ボクの奥さん

ボクの奥さんは、甲斐よしひろさんの大ファン。そんな彼女との生活をお話したいと思います。

機関紙BEATNIK(Vol.3)その2

2016-07-26 10:10:25 | 日記
この機関紙では、Vol.1から「対談」を通して
甲斐バンドの「メンバー紹介」をなさってるみたいなんですが
直接「単独インタビュー」をするよりも
お相手の方との会話を通すことで
「人となり」が垣間見えるような気がします(笑)

松藤さんと亀和田武さん、甲斐さんと松坂慶子さんに続き
大森さんの対談相手は、ご自身が大ファンでいらしたという
元・かい傑関(漢字変換出来ませんでした)放駒親方

「逃げ出したいとか、やめたいとか思った時ありましたか?」
という大森さんの質問に「うん、逃げたですよ」と親方(笑)

「やっぱり誰でもあるんだけども
逃げる奴が勇気があるのか、勇気がないから逃げたのか
逃げるってのは大変なことですからね

一つの部屋に20〜30人が団体生活する訳でしょ
相撲界は先に入った者が先輩だから
22〜23歳になって、15〜16歳の子供に頭小突かれたら
もうイヤになって来ますよね

誰でも稽古そのものや肉体的な辛さっていうのは我慢できるようだけど
精神的なものにメゲるのが多いですね

逃げた時ってのは、何か目的がある訳じゃなくて
ただもう離れたいって気持ちで逃げるんです
出てしまってから、あぁ、失敗したなと思う
だけど男だから、そう簡単には帰れないという気持ちがあってね

だから1回逃げて戻って来た者は、もう2度と逃げようとしない
何となく逃げたというツマラナイ体験してますからね」

…と、ご自身の体験と親方としての経験の両方からお答えになってますが
親方の現役時代の角界には「口減らし」で
相撲部屋に入られた方もいらっしゃったのに対し

今は「テレビに出たいから」という安易な動機で
力士を目指す方も少なくないらしく(苦笑)
また「キツかったらいつでも帰っておいで」と
おっしゃるご両親もおられるんだとか…(苦笑)

大森さんが、小学生の頃に「僕、結構、肥満体で
それ以上太ると相撲取りにするからねって驚かされた」とか

ご実家の旅館に「巡業」で泊まりに来られた
「新弟子さんが怒られるのを見て、ワァ辛そうって思った」と話されると
親方いわく…相撲とサーカスは恐いですね(笑)

「自分から言い出して来た者より、嫌がって入った者の方がもつのね
苦しいだろうと思って入って来るから

すぐフテ腐れたり、自分の気に合わなかったら横向いたりするのを
相撲取りの言葉で[北向き]っていうんですけど

人の言うことをハイハイ聞いてるようじゃ強くならんというのが通常で
少し悪いくらいの方がいいって言いますよ」と話され
「親方は?」との質問に「オトナシかったですよ(笑)」

大学1年の時に「背が高くて(186.7cm)目立つもんだから
引き抜かれるのがイヤで、巡業も見に行かなかった」のに
「たまたま道を歩いてて、お前来いと…(笑)」とおっしゃると
大森さんいわく…モデルみたい(笑)

「僕もリーダーの甲斐よしひろに誘われて、イヤとは思わなかったけど
やっぱり不安でしたね、根っからサボリ癖がある男ですから
売れる売れないよりも自分の不安がありましたね」

相撲の稽古と違って「強制的に練習させられることはない」と大森さん
でも、親方によれば「やりたくないなあと思って
やらなくても誰も文句を言う者がいない…っていう方がキツいんですよね

稽古しなきゃ強くなんない、相手が弱くなる訳じゃないし…
ただそれは勝手だと、本当はそう思う
だけど強制的にやらせてるんですよ

そういうスポーツは楽なんだって、若いモンに言ってるんですが
強くならないと判らない
中途半端に止めた奴には判らないですね

で、中途半端に止めた奴に限って
あの時もう少しやれば良かったって、必ず言うんです
それはもう、100人いたら100人がそう言う
でも、そう言う者は、その時絶対やらないんですよ」…耳がイタイです(汗)

「相撲って勝ち負けがハッキリしてるだけに
プレッシャーって凄いでしょ?」と大森さん

「土俵に上がってしまうと感じないんだけど
あと一番で大関とか、この一番で優勝が決まるとなると
前の日から眠れないですよ
土俵の下で相手と睨み合ってる時は、胃が重たくなる

相手がこう来たら、こう張って行こうとか差して行こうとか
勝ってる時は、そんなこと考えないし
仕切ってる時に、相手の踵から土俵の外までがちょっとしかない気になる

負け出すと、どういう風にやっても勝てなくなる
もうダメかなあなんて思い出すと本当にダメです
何秒かで勝ち負けが決まってしまう訳だから
メンタルなものが物凄く左右しますね
要するに相撲では気分を変えることが一番」と親方

「ゲン直しに明け方くらいまで大酒飲んで、大いに騒いで
今までのことは忘れましょって、二日酔いで土俵に上がったり…(笑)

稽古の時のスランプっていうのは気にしない訳です
問題は本場所で勝った負けたでしょ
ドンチャン騒ぎやった次の日、たまたま勝てば、ゲンが直ったと思って
また普段通りの力が出て来たりする訳なんですよ

前の日に遊んだから、力が出ないで負けたなんてウソです
バレーボールとか野球とか、長時間やるスポーツなら
スタミナがなくなって持たんでしょうけど
相撲は、5秒か10秒の間にガッと力出せばいいんですから

ノソーッとでも早い相撲でも勝てばいい
下の方にいる時は、いかに伸びる相撲を取るかですが
三役くらいになったら、将来性もへったくれもない(笑)結果だけですからね」とおっしゃってるんだけど

その「たった5秒のためにコツコツやってる者が勝利を勝ち取りますね
それに[やろう]という気力がなきゃダメですね
同じように稽古をやっていても
強くなるんだと思ってやってるのと
ただ汗をかいてるのとは全然違う
10日や20日じゃ判りませんが、何年か経つとまるで違って来ますよ」

…と、「道歩いてただけで、波乱万丈の人生やったりする(笑)」方の言葉は
説得力ありますねぇ…

その相撲人生にピリオドを打たれる際には
「まあ大関まで上がったし
人に同情されるくらいまで相撲を取りたいとは思わなかったし
後輩に譲らなきゃイカンなあという考えもあったですよ

もちろん、ボロボロになるまでやるというのも一つだけど
プロの選手って、入る時は簡単でも辞める時が難しい
辞める時の状態で実積をパーにしてしまうことだってある
やっぱり自分で見切りをつけるのも大事なんじゃないかなあ

引退発表の時は、淋しくて涙出て来ますよ
だけど、髷にハサミを入れて貰ってる時は、ホッとしますよ
もう土俵に上がらんでいい、相撲取らんでいいって…」思われたそうですが

大森さんが「でも、一度ステージに上がって
充実感を味わっちゃうともう…」とおっしゃると
「そう、そうなんです」と親方

「これから先、土俵の上で相撲を取るほどの緊張感ってのは
まず味わえないだろうなあと思う
もう1回土俵に上がりたいとか、勝った負けたよりも
その充実感を味わいたいと思うんですよ」と振り返っておられます

以前「卒業」について書かせて頂いた際に
ボクらサラリーマンと違って、芸能人の方やスポーツ選手の方には
「定年」がないから「引き際」が難しいだろうなあ…とか

また別の記事だったか?一度スポットライトを浴びたら
どんな形であれ、ライトを浴び続けていたいと思う方が多いんじゃないか?
…と、勝手に考えたことを思い出しました(笑)
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機関紙BEATNIK(Vol.3)その1

2016-07-25 06:59:41 | 日記
公式ファンクラブを作らなかった甲斐バンドの「機関紙」は
いわゆる「ファンクラブ甲斐報」ではなく
購読料を支払えば誰もが入手できるものだったそうですが

その分、甲斐バンドへのインタビューやコメント等
直接メンバーの皆さんが登場される機会が少なく
ある意味、独立した「読み物」であり

甲斐さんが目を通されてはおられたでしょうけど
おそらく?編集作業自体には「ノータッチ」でいらしたんじゃないかと…

もちろん、根底にあるコンセプトは「甲斐バンド」で(笑)
佐藤剛さんを始め身近な方々が、執筆、発行されたものですから
行間には「メッセージ」が溢れてますよね

例えば、1982年2月号の表紙のコラムには
「世は今[情報文化]だ」との書き出しで
容易く情報が手に入るようになったことによって

「自分の知りたいと思うものを考える間もなく
情報に溺れてはいないだろうか
知らなければ咎めだてられる、それは時代のせいだけではないだろう」

「[便利]になった。それを善とするか悪とするかは
利用するものの腕次第だ」と記されていて

当時の甲斐さんがサンストで「今は情報が溢れてるから
その中から必要なものを選び取らないといけない」とおっしゃっていたことを
補足、解説する文章が載っています

そして、この号の「PEOPLE」欄には
出版プロデューサー・残間里江子さんへのインタビューが…♪
山口百恵さんの「蒼い時」の出版を手掛けられた方ですが

甲斐さんとは「定期的に現状報告をし合う」間柄だそうで
我が家の資料にも「ロング・インタビュー」が数本あります

その内の1本は「かさぶた」に掲載されていて
最後のページに「この人のファンキーなエピソードをひとつ」と甲斐さん

残間さんがフリーになられたばかりの頃、在籍されていた女性誌の依頼で
ある芸能人の方のマンションに「張り込み」中
救急車が横付けになり「パジャマ姿の男がタンカに乗せられて
マンションから担ぎ出されて来たらしい」

「心臓を押さえたその男は、よく見るとどうも見覚えがある
あれ…その男は私である(笑)
彼女は愕然として、声をかけようかどうか…迷ってる内に
救急車はサイレンと共に立ち去った」と書かれてるんだけど

残間さんの…というより、甲斐さんのエピソードのような気が…?(笑)
しかも「ファンキー」って…(汗)

ちなみに、残間さんが「つきとめようとした芸能人は
もちろん私ではないよ(笑)
元世界的テクノバンドのTさんか
デザイナーのYか、そのあたりであろう」と…(笑)
同じマンションにお住まいだったんでしょうね(笑)

ともあれ、機関紙によると…
残間里江子の「コトバ」は的確だ
「コトバ」を選んで話している風は、まるでないのに
彼女の口から放たれる「コトバ」は見事に無駄がなく、かつ的確なのだ

街に氾濫している、上滑りの「コトバ」や
思い付きの「イケン」は、もう沢山だ
どんなに些細なことでも、自分の「コトバ」で
自分の「イケン」を構築しなければ「コトバ」は生まれて来ない

自分自身の情況を、自分の「コトバ」で語れる者こそ「ビートニク」だ
20歳の残間里江子は思った
これからは必ず「シャベリ」の文化がやって来ると…

「母が東北訛りの関西弁、父がズーズー弁」なので
話し方を矯正すべく、学生時代から「アナウンス・アカデミー」に通われ
卒業後、静岡放送へ入社されたものの

「女は家庭へ、仕事はコシカケという言葉が
まだキチンと現実にあった時代ですから」とご両親の引越しを機に退社

「人に会うのが恐くなるのだけは困る」と
1日に必ず10人の人に会って話をするということをご自身に課され
毎日8時45分の電車に乗って、知人を、知人の会った人を
知人の知人の知り合いを訪ね歩かれたという

「仕事でもなければ、気の置けない友達との茶飲み話でもない」
日課をこなされてる内に「女性自身」の記者の方から
放送局の方の座談会のコーディネートをする仕事に誘われ

それだけでは「限られた枠の中でしか人に出会えない」と
同時に文化放送の「道路交通情報センター」のアナウンサーも務められ
さらに、ヤマハの世界歌謡祭やポプコンなどの企画制作も…(汗)

しかし「週刊誌のペースで仕事をしていると自分がすり減っちゃう
映画やコンサートを観たり、美術展に行ったりした方が
良い仕事が出来ると判っていながら、あまり行けないから」と生活を一新

旅行したり、観たいものを観に行ったりするために必要な資金を確保する
ギリギリまで仕事をセーブなさったんだとか…

その頃にアリスや海援隊が所属するヤング・ジャパンから
定期刊行物に関するオファーがあり
「彼らの音楽、それ自体よりも
それを取り巻く社会情況に興味があって」

「音楽評論家のチョウチン記事を一切廃し
音楽情況を社会学の方面から捉えた」異色の音楽誌を発刊
その編集部を母体に出版物やイベントの企画制作を行う会社を設立

この会社の初仕事が「蒼い時」のプロデュースだったそうですが
「取材で2〜3度、話した程度」という残間さんに
山口百恵さんが出版の全てを託されたのは

「最初から出版社を決めずに」拘束されることを回避し
「彼女が書くことと、私が出版社の人達と話すことを同時進行」になさって
「良いものが出来たら出そうと話していた」からでしょうね

その後、数々の企画制作を手掛けられる中で「甲斐よしひろと出会い」
「まだ、2〜3度話したことしかありませんけど、実に清々しい人ですね
今は圧倒的に女性の方が面白いと思うんですが
甲斐よしひろは話していて、本当に話しがいがあります」と残間さん

後に「ある一定の周期を置いて会いたいと思う人がいる
何度も重ねて会うよりは間隔を開けて刺激し合いたい人
ふとした拍子にどうしているのだろうと気になり
気になった途端、無性に会いたくなる人
私にとって、甲斐よしひろはそんな人である」

「彼が[今]をどう感じ、どう自分の中に取り入れているのか
物事のどこにYESマークを出し
どこにNOマークを出しているのか
私が密かに作った自分流のリトマス試験紙で
試してみたくなるのである」とおっしゃってるんだけど

初めて甲斐さんにお会いになった時には
「一見すると、いかにも気難しそうで苦手なタイプ」と思われたらしい(笑)

でも「ひとたび口を開くや、すっかり意気投合してしまい(笑)」
1年ぶりという「現状報告」兼インタビューでは
「正味11時間、テープが止まってからも
彼は熱い口調で話し続けていた」そうです(笑)

「かさぶた」に掲載されている記事も
残間さんが、甲斐バンドのツアー先だった名古屋まで出向かれ
甲斐さんにお会いになった後、ライブとその打ち上げを挟んで
深夜1時から本格的にインタビュー開始

お店が閉店して行くたびに、次々と河岸を変えられ
甲斐さんが、午前8時過ぎの新幹線で帰京されるまで
延々と語り合われたようです(笑)

残間さんもアクティブな方だと思うけど
このインタビューの前日、レコーディングで一睡もせずに
三重県でのライブ&打ち上げ
その後、移動の車中で仮眠を取られ、またライブ&打ち上げ
…で、「報告会(笑)」を終えられ、また東京でレコーディング…って
甲斐さん、恐るべき体力ですよね(笑)
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機関紙BEATNIK(Vol.2)その2

2016-07-24 08:57:22 | 日記
絵本作家の佐野洋子さんが、甲斐バンド写真集「1982 BEATNIK」について
以下のようなことを書かれてました

一時、私は写真に興味を持ったことがあった
芸術的であるかどうかということにこだわり
良い写真か悪い写真か判断しようとして苦しんだ

甲斐バンドの写真集を見た
私は「ウーン」と思った
かつて難しげな写真に「ウーン」と思ったものと全く違うものだった
見終わって、涙がにじんだ

それは、青春をすでに後に置いて来てしまった人間の感傷だったかも知れず
青春の真っ只中で表現する人達への妬みだったのかも知れない

音楽は常に私の少し遠いところにあった
その激しさも優しさも美しさも少し遠くからやって来た

写真集は、暴力的とも言える若者達の
燃え尽きたがっている欲望を私に伝える
そこからは現実には音も言葉も聞こえて来ない

そこには肉体だけがある。若々しく激しく熱い肉体が
この肉体があの歌を生むのか
少し怖い。写真が発するエネルギーが、その欲望が

写真があるがままの現実を伝えるなどという幻想は持たない
岡村昭彦が言っていた
戦場の臨場感を出そうと思ったら、下から煽ればいい
しかし、戦争は人間の目の高さで行われていると…

この写真集に納められた様々な角度によって撮された写真は
歪められているかも知れないが
歪められているが故に美しい
各々の中に生きる青春とはそういうものだろうと思うからだ

「真実を写す」はずのものが歪められている?と一瞬思ったんだけど
考えてみれば、その瞬間を撮すカメラマンの方の視線が写ってる訳で
だからこそ、最初に井出情児さんが撮られた甲斐さんの写真を見て
奥さんは「顔が違う」と思ったんじゃないかと…?

奥さんのお気に入りの甲斐さんの写真は
いわば「女子目線」で撮られたもの
…顔の輪郭が歪むほど力を込めて歌う姿よりも
ふと目を上げて軽く微笑んだ顔みたいな(笑)…だったらしい

「3日間、京王プラザホテルにこもり
10万枚のネガから選ばれた4000枚のセレクトを行なった
最終的な構成が決まったのは
当時、柿の木坂にあった甲斐よしひろの自宅だった」そうですが

きっと「女子目線」の写真はセレクトされなかったんでしょう(笑)
井出さん独特の「アスファルトの手触り」のようなモノクロ写真には
そぐわない感じですもんね(笑)

その「ザラザラ感」は、井出さんが子供の頃
ご自宅の2階に下宿なさっていた小学校の先生が
「夜な夜な何かやってる(笑)」のを見に行かれ
「真っ暗な中で真っ白い紙に画が出て来る」ことが面白くて

その後、ご自身で現像なさる時にも
「暗室がないから、日が暮れたら始めて夜が明けたら終わりな訳で
その間に早くやんなきゃいけない(笑)

そのために現像の温度を18度でやるのを40度くらいでやって
一瞬にして画を出し、冷たい定着液につけてキュッと固める」という
「今、考えると、やっちゃいけないこと全部やってた(笑)」
我流が生み出したものなんだとか…

ちなみに、2000年の甲斐報で井出さんは
「30歳以上は信じるなと思ってやってて
気がついたら自分が40歳になってて落ち込みましたよ(笑)
それが50歳過ぎたら開き直っちゃって(笑)

もう10年くらいしたら、また役者やりたいなってのがあって…
殿山泰司みたいな役者がいなくなったじゃないですか
だから、イヤラシイ中年とか老人の役がやりたいなと思って(笑)」
…と話されてるんだけど、何かに出演なさったんでしょうか?(笑)

それはさておき…Vol.2の対談のページには
12月3日にTBS「ミッドナイト・ステーション」でオンエアされた
甲斐さんと松坂慶子さんの対談が載ってます♪

「タビ」の時、自分のバッグ2〜3個を全部自分で持って来るって
人伝てに聞いて、大げさだけど感動したのね…と甲斐さん(笑)

「この業界に入ると、なんだかんだとやってくれるとこって無きにしも有らずでしょ
やっぱり、てめえでどっかキッカリやってないとダメですね」
と、ツッコミドコロ満載なご発言(笑)

松坂さんが「(視力)0.03ですよ」とおっしゃると
「後でレンズの厚さ比べっこしましょう(笑)
(眼鏡のあるなしで)印象の落差がこれくらいあると感動しますね」
と、感動しっ放しの甲斐さん(笑)

「外すと非常に困るでしょ?知ってる人に挨拶しなかったりとか…
しょうがないから、とにかく多めに(頭を)下げるでしょ
で、最後には[1回挨拶した人ならお尻をツネれ]ってサイン作ったりして
…悲惨な話になりましたね(苦笑)」

松坂さんが「劇団ひまわり」にいらしたとお聞きになって
「発声練習とかもチャンとやるんですか?」と訊ねられると
松坂さんいわく…やりましたよ、でも私、声が小さいのね
先ほどから、お話ししてて
やっぱり声がイイなって羨ましくて…
子供の頃から大きな声?(笑)

「そうです、そうです
話す時に夢中になって話すから大きくなっちゃう(笑)」には
「お酒飲むと、もっと大きな声で喋るんじゃない?(笑)」と返され
「(小さな声で)そうです」(笑)

その後、酒量の話になり…
松坂さんが「水割り2杯とか、ワイン2〜3杯くらい
日本酒は(お銚子)1本飲めばいい方ですね」とおっしゃると
甲斐さんいわく…1本!一升!?…(笑)

ご自身は「移動日にマネージャーに袖引かれて、松藤と3人で昼間から
2時間で2升っていうのが…(笑)
でも、26歳くらいになると、酒量って落ちますよ」らしい(笑)

「食い物スケベ(笑)」で「子供の味覚」とよく言われると甲斐さん(笑)
「今の給食知ってます?酢豚なんか出るんですよ、イヤですねぇ
僕らなんか、酢豚って名詞がなかったですから
野菜と何とかのケチャップ炒め…みたいな得体の知れないタイトルでしたね(笑)」やら

「カレーなんて、肉が入ってれば幸運って感じで…
でも、そういう風に育つと、すごく単純なものに感激しますね
ものがなかったから食いしん坊なんでしょうかね?
関係ないですよね(笑)資質でしょうね」やら

この番組のオンエアは聴いてませんが
ずっと甲斐さんがお一人で話されてる感じです(笑)
松坂さんは「好きな食べ物」「好きな本」「好きな花」など
次々に質問なさっていたようで…

「好きなスポーツは?」
「観るのは野球とボクシング、やるのは水泳」とのお答えに
「何か、お風呂から上がりたての感じ(笑)水泳好きなせいでしょうね」

「泳げますか?」と甲斐さん
「少し、50mくらい」と松坂さん
「それは少しなんて言わない
少しっていうのは3mくらい(笑)
松藤なんて、水のそばに連れて行っただけで、怖がって暴れ出す(笑)」

「好きな女性のタイプは?」には
「僕は顔とかじゃなくて、仕事に惚れたりするんです」…だそうです(笑)

「観た映画のベスト1は?」という質問に
「真夜中のカウボーイ」と「ゴッドファーザー」
あと、3〜4歳の時に初めて観たカラー映画で
大きくなってから観なおした「楢山節考」
…って「ベスト3」になってました(笑)

「次の言葉から連想するのは何でしょう?まず、麻雀」
「勝ってる!ウソです(笑)マネージャーが鼻で笑い飛ばしてますね」
徹夜ではなく「2時間で止めます」発言に「偉いのねー」と松坂さん(笑)

「時間を決めてやった方がいいですよ、バクチは」
「そういうこと出来る人ですか?」
「出来ます、スパッと!」
「出来そうもないように見えますけど…?(笑)」と見抜かれ?(笑)

(大爆笑)「次、次!」と甲斐さん(笑)
「楽しい夜更かし」「止められない、止まらない」方ですもんね(笑)

「シャワー」は「完璧に[自分の部屋]ですね」
「道は?」には「[生きる]という志村喬の映画が浮かびました」
「ツアー」は「もう暮らしです」

「神様が3つの願いを叶えてくれるなら?」と訊かれて
「何だろうねぇ…やっぱり言わないと思いますよ、きっと
例えば、何か食いたい、飲みたいっていう
物凄く下らない次元では言うかも知れないけど
もっと深い次元での関わりって
てめえでやるしかないと思ってるからね」とお答えになると

松坂さんいわく…男っぽいですね
すかさず甲斐さんは「女の人だって同じでしょ」とおっしゃっていて
前述の「好きな女性のタイプ」を思い出しました

以前にご紹介したかと思いますが
「イヤな女って、どんな女?」という質問に
「私はレディよって言う女には
じゃ、らしく振る舞えって言うの

それと一緒で、泣く女ってイヤだね
女っていう武器を利用して
さも、女って感じで泣いて欲しくないね
生まれて来たことさえも怨むように
振り絞るように泣いて欲しいね」と甲斐さん

そういえば、前の奥様に
「男と女の区別を全然しない」とよく言われるとおっしゃってました
「男」と「女」の前に「人間」ということなんでしょうね?
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機関紙BEATNIK(Vol.2)その1

2016-07-23 05:38:05 | 日記
1982年1月号の表紙には、花園のバックヤード・ショット
…大阪のホテル?の廊下に立つ甲斐バンド…の写真が載ってるんですが

「それまでのミュージシャンの写真といえば
ステージのそれでしかなかったものを
彼は楽屋にミュージシャンを追った。オフを狙った」

その「彼」井出情児さんは「[楽屋写真]というジャンルを確立し
映画のコマのように、スポーツ写真の連続写真のように
ライブのワンシーンを連続して撮る[連写]というアイデアを
日本の音楽ジャーナリズムに持ち込んだ」方だそうで

甲斐バンド写真集「1982 BEATNIK」にも
「アンコールを求める拍手が30分以上も続いていたが
甲斐よしひろはステージに姿を見せず
【100万$ナイト】もやらず終い、というハプニング的幕切れだった」ライブで

「マイクスタンドに向かって、何か叫んだかと思うと
全身の力で、マイクスタンドを蹴り上げた」甲斐さんの「連写」や

そのライブ後の打ち上げの二次会に向かう途中
「道端に座り込んでしまった」甲斐さんの姿が捉えられてます

この写真集は「モノクロ中心」「値段を安く」
「芸能界チックなものにしない」というコンセプトで作られたらしいんだけど

甲斐バンドの写真に「モノクロ」が多く見られるようになったのは
やはり井出さんが撮られることになってからですよね?
Vol.2の「PEOPLE」欄には、その井出さんのプロフィールが紹介されてます♪

見渡す限りの森林田畑に囲まれた愛媛県今治に生まれ育った井出少年は
隣家の白黒テレビで見る「都会」に憧れ、小学5年の時に大阪へ家出?(笑)
一旦、出戻ったものの、今度は家族を巻き添えにして(笑)上京

坊主頭に詰め襟しか着たことがなかった中学生は
「だってさ、それでさ」と話す少年達に溶け込めず、不良グループへ…
高校時代も「とにかく悪いことばかりやっていた」

クラシックしか流せなかった校内放送で
チャーリー・ミンガスの【直立猿人】を流し
彫刻は動くべきだとモーターを付け
写真を撮るなら学校の部費で…と写真部を
8ミリ・フィルムを撮るなら映画研究会を、と続々に創設

「人と違うことがしたかった
前衛と名のつくものは、およそ何でもやりました」

高校2年の時に見に行ったミルト・ジャクソン、レイ・チャールズに感銘し
今度は一路ジャズの世界へ…
3年の時には学校へも行かず
夜の新宿をさまよってジャズを聴きまくり
東口の通称「グリーンハウス」で野宿

当時「ビート族」と呼ばれていた連中の向かうを張って
自らを「ビートニク」「ボヘミアン」と命名した
「全てを捨ててしまうフーテンではなく、放浪者になりたかった
何かを[生産]するところにいたかった」

新宿で大久保鷹に出会い「状況劇場」の舞台写真を撮ることになり
全国各地を巡る内に、その写真が新聞・雑誌の紙面を賑わすも
若冠18歳の少年は、使いっ走りや掃除から
役者、舞台監督までこなす存在に…
19歳で「役者をやる」と両親に宣言した途端、籍を抜かれた

性格俳優・井出情児は高い評価を受け、東宝で2〜3本の主演映画を撮影
次の作品がホモの役だった
「役者修行」として、ゲイ・バーを具に見て歩き
見事に新しいホモの役を演じたら
その後に来る役どころが全てホモになってしまった

再び、活動の場を状況劇場に戻すが
新宿西口公園の赤テントは、機動隊に幾重にも包囲され
主宰者・唐十郎の足を捕まえようと
テントの下の隙間から無数の腕が伸びて来る状態
「実際、地獄を見たと思った
強烈でショッキングな出来事だった」

22歳で、カメラマン・内藤忠行に弟子入りするも
役者時代の知り合いである伊丹十三を訪ね
写真、テレビ、映画で活動することに…

「23〜24歳の頃が一番華々しい時だった
イイモノ食って、イイ酒飲んで、ファッションモデルに遊ばれて…(笑)」
遊興の日々の中で「二流指向」が頭をもたげ
再び、自身の憑かれるものを追って
海外のロック・ミュージシャンのライブ・フィルムを撮り始める

オフ・ショットを撮り出したのは
「凄まじいエネルギーを出す奴らの素顔」が見たかったからだという

日本へ長編ライブ・フィルムを持ち込んだが
当時は、レコード会社やプロモーター、映画会社共に理解がまるでなく
望むようなフィルムを撮る資金が出なかったため
有るもの全てを投じて行ったが、遂に資金が底をつき
編集スタジオを借りることさえ出来なくなった

「とにかく米しかない
水道料金を払ってないから水が出ない
仕方なく自販機でコーラを買って米を炊いた
これが結構ウマイんですよ(笑)マツタケご飯みたいな味がして(笑)」
サンタナのエポック・フィルムとも言うべき「ジャパン・ライブ」は
「マツタケ」ご飯を食いながら、半年、自室で編集されたものである(笑)

その頃、キャロルが衝撃的にデビュー
写真を撮るならコレだ!と即座に手配したが、篠山紀信の後だった
こっちは映画で…とNHKのディレクターT氏と「キャロル」を撮影
T氏は見事にNHKを首になる

キャロル解散後は、独特の粒子の粗いモノクロ写真で
矢沢のアクティブなイメージを強烈に写し出した

その手法で、今度はチューリップを狙った。財津和夫を写した
しかし「モノクロザラザラ写真」は、チューリップのイメージに合わず
撮った写真のほとんどがボツ
「材料代にもならなかった(笑)」

「この頃から、お前の写真は甲斐バンドに向くよ、と言われ始めた
でも、また映画の方がやりたくなっていたし
甲斐バンドから直接お声が掛かった訳じゃなかったし…」

「写真は芸術でも何でもない、単なる記録だと思う
撮っちまったすぐ後から[今]は失くなって行く
だから撮り続けてきたのだろう」

10年が過ぎ、状況劇場の写真と
フォークからロックへ移行する現場の写真を出版
手持ちの写真を全て公にさらしたら
「何だか自分の宝物が失くなったような気がした」

それならいっそ、60年代後半の頃の気持ちに戻って
写真はモノクロザラザラで徹底的に行こうと決意した矢先
ヤングギターの小松嬢経由で、甲斐の写真を撮らないかという話
箱根の野外ライブが最初の出会いとなった

「ステージのパワーはレコードから想像も出来ない凄まじいものだった
だけど初めは何て歌ってるのか全然判らない
それが詞をよくよく聴いてみると、映画になってるんですよ」

以後、この写真集はもちろん、武道館のプログラム
新宿厚年の【ポップコーンを…】を撮った「破れたハート…」のジャケット等
甲斐バンドの写真を撮りまくられてます♪

「写真と映画どっちも面白いんです
映画は年2本くらいのペースで、後はカメラをぶら下げて歩いていたい
3日ファインダーを覗いてないと機嫌が悪くなっちゃって(笑)
超一流になるよりは、超二流で
一生懸命上を向いて歩いてる方が性に合ってるような気がする」と井出さん

甲斐さんとお二人して「60年代のシッポ」とおっしゃっるのも
納得のプロフィールですよね(笑)
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機関紙BEATNIK(Vol.1)その3

2016-07-22 08:28:08 | 日記
亀和田武さんご自身が「甲斐よしひろに似てる」と思われる写真は
昔の「誘惑」の裏ジャケと甲斐バンド写真集の14ページに
掲載されているものだそうですが

前者は「そうかなあ?」で、後者は「そうだな」って感じです(笑)
奥さんは、36ページの「マイクスタンドを蹴り倒す時の甲斐さん」の方が
似てるんじゃないかと…?(笑)

ともあれ、この写真集「1982 BEATNIK」は
「発売直後から品切れの店が続出し
1回目の増刷分もアッという間に売り切れ」だったらしい

もちろん、奥さんは書店に予約して入手したみたいだけど
発行日は、増刷分の発売日に近い日付になってます(笑)
「初版」とも「第二版」とも書かれてないものの
地方のイチ書店には、なかなか廻って来なかったんでしょうか?(笑)

その「予約申込書」の冊子を見てみると…
「甲斐バンドは[不良]のバンドかと思う時がある
不良だといえば不良だ。逆に不良でないといえば不良でない
仮に[茶の間]の中に収まることが[真面目さ]だとしたら
甲斐バンドは明らかに[不良]バンドだ

しかし、自分で自分のすることに落とし前をつけるという
腹の決め方は不良ではない
自分の足とか自分の意志で生きようとしている点では
他にないくらいの[真面目]なバンドだ

もう、一つの答えで両者が区分け出来るなどとは誰も思わなくなっている
[感受性]という直観で、学校の中にも家庭の中にも
答えなんかありはしないことに気づいてしまった子供たち
彼らを[不良]と呼ぶことは容易い
彼らは、手探りで、体当りで自分の答えを探していくしかない

甲斐バンドは、そうやって生きて来たバンドだ
一歩先の答えを見つけるために身を乗り出してみる
見えたと思った答えに裏切られ続けて来た
それが甲斐バンドの歴史かも知れない

そうやって答えを出そうと傷ついて来た男たちが[不良]である訳がない
[甲斐バンド写真集1982 BEATNIK]ここに流れるビートこそ
見えない答えを探しにアスファルトの上で踊るキミたちのビートだ」

…と記されてますが、この頃から甲斐さんは「BEAT」という言葉に
かなりこだわっておられたんですね?

事務所の名前、この写真集の名前、機関紙の名前、甲斐バンドツアーの名前
今の甲斐報も「BEAT VISION」だし
ラジオ番組も「BEAT HARD WORK」だし(笑)
「打ちひしがれた」という意味で言うなら
「FOR LONELY HEROINES & BROKEN HEROS」もそうだし…

あっ!でもこの機関紙の名前は、当初「HIPSTER」だったらしく
「そのつもりで、3万枚のチラシやら各雑誌への告知やら準備万端
後は入稿を待つのみとなったある日突然、タイトル変更となった」ようで
奥さんがライブ会場で貰ったチラシにもそう書かれてます(笑)

まあ「HIPSTER」も「人と違う考え方やリベラルな思想
カウンター・カルチャー・アートやインディ文化を好み
創造性と知性に富む現代感覚に敏感な者」といった意味みたいなので
「BEATNIK」に近いと思われますが…

でも、この変更がなかったら、ミスチル桜井和寿さんの
アマチュア時代のバンド名は「HIPSTER」だったのかなあと…(笑)

それはさておき…「永遠の真面目な不良少年」と呼ばれた甲斐さんに
「心が不良だよね(笑)」と言われた松藤さん(笑)

高校の修学旅行は「不参加」なのに
イチローさんのお見送りには来られた(笑)とか
「照和」の階段で、学生服姿のまま
タバコをふかしながら(笑)ギターを弾いておられたとか
大学1年の時に「単位ゼロ(笑)」でいらしたとか
エピソードが色々おありですけど

イチローさんも高校の体育館に掲げられていた
「国旗のはためきが良くない!」と「学校行くのやめてた」そうです(笑)

その松藤さんと亀和田さんの公開対談が、Vol.1のメインページになっていて
お二人の共通の趣味「少女マンガ」と「SF」について語っておられます♪

一番お好きな少女マンガ家は「お涼様!山岸涼子先生」と松藤さん(笑)
「アラベスク」は「一人の女の子のことだけじゃなくて
一人の人間が自立して行く様みたいなものを
著していたような気がする」とおっしゃると
亀和田さんも「当時としてみれば凄いショッキングなマンガだよね」と…

ただ、お二人とも「山岸涼子だと好きだと言えるのに
立原あゆみを好きだとは、ちょっと恥ずかしくて言えない」んだとか…(笑)

立原さんは「マンガ家のお部屋」というタイトルで
「レースのカーテンなんか描いてる」けど「クマのような男の人(笑)」で

先生と待ち合わせをしたファンの少女は
「ステキなお姉様(笑)」を想像していたらしく
2時間経って、近くにいた「クマのような人」に恐る恐る声をかけたら
「ハイ、立原です」(笑)

このエピソードは、立原さんご自身もマンガに描かれたそうで
奥さんはそれを見たことがあるという(笑)

松藤さんも「最初は女の人だと思いましたね
でも、どうも違うんですよね、男のこと知ってるんです
登場人物が男から見た人なんで、おかしいなあって思ってて…」と話されてます(笑)

「SFとのファースト・コンタクトはいつ頃?」との質問に
「小学校5〜6年だったと思う」と松藤さん

「まだ博多の駅前が田んぼだった頃
僕、物拾いたがり少年で(笑)菓子箱みたいなものを拾ったら
花札のセットが10セットくらいと
レンズマン・シリーズが入ってたんですよ

その花札を調べると[あやめ]だけが入ってない
親父に言わせると、ヤクザがイカサマをする為に抜いて捨てたんじゃないかって
でも(昭和40年頃に)SFを解するヤクザがいたんですね」と…(笑)

亀和田さんが「イカガワシイっていうのじゃないけど
僕らが考えてた文化とか教養と違ったイメージがあったよね」とおっしゃって
松藤さんいわく…こんな本読んじゃいけない
SFの話しちゃいけない、みたいなのありましたね(笑)

そんな「禁断の書(笑)」を何回も読み直しておられたのに
「今、本を読み返すことってないね、どんなに面白くても」という話から

亀和田さんいわく…中学の頃、レコードを買う時には勇気がいるわけ
この1ヶ月はお小遣い無いな…みたいに
だから、欲しい中から徹底的に吟味して
さんざん悩んだ末に1枚のレコードを買うでしょ

家に帰って聴くと、往々にして気にいらないことがあって呆然とするんだけど
しばらくして気を取り直して
「今日は体調が悪いから、つまらなく聴こえただけなんだ(笑)
実際は素晴らしい曲に違いない」って何回も聴く訳ね(笑)

これは、以前に甲斐さんと萩原健太さんもおっしゃってましたが
なかなか思うようにレコードが買えない時代を過ごされた方は
皆さん、1枚のレコードを「好きになるまで(笑)」
擦りきれるほど聴いたんですよね(笑)

そのおかげで、甲斐さんは「大人買い」が出来るようになられてから
レコード・マニアへの道を歩まれることに…(笑)

でも、松藤さんも「暇があると古レコード屋に行って」
渚ゆう子さんの古いジャケットの【京都の恋】を見つけられたそうで
亀和田さんが悔しがっておられました(笑)

「昔のシングルのジャケットって、1枚のペラペラじゃなくて
A面とB面のジャケットが違ってたんですよ
今は、ああいうのが出したくても出せないんです」と松藤さん

亀和田さんは「昔は、A面で有名な歌手が歌っていて
B面に全然知らない人の歌が入ってたりして
信じられないようなことが平気で行われていた(笑)」と話されてるんだけど
フツーにありましたね(笑)

そうそう!写真違いのジャケットといえば
同じ歌手やグループの「ミニ・ベスト盤」みたいな
4曲入りのシングルなら見たことがある(笑)と奥さん

甲斐バンドはどうだったか覚えてないみたいですが
「グレープ」はあったらしいです(笑)
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