ボクの奥さん

ボクの奥さんは、甲斐よしひろさんの大ファン。そんな彼女との生活をお話したいと思います。

ちょっと気になった言葉2

2021-03-21 14:20:00 | 日記
阿久悠さんと同じく、70年代の歌謡界に新風をもたらされた松本隆さんが
長年コンビを組まれ、数多くのヒット曲を生み出された作曲家
筒美京平さんがお亡くなりになったあとのインタビューで…

「意外と、水と油みたいに音楽的な指向性は違ったと思う
北極と南極くらい違っていたというか…
僕はバンド出身で、京平さんはそれをせず作曲家になったというのもある
京平さんはシングル志向で、僕はアルバム志向というのもそうだと思う」…と話されていて

そういえば、作曲家の都倉俊一さんも、筒美さんについてのインタビューで…
「京平さん自身は、歌があまり上手くなかった
でも、それが懐の深さ、引き出しの多さに繋がっていた
自分で歌える作曲家たちは、自分の世界に入って、自分が歌って気持ちいい歌を作る
でも、自分で歌わない京平さんは
完全に提供する相手の身になって歌を作るから、とにかく幅が広かった」とか

「僕は、ピンク・レディーにしても、山口百恵にしても
シリーズものにしたり、編曲したりと全てプロデュースする
京平さんは、プロデュースというよりは、楽曲そのもので勝負する
その違いはありました」…と、おっしゃっていたし「1曲入魂」の方でいらしたのかなあと…?

ただ、松本さんは…「歌謡界で、一から百まで信頼できるのは京平さんだけだった
京平さんが仕事を引き受けてくれたら、それでもう僕の仕事は半分終わり。
成功を保証されたようなものだったから」とも話されていて
その絶大な信頼感がスゴイなー!とビックリ!

でも「日本は、古代から常に大陸の文化を輸入して来た国
時々、紫式部のような天才は出て来るけれど、基本的には輸入が多い
戦後も、アメリカ文化を輸入し始めて、最初は訳詞をつけて歌っていたけれど

京平さんは、洋楽ポップスと日本の土着性の接点を探して、新しい音楽を作った
ジャンルを作ったんだと思う。新しい歌謡曲というジャンルを…
僕は、日本語でロックをやり出して、僕もジャンルを作った
だから、僕らというのは、MacとWindowsのような感じで
日本の音楽のプラットホームになってるんじゃないかと思うんだ」という言葉にナットク

甲斐さんが「ヒットチャートに入るロック」を意識なさったのは
日本のロック第一世代だったジャックスや、はっぴいえんど
サディスティック・ミカバンドなどが、優れた楽曲を生み出しながら
商業的には成功したと言えないことを歯がゆく思われていたからみたいですが

…って、松本さんご自身は「ヒット曲を出すなんて全く考えていなかった」らしく(笑)
好きな音楽をやるために集まった仲間と共に、キャリアを重ねられた作詞家と
「ヒットしなければ失敗作」とおっしゃる「職業作曲家」が
「ゴールデンコンビ」と呼ばれるようになられたのは必定だったんだなあと…

ただ、松本さんは、このインタビューの最後に…
「はっぴいえんどは、半世紀経ってしまったけれど
ありがたいことに、年が経つごとに評価が上がって来ている感じがする

僕と京平さんの作品の多くも、これからそうなって欲しいと思う
流行り物じゃなく、音楽の歴史として残って行ってくれたらなって…」
…と話されているんですが、様々なアーティストによるカバーはもちろん
CMやドラマのタイアップは引く手あまたでしょう?(笑)

そうそう!このところ「Mt.RAINIER」のCMで「風をあつめて」が流れるたび
奥さんは、先月配信された甲斐バンドの「プレジャー・プレジャー」でのライブに行った際
1ドリンク制のコインを握り、この「Mt.RAINIERホール」の交換カウンターに並んだ時
生まれて初めて、温かいコーヒーやカフェオレがあったことに感激したのを思い出すらしい(笑)
まあ、寒い時期の開催でしたしねぇ…(笑)

それはさておき…昨年末に亡くなられた、作詞家のなかにし礼さんと
タッグを組まれていた作曲家の浜圭介さんは…「『あなたの過去など 知りたくないの』
1960年代半ばに、そんな歌詞が耳に飛び込んで来ました…菅原洋一さんの『知りたくないの』
洋楽に日本語詞を付けたのが、なかにし礼さんでした
あんな歌詞は、それまでの歌謡曲になかった
『すごい詞を書く人だな』と思いました」…と、なかにしさんの作品との出会いに始まり

初めての共作は残念ながらお蔵入りになったものの
数年後、なかにしさんからの「石狩挽歌」の曲作りのオファーをお受けになった際に
「それまで歌謡曲で、16分音符はほとんどなかったと思うし、僕自身そんな発想はなかった
礼さんの詞が引き出してくれた。あの歌がなかったら(16分音符を使った)
『舟唄』も『雨の慕情』も生まれなかった」とか

「共作した『ホテル』の中には『一度でいいから あなたの肌に爪を立てたい』
…みたいな、鋭いフレーズが沢山あった
女性視点の歌詞を書くのも、とにかく上手くて
その繊細な気持ちを、あんなに細かく、表現豊かに描ける人は、礼さんしかいなかった
でも、面白いことに、石原裕次郎さんの作品だと、男の世界に入り込む
『勇者たち』とか『わが人生に悔いなし』とか…そのギャップもすごかった」とか

「1番、2番、3番…と続いて行くのが、それまでの歌謡曲だったけれど
1番、2番、サビを繰り返す『ツーハーフ』というやり方を日本に定着させた
それによって歌謡曲は、日本的なものから、よりポップなものになって行ったと思います」
…と、おそらく?なかにしさんの詞先で
作品を生み出されて来たことが窺える言葉が続いていて、とても興味深かったんですが

ボクがツボったのは、その石原裕次郎さんが、初対面のなかにしさんに
「よしな!よしな!シャンソンの訳詞なんぞ、どうだっていいじゃないか
あんなもの、日本語にしたってつまんねえよ!なんで日本の歌を書かないのよ?
俺が歌ってるような、ガツーン!とヒットする歌をよ」…と真顔でおっしゃったという言葉(笑)

もうナンか…昭和の「スターさん」っていうのは
豪快というか、スケールが違うというか…(笑)
その大スターに、いきなり、こう話しかけられたなかにしさんは
それこそ「ガツーン!」って感じでいらしたんじゃないかと…?(笑)

ともあれ…浜さんが「僕は、阿久悠さんとも沢山の曲を作って来ましたが
阿久さんはアメリカで、礼さんはヨーロッパだというイメージがずっとあった
阿久さんは、ニューヨークっぽい都会的な印象
礼さんは、フランスのシャンソンが好きで、字余りの歌詞をよく送って来た」

…と話されているのを拝見して、阿久さんの「無国籍曲」の代表である
「ジョニイへの伝言」と、それに続く「五番街のマリーへ」を思い出したんだけど
この2曲は、共にペドロ&カプリシャスが歌唱を担当されたこともあり
「2時間待ってた」だけで(笑)バスに乗り、去って行った女性が「マリー」で
「五番街」で新しい生活を始めた彼女に対し「ジョニイ」は未練たらたら…(苦笑)

…といった風に、連続したドラマみたいな受け取られ方をしていたのに
阿久さんは「2つを組み合わせて考えたことはない」とバッサリ(苦笑)
そこは「聴き手それぞれのイメージに委ねます」とかナンとか
お茶を濁して頂きたかったなあと…(苦笑)
まあ、甲斐さんは「マリーへの伝言」という「合作」をお作りになりましたが…(笑)
コメント
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