「百万本のバラ」ですが、この歌をロシア民謡に位置付けることに関しては疑問があります。

 日本ではロシア及び旧ソビエト圏の大衆音楽をひとくくりにロシア民謡と称しますが、ロシア人にとってはそれぞれの歌に時代背景を背負っていますので、「ロシア民謡」と呼ばれるとまったく別のジャンルの音楽を連想してしまいます。

 日本人に春日八郎の「お富さん」やフランク永井の「有楽町で逢いましょう」を日本の民謡だといえば、誰しも首をかしげることでしょう。

 ロシア音楽の分類については別の機会に紹介します。

Rosa1  アラ・ブガチョワというロシアの代表的なポピュラー歌手によって「百万本のバラ」は広く世に知られることになり、同時に彼女をロシアのトップスターダムに押し上げることになりました。

 この歌を作曲したのはライモンド・パウルスというラトビアの作曲家で、ラトビアの文化大臣を歴任した人物です。元の歌詞はラトビア語でしたが、ヴォズネンスキーという作詞家がロシア語の詩を付け、それをアラ・ブガチョワが歌い世に広めました。ラトビア語で作られた元の詩は現在知られているものとは違う内容の詩であったようです。

 一目ぼれした女優のために何もかも売り払った画家がバラの花を100万本買い込んで窓の下に敷き詰め、女優は金持ちの享楽と思い、貧しい画家のことなど気にもせずに立ち去っていく物語ですが、ウラジオで何回となく花束を買った経験からすれば、莫大な金額が動いたことは確かです。

 ロシアでは家を訪問するときに花束の一つも持っていくことが礼儀とされているので、私なんかいつも200ルーブル(大体1000円)をひとつの目安にしていますが、せいぜい5本-11本買える程度です。花市場で一番きれいな花を求めるのではなく、一番きれいなお姉さんが売っている店に行きたがるからボラれているのかもしれませんが。

 ロシアでは割り切れる偶数は「別れ」を意味する不吉な数字なので、「100万1本のバラ」だったらこの恋は成就したのかもしれません。ただ、歌は売れなかったでしょう。

 ロシア語の詩を付けたヴォズネンスキーがこの歌に詩を付けるにあたってモデルにしたのは、グルジア出身の画家ニコ・ピロスマニといわれています。

 革命へと向かいつつあるグルジア地方で居酒屋やレストランの壁に絵を描いて暮らす画家だった彼は、ある日、その地にやってきた画家の目にとまり、中央画壇へ紹介されますが、モスクワに赴いた彼が目にしたのは、彼に対して冷淡で権威主義的な美術界でした。深く傷つき故郷グルジアに帰り絵を描き続ける生涯を描いた映画、「ピロスマニ」は日本でも発売されています。

 ピロスマニの絵画や、人生はその後に多くのロシア文学者や詩人たちに感銘を与えています。

 日本でいうならシンガーソングライター、ロシアではバルドと呼ばれる人々の中に、ロシア人なら誰でも知っているブラート・オクジャワという吟遊詩人がいます。1988年に来日したときに私は彼のコンサートに行きました。オクジャワはグルジア人の父と、アルメニア人の母の間に生まれ、両親はスターリンの弾圧の時代に獄中死したといわれています。

 オクジャワの代表的な歌に「グルジアの歌」という美しい詩を持つ歌があります。一説ではオクジャワはニコ・ピロスマニの絵画のイメージをモチーフにこの「グルジアの歌」を書いたと言われています。

 グルジアの農村の原風景やそこに暮らす人々を好んで描いたピロスマニの世界は、近年のバルドや作家たちに大きな影響を与えています。

 この何年かピロスマニの絵画や、農民詩人と呼ばれていた時代のセルゲイ・エセーニンの詩が見直されてきているようなロシアですが、都会化(悪い意味での資本主義化)に対する彼らの戸惑いを私は感じています。

 本題に戻りますが、「百万本のバラ」の成り立ちはソビエトという共同体があったがゆえに生まれることができたのでしょうが、ラトビアの作曲家にロシアの作詞家がグルジアの絵描きをモデルにした詩を付けたワールドワイドな曲です。

 「百万本のバラ」を想像してアラ・ブガチョワのCDを買うと期待は裏切られます。多くの曲はユーロビートを基本とした当世流行のダンス向けの音楽ばかりです。残念ながら日本では発売されていませんが買うならこの歌が入っているかどうか確認したほうが得策。

Rosa2  現在、アラ・ブガチョワの娘のクリスティーナ・アルバカイテが親の七光りで売り出し中ですが、ロシアでは押しなべて評判がよくありません。モナコで行われた世界の国を代表した歌手が集う音楽会(日本は宇多田ひかるが出ていた)にロシア代表でクリスティーナ・アルバカイテが出ておりました(他の国からも2世歌手が多く出ていました)が、このときはコンチネンタル・タンゴ風の歌を歌っていました。

 現在のブガチョワの夫はフィリップ・キルコロフという一目見て怪しそうな中東風の風貌の男(ブルガリア人らしい)ですが、これまた怪しいベリー・ダンスでも踊りたくなるような中東風の歌を歌っております。(追記、2005年3月、ブガチョバとキルコロフはついに離婚しました)

 叙情詩的な詩情を好む日本ですが、ロシアでは叙事詩的な詩情が好まれる傾向にあります。しかしながら、根底の人の情というものは国境がありませんし、その情感は日本人と共通するものがあります。

 ロマンチックな詩情なので、バラの花一本いくらなどと詮索しないで親しんでいただきたい歌です。

 2006年1月に紹介した「マーラが与えた人生」についてのコラム。

 加藤登紀子さんが歌って日本でも大ヒットした”百万本のバラ”はソビエト歌謡で、ソビエト・ロシアの大スターのアラ・ブガチョワが歌ってソ連でも大ヒットしました。このときの曲名が”Миллион алых роз(百万本の赤いバラ)”です。作詞はヴォズネンスキー、作曲はライモンド・パウルスでした。

 このライモンド・パウルスはラトビア出身の作曲家で、ソビエト崩壊後に独立したラトビアでは日本で言う文部大臣に相当する役職を歴任した人物です。元々は”百万本のバラ”として作曲した歌ではなく、ラトビアの作詞家レオン・ブリディスの詞で、ブレジネフ体制末期の1981年に”マーラが与えた人生”として世に出ます。

 ところがラトビア語の歌ですからロシア人には歌詞の意味がわからない。そこで放浪の画家ニコ・ピロスマニをモデルにヴォズネンスキーが叙事的な詩をつけて、ソビエトの大歌手アラ・ブガチョワが歌い”百万本のバラ”として世に広まりました。

 まだ25年の歴史しかない歌なので「ロシア民謡」に分類されるのはおかしな話です。

 ”百万本のバラ”は女優に恋をした画家が家も財産も売り払ってバラの花を買い、女優の泊まる宿の窓の下に敷き詰め名乗り出ることもなくその姿を遠くから眺めてつかの間の恋を立ち去っていくロマンチックな歌ですが、元になった”マーラが与えた人生”はラトビアと言う国の成り立ちを暗示する意味深な歌です。

 マーラとはラトビア地方に伝わる聖母で、ラトビアと言う娘を産んだものの幸せは与えられなかったと言う意味が含まれているのではなかろうか?”これはお前の定めなんだよ”と諦めにも似たラトビアの悲しみが込められていると私は解釈しています。スウェーデンに、ポーランドに、ロシアに蹂躙された小さな国ラトビア。幸薄い母娘3代の人生を通して、ラトビアを語っています。 

 同時に、私は”百万本のバラ”にはない「母性」を感じています。「嘆きの母」を今の日本では見ることもありませんが、自分の力ではどうにもならない悲しみを踏まえた愛情。メロディーが名曲と言うこともありますが、歌詞が変わってもすばらしい歌に巡り会えたと思っています。

 ラトビアに限ったことではなく、ロシア市民だって一部を除けば、母達はこの歌のような思いを背に子供を育てていたはずです。

Kukule_1  1981年にアイヤ・クレレが歌って世に出した”マーラが与えた人生”を紹介します。ラトビア語です。

 子守唄のような優しい語り口に込められた”悲しみ”を汲み取ってみてください。最後に小さな子供がサビの部分を歌っています。ドキッとすると同時に”ラトビアはどうなるのだ?”と 突き落とされるような思いと共に、この歌が作られたソ連真っ只中の出口の見えない時代に引き込まれる思いがしてしまいます。

 政治色を抜きにしても、とても心に響く歌だと思います。”百万本のバラ”のロマンチックな華やかさも、”マーラが与えた人生”の染み入るような慈しみも、どちらも愛です。

 私の翻訳によるあてにならない「百万本のバラ」の歌詞。

 1. 一人の画家が住んでいた 彼は家とカンバスを持っていた でも、彼は1人の女優に恋をした 彼女は花が好きだからと 彼は絵画も、屋根から丸ごと家を売って金をつくり 花の海で彩った

 *百万、百万、百万本の赤いバラ 窓から、窓から、窓からあなたは見る 誰の愛なの、誰の愛なの、誰の愛なの熱心な あなたのために彼の人生は花に移った 

 2. その朝、あなたは窓辺に立って きっと心を失うだろう 夢の続きなのかしら?  広場は一面が花であなたは震える このイタズラはどこかの億万長者のお遊びかしら? でも窓の下には貧しい画家が息をひそめている。 *繰り返し

 3. 会えたのはほんの一瞬 その夜彼女は旅にでる でも彼女の人生にこの奇妙なバラの歌は残る 画家は孤独に生きた 苦しい生活に耐えながら でも彼の人生には 広場を埋め尽くした花の思い出が残った *繰り返し

 黒澤歩様の翻訳によるラトビア語の「マーラが与えた人生」

 1. 子供のころ泣かされると   母に寄り添って   なぐさめてもらった   そんなとき母は笑みを浮かべてささやいた  「マーラは娘に生を与えたけど幸せはあげ忘れた」

 2. 時が経って、もう母はいない   今は一人で生きなくてはならない  母を思いだして寂しさに駆られると  同じ事を一人つぶやく私がいる   「マーラは娘に生を与えたけど幸せはあげ忘れた」

 3. そんなことすっかり忘れていたけど  ある日突然驚いた  今度は私の娘が  笑みを浮かべて口ずさんでいる  「マーラは娘に生を与えたけど幸せはあげ忘れた」

 ロシア語の「Миллион алых роз」(百万本のバラ)の歌詞

 1.Жил-был художник один,
 Домик имел и холсты.
 Но он актрису любил,
 Ту, что любила цветы.
 Он тогда продал свой дом,
 Продал картины и кров
 И на все деньги купил
 Целое море цветов

 Миллион, миллион,
 Миллион алых роз
 Из окна, из окна,
 Из окна видишь ты.
 Кто влюблён, кто влюблён,
 Кто влюблён, и всерьёз,
 Свою жизнь для тебя
 Превратит в цветы
.

 2.Утром ты встанешь у окна,
 Может, сошла ты с ума, -
 Как продолжение сна,
 Площадь цветами полна.
 Похолодеет душа:
 Что за богач здесь чудит?
 А под окном, чуть дыша,
 Бедный художник стоит.

 

 3.Встреча была коротка,
 В ночь её поезд увёз,
 Но в её жизни была
 Песня безумия роз.
 Прожил художник один,
 Много он бед перенёс,
 Но в его жизни была
 Целая площадь цветов.

 

 普通に生活していれば生涯お目にかかることも無いだろうラトビア語の原曲、「Dāvāja Māriņa」(マーラが与えた人生)の歌詞

Kad bērnībā, bērnībā
Man tika pāri nodarīts,
Es pasteidzos, pasteidzos
Tad māti uzmeklēt tūlīt,
Lai ieķertos, ieķertos,
Ar rokām viņas priekšautā.
Un māte man, māte man
Tad pasmējusies teica tā:




Piedz.(繰り返し)
Dāvāja, dāvāja, dāvāja Māriņa
Meitiņai, meitiņai, meitiņai mūžiņu,
Aizmirsa, aizmirsa, aizmirsa iedot vien
Meitiņai, meitiņai, meitiņai laimīti.




Tā gāja laiks, gāja laiks,
Un nu jau mātes līdzās nav.
Vien pašai man, pašai man
Ar visu jātiek galā jau.
Bet brīžos tais, brīžos tais,
Kad sirds smeldz sāpju rūgtumā
Es pati sev, pati sev
Tad pasmējusies saku tā:

Piedz.(繰り返し)

Kā aizmirsies, aizmirsies
Man viss jau dienu rūpestos,
Līdz piepeši, piepeši
Nopārsteiguma satrūkstos,
Jo dzirdu es,dzirdu es,
Kā pati savā nodabā
Čukstklusiņām, klusiņām
Jau mana meita smaidot tā:

Piedz.(繰り返し)
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Death Becomes Her

2006年12月22日 | 日記・エッセイ・コラム

061222  Death Becomes Her”(彼女には死がお似合い)日本ではなぜか「永遠に美しく」と言う題名でした。

 いつまでも年老いることなく美しい美貌を保ちたいと願う高慢ちきな女優が、怪しい魔術師から永遠に歳をとらない薬を手に入れたものの、実はそれは既に「死」を意味していて、死んでいれば永遠に歳をとることはありません。既に生命としては死んだはずの女優が起こす、ドタバタコメディーです。

 主演は「マディソン郡の橋」など数々の名作に出ているメリル・ストループ。

 まさか彼女がこうしたコメディーなどに出るなんて思っていなかったので、最初に見たときは「本物だろうか?」と疑いながら見ました。

 美しくありたい、いつまでも若くありたい、そんな気持ちがわからないわけでもありませんが、怪しいダイエット薬や、化粧品で身体に異常をきたす人たちのニュースを見ていると、「自業自得ではなかろうか?」と言う思いもします。

 かく言う私も大柄なので、「痩せる」と言う嫌な言葉に年中向き合わされていますが、この1年で15kgのダイエットに成功しました。

 ダイエットの秘訣は、肋骨骨折にインフルエンザに肺炎です。これでもう一発ノロウィルスでも加わればあと5kg落とせそうです。さらにガンと糖尿病でも患えば夢の平均体重なんか軽く突破できて、骨壷に収まるほど痩せられること間違いなし!

 dietには「食事療法」と言う意味もあるそうですが。「t」をとれば「die(死))」です。

061222a 秋田県の田沢湖に辰子象がひとり寂しくたたずんでいます。私はこの光景が大好きで、何度となく秋田まで足を運んで、延々と眺めています。

 この像の表情、ポーズ、たたずまい、全て好きですし、辰子の伝説を思うとなおさら愛おしい思いを持って見つめてしまいます。

 安倍三之丞の娘・辰子という美貌をもった少女がおり、「この美しさを永遠のものにしたい」と観音様に百日詣のお参りをしました。

 やがて満願の夜が訪れ、「北の山に清らかな泉がわいている。それを飲めばお前の願いは成就するだろう」とお告げがありました。

 それらしき泉を発見した辰子は掌ですくって飲んでみると、喉が渇く感じがする。飲めば飲むほど喉が渇く。

 飲んで飲んで飲まれて飲まれて飲んで、飲んで飲み続けてゲロ吐いて~飲んで。やがて辰子は大きな竜になっていた。

 その泉の水がたまったものが田沢湖で、竜になった辰子はこの湖に住んでいるといわれています。

 「おろか」と片付けてしまうのも偲びありませんが、「美しさ」にはこのような「はかなさ」が表裏一体になっていると思います。はかなさという影があるからこそ美しさが輝くので、パンツはかなかければ美しいと勘違いしてるそこらのねえちゃんとは大違いです。あんたらに必要なのは心のダイエットです。

 花の色は うつりにけりな いたづらに 我が身世にふる ながめせしまに  (長雨に桜花の色は移ろい、私自身もつまらない物思いにふけっているうちに盛りの時を過ごしてしまった)。小野小町の歌です。

061222b  この春、花の写真を撮りながら考えました。桜の花の散り際の潔さを尊ぶ日本人の感性について。

 太平洋戦争という文化大革命を経験した現代日本人にとって、必ずしも「散り際の美」は好ましいものではないと受け止められがちですが、もしかしたら勘違いしているのではなかろうか?と考え直してみました。

 これは決して「死」を美化しているのではないと思えるようになりました。

 桜の花は散る間際、人で言うなら壮年から老年にかけてが美しく、花びら一枚一枚が書けるように落ちていくさまがまた美しい。そして地に落ちた花びらが風に舞い、舗道を多い、水の流れによどみ、そして花の後こ新緑の美しさと、そのあり方そのものが全て絵になります。

 もし「死」を美化するのであれば、「首が落ちる」と牡丹を忌み嫌うことなどなかったでしょう。牡丹は中国で愛されている花ですが、どんよりと濃厚な色合いなど日本ではあまり好まれているように思えませんでした。

 個人的な間隔の問題かもしれませんが、私は牡丹と言う花に真っ向臭い「死」の香りが漂っているように思えてなりませんでしたが、最近は牡丹の花を目にする機会も増えたというのか、自分で意識してみるようになってから、牡丹の花の美しさもわかるようになってきました。

061222c  日本の有名な怪談話に牡丹灯篭という話があります。登場人物の名前など諸説ありますが、代表的な話は萩原新三郎という浪人者が顔見知りの医者の宅に伺ったところ、治療に来ていた武家のご令嬢お露と女中のおヨネに出会います。

 新三郎もお露もお互い一目ぼれし、この人以外に伴侶となるものはいない!と心に誓っては見るものの、かたや武家のご令嬢、かたやしがない浪人もので身分の違いはいかんともできません。

 ある夜、新三郎が家にいると下駄の音が聞こえる。こんな時間に誰が歩いているのだ?と気になって外に出てみると、牡丹の絵柄の美しい提灯ぶら下げてお露とおヨネが歩いて来る。「これはこれは、こんな夜更けに何用ですか?」「新三郎さまに会いとうて」と、それから毎晩お露が訪ねてくる。

 近所の者も、毎晩何しているんだ?と気になり、好奇心半分にのぞいてみると、新三郎が楽しそうに話し掛けている相手はなんと骸骨。新三郎に思いを寄せながらもお露は病を得て死に、それを追うようにおヨネも死んでもはやこの世のものではありません。

 毎夜死人と情を交わしていた新三郎も日に日にやつれていく。これはいかんと周囲のものがお坊様に頼んで新三郎を助けようとします。新三郎の家の入り口にお札を貼って、お露が入れないようにしてしまいます。

 「新三郎さま、お札を、お札をはがしてくださいませ」とお露が懇願します。新三郎もあの世に連れて行かれてなるものかと拒むのですが、ついにこらえきれずにお札をはがしてしまいます。

 しらじら夜明けも近い頃、おヨネの照らす牡丹灯篭の後にお露と新三郎がついていきます。後にお露の墓をあばいてみると、棺の中にはお露の骸骨を抱いた新三郎が入っていた。

 怪談・牡丹灯篭は落語家の三遊亭円朝の噺で広く庶民の間に知られるようになりました。落語の牡丹灯篭の元になったのは19世紀になって書かれた鶴屋南北の「阿国御前化粧鏡」。山東京伝の「安積沼」があります。

 牡丹は中国の代表的な花ですが、実はこの牡丹燈篭という物語はの時代に書かれた剪燈新話という本に出てくる物語です。

 上田秋成雨月物語にも剪燈新話から引用された物語がいくつもあります。牡丹燈篭をモチーフにしたと思われる「吉備津の釜」や剪燈新話愛卿伝をモチーフにした「浅根が宿」などが引用されています。

 さて、本家牡丹灯篭とはいかに? 時代は元の末期、今の浙江省あたりに喬生という男が住んでおりました。毎年五月十五日には燈篭祭りが開かれ賑わいを見せるのですが、喬生は妻に先立たれ、燈篭祭りを見に行く気にもならずぼんやりと門前にたたずんでいました。

 夜も12時を回った頃、牡丹の花が二つ並んだ燈篭を持った女中を先頭に年の頃なら17-8の世にも美しい娘が歩いてきます。喬生はあまりの美しさにふらふらと近づいてしまうと「逢引のお約束をしたわけではございませんのに、こんな月の夜にお目にかかれるのも何かの縁でしょうか」と美女麗卿に声をかけられます。

 「私の家はこの近くなので、お寄りいただけませんか」と喬生が誘うと麗卿と女中の金蓮は拒むことなくついてきました。ここから先は日本版と同様で、毎夜毎夜二人が訪ねてくるので、隣のものがのぞいてみたら喬生がドクロと話をしている。

 人間は陽の世界に住む精気のあふれたものだが幽霊は陰の世界に住む穢れたものなのだ。それに気がつかず毎晩毎晩幽霊と同衾しているが、このままだと若いみそらであの世に連れて行かれるぞ、と、老人に脅かされた喬生は、麗卿が住むという湖の西に行って見ますが、誰も麗卿のことなど知りません。

 一休みしようと立ち寄った湖心寺で「元奉化州、州判のむすめ麗卿の棺」というのを見つけびっくりします。よく周囲を見ればその前には牡丹の花を二つ並べたおなじみの燈篭があり、その下には死者に供えた紙人形があり、その背中には金蓮と書かれています。

 これは大変なことになったと魏法師という男の元に相談に行くと、二枚の護符を渡されて、一枚は門柱に張りもう一枚は寝台に張るよう言われ、決して再び湖心寺に近づいてはいけないと言われます。

 一月ほど経った頃、友人の家で飲んだ喬生は魏法師の言いつけを忘れて湖心寺の前を通ってしまいます。門前には女中の金蓮が立っており、「お嬢様がお待ちでございます」と喬生と寺の中へ引っ張り込みます。棺のあった部屋には麗卿が待っていて「お目にかかれた以上もう放しはしません」と麗卿は喬生を棺の中に引きずり込むと棺の蓋がバタンと閉まります。

 喬生が帰ってこないことを心配した老人が西心寺に見に入くと、麗卿の棺から喬生の着物が出ているので、老人が棺を空けると喬生は屍の女を抱いて死んでいました。

 日本ではここでおしまいですが、ここから物語が進行するのが中国版です。

 その後、夜な夜な金蓮の牡丹灯篭を筆頭に喬生と麗卿が手をつないで歩いている姿が人々に目撃されるようになります。それに行き当たった人は思い病気になってしまい、手厚い法要をしないと死んでしまうとあって、人々は魏法師に助けを求めに行きます。

 わしの護符は未然に防ぐことはできても、既に起きてしまったことには効き目がないので、幽霊を懲らしめる術を身につけた鉄冠道人に相談しろ。と魏法師は言います。

 鉄冠道人は静かな隠居暮らしを妨げられたので怒り心頭です。金連、喬生、麗卿の三人を捕らえると首かせをして鎖でつなぎ鞭打ちをし、三人に供述書を書かせて九幽の獄へ押し込んでしまいます。人々に鉄冠道人のことを教えた魏法師に対しても「あのおしゃべりめ」と怒り、喋れなくしてしまい、道人は人々の前から姿を消してしまいます。

 日本の物語の引き際のよさに比べて、中国の物語はどことなくどんよりねっとりしていて後味がよろしくありません。これも「美」の感覚の違いでしょうか?

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花巻2

2006年12月21日 | 日記・エッセイ・コラム

 朝を迎えたと言ってもまだ冬の最中のことですから、あたりは真っ暗。新聞配達の自転車のブレーキの音が「もう朝なんだな」と感じさせてくれる程度です。目が覚めたというよりは寒くて寝ていられなかったと言うのが正解です。

 当時はコンビニなんてものはありませんでしたし、こんな早くに開いている店もありません。どこかで暖を取らなければ・・・と思いついたのが駅。夜更けに高校生がうろうろしていれば不審に思われるでしょうが、朝早くならそんなこともないだろうと思いました。

 花巻の駅に行ってみると、待合室の石油ストーブが暖かそうで、抱え込むようにストーブに顔を寄せて一晩分の暖を吸い込みました。「よく一晩行きぬくことができたものだ!」と、身勝手もほどほどしい自画自賛をしつつも、なんとなく自分が少しだけ立派になったような気がしました。

 いわば「放浪癖」の始まりと言うのか、ひとところに落ち着かない性分が開花した瞬間だっだのかもしれません。

 今だからこそ言えることですが、旅の醍醐味は帰ることにあると思います。魂がどこかに帰りたくなって旅に出て、行った先で魂がまた帰るところを求めて戻ってくる。その戻ってくるところが生活の拠点だというだけで、だからこそ「我が家が一番!」と風呂に入りながら言えるわけです。

 今でもそうですが「どこかへ行きたい」と出かけては、既にどうやって帰るかを模索しながら、これから行く先の新しい発見を心待ちにしている自分がいます。相反する矛盾があるからこそ旅から帰ると出かける前よりも少し大人になった気がします。

 それでも、基本的に心がデラシネなので、旅に出たら行ったまま帰ってこないのではないか?と、自分に対する不安は今も持っていて、ウンチ君(ネコの名前です)がいるから家に戻ってくるきっかけがつかめるようなもので、もしこれ以上身軽だったらどこかに行ったまま帰ってきていなかったかもしれません。

 このときはそこまで考えが成熟していませんし、何かの重圧から逃げるように花巻まで来てしまったので、帰るべきか帰るまいか?駅の待合室のストーブの前で思案しながら眠っていました。

 昔の書生さんのようにマントでもあれば違ったのでしょうが、学生服姿で一晩の野宿は文字通り「身にしみた」寒さで、ストーブの熱で温かくなって血行が良くなってくると太ももの辺りが痒くてなりませんでした。

 馬鹿げたことをやらかしてしまったと言う後悔もさながら、ちょっぴり自信も生まれていましたし、

 思い立って花巻に向かった時の後ろめたさと同様に、今度は帰ることへの後ろめたさがありました。なんとなくこのまま帰ったら「負けを認めた」ような悔しさもありました。

 「帰るのではない旅を続けるのだ!」と自分に言い聞かせて、結果的に「帰る」に他なりませんが、家への旅を続けることにしました。

 列車の中では前日、花巻の古本屋で買った「二十歳の原点」を眠り込み目が覚めてはまた本を眺めまた眠り込み、各駅停車を乗り継いでの帰り道でした。「二十歳の原点」の作者の高野悦子の故郷、西那須野を通過しながらもそのときは気がついていませんでした。

 後に受験が終わり、落ち着いて「二十歳の原点」を読み返し、高野悦子がワンダーフォーゲル部にいたことから、「大学に行ったらワンゲルに入るぞ!」と、方向的にはよく似たものの内容は過激な山岳部に入ってしまったために、くすぶっていた放浪癖に火がつき、人生ガタガタに狂ってしまいました。

 二十数年の時を経て思い起こすと、あのプチ家出が今日の自分がいる大きな転換期になっていたのではなかろうか?と思うことが多いです。

 人生の選択に「間違い」なんてものはなく、選んだ道をどう料理するかの問題だと思います。旅に似ていると思います。計画通りのあわただしい旅行との違いはそこに自分の意思が介在しているか否か後が意だと思いますが、何を見て何を得るか?ガイドブックではなく自分の心次第だと思います。

 あの旅で何を得たのだろうか?言葉にして考えられるほど薄くはありませんが、「人」に嫌気が指して旅に出て、「人」の素晴らしさを身にしみて戻ってくるその繰り返しだったような気もします。

 今にして思えば小さな冒険ですが、あの時は一か八かのプチ家出でした。

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花巻1

2006年12月20日 | 日記・エッセイ・コラム

 高校3年生の時にプチ家出をしたことがあります。受験シーズンが始まる1月末で、自分のやりたい事と娑婆が求める進路が異なっていることや、現実と理想とのギャップで気持が萎えていたときでした。

 後閑の駅に貼られていた国鉄のディスカバージャパンのポスターを見て「花巻」という言葉に、”暖かで花が満ち溢れた桃源郷のようなところ”というイメージを持ってしまいました。実際そんなような写真が出ていましたが。

 受験のために小銭をためていて懐が暖かかったこともありますが、そのまま沼田を通り越して各駅停車乗り継いで大宮まで行き、そこから仙台行きの特急に乗り込みました。

 その日が土曜だったので、スキーや帰省客で列車がこんでおり、乗降口の近くに立ったまま、通り過ぎる東北本線沿線の景色をただただ眺めていました。

 宇都宮を過ぎると次第に降りる客が増えて自由席にも空席ができるようになりましたが、いつ思い直して戻ってもいいようにと、そのままそこに立っていました。

 福島県は広いな、いつまで走っても福島県。家と家との間隔が次第に広くなり、駅と駅との感覚も遠くなる。移り変わる街並みを眺めながら「この街の人たちはどんな暮らしをしてしているのだろう?」なんてことを考えていると、だんだん親しみをおぼえて気持が温かくなる自分を発見しました。

 仙台からは各駅停車を乗り継いで花巻に向かいました。今度は座席に座って、その土地の人になった気分で時を過ごしました。

 外の寒さと列車の中の暖房の暖かさのギャップも心身ともにジーンとしみる思いでしたが、列車に乗り込んでは去っていく人たちの生活感もまた温かく思えてなりませんでした。

 自分と同じくらいの高校生が乗り込んできては二つ三つの駅で降りていく。見慣れない校章をつけた学生服を着た私を不思議そうな目で見て、目が合うとお互い目をそらしてします。そんなことが何回か繰り返されました。言葉の訛りが違うので既に別の「世界」には行っている気分で、私は旅人。

 旅行者よりも旅人のほうが美しい言葉だ、できれば「まろうど」と呼ばれたいなんてことを思ったものです。旅行者はあわただしく点と点を移動する人たち。旅人はその線の上を歩く人たち、まろうどは?もっとあてなき旅をする人たち。そんなイメージを持ちました。

 男子校だったので、女子高生には免疫が無いので、前の席に女子高生が座ったときには緊張しました。できるだけ意識をしないように左肘を窓枠に乗せて、窓の外の景色を眺めるふりをしていましたが、「もし正面の女子高生に声をかけられたらどうしよう」なんてことばかり考えていました。

 「あの高貴ないでたち、立ち居振る舞い。いとやんごとなきお方に違いないわ!もしかして、天竺にありがたいお経をとりに行く徳の高いお坊様かしら?ありがたやありがたや!」 なんて思われていたらどうしよう!きっと彼女の中で、私はつかの間に通り過ぎた美しい旅人になるに違いない!

 声をかけなかったのは度胸が無いからで、それに他なりませんが、声をかけた瞬間、世界が崩れて消えてしまうようで、「もう少しこもままいさせて欲しい」と願いもむなしく駅についたらその女子高生も降りてしまいました。

 列車が踏み切りを過ぎる刹那、踏み切り待ちの人たちが消え去って行きます。ただそれだけのことですが、その瞬間しかない出会いとはこういうものなんだろうか?私達の一生なんて時の流れの中からみれば、踏み切り待ちをしていた人のようなものかもしれない。

 夢や希望を持てなどと他人は簡単に言うけれど、それは遠からず失望に変わるもの。何も考えず流れに任せて生きていくことが正しいのか?そんなことのために自分はこの世にいるのか?

 などと考え出したのは日が西に傾きかけていたからかもしれません。

 花巻について時にはもう薄暗くなっており、冷え込んだ空から粒状の粉雪がうっすらと降ってきました。

 「もうだめだ」「もう嫌だ」とつぶやきながら、野良犬のように街を歩きました。心が落ち込んだときに類は友を呼ぶのか?古本屋で手に取ったのが高野悦子の「二十歳の原点」。列車に飛び込み自殺した人の手記だっけ、と、目に入ったのが

 ”旅に出よう テントとシュラフの入ったザックをしょい。 ポケットには一箱の煙草と笛をもち 旅に出よう”の一節。胸をかきむしられるような思いで、この本を買ってしまいました。

 思えば、朝から何も食べていなかったので、駅に戻る道すがら暖かそうな湯気が立ち上っていた中華食堂に入り、中華丼を食べました。名前は聞いたことがありましたが、中華丼を食べるのはこのときが初めてでした。

 秋に戻って待合室で、今夜はここで過ごそうと椅子に座ってから気がつきました。学生服姿でこんなところにいたら不審に思われるに違いありません。

 温かそうなところを求めてまた外をさまよい、ダンボールを拾ってきてビルの軒下で過ごすことにしました。

 このまま凍死してもいいや、こんな世の中に生きるくらいなら。なんて思うと情けなくて涙が出てきますが、うっすら降っていた雪もやんで、空に星が見えました。オリオンの三ツ星が。

 次第に意識が遠くなり”このまま一切の記憶が消えて、目が覚めると別の人間に生まれ変わっていたら”などと願いつつ、程なく寒さや痛さで目を覚まし、やがて意識が遠くなり、繰り返しているうちに朝を迎えました。

 続く・・・・・・・・・・・・・

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彼の物語

2006年12月19日 | 日記・エッセイ・コラム

 英国を震撼させたサフォーク州の娼婦連続殺人の犯人が捕まり、最初の事件の時に取調べを受けていた男だったそうです。日本なら「初動捜査のミス」と警察にマスコミの非難が集まりそうです。
 犯人は自分が思い込んでいる自分と、女性が評価する自分の落差に腹だってやった犯行というようなことを言っていますが、ことの大小の差こそあれ、こうした幼稚な思考で起こる事件は日本でも多くなっています。

 思い込む力と考える力は別物で、取り巻く状況を把握しなければただの思い込みで、これは「恥」でしかありません。

 世の中なんでも自分の思ったとおりになると思っている自己中心的な人間はいつの時代どこにでもいるものですが、昨今「病んでいる」と感じるのは、それを「自由」と開き直る人たちが増えた気がします。

 インターネットで仲間を募集して自殺なんてその際たるもので、風光明媚なわが村までわざわざ心中に来る不届き者もいました。”ふざけるな!ぶっ殺してやる!”と腹が立ちますが、相手は既に死んでいました。

 「歴史」という言葉は文明開化頃に入ってきた”History”の意味として日本で作られた言葉だそうです。”History”を分解すれば”His””Story”つまり、「彼の物語」なんですね。歴史に物語り入らないなんていうけれど、歴史そのものが物語りだったんです。

 「この世の名残り、夜も名残り、死にに行く身をたとふれば、あだしが原の道の霜、一足づつに消えて行く、夢の夢こそあはれなれ。あれ数ふれば暁の、七つの時が六つ鳴りて、残る一つが今生の、鐘の響きの聞き納め、寂滅為楽と響くなりー」

 近松門左衛門の「曽根崎心中」のクライマックスシーンです。それでも、死ににいく躊躇や戸惑いが感じられるような光景です。

 曽根崎心中が流行った時代には真似して自殺する人が多かったといわれていますが、少なくもスイッチ押せば電源が切れるようなインターネット自殺とは異なります。この世で結ばれないならあの世で・・・という念など微塵もありません。

 諸行無常(しょぎょうむじょう)--- すべての存在は移り変わる
 是生滅法(ぜしょうめっぽう)--- 是がこの生滅する世界の法である

 生滅滅已(しょうめつめつい)--- 生滅へのとらわれを滅し尽くして

 寂滅為楽(じゃくめついらく)---  寂滅をもって楽と為す

 仏教の概念ですが、生まれ出でて滅するのが世の常です。鴨長明ではありませんが、我々は”よどみのうたかた”かもしれません。が、大河の一滴にもなれない泡なら泡で泡を全うしたいものです。061219 虫けらの魂!泡の意地です。

 後閑駅の裏山を散策していて、城跡の下の薮の中でこんなお堂を発見しました。

 何でこんな人気も無いところにお堂があるのだろう?興味を持って覗いて見ると、水子地蔵尊でした。

 物語を作る前にこの世から消えてしまった命を供養するお堂です。

061219a  水子地蔵尊といえば榛名山麓の水沢が有名ですが、名も無き水子地蔵尊はおおむねこんなところにあります。人里からはそう遠くなく、さりとて人が近づきにくい場所。

 不毛の地に置き去るのではなく、遠くないが行きがたい場所という微妙なバランスが、祭る人の背負った重さや想いなどを反映していて、胸を締め付けられるような気持ちになります。

061219b  「ア~」っと食道の置くからため息の声が出てしまったのは、地蔵様の足元にすがる嬰児(みどりご)の像を見たとき。

 なんとまあ、なんとまあ、とつぶやきながら、クルマに戻り飴を取ってきてお供えしました。

 誰かがお供えしたんでしょうね、色あせたぬいぐるみがその思いを語っていました。

 時は春先でしたが、周囲の木々が葉を芽吹けばスッ壮途くらい薮の中で、下を見下ろすこともできないような場所です。寒気が吹き抜ける冬の季節にしか、木々の枝間にわずかばかりの人里を見渡せるような場所。

 生まれ出でることができなかった命の居場所です。

061219c  そのお堂の下の竹やぶの中に個人が備えた生まれ出でぬ命の地蔵様が並んでいました。

 「群馬県」や「東京都」と判別できるような記載はありましたが、他には一切何も個人を示すようなことが書かれていませんでした。これがなんとも物悲しくて、生まれ出でぬ命の物語を語っていました。

 

 

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こんな年もあるさ

2006年12月18日 | 日記・エッセイ・コラム

061218  もうすぐこの1年が終わりますが、結論を言えば人生最悪の1年だったのはないだろうか?そのくらい悔しい思いがぬぐいきれない不完全燃焼の一年でした。

 昨年の12月21日の夜、雪で転んで肋骨を骨折するところから不運は始まったと思いますが、体が動かなくなるということは気持ちが萎えてくるものです。ましては昨冬は未曾有の大雪。

 雪の閉ざされて身動きできないと、不安に苛まれて気持がだんだん沈みこんでくるもので、もしかしたら一人暮らしのお年寄りの心境ってこんなものなんだろうか?とわかる思いがしました。時が来れば春が来て雪が溶けるのはわかっていても、このまま閉ざされたままではないのか?春まで持つのか?そんな不安が始終苛んでいました。こんな村いつだって出て行ってやるぞ!と歯軋りしながら春を待ちました。

 そりゃもうこの冬の重圧といったら針の筵に座らされているようなもので、喉まででかかった「もうだめか?」を何回を飲み込んだことか。

 負けてなるものか!という反骨心がまだあったので、何とか生き延びてきたけど、春先にインフルエンザ。咳き込むとようやく治った肋骨に響き、恋とは異なる胸の傷みと焼けるような思い。

 「このまま逝ってもいいかもしれない」そんなことまで頭をよぎりました。釈迦いわく生老病死、この世には4つの苦しみがあるそうですが、生きることほど苦しいことは無いかもしれない。なんてことをまじまじ考えました。

061218a  参考までに利根中央病院の巡回医療車。僻地を回る医療の一環です。

 その車のナンバーが「491」「死ぬ・苦しむ・逝く」深い!あまりにも深いナンバーだ!

 ところが世の中は面白いものです。例年、寒くなる12月から3月にかけて亡くなるお年寄りが多いのですが、今年のように雪が多く気が抜けないと気持が張るのか気が張るんでしょうね。意外と葬式が少なかった思いがします。

 八方塞で出口が見えない経験をしたことは以前にもありました。昭和63年で、この年母が急死し、私自身も椎間板ヘルニアと十二指腸潰瘍をわずらい、誰も見舞いが来ない東京の病院の天井見ながら、ボロボロに崩れていく思いがした一年でした。

 この年の夏は雨の多い湿った夏で、実家に顔を出してみれば湿ってかび臭い家の中で家業を切り盛りしている弟の姿を見るのが申し訳なくてなりませんでした。「これ以上悪くなりようが無い」そんなことを言って聞かせましたが自分自身に言い聞かせていたのかもしれません。

 ヘルニアの影響で足の感覚がおかしかったり、指がうまく動かなくなっていました。

 体調もよくなった年末、ドラゴンクエストⅢが発売になり、まだ小学校6年生だった下の弟が健気に家業を手伝っている姿を思って、新宿のヨドバシカメラの前に一晩行列に並んで買って行った事がありました。

 娑婆はバブル景気で浮かれているのに、なんて自分は惨めなんだろうという思いもありました。

 その後、大学も辞めて落ち武者のように帰ってきたわけですが、まだ27歳でしたから闘争心が残っていました。病になっても病気にはならない自信がありましたが、年々それが衰えてくることを感じます。

 今年はそれが顕著だったかもしれません。自分の体と相談しながら、これももちろん重要なことですが、無理が利かないという恐怖心は体が資本の人間には厳しいものです。

 今年の夏も蒸し暑く湿気が多い夏でした。お盆前後、少し無理をして見ました。雨の中山の草刈仕事をしていましたが、「なんかおかしいぞ?」と思ったのは突然声が枯れだしてからでした。日に日に声が出なくなってくる、そのうち咳き込むようになり、8月末には朝起きると喘息発作に見舞われるようになりました。

 肺の中、胸の中央上部にある異物を吐き出すかのような喘息で。このときに汗がものすごい気負いで噴出します。まるで異物をリンパ液ではがそうとしているかのような感覚で、シャツが汗を吸収しきれず袖口から滴ってくるような状態。

 頭に血が上っているのも良くわかり、咳き込んでいるうちに脳溢血になってもおかしくないと思いました。幸か不幸か肋骨骨折とインフルエンザで、体重が全盛期より15kg減っていて、痩せたらいびきに夜睡眠時無呼吸症候群から開放されたのか?良く眠れていたので、頭のほうはわりとすっきりするようになっていました。

 マイコプラズマ。肺の中にカビが寄生して巣くっていました。これが取りざたされるのは9月になってからで、今年は随分出た病気だと思います。取りざたされる前はアレルギーかなんかと勘違いしてホルモン療法で喘息発作を処理されていたのでしょう。

 まだ私は咳込む体力がったのでよかったのですが、母の姉の連れ合いは80歳という高齢だったために日に日に肺の中に菌が広がり、9月に亡くなりました。

 その葬式に千葉まで行ってきましたが、私もまったく声が出ない状態で、喋ることがこれほど辛いものか?という時期でした。

 普通に喋れるようになったのは10月に入ってからでしたが、まだ声はかすれています。

 肺の機能が回復するまでは何年もかかりますが、呼吸器をやられると恐ろしいもので、山を歩いていると水の中にもぐって息を止めている末期のような苦しさが襲ってきて、必死に深呼吸するのですが、なかなか回復しません。肺そのものが膨らむ感触もありません。ついにこんな体になっちまったか!と気持まで落ち込んできます。

 世紀魔Ⅱのデーモン閣下が歌う「蝋人形の館(クリックすると画像が出るよ)」の”お前も蝋人形してやろうか!”の台詞が”お前も老人会にしてやろうか!”に聞こえるほど老け込む思いでした。

 絶対弱音ははかない不真面目さが持ち味ですが、いろいろあって弱音を口にする自分を発見した時、もう今までの自分ではないんだなという思いがします。次の時限に入らねばなりません。

 明けない夜は無いし、春の来ない冬は無いので、悪い時には悪いなりに膿を出してしまったほうが良いので、その覚悟でいますが、ここまで悪いことが続くと、来年はいい年になる確信はあります。

 そう楽観的に希望を持っていたら、今日回覧板と配り物が来て、来年から所得税が上がり地方税は2倍近くになる。弱り目に祟り目、失意のズンドコに押し込むようなお触れ。そうか!役所が希望を食い荒らしていたのか!諸悪の根源がわかりました。こんな国いつだって出て行ってやるぞ!マジに考えています。

 ソビエトではありませんが国が権威を乱発すればやがて滅びます。市民が暴走しすぎていたのかな?という思いもありますが、日々実験を繰り返しながら模索しているのが将来です。勝つ時もあれば負けるときもある、失敗こそ力の元です。

 「人生楽ありゃ苦もあるさ」、否定したところで何も始まらないので、こんな年もあるものさ!と踏み台にしてやりたいなと歯軋りしながら振り返っています。

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働く男達

2006年12月17日 | 日記・エッセイ・コラム

 ノロウィルスによる食中毒が相次いでいるようです。非常に感染性の強いウィルスだそうで、予防法は手洗いが重要です。

 医療関係者や食品関係者は保健所から手洗いの指導を受けますが、きれいに洗ったつもりでも、意外と荒い残しが多いのが手洗いの盲点です。できればブラシなどで爪の奥まで薬用石鹸で洗うことをお薦めします。

 1分半ほどの映像ですが、ロシアの医者の入念な手洗いの映像がありますので参考になさってください。クリックすると映像が出ます。

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 ロシアでは「先生」と呼ばれる職業はおおむね給料が安いのですが、医者の給料は月300~400ドルといわれています。

 当然それには裏があるのがあの国ですが、診療には二種類あり、保険でまかなえる治療と保険適用外の治療。保険適用範囲内なら患者は無料で、自己負担ゼロです。骨折で言うなら副木を当てて固定するのが保険範囲内。手術をして骨をくっつけるのが保険適用外の治療です。

 保険適用外の治療をした場合、その費用はおおむね医者の懐に入ってくるシステムになっていて。保険適用範囲内の患者ばかりなら基本給のみと、完全出来高制の給与システムになっています。

 保険が国家財政を食いつぶしている日本でも有効な方法ではないかと思うのですが、いかがでしょうか?

 NHKでプロジェクトXという番組をやっていたころ、日本のおじさん達は日の当たらないところで尽力する名もなき企業戦士たちを見てどれだけ勇気付けられたことでしょう。

 ロシアにも日の当たらないところで身を粉にして働く名もなき男達がいます。

 次の映像は原子力発電所の管理事務所で働く男です。ロシア、原子力発電所と聞くとチェルノブイリ原発の大事故を思い出すことでしょうが、チェルノブイリは現在のウクライナにあります。

 ロシアでは「原子力」「放射能」に対して市民レベルで注目が高く、放射能レベルを計るガイガーカウンタを個人で持っている人も珍しいことではありません。

 当然、原子力の現場で働く人たちは重圧を背に日々働いています。「安全」のため重圧を跳ね除けて、名もなき星達は人目に触れることなく輝いています。

<embed src="http://img.mail.ru/r/video/player_full_size.swf?par=http://video.mail.ru/mail/zorge2002/148/$150$0$49" width="462" height="388" type="application/x-shockwave-flash"></embed>

 ロシアの初代大統領ボリス・エリツィン。様々なエピソードがある男ですが、平凡な天才よりも非凡な狂人を好むロシアのマインドにこれほどマッチした男もいないでしょう。

 ふらふらになりながらも職務を全うする大統領。なぜふらふらなのか?それは問題ではなく、いかなる状態でも職務を遂行しなければならない責任感は立派です。

 大統領がこんな状態でも職務に熱心ならば国民だって同様です。

061217_1  ふらふらになって意識朦朧としながらも職務を遂行する警察官。この姿も国民の模範となる尊い姿かもしれません。

 運転手の警察官も同様に意識朦朧となっていますが、市民の安全のために休むことはできません。

 働かざるもの食うべからずは社会主義のテーゼでしたが、こうした年代の人たちにはまだその精神が宿っているようです。職務を通して広く市民に感動を与えていることでしょう。

 日本で這う身の安全を守る海上保安庁の人々をモデルにした映画「海猿」がヒットして、命を助けるために命をかける人々の尊い姿が広く世に知られました。

061217a_1  ロシアにも水辺の安全を守るために、厳しい訓練を命がけで行う男達がいます。

 「仕事だから」彼らは簡単に言ってのけるでしょうが、その言葉の奥に含まれた重さは尊いものです。

 スポットライトを浴びることばかりが大切ではなく、その影に見えなくても身を削って輝いている人々こそ宝だと思います。

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