照和の閉店は1978年11月30日
その翌月20日に【HERO】発売
1979年春のツアー前に
『マイ・ジェネレーション』のレコーディング
このレコーディングが
博多のスタジオで行われたことは
以前に触れた通りですが
甲斐さんいわく…
レコードを東京で作る必要を感じない
要はハートだから、どこだって作れる
それをこういう形で
メッセージにしたいんだ
この言葉を聞いて
最新の設備が整っていなくても
あえてその味わいを生かす音を録りたかったのかな?
と理解してたけど(汗)
奥さんによると
照和の閉店を知らされた甲斐さんが
博多での録音を決めたんだという
ご自身がアマチュアの頃
博多にやって来たプロを見て
俺たちだって負けないと発奮し、しのぎを削った
その場所が失くなったことを
少しでもなんとかしたかったからだそうだ
あの街の奴らを刺激してやりたかったし
自分たちにも刺激になった
胸の中に熱いものがこみ上げて来て
博多でしか書けない曲が何曲か出来た
と話されたらしい
ちょうどHEROがヒットしていた頃だから
『あの照和出身の甲斐バンドが!』と
地元では一層刺激的だったでしょうね♪
そのHEROが1位になって
かねてからの約束通り
スタッフの方々のためだけのライブを開かれたそうだ
音響や照明のスタッフの方は
いつもライブ中は仕事をなさっているので(笑)
甲斐バンドのステージを
ちゃんとご覧になったことがないからだという
この時に照和が閉店していなければ
きっと照和で…と思うのは
ボクだけじゃないでしょう?
実際に照和でライブが行われた時は
急遽2公演が追加される盛況振りで
元はセッティングとリハーサルに
当てられていたはずの日が
アコギバージョンで
照和ライブの初日となった
後に甲斐さんが
本当はスタッフのために
演奏するつもりだったと
おっしゃってたらしい(笑)
そのアコギバージョンを見た甲斐友さんから
ライブ後の照和で
甲斐さん達がリハーサルをしてる!
というメールが届いたそうだ
ネタバレになるからと
曲名は教えて貰えなかったみたいだけど…(笑)
甲斐友さんは深夜まで
照和の外で聞き入っていたという(笑)
後日のセイヤングで…
この真夜中のリハーサルが
話題になっていたらしい
その時、スタッフの方々のための演奏がされたのか
それともやはりライブの準備に追われて
それどころじゃなかったのか(汗)
真相は語られなかったようだ(笑)
その翌月20日に【HERO】発売
1979年春のツアー前に
『マイ・ジェネレーション』のレコーディング
このレコーディングが
博多のスタジオで行われたことは
以前に触れた通りですが
甲斐さんいわく…
レコードを東京で作る必要を感じない
要はハートだから、どこだって作れる
それをこういう形で
メッセージにしたいんだ
この言葉を聞いて
最新の設備が整っていなくても
あえてその味わいを生かす音を録りたかったのかな?
と理解してたけど(汗)
奥さんによると
照和の閉店を知らされた甲斐さんが
博多での録音を決めたんだという
ご自身がアマチュアの頃
博多にやって来たプロを見て
俺たちだって負けないと発奮し、しのぎを削った
その場所が失くなったことを
少しでもなんとかしたかったからだそうだ
あの街の奴らを刺激してやりたかったし
自分たちにも刺激になった
胸の中に熱いものがこみ上げて来て
博多でしか書けない曲が何曲か出来た
と話されたらしい
ちょうどHEROがヒットしていた頃だから
『あの照和出身の甲斐バンドが!』と
地元では一層刺激的だったでしょうね♪
そのHEROが1位になって
かねてからの約束通り
スタッフの方々のためだけのライブを開かれたそうだ
音響や照明のスタッフの方は
いつもライブ中は仕事をなさっているので(笑)
甲斐バンドのステージを
ちゃんとご覧になったことがないからだという
この時に照和が閉店していなければ
きっと照和で…と思うのは
ボクだけじゃないでしょう?
実際に照和でライブが行われた時は
急遽2公演が追加される盛況振りで
元はセッティングとリハーサルに
当てられていたはずの日が
アコギバージョンで
照和ライブの初日となった
後に甲斐さんが
本当はスタッフのために
演奏するつもりだったと
おっしゃってたらしい(笑)
そのアコギバージョンを見た甲斐友さんから
ライブ後の照和で
甲斐さん達がリハーサルをしてる!
というメールが届いたそうだ
ネタバレになるからと
曲名は教えて貰えなかったみたいだけど…(笑)
甲斐友さんは深夜まで
照和の外で聞き入っていたという(笑)
後日のセイヤングで…
この真夜中のリハーサルが
話題になっていたらしい
その時、スタッフの方々のための演奏がされたのか
それともやはりライブの準備に追われて
それどころじゃなかったのか(汗)
真相は語られなかったようだ(笑)