「国境(くにざかい)の長いトンネルを抜けると、そこは雪国だった。」川端康成の名作「雪国」の冒頭です。
国境のトンネルの手前に住んでいる私たちも十分過ぎるほど雪国なのですが、まぁ、越後よりはましか。と思っていたら、越後の人が言うには「あのあたりは山が深くて雪もひどい。およそ人が住める土地ではない。」目くそ鼻くそのしのぎあいが続いています。
私が毎年秋になると読み返す「野菊の墓」は、柴又の矢切の渡しで江戸川を越えて千葉に嫁に行ってしまった民さんが、まるで異界に嫁いで手の届かない場所に行ってしまったような描き方をしています。今年、改めて読んでみると、矢切の渡しを船に揺られて川向こうにわたる民さんが、三途の川を渡っていくような悲しさを感じてしまいました。古事記やギリシア神話なら冥土まで連れ戻しにゆくのでしょうが、それさえできない若造の悔しさなんかが妙に身にしみました。
山を隔ててトンネル、川を隔てて船。ヒマラヤやアマゾンではないのですから日常生活の延長線上のような場所ですが、この世の現実とは違う別世界として描かれています。
「雪国」で島村はこの世の現実と離れたところで、駒子と情を交わす。これ、全く女房が口出せないような別世界になっているのだからいいんでしょうね。「交差点の長い信号を抜けるとそこは世田谷区だった」では嫁と愛人のバトルを描かなければならない。
♪遠い世界に旅にでようか それとも赤い風船にのって♪昔こんなフォークソングがはやっていました。
若かりし頃はね。朝目が覚めると全く違う世界にたらなんて願望がありました。たぶん、自分がやりたいと思っていることと現実の格差の中での歯がゆさが、こんなこと思わせていたのでしょうが、人生引き算した方が早くなってくるとそんな願望さえなくなります。別世界より現実の方が重要になっていますし、多少気に入らなくても受け入れる度量がある。
遠い世界に旅にでたくても、金と暇が・・・と納得してしまうこの諦めの良さ。人格のなせる技です。
と、前置きはそのくらいにして、60代の知人夫婦が3泊4日の京都・奈良旅行に行ってきたそうで、宇治茶と生八つ橋ごちそうになりながら土産話を聞きました。
修学院離宮の予約に成功し、紅葉の借景を目にすることができたそうです。それだけでも十分価値がある旅行だったと思います。「全く別次元の世界だった」と日本人の空間演出力にあらためて感動したそうです。裏山一つが建物の景色に取り込まれるような設計をしているのですから、かつての日本人恐るべしです。
紅葉も見事だったそうですが、スケールや自然の迫力など「こっちの圧勝!」まぁ、そうでしょう。自然を建築物の景色に取り込んでいるのではなく、我々が自然の一部に同化しているような生活環境なんですから。
碁盤模様に計画して作られた都市、平安京からそう遠くないところに山々がそのまま樹木をたたえて残っている日本の都市作りは、自然と人工との調和という目線から世界でも珍しいと思いますが、自然との調和なら「我々が勝っている!」あまりにも自然が強すぎて調和しないと生きていけないんだから。
神社仏閣の作りも不思議なもので、その空間に足を踏み入れたとたん、別の次元の世界にいるような不思議な神聖さが漂っています。最近、だお近いでは鉄筋コンクリートやビルの一角がお堂やお社になっていることがありますが、どこか空気感が違う。
夫婦であちこち参拝してきたら参拝料だけで2万5千円を超えたそうで、これまた異次元の世界です。