第四十二章 夢の浮橋 完結編
中編から
先ほどまで黒地の江戸小紋を着ていた忍さんだったが、大正のハイカラ女学生姿の海老茶式部に提灯袴スタイルで現れた。髪型も束髪からハーフアップに変え、履き物も編み上げのブーツ姿になっていた。そして、その手にはおなじみの信玄袋ではなく卒業証書を入れる賞状筒を握っていた。
卒業式?
「その通りでございます。でも、卒業するのはあなたですよ。」
そうか、いよいよ川を渡るのか。
「いいえ、この世から卒業なさるのであって、ここにいることには何ら変わりはございません。」
なんだ、いよいよ死ぬって事か。と、妙にサバサバ受け止めているが、何で忍さんが卒業式の格好しているの?
「着てみたかったからでございます。女学生なんて十万十年ぶりでございます。」
それだけの理由で?
「それが全てでございます。」
さすが、着道楽の死神さんだ。
「忍さんは袴姿だったんですか?私はガウンにモルタルボードという角帽でした。タッセルは青の年でした。」
いつの間にかヤヤサンまで卒業式のガウン姿になっていた。タッセルというのは四角い帽子の縁にぶら下がっている房のことらしい。
「青でございましたら十万五年前の卒業の色ですね。私の年はえんじ色でございました。」
十万抜いてもいいんじゃなかろうか?
私なんか卒業式と会社の新人研修が重なって行けなかったけどね、この世から卒業するって時にこちらに来ているって事は、あの時代と変わらないじゃないか。
マスターが忍さんに緑茶とカリントウ饅頭を持ってきた。
「卒業ですか。仰げば尊し和菓子の恩と言いますから、どうぞ。」
マスターの親父ギャグも神々の領域に近付いてきたな。
大空萌林居士さんが
「忍さんがその格好をすると、スーツ姿の佐々木さんは娘の卒業式に同行する父親みたいですなぁ。」
と、笑ったが、絵柄的にはそう見えなくもない。忍さんの方が九万九千九百歳以上年上なんだけど、こちらの世界には時間が存在していない。
時間が存在しないと言うことは永遠なんだろうか?それとも、永遠なんてものもないのだろうか?
「永遠でございますか?果たしてそれに何の意味がございましょう?誕生するときに誕生し、滅する時に滅する。それだけのことでございます。」
と、忍さんが言うと下邊さんが付け加えた。
「永遠なんてものは人のエゴであり、幻想でしかないと思うのです。この時この時をしっかりと過ごせない人たちの。」
確かにそうかも知れない。
「でも、幻想というのも必要なことかも知れませんね。こちらをご覧になってください。」
と、ややさんが店内のモニターのスイッチを入れたら、三途の河の搭乗手続きの列で異変が起きていた。制服姿の鬼の警備員と、亡者達の間に悶着が起きている。無宗教の列に並ぶ人たちだ。
「ネアンデルタール人の時代には死者を悲しむ殯(もがり)の感情が存在しておりました。埋葬の習慣が生まれております。しかし、宗教はなかったので、ネアンデルタール人達は滅びました。」
と、ヤヤさんが言うと、忍さんが付け加えた。
「世界に多様な人種、民族がおりますが、宗教も祭りもない人種、民族はおりません。なぜならそれらは滅びたからでございます。これらはあなた方の世界で言う共同幻想でございましょうが、共有できる幻想がなくなると人々は混乱を招き滅びるのでございます。」
なるほど、共同の幻想を持たぬ人たちの列が混乱しているのは、「自他」の概念がなく、己がままを通そうとしているからなのか。
果たして現実の中ではどうなっているのかは想像できないが、今、私達がここに集っている光景は、私の中の幻想がビジュアル化しているだけなんだろうが、多分私のイメージとは違う世界で、何かがうごめいている事には違いない。
私達が生きていた世界。それが「時間」だとしたら、人々は共有できる幻想の中で同じものを見ていたのかも知れない。
今、私はこのコーヒーショップに存在している。それは現実だ。しかし、時間という世界の中での私はまもなく存在しなくなる。それが「死」なのか?
「そんなに難しく考えなくてもいいんじゃない?どうせ死んじゃうんだし。」
と、大空萌林居士さんが言うと、マスターも
「こっちに来ちゃうとそんな哲学的なことなんてすっかり無くなっちゃいますよ。行いあるのみ。それなりに楽しく過ごしているのだから、十分幸せだって事ですよ。コーヒーもう一杯!ボブ・ディラン!なんちゃって。」
と、サーバーに残ったコーヒーをカップに注いでくれた。
不思議なものだ。これといった友人も持たず、職場の同僚たちと飲みに行くこともなかった私が、こちらでは気さくに腹の内を明かす仲間に囲まれている。
「皆、似たような者たちばかりですよ。私も同様でした。」
下邊さんが言った。
店内のモニターに映る下の階での騒ぎは収まったようだ。騒いでいた十数人の亡者は鬼の警備員たちに捉えられトラッシュボックスに放り込まれた。
この人たちはどうなるのだろう?ヤヤさんがスマホを眺めながら言った。
「本日の予定では灼熱地獄に送り込まれ。まもなく職のプロムナードに開店する岡中さんの中華店の燃料となる予定です。」
冥界ボイラーの燃料ではないのか。
「はい。品質が中途半端で悪すぎます。」
と、ヤヤさんが言うと忍さんが付け加えた。
「あの者たちもおとなしくしていれば再生工場に回されて再び今生に転生し、業をためて冥界ボイラーの燃料になれるか?徳をためて冥界で過ごす身分になれるか?まだ道筋はございましたが、あの者たちが得た者は永遠という名の消滅でございます。」
永遠則ち消滅か。
「確実なことはそれだけでございます。あなた方は人間中心に物事をお考え胃になりたがりますが、冥界中心に事を組み立てれば、あなた方は冥界のシステムのための一部品に過ぎません。それは私たち死神とて同様といえるでしょう。しかしながら、食用のブロイラーが鶏肉となることを前提にその子孫へと命を紡いでいくようなものでございます。」
てことは、子孫も残せなかったここにいる幽霊さんたちは?
「なぁんのお役にも立てなかった言うことやないの?だって、あんたらおなごにもてそうなキャラやないよってからなぁ。」
と、お菊さんが笑ったが、そう言うの目糞鼻くそを笑うって言うんじゃないの?自分だって独り者だったくせに。
大空萌林居士さんが
「我々の遺伝子が途切れたところで、この世では何の影響もないって事ですよ。気に病むようなことではありませんよ。ははは。」
と、大笑いしていたが、まぁ、確かにそうかもしれない。でも、大空萌林居士さん、サトミちゃん人形お持ち帰りって事は、まだ欲はあるんでしょうね。
「とんでもない。私はコレクションに加えたいだけであって、あんなことしようとか、こんなことしようとか、音楽かけてタンバリン叩こうとか、そんな野心は持ってませんよ。」
サトミちゃん人形の隣に腰掛けたマスターが付け加えた。
「大空萌林居士さんのお部屋は、趣味のコレクションであふれてますからね。軍事コレクションの隣に球体関節人形コーナーがありますが、そこに並ぶんでしょうね。僕なら、この人形をカウンターに座らせて、眺めながら仕事したいけどなぁ。ちょうだい!」
「ダメ!絶対ダメ!ご機嫌さん、下心見え見えだもの。」
大空萌林居士さんはマスターからかばうようにサトミちゃん人形の前に立ちはだかった。
「さて、そろそろお嬢様が活動なさるようなので、私はこれにておいとまいたします。」
下邊さんは立ち上がると、深々と一礼して店を出て行った。ヤヤさんは店のモニターに画像を映し出すと、気難しそうなおじさん、おばさんたちの写真が並んでいた。
「樹里さんは下邊さんを伴って、日本学者会議の刈り取りに参ります。この案件はスゲ管理官が以前から思案していた案件で、いよいよ着手されるようです。」
悪人には見えなさそうだけど、こんな人たちが冥界の燃料になるのか?
「名誉欲のためにしっかり業をため込んでいる良質な燃料源です。」
憲法学者なんてのも燃料になるのか。と、言うと、大空萌林居士さんが説明してくれた。
「自由・平等・博愛なんて言うけどね。日本の憲法は自由と平等については散々賛美しているけれど、博愛についてはまるで触れていないでしょ。自由平等は自己主張、博愛は自己犠牲。それについて触れさせないようにしているのは、冥界の燃料になるためじゃないの?」
マスターもその言葉を聞いて同調した。
「下邊さんや佐々木さんがこちらに来たと言うことはその博愛があったからかな?」
樹里さんのためなら命さえ投げ出す覚悟を常に抱いている下邊さんなら話はわかるが、私なんかそんなご大層な決心は持っていない。むしろ、マスターのコーヒー愛や大空萌林居士さんの岩崎宏美愛の方がよほど確かだと思うけど、お菊さんは?・・・
「怨念がおんねん。」
と、カウンターの中に入って、一枚、二枚と数え歌を歌いつつ皿を洗っていた。
で、これから私はどうするのだろう?死の一瞬、人は今までの記憶がよみがえると言うが、そんな映像を見せるために出かけるのだろうか?誰に?自分はここにいるのに。
それとも、お世話になった方々や姉一家に会いに行くのだろうか?あったらあったで決心が鈍ってしまいそう。
それと、誰だったっけ?と次第に思い出せなくなっている。別れた妻の律子。思い出せないと言うことはやはり愛情なんてなかったのかな?
「そうでございます。さらに付け加えさせていただければ、私が思い出せないように妨害しているのでございます。」
忍さんの目が赤く光った。
「後のことは向こうの人たちが上手に片付けてくれますよ。それがあんたの積み上げてきた博愛の返礼だと思うよ。」
大空萌林居士さんが言った。
保険がまかなってくれるとはいえ、結局無駄に終わる治療費など、多くの方に迷惑かけているので、引き際としては早いほうが良いのかも?
「呼吸しているだけとはいえ、ここまで生きたのだから、周りの方々も心の準備ができたんじゃんじゃないですか?それもまたご奉仕だと思いますよ。」
と、マスターが言うと
「で、佐々木はん。これからこちらで幽霊として開業されはんのん?」
お菊さんに聞かれた。それは私の判断ではどうなる事やら?そもそも幽霊の経営なんて銀行員時代にも扱ったことないし。
ヤヤさんが言うには
「いろいろ便利な人なので私たちも利用させていただきますが、主に忍さんの助手として働いてもらうこととなるでしょう。それと、スゲ管理官の通訳業。あの東北弁には皆困惑しております。」
通訳業って、私は会津弁ですし、間に山形県が一つ入っている秋田より都会的な言葉なんですけど。
「それ言うたらスゲはん怒りまっせ。うちらからみたらどっちも異国の言葉やねん。」
私にはお菊さんや福本さんの言葉の方が異国の言葉だと思うけど。
「うちとさっちゃんは播磨弁や。福本はんがしゃべりようは河内弁。全然ちゃうわ。」
どこがちゃうねん!
大空萌林居士さんが立ち上がると、背嚢を背負った。
「さて、と。私もこれからお亡くなりになる方のお迎えに行かなければなりません。仕事が終わったらサトミちゃんを迎えに来ますから、マスター、変なことしちゃダメだよ。」
「するかい!」
ラジカセのスイッチを押し「麦と兵隊」が流れると、大空萌林居士さんはこちらに向かって敬礼し店を出て行った。大空萌林居士さんが店を出るなり、マスターはサトミちゃん人形をカウンターの椅子に運びてポーズを決めていた。
カウンター席に座り、両肘をついて掌を顎に当て、カウンターの中を見つめるポーズのサトミちゃん人形。今のところ見つめているのは皿洗いをするお菊さんだけど、その視線がよほど気になったのか?
「あかん!病んでるでぇ。」
と、カウンターから出てきてしまった。
マスターはうれしそうにカウンターの中に入ると、
「僕ねぇ、こうして若い子の悩みなんか聞きながらコーヒーを淹れる店にしたかったんだ。でも、こちらに来る人って吹っ切れて悩みなんかないじゃない。」
マスターはご機嫌さんでカップやグラスを拭きながら、「君はどこから来たのかい?」とサトミちゃん人形に話しかけている。話しかけたところで、サトミちゃん人形から出てくる言葉はお菊さんが吹き込んだ「いちま~い、にま~い、さんま~い」なんだけど、マスターはそれでもご機嫌さんみたい。
「本当に皆様にお目にかからなくてよろしいのでしょうか?」
忍さんが念を押すように問うてきた。
はい。心の迷いの元ですから。と、答えると、
「それではそろそろまいりましょうか。」
と、忍さんが立ち上がり、ヤヤさんが
「お帰りをお待ちしてます。」
と、店のドアを開けてくれた。
これから何処に連れて行かれるのだろう?ちょっぴり不安もあったが、今までも「いきなり」ばかりだったから慣れてしまった気もする。
「まずは菩薩界に行って観音様にご挨拶でございます。」
忍さんの目が金色に変わった。
廊下の突き当たりにスタッフオンリーの鉄の扉があり、その前で立ち止まった忍さんが振り返って言った。
「この扉の向こうに足を踏み入れると、今生での記憶は忘却となります。ご理解いただけますか?」
一瞬戸惑いもあったが、黙ってうなずいた。
忍さんは賞状筒の中から鐘を取り出し、チリーン、チリーンと鳴らすと、鉄の扉がゆっくりと開き、まぶしくてその先が見えない光の光源に向かい
「参りましょう。」
と、足を踏み出した。
私の両足が扉の内側に入ると、静かに鉄の扉が閉まった。
あやふやな夢のようなこの世に浮かぶ、足下おぼしき浮橋の上に命があったような気がする。そして、私はその夢の浮橋からから出て行くのか?
それから・・・・・・・・・・・・・・。
ーーー完ーーー
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